第十二回東方SSこんぺ(嘘)

腐った果実に口づけを

2013/10/21 04:15:48
最終更新
サイズ
31.79KB
ページ数
1
閲覧数
80
評価数
14/14
POINT
89
Rate
1.52
 幻想郷での穏やかな暮らしは、退屈ながらにとてもいいものだ。この堕落の享受を拒否して再び外界に出ていくか、と問われれば、間を置かずにノーと答えるだろう。私はそのくらい、この生活が気に入っていた。
 しかし、である。自分が人間に対して猛威を振るい、一度姿を衆目に晒そうものなら、悲鳴と怒号が飛び交うこと間違いなしのあの時代が全く恋しくないのかと言われると、それはそれで返答に窮してしまうのだった。
 あの頃はよかった、なんて年寄りじみた懐古はしない。けれど、妖怪として人間に恐れられ続けてきた時を懐かしまなければ、きっと幻想郷になど来ていないだろう。他の人外に聞いて回ったわけではないけれど、こんな辺境の地にわざわざ永住するからには相応の理由があるはずだ。神仙にとってはそれが信仰の不足であり、妖怪にとっては恐怖の不足である。
 私も私で、人間の恐怖を欲しいままにしていた、あの時代を懐かしむだけの感傷を持ち合わせている。あまりに幻想郷に馴染みすぎて平和ボケを感じたとき、あるいは自分が強い妖怪として扱ってもらえなかったとき、私は決まって過去の栄光を顧みてしまうのであった。それはもはや我々が幻想郷に馴染めば馴染むほど、回数を増していく。それでも、今のこの地で昔のように振る舞うわけにもいかないので、ただ当時の熱狂と興奮を思い出すに留まるのだった。
 今日もまた、自分の存在意義を確認するかのように、色あせた記憶を呼び起こす。
 ふ、と今回脳裏に浮かんだのは、幾百幾千幾万の犠牲者のうちの一人。当然名前も覚えていないし、顔も朧気にしか思い出せない、そんな男。私が私であり始めた頃に手にかけた、とある人間の姿だった。
 それは私がより私であるよりも昔の、今では青臭くて仕方のない記憶。
 決して美談などではない。決して収まりの良い話でもない。今の私に何か生かされているような要素も何処にもない。さらには自分にとって小気味のいい話ですらない。
 妖怪が妖怪である以上、妖怪が妖怪として存在している以上、どこでも日常的に起きていたであろう黴臭い武勇伝であり、人間にとってみれば単なる悲劇である。
 けれど私はその記憶を掘り起こす。
 私が妖怪で在り続けるために。まるで自分が自分であると確認するかのように。
 私が鮮血にまみれていた赤の時代ではなく、さらにその昔、人々に黒き死と恐れられていた時代の記憶を。
 

 
 それはちょうど、ひどい大雨が街を洗い流していたときだった。
 当時の街の衛生環境はひどいもので、道路に糞尿が散らばっている光景が普通だった。とすれば、川の一つや二つ氾濫させかねないほどの悪天候となれば、街路が汚らしい地獄の小川と化すのもまた必然。ましてやろくに整備も行き届いていない下級市民の住宅街ともなれば、本人たちの大半はサンダルでそこを歩くことになる。衛生意識が欠如していた時代だとは言うものの、やはり生理的な嫌悪を催すのは当然だった。
 なので、ぱし、ぱし、と水を踏みつけ走る街に立つ人影はとても少なかった。夕飯時、ということも大いに関係しているだろう。
 私は今いる通りを見渡し、明かりの点いている家に目をつけた。三つほど確認できたが、これ以上雨に打たれ続けるのは我慢ならなかった。激しさ以上に、身に痛い。どこが受け入れてくれるだろうか、と吟味する余裕もなかった。
「もし」
 一番近かった家の木戸を数度、激しく叩く。玄関屋根もなかったので、こうして応対を待っている間にも私の服は余すことなく濡れていった。どこにでもいるような町娘の格好であるが、意外と丈夫なのでそれなりに気に入っているのだった。
 窓から漏れる光はちらちらと明滅している。炎自体の弱さではなく、人が明かりを遮ったりどいたりしているからだ。中に人はおり、寝ていることもない。その事実にほっとするが、ならば早くこの戸を開けて欲しいとも願うのだった。
「もし。少し、雨宿りをさせていただけませんか」
 苛立ちながら、けれどそれを声に滲ませることなく、私はもう一度、今度は大きめに問いかけた。
 果たして家主は、窓からちらりと私を見やるとその戸を開けてくれた。
 男はひょろりとした痩躯で、人間の中でも平均より少し高いくらいの背だった。見上げる先の顔はこけており、髭もろくに整えていない。貧民層特有の覇気のなさも相まって、これで生気すら感じられないようなら、もしかして死人が動き出しているのか、と勘ぐってしまうほどであった。
 戸を開いてくれたことに嬉しさを覚えながら、フードを外し、
「この雨が収まるまで……いえ、勢いが収まるまででいいので、お宅に置いてはもらえないでしょうか」
 警戒を解いてもらうために、さり気なく両の手も雨よけのローブから出してみせる。
 男は困ったように髭をしごいて思案顔をしていた。が、その瞳の奥に困惑の色は見えなかった。色情の色も伺えなかったので、恐らくなんと返答するか考えているだけだろう。彼は既に結論を出しているようだった。
 やがて、義務的にそうしておくか、とでも言いたそうな顔で男は口を開いた。
「こんなひどい日にどこへ行くつもりだったんだい」
 存外若い声に私は驚いた。
「どう見てもその格好、マンマのお使いというわけじゃあないんだろう? 雨は朝から降りっぱなしだったんだし、大人しく神父様のところへ引き返せばよかったものを」
「いいえ、私は別に孤児ではありません。こんな姿で驚かれるかもしれませんが、とある目的の下、旅をしている途中なのです」
「……君みたいな娘さんが?」
 その問に私は満面の笑顔を答えとした。
「はっはっは、それはまた珍しい。少なくとも君の倍くらいは生きてきたつもりだが、旅の人が僕の胸まですらない美しいお嬢さんだったなんて初めての経験だ。――いいよ、そんなに大したもてなしはできないけど、ゆっくりしていくといい」
「どうもありがとう!」
 こうして招かれた私は、楽しくて楽しくて仕方のない胸中をひた隠しながら、その男の家へと足を踏み入れたのだった。
 そのときはもう十年ぐらいこんな『旅』をしていたわけだが、大人の人間に化けるより、男の子供に化けるより、浮浪者に間違えられない程度に身なりを整えた少女の姿が一番いいと、経験上分かっていた。それが一番人間の庇護欲をそそるからで、この格好になってから入れてもらえなかった家は一件もない。あまりにもすんなり事がいくので、細かい点を除いてもう別の姿に化けるのが面倒になってきたほどだった。ただ、一人暮らしの男の家を狙った場合、おもいっきり情欲を抱かれる可能性があるのが玉に瑕だった。実際襲われたことも一度や二度ではない。現在の私からしてみればありえないことだが、当時はとても非力なもので、独立し始めた鍛冶職人の家に泊めてもらったときは、うっかりとした一言のせいで一晩中辱められるはめになった。……まあ、人間の体にとって最も綿密な接触を私と持ってくれるのは、逆に有りがたかったのだが。
 ――気分は最悪も最悪だけどね。
 形を模してるだけで必要性のない行為を強要されるのだから当然である。
 閑話休題。
 男の家は独り身にしては広く、私を泊めるのに不自由はなさそうだった。暖炉もきちんと備え付けられており、最近訪れた家の中では中の上くらいだ。ここに夫婦と子供三人ぐらいが住んでいてもなんら不思議ではない。こんな場所に住んでいるからてっきり貧しい暮らしなのかと思っていたが、案外そういうわけでもなさそうだ。
 と、窓のない壁際、いっとう明かりの強い一角には大量の紙が置かれていた。
「それは……聖書?」
「頼むから濡れた手で触らないでおくれよ」
 衣類を全て暖炉の前に広げ、貸してもらったタオルに包まりながら、遠目に見やる。
 どうやら男は写本職人のようだった。印刷技術の発達していない頃は、本と言えば書き写して複製するものである。その需要の多くは聖書に向けられていたわけで、その供給の多くは修道女たちが担っていた。ただし、貴族なりなんなりが手にする聖書が民草のものと一緒、というのはいささか体面が悪く、質のよく豪華な写本が必要とされた。私には細かい違いがよく分からなかったが、偉そうな人間の持つ聖書は大抵きらきらしているか、絵がたくさん描かれている。
 職人は職人でも、貴族を相手にできる職人は実入りがいい。男がこんな広い家に住んでいるのも納得だった。
「すごいですね、本の職人さんだなんて」
 そう言うと男は奥からひょい、と顔を出し、
「そんなことはないよ。今はね、開店休業中なんだ」
「あら、それはまたどういう……」
「君、ライ麦と燕麦どっちがいい?」
 無視された……というわけではないようだ。
 ライ麦で、と答えると、男は暖炉の前に二つの器と二つの黒い塊、二つのジョッキをとても器用に持ってきた。置かれた器には具の少ない見るからに薄いスープがたゆたっており、塊は硬いとしか見た目に形容し難いライ麦パンである。
 ジョッキをこちらに渡そうとして、男はしばし逡巡した。
「うっすいやつだから大丈夫だと思うけど」
「そこまで子供じゃありませんよ」
 私はジョッキを受け取り、温められたぶどう酒を煽った。体に染みるが、それは酒のせいでなく単に冷えた体に温かい液体が注ぎ込まれたからだった。彼の元に嘘はなかったが、それにも程がある薄さだった。しかもまずい。
 彼に促されるように暖炉の前に座る。私が持ち込んだ雨水のおかげで湿った床板が、肌に冷たい。
 炎の輝きにやや顔をしかめながらも、出された食事に手を付けることにした。男は当然のように祈ったが、それに倣ってしまうと大変なことになる。聞いているだけでも結構つらいのだけど、怪しまれないように適当に祈りを捧げた。どこにいっても食事時にはこれがあるから面倒なのだった。このご時世、信仰していない者は希少種なのであった。
 パンをスープにつけてふやかしながら、男はこう言った。
「開店休業中って言ったのはね、僕の目が悪くなったからなんだ」
 少し目を伏せた男は、まるで事実を再確認しているかのようだった。しかし雨音にかき消されそうなほど力のないその声は、受け入れがたい現実に押しつぶされているかのようだった。
 しかし、自然と男の言葉に迷いはなかった。説明慣れしている、とでもいえばいいのだろうか。まるで、親に悪さが見つかった時のことを考えて、ベッドの中で何十回と言い訳の練習をしてきた子どものようだった。
「文字や絵を書くためには、はっきりとこの目で見なければいけない。写本だったらなおさらだ。特に僕みたいな装飾写本を作る人間は、細かい模様を描く能力が要求される。……でも、半年前から近くのものがぼやけて見えるようになってね」
「それはまた……何故……」
「さあ。ご老人方がそうなるのは当たり前だけど、僕はまだまだ若い……と思っていたんだけどね。おかげでまともに本を作れなくなってしまったよ。毎日机に迎えど、文字を書くだけでよくて一日一ページしか進まない。絵に至っては、失敗して羊皮紙をだめにするのが怖くてまともに描いてない有り様だ。このことは黙ったままだから、そろそろお客さんに怒られてしまう」
「…………」
 器の中の細かい肉をパンで拾いながら、その話を聞いていた。
 私は別に神様でも天使でもないし、熱心に聞いたところで男を救ってやることはできない。そもそも正反対の存在なのだから、ましてや治すことなど不可能である。だから私にできるのは、勝手に出された食事のお礼として、ふんふんと相槌を打ってやることくらいなのだった。
 ましてや、事実かどうかは置いておいても、実際に言い訳だ、という私の感覚に間違いはなかったことだし、聞いてやるだけでもそれなりの気晴らしになるだろう。
「ああ、食べ物なら気にしないで。まだ当分を過ごす分の蓄えはあるから」
 特に気にかけていたわけではなかったが、一応また感謝しておくことにした。
 と、私はふと思い立って言葉を作った。私に治すことはできなくても、解決策を提示することはできる。
「眼鏡はお持ちでないの?」
 私はその問いを、意地悪にも言い訳を潰すつもりで発した。
 旅をしてきた、と言えるくらい各地を回ったのは本当だ。だから、その当時普及しているわけもない眼鏡の存在を知っていたのも当然であった。
 案の定男はそれを知らなかった。
 枢機卿などといったお偉方には広く知られるようになっていた眼鏡も、全ての市民の耳に入るまでには至らない時代だ。彼が知らなかったところで何ら恥じることではないし、今までの常識と照らし合わせたら不思議にも思える道具は、事と次第によっては魔女狩りの口実となってしまうかもしれないのだから、そういった便利すぎる道具というものはさほど急速には普及しなかったのである。もちろん、その影には我々の大進行も少なからず関わっている。
 聞いたこともない名も耳にした男は、パンを浸しっぱなしにして、こいつは何を言っているんだ、という顔のままだった。
 私は自分のパンをスープの器にぽい、と放り、懐から眼鏡を取り出した。
 たまたま拾った、装飾過多にも思えるそれ。あくまで、たまたま手に入れたものである。
 言い訳を潰してやるには、と仕方なく説明してやることにする。
「これはね。こうして……二つのガラスを目の前に持ってきて使うの。真ん中の部分を鼻に嵌めて固定してね。私にはちょっと大きいからつけられませんけど、ほら」
「ほら、って……」
「気に入ったのなら、食事のお礼に差し上げますわ」
「だから、これは結局なんなんだい? 話が見えないよ」
「いいから、つけて」
 悪戯っぽく微笑むと、男は観念したように差し出された眼鏡を手にとった。
 そして私がやってみせたように、恐る恐る眼鏡をかけた。ただかけただけだと実感がないだろうから、私は顔をずい、と男に近づけた。それはもうお互いの吐息がかかるほどに。
 けれど、男は気をはやらせることはなかった。むしろ、私がよく見えるという興奮で私が見えていなかった。
「これは……魔法かい」
「人間の知恵ですわ」
「慣れが必要だけど、何もないよりは格段によく見えるじゃないか!」
 この時の私は学がなかったので知る由もなかったが、男の近視に合うような近視用眼鏡を持っていたのは、本当の偶然だった。遠視や老眼用の眼鏡を彼に渡していたら、きっとこの後のような展開は生まれなかったに違いない。そのときはそのときで、強硬手段に出るのだろうが。現に旅先の家の主に気に入られず、一泊ぐらいはさせてもらってもすぐに追い出された経験は数えだしたらキリがない。というより、好意的に受け入れてくれる方がどちらかと言えば少数派だった。見知らぬ娘が悪いものを持ち込んだら大事だから、当たり前の結果だと言えよう。
「これは奇跡だ……君がもたらしてくれた、奇跡だ」
 そんな大げさな、という感想は飲み込んだ。
 男の弱った心をくすぐってやるつもりだったのに、予想以上に薬が効きすぎてしまったらしい。てっきり心が折れて、すっかりやる気を失っているから何をしてもだめなんだろうと高をくくっていたのだが……。
「きっと君は、どん底に向かって落ちていた僕を救う天使に違いない。ああ、見れば見るほど君のその美しい姿も天使のようだ」
 舞い上がった男は、さらにあろうことかこんなことまで口走るのだった。
「大げさよ……」
「ああ、主よ。このような贈り物を、こんな天使を遣わせてまでありがとうございます」
 ――さて、あまり長々と痛々しくも恥ずかしくもある過去を振り返っても仕方ないので、結末はまだにしても、私の悪戯心の顛末を述べよう。
 眼鏡をプレゼントしてあげたことで、私は男から無類の感謝を受けた。それはそうだろう。自分の職が、何が原因かもしれぬ不調によって失われんとしていたのだから。それをたった一つの道具で救った私はまさに救世主のように映ったことだろう。職人が技術を生かせず、技術を失えば道は限られている。それはとてもとても残酷で、光など見えない暗闇の底をたゆたうだけの破滅の道である。その中には国のために力と命を捧げる、という道も含まれている。だが、どのみちろくな人生を歩めなくなるのは明らかである。人間は誰しも安寧を求める存在なのだから。
 だから、かどうか、結局雨も降り止まず、男の家のベッドで一眠りした次の日の朝、男は目の下にクマを作りながらこう言った。
「どうか好きなだけ、次の行く先を決めるまで、この家を好きに使って欲しい。僕の天使」
 私はその提案に内心ほくそ笑んだ。そして受け入れた。天使呼ばわりは受け入れがたかったが、男の興奮が収まらないので素直に呼ばれるがままにした。そのほうが結末も面白いものになると踏んだのだ。
 そして申し出を受け入れたことによって、しばらく男と二人で暮らすことになった。親も兄弟もいないらしく、妻どころか恋人すらいないそうなので、ある意味運がよく、ある意味運が悪かった。雇い主の関係者も訪ねてくることはなく、一週間ほど暮らしていてもたった二人っきりの空間が破られることはなかった。
 しかし、いい年をして女の一人もいない男が、一つ屋根の下で麗しい娘と生活していたら過ちを犯したとしても誰も咎めないだろうに、男は視界を取り戻した興奮で仕事にかかりきりになっていた。私にはそれが大層つまらなかったが、男がもっと恩返しをしたい、というものだから、好きなようにさせていた。かといって私もやることがないので、掃除や洗濯、炊事などをして過ごしていた。今では大昔にそんなスキルを有していたのか、と自分でも驚くくらいにやらなくなってしまったが、体を得てから百年ほどは、これでも人間社会に仮初の姿でも混ざるために、しっかりとそういう能力を持っていたのだ。無論、それは必要なものではなく、あくまで娯楽……時間を潰すための行いでしかなかったわけだが。
 そう、私は暮らすと言いつつ、その実時間を潰していたのである。
 暇を持て余しているのであれば、肩書通り旅を再開すればいい。何もたまたま宿を借りた男の家に居続ける必然性もない。けれど、当然私は旅をするために旅をしているのではない。
 まだ、目的は果たされてはいない。
 本題はこれからだ。
 本領はこれからだ。
 本懐は、これからだ。
「おはよう。また徹夜? ……にしてはちょっと具合が悪そうだけど」
 寝室から眠くもない目を擦りながらリビングに出ると、作業台の椅子でぐったりと天を仰ぐ男の姿があった。
 一度集中し始めると周りが見えなくなる彼が、夜通し写本に向き合うことは決して珍しくなかった。美的センスを求められる職人にはこういう人間が多い。逆に道具としての完成度の高さを誇る職人は、ミスを減らし感覚を統一するために正しいリズムで生活する。
 だいたい私と入れ替わるようにこの後寝床に帰っていくのがいつもどおりの彼であるが、どうにもそれすら億劫なようだ。かといってその場で寝ているわけでもない。
「っ……! 何だ君か。おはよう」
「どうしたの?」
「い、いやあ、久しぶりに根を詰めたせいか、一気に疲労が来たらしくてね……一枚完成させたらどっと疲れて動けなくなったところだよ」
「いやに顔が白いけど、本当に大丈夫?」
「うーん、どうだろう」
「いくら天使でも、そんなにほいほい奇跡は起こせませんわ」
 平気さ、と彼はのそのそ立ち上がった。そのまま通り側の窓を開けて顔を出すと、すぐさまぎょっとしたように窓を閉めた。さらにカーテンまで勢い良く閉めたものだから、部屋が唐突に明かりを失い、夕暮れのそれとなる。
 彼が一体何を見たのか、私には分かっていた。
 閉まったカーテンを掴んで荒く息をしていた男は、
「ごめん……大人しく寝てくるよ」
 ゆっくりとした足取りで寝室へと消えていく姿を見送って、私は別側の窓の隙間から漂う香料の匂いに顔をしかめていた。同時、それが意味するところを解して猛烈に嬉しくなった。一人っきりだったら、声を大にして喜んでいたところだった。
 ……結局、日が落ちるまで男が起きてくることはなかった。
 私はまるで育てていた木に実が成り始めたのを見つけたような気分でいた。でも、収穫にはまだ早い。手に取り、かぶりつくまでに、その実を木から落としてはならない。
 市場で買ってきた食材で精のつきそうな夕食を拵える。実は、まだ落ちるべきではない。
 やはり起きてこないので、支度を済ませてからうきうきしながら寝室へ。私が貸し与えられているベッドの反対側にもう一台、男のベッドがある。すっぽりと全身を覆うように薄い毛布を被り、全身を隠すようにしていた。
 なんと声をかけたらいいか迷った。けれど、それ以前に嬉しそうな声色ではいけない。
「ねえ……ご飯作ったけど、食べられる?」
「…………」
 我ながら演技がうまい。とても深刻そうに尋ねるが、返答はない。ただ、息遣いから意識があるのは確かだった。
 いっそ毛布を剥ぎとってやろうかとも考えたが、まだその時ではないと判断し、保留。
 ここはとにかく一人で抱えさせておくのが最善……否、最悪の手だろう。
「ご飯、持ってきますわ。置いておくから、食べられるときに食べて」
「すまない……」
 意外なことに応じる声があった。が、これはいい兆候に違いなかった。
 私が食事を持って行っても、寝室を出るまで一切毛布から顔を出そうとしなかった。まるで醜い獣にでもなってしまったのではないか、と勘ぐってしまうほどの豹変ぶりであった。
 ――その原因が、なにをいけしゃあしゃあと……。
 こんな状況が二日ほど続いた。
 男は相変わらず私に姿を見せようとしない。あれだけ写本の作業が捗っていたのが嘘のようだった。私自身は勝手知ったる他人の家、とばかりに暮らしており、来客もなかったので何の問題もなく彼の『看病』を続けていた。
 この看病の時間が、二番目に楽しいのだ。
 木に成る実が、日を追うごとに大きく、色鮮やかになっていく様子が。
 と、時間を潰す間にさらに時間を潰すべく、男の蔵書を読み漁っていたときだ。
 ごとっ、とも、ぼとっ、とも言える重い音が寝室から聞こえてきた。
 私は思わず読んでいた本を放り投げて扉を開けた。
「うっ……うぅ……」
「どうしたの!」
 そこには、ベッドから転げ落ちた男の姿があった。被っていた毛布はベッドの上に置き去りになっているため、久しぶりに彼の全身が顕になった。落ちた痛みからではない苦しみにもがいており、顔から腕から、上気した肌にはことごとく汗が。熱さに耐えられなかったのか、衣服を脱ぎ去っていた。
 ひと目で高熱にうなされていると分かる状態。
 なるべく必死さを装いながら、まずは男をベッドまで引き上げてやる。意識はあるが、やや混濁している。こちらからの呼びかけには呻くのみだ。
 私は彼がはっきりとこちらを認識できていないのをいいことに、顔を綻ばせた。
 それは、男の脛と足先、そして腕にあるものができていたからだ。
 待望の、それ。
「ねえ……! ねえ……! これってもしかして……」
「だ……めだ……」
 なんとか言葉にした意思は、静止だった。
 しかし私はそれを振り切り、続けた。
「黒死病、でしょう……? 高熱に、黒い斑点……」
「うぁ……」
「もしかして、これをずっと隠そうとしていたの?」
 黒死病。
 それはヨーロッパの人間の多くを死に至らしめた史上最強の流行病である。近代になるまで治療法は存在せず、感染経路も特定されず、この時代の人間は黒死病に怯えて暮らしていた。
 ある者は、己を痛めつけ、罪を贖えば助かると信じ、
 ある者は、患者と目を合わせただけでも感染すると恐れた。
 根も葉もない虚言と行く先もしれぬ信条が人間たちの間で渦巻き、社会はパニックに陥っていた。もちろん、そんな秩序も危うくなった状態で、患者のために手を尽くそうという人間はおらず、罹患したが最後、家族だろうと放置、隔離する。死んだとしても、埋葬することもせず、野に放り捨てる。あるいは、その家に置き捨てる。
 今この時、黒死病はそのまま死であり、どこから伝染るかも分からない死が蔓延した状況なのである。そんな中で黒死病の症状が現れようものなら、それはイコール抗いようもない死の訪れである。地方によっては、感染が確認された段階で、生き埋めにすることもあった。
 どう転んだとしても、患者だとバレたら終わる。疑われただけでアウト。
 その意識が黒死病の拡大を助けることになるのだが、男はまさにその典型とも言える対応をとっていたわけだ。
 死のカウントダウンをひた隠す。
 先日、窓の向こうに見えた何かに男は怯えていたが、恐らく黒死病専門の医師が通りにいたのだろう。悪い気が黒死病の原因だという論から、その医師たちは鳥のくちばしのようなマスクに、ハーブや香料を詰めて被っているのでひと目で分かるし、匂いを嗅げば一発でそれと分かる。さらに全身をすっぽり覆うローブと帽子に手袋、そして手に持つ杖が何よりの証であるため、人々は彼らに助けを求め、患者は己が助からぬ身と判じられることを恐れた。当然だがその医者たちに黒死病を根治する知識はない。
 男は医師を見る前に、既に自分が黒死病の気があるのではないかと感づいていたのだろう。だから窓の向こうにぎょっとした。
 他人から判断されようが、自分が受け入れなかろうが、死ぬことには変わりないのに。
「は、やく……逃げて……」
 だが、自分がそうだと知られた。名実共に自分は黒死病なのだと。信じがたかろうが、男はそれを受け入れた上で、助けを求めなかった。
 ――ああ、なんていい人間。
 この期に及んで私の心配をしているのだ。隠した時点で相反する行動なのだろうが、考える気力すら病に奪われ続ける男にまともな論理的思考力があるわけもない。それになにより、黒死病である、という恐怖は人間にとって最大級の敵だ。
 感動のあまりもうすべてを打ち明けたくなったが、まだだ。まだはやい。
 食べられる実と、美味しい実は違うのだ。
 だから私は熟させるべく、こう言うのだ。
「いいえ、何故逃げなければならないのでしょう。何故、あなたを置いていくことができるのでしょう」
 男は私が何を言っているのか、理解できないようだった。
 それもそうだ。
 ここで男から離れなければ、間違いなく感染する。それはあまりに非情な確定事項だ。
 でも、私は離れなれない。離れたら、意味が無い。
「私は旅人であり、親兄弟も遠く彼方の地。何年と顔を合わせていませんが、黒死病にかかって死んでいたとしてもおかしくないでしょう。そもそも家を追い出された身ですから、帰る場所もありません。それに、だって……もうあなたと随分と一緒に過ごしたんですから、私に伝染っていてもおかしくはないって、考えませんでしたか?」
「そんな……」
「ほら、ここ。あなたとおそろいです」
 私は右の肘の内側を見せた。そこには黒い染みが肌に広がっていた。
 絶望に瞳を濁らせる男。
 溢れた涙は、私のためなのか、あるいは。
 ――ああ、一口齧っただけで美味しいと分かる果実。
 もしも私が黒死病に既にかかっていたとしたら、逃げたところでどうしようもない。それどころか黒死病を広げてしまうだろう。
「だから、一緒にいたとしても大丈夫。幸い、私の症状は軽いので、看病してあげますわ」
 部屋には、男が噎び泣く声だけが響いた。
 ……一般的に、黒死病は発症してから一週間もてばいいほうで、最悪二日三日で死ぬ。
 それから私は二日、男を看病し続けた。とは言うものの、治療法などない黒死病患者の看病などたかが知れており、汗を拭いてやったり食べやすい食事を作ってやることぐらいだった。ほぼ間違いなく死ぬので、治らないまでもせめて快適に、ということである。
 二日で、男は見るも無残な姿に変わり果てていた。全身のあらゆる皮膚が黒ずみ、まともな色をしている箇所を探すほうが難しい。黒死病の由来ともなった、黒いあざである。これが全身に回って命があると思わないほうがいい、というのが人々の共通認識だった。
 私は男のリクエストに従って、男が書いたものではない質素な聖書を開いてやっていた。もう紙をめくるための指の力も残されていない。目で文字を追うのが精一杯だった。
 ――そろそろ、かしらね。
 まだ意識もあるし、出そうと思えば声も出るだろう。だが、ここで寝て意識を手放したら、男はもう二度とこの世の光景を拝むことはできまい。
「今更だけど、見ず知らずの私を招き入れてくれて、どうもありがとう」
 僅かに顔を歪めて、彼は笑みを作った。
 私もそれにつられて微笑む。
「最後に……言い忘れていたことがあるの」
「ん……」
「それはね……」
 さあ、摘み取ろう。
 これが最初で最後のチャンスだ。
 熟れきった実を収穫する、唯一の時だ。
「私は天使なんかじゃなくて……悪魔なの」
 枝に鋏を入れろ。実はあくまで優しく受け取れ。
 困惑する彼に、事実のみを突きつけろ。
「だって、私こそが、黒死病そのものなんだから」
 言葉尻と同時、私の首から下は衣服を含めて全て黒い霧と化す。
 頭だけとなった私は、声の出ない彼に霧状の体のまま覆いかぶさった。遠目からだと、死体に無数の虫がたかっているように見えることだろう。
 少し世間知らずなお嬢様風の、お淑やかさと高貴さを孕んだ口調から、私そのものへ。
「だっておかしいと思わなかったの? ずうっと引きこもって誰とも会ってなかったっていうのに、いつ黒死病にかかったんだって。一番最初に疑うべきは、唯一接触した私なんじゃないの? あなたって、意外と馬鹿なのね……」
「え……?」
「私はね。人間を苦しめる黒死病が意思を持った存在。ただ人々を死に至らしめ、そこから恐怖を生み出し、吸い上げ続ける」
 再び肉体を構成する。このぐらいの年頃の人間を模倣するのが一番楽でいい。
 今や私の肉体は一部の隙もなく真っ黒だった。その銀の髪と、紅き瞳以外、肌という肌は全て黒く染まっていた。それも、墨のような黒ではなく、今まさに男を喰い殺さんとしている黒死病の黒で。
 朦朧としているだろうに、男はなんとか事態の把握に努めようとしているようだった。
 ――もう、そんな力もないだろうに。
 男にできるのは聞くことだけ。聞いて、受け入れて、感情を燃やすだけ。
「あなたの下に来たのは単なる偶然。たまたま、この通りで目についたから。ただそれだけ。旅をしているというのは嘘じゃないけど、旅をしている娘という像はまやかし。流行病は世界を渡り歩く。西から東へ、南から北へ。元々ただの病気だった私は、それこそ人間たちの行動のままに旅をしてきた。けれど、私は私の意思で旅をする。人間を殺し、力をつけ、己を拡大させるという目的での旅をね」
「…………」
 彼の右手が握りしめているのはネックレスだ。
 その意図に気づいて、鼻で笑った。
「神様に祈っても、運命は変えられない。私が行く先の運命は、私の如何によって決まる。あなたの死の運命は、この旅の途中で私が呼び寄せた。……あまりの理不尽さに、私が憎いかしら。それとも怖いかしら。ねえ、どっち? どっちなの?」
 答えは帰ってこない。ただ、光を失いつつある男の瞳が、こちらを射抜くだけだ。
 いささか遊びすぎてしまっただろうか。
 果実は熟れすぎてしまってもいけない。適度な頃合いで摘み取るのが一番いい。
 私は黒死病として人を殺めてきたが、それはあくまでも手段である。目的は自分たちの生存範囲の拡大。そして妖怪と化した自分の目的は、人々に畏怖されること。私自身の目的は、病らしくただ静かに人間へ襲いかかったとしても果たされるものではない。死ぬ間際。それも、本当に死に近づいてしまった、一歩踏み出すだけであの世に行ってしまうようなタイミングの一歩手前、きちんと理解し、恐怖し、さらには反抗してくればなお面白い。それが一番の収穫時なのである。
「ごめんなさいね、本当はもう少し命あるときに教えてあげるつもりだったんだけど。結構感情激しそうだったし、ここに来たその日にもう感染させてたとか、看病している間にずっと黒死病を悪化させ続けてたとか、話せばもっと恐れるか憎まれるかするようなこと色々あったんだけど……失敗だったかなあ」
 それとも、珍しく慈悲のつもりだったのだろうか。
 この段階にきたら、耳にすら入っていない可能性も高い。そうしたら、私のネタばらしも聞こえていないということになる。そうしたら、欲する感情は当然生まれないけれど、逆の見方をすれば男は懸念なく旅立てるということである。
 死ぬ間際に自分の正体を明かすことは、人間にムチを打って傷をつけ、蜜を染み出させることと同じなのだ。
「私らしくもない、のかなあ。なら、たまには救いになるようなことも言ってやろう」
 男の頬に手をかけ、
「この姿との付き合いは随分長いけれど、天使なんて呼ばれたのは初めてだ。素直に嬉しかった。現であれ幻であれ、自分のことについて褒められるっていうのは悪いもんじゃない。それに、発病してから私のことを気にかける人間は珍しい。たまにある人間のその優しさは嫌いじゃないね。――とかなんとか言っても、結局私は人の良心と命を踏みにじる、悪魔のような存在なんだけどね」
 その額に軽いくちづけを。
 刹那、男の肌がより黒く染まっていく。それどころか、体のあちこちにこぶが生じる。私が急激に黒死病の症状を進行させたからだ。
 この男は熟れすぎた。
 だからさっさと処分してしまおう。
 腐った果実は犬にでもくれてやるがいい。
「最後の最後よ。天国ででも地獄ででも覚えておきなさい」
 意識が途絶えるのを妨げるように、心臓から魂が喉を通り口から抜け出てしまわないように、人外の握力で喉を押さえつける。
 この男は、結局最後に私のことをどう思っていたのだろうか。
 願わくば、この上ない恐怖の感情を。
「私の名はレミリア。この地上で最も強い黒死の悪魔よ」
「…………」
「あれ」
 首が折れていた。勢い余ってしまったらしい。
 事切れ、すっかり人形のようになってしまった男を放り捨てる。もうこれには用も興味もない。私が相手にするのは、命あるものと感情を抱くものだけだ。
 と、ベッド脇に場違いな輝きを放つ物を見る。
「おっと、忘れてた」
 それは偶然の引き金。男がそれを求めていたからこそ、私も求められた。
 男の死という結末は変わらなかったかもしれないが、このような最期の物語になったのは、ひとえにこの眼鏡のおかげだった。特に何もなければ、普通に追い出されるまで暮らし、普通に殺していた。そういう意味では、最初から男にとって救いのある道が用意されていたのかもしれない。
 次にもし目の悪い人間がいたら、同じ手口で騙してやるのもいいかもしれない。
「ま、そのときはクソ鬱陶しくも半端に優しい、自己満足な人間じゃなきゃいいけど」
 ついさっきついた嘘を、もう聞こえていない男に聞こえるよう撤回しながら。
 

 
 このように時折私は、人生で二度あった『人間を自由に殺していた』頃に思いを馳せるのだ。
 吸血鬼レミリア・スカーレットとなった今となっては、黒死病としての権能はもはや持ちあわせてはいない。外の世界では、あれだけ瘴気が原因だの神の罰だの言われてきた黒死病のタネが、単なるウイルスが原因だと判明してしまったため、私は吸血鬼という妖怪に完全に成り代わらなければいけなかったからである。あの当時でも私のように、人々の恐怖から人格を得た黒死病は何人かいたが、知る限りでは私と妹以外に生き残りはいない。恐怖されなくなった妖怪は例外なく消え去るのだ。
 なら、幻想郷に来る以前の吸血鬼としての私……よりも昔の黒死病としての私に戻れるとしたらどうするか。
 残念ながら、それは御免被りたい。
 私は人間の醜い中途半端な良心が嫌いなのだった。それは人々が混乱すればするほど見えてくる。存在そのものが大混乱の引き金である我々は、必然的に人間の汚い部分を多く見てきた。もしも黒死病として復活するとしたら、またあの醜い人間劇を目の当たりにしなくてはならない。いかに人間の負の感情が糧だとは言っても、それは私に向けられたものに限定される。だからあらゆる負の感情を美味しくいただけるわけではないし、偽善なんかは食べたら食あたりしてしまいそうだ。
 思い返していた男のように、人生最後にせっかくだから、と気分で自分の本心――生存本能を偽って他人を慮る様は見ていてイライラする。自分のありのままの有り様が肉づいた妖怪としての立場からすると、いいから偽善を振りかざして己の欲求を満たそうと思わず、さっさと己の直面している現象に素直に恐怖し絶望し命乞いをしてくれと思うのだ。
 吸血鬼として力を振るっていた頃は、蛮勇に推して参る愚か者どもが一切の例外なく、腕の一本で無様に這いつくばり逃げ惑い死に晒していた。勇者たちの間に美談の影などない。けれど一方黒死病の時代……特に初期は、神の試練だとか何とか美化して人間たちは私に向き合ってきたので、眼前で演じられた茶番劇の多さと言ったらなかった。疫病だと信じたくなくてそう思い込んでいるのであればよかったのだが、本心からそう思っていたのだから手に負えない。その無意味さや浅はかさに吐き気がしたのも確かだし、原因をすげ替えて自分をまっすぐに捉えてくれないことが何より気に入らなかったのである。美談は美談で特に否定するつもりはないし、人間のその自己犠牲っぷりには涙を禁じ得ない。だが、命ある存在としてのレミリアはそう思えても、人間を襲う存在としてのレミリアが同じ感想を抱くとは限らない。自分の育てていた果樹に、突然にんにくや大豆が成ったら、人間はそれを奇跡だとかもてはやしても、吸血鬼は例外なく怒る。そういうことだ。
 だったら私は、極東の片田舎で静かに、人間へ力を振るえない吸血鬼としてのんびり暮らしていくのが一番いい。自分が強大な妖怪であることの自覚は、こうしてスパイスのように記憶の中に散りばめられている大虐殺時代の行いと、吸血鬼として人間を恐怖のどん底に叩き落としていた時代の思い出だけで取り戻せるだろう。まだ人里の一般人たちには、紅い悪魔として十分に恐れられていることだし。
 それに、だ。もし幻想郷の中で黒死病として復活してしまったら、制御が利かずに咲夜を殺してしまうかもしれない。あの宇宙人たちなら何の問題もなく治療してくれるのだろうが、さらにそれが人里に感染して、となったら間違いなく私は『消される』だろう。人間に対してあまりにも強力に過ぎ、妖怪に対してあまりにも無力な自分にはなりたくない。私は、夜の王たる吸血鬼の立ち位置が今は気に入っているのだ。
 もしあの男が今、目の前に現れたら、快く心臓を貫いて即死させてやる。
 嘘偽りなく、私のことを天使と呼んでくれたお礼に、気分の悪くなる自己犠牲に目をつぶって、恐怖も痛みも感じる間もなく殺してやろう。じわじわと弱らせて殺すなんて方法、吸血鬼レミリアにとっては、本人ながらに嘘だと言いたくなるような最悪の手である。
 さて、最強の悪魔としての自信を取り戻したところで、館の主としての自覚も取り戻そう。
「咲夜ー! いるんでしょう。今日のおやつは苦味の効いたカラメルのプディングよ」
 私は今、吸血鬼であることより、強き者であることより、紅魔館の主であることに忙しいのだから。
意外と家庭的な町娘レミィもいいよね

最近自分の中で熱い『お嬢様元々黒死病から成り上がった』説を元に一本。知ってる人は知ってる吸血鬼黒死病説ですが、まあなんでお嬢様がナノメートルかわいいみたいな出自になってるかはまた別の機会に書ければいいですね。こんぺでこんなこというのもなんですが、間違いなく話が反れるので……。

初こんぺどころか創想話にもまだ投稿したことのない若輩者ですが、お楽しみいただけたのなら幸いです。


11/26追記
コメント並びに評価のほう、有難うございます。
消化不良であるとか、もう少し発展して欲しかった、というお声は書いている途中でそうなるだろう、と思っていました。
実はこの作品は、現在執筆中の本のプレストーリーのような位置づけで書いていました。
こんぺに出す作品としてだいぶよくないとは思いましたが、どうしてもそのときに形にしてみたかったもので……思いついちゃったんだから仕方がない。全部〆切までに書く余裕もなかったんだから仕方がない/ ,' 3 `ヽーっ
(そもそもラストまで東方キャラかどうかも分からない登場人物だけ、という構成もわりと攻めすぎ、と言われれば否定できないのですが)
ですので、黒死病レミリアのあれこれをまだご期待くださっている方は、長編になった彼女をお待ちいただけると幸いです。

それと自分でネタばらししてる感があって恥ずかしいので詳細は伏せますが、実は語り手の少女が吸血鬼なんじゃないかというヒントをちらほら入れてあります。
最後まで分からなかった方は興味があれば是非、お探しください。
五十嵐月夜
tukiyo320@gmail.com
http://escapesanctuary.web.fc2.com/
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.簡易評価なし
1.5あらつき削除
素直にお楽しみいただけました。
2.10名無削除
ノミお嬢様かわいいよ
3.6がま口削除
へぇ、吸血鬼にはそういう由来もあるのですか。
従来の発想に捉われない出自設定で、途中までお嬢様だと分かりませんでした。
しかし病魔時代のお嬢様、相当厄いですな……
4.6ななし削除
まさかレミリアだったとは予想外
面白かったです
5.10mayuladyz削除
正直に言うとコンペでなければ
最初の校長先生みたいな回りくどい
語りにそっとじしていた

しかし読み進めると
校長先生風の語りが意図的だと
分かったので満点をつけた

お題の消化もばっちりだし
文書や構成も良かった
文句なしだぜ

おもしろかったよ
これからも沢山書いて
俺たちを楽しませてくれ
よろぴこな(´・ω・‘)V
6.3エーリング削除
これ吸血鬼黒死病起源説やりたかっただけだ!いややりたかっただけで全然いいんですけど、お話としても結局なんというかまあ落ち着くところに落ち着いたというか、作品にもうひと味あると嬉しいです
7.5みすゞ削除
面白い解釈だと思いました。
8.7ナルスフ削除
強い妖怪として扱ってもらえないことがある、病気、とかのキーワードから安直にヤマメちゃんかなー、まさかナズーじゃねーよなーとかのんびり思ってたらまさかのお前かよっていう。
調べてみたら確かに黒死病が吸血鬼の原型の一つになったという説があるんですね。なるほど。
名前も不明なまま幻想郷が舞台でもないまま、雰囲気にのまれてドキドキして読ませてもらいましたが、まさか『決して美談などではない~』の前置き通り本当に何でもない話で終わるとは。
男が最期に何か言うのかなと思っていたら、別段そんなわけでもなく。
うむむ、これが悪魔か。
9.4道端削除
 吸血鬼黒死病説……そんなものがあるんですね。知らなかった……。

 初投稿、ということだけど、それを感じさせない筆さばきでした。レミリア、悪女やのう。
 しかし……そのレミリアにもうちょい魅力を感じられれば良かったなあ、と思う。
 悪方向に振りきれてるキャラというのは書きようによっては魅力的に映るけど、今回の話は、言ってしまえば「レミリアが単に『人間に卑劣なことしてやったぜ。どうよ』と自慢話をする話」で、こう、やっぱり面白く気持ちよく読める話じゃない。もっとこのレミリアの魅力を感じさせる要素や設定だとか、あるいは一筋縄には行かない捻った結末などを期待していたのに、思った以上に「悪い奴が悪いことをした」だけで終わってしまって、物足りない感じ。
10.5生煮え削除
読み応えのあるしっかりした文体は楽しかったです。作者さんの他の作品も読みたくなりました。ただこの作品に関しては、結局レミリアが人を殺すだけの話で、そこから何も展開していないのが残念に思いました。男の死以降がなんとなく言い訳っぽい説明に感じられたことも引っ掛かります。
11.10きみたか削除
コンペや創想話にこそ投稿経験なしとはいえ、すでに何らかの経験を積んでいるのでしょう。なかなかに重みを感じさせる一本でした。嘘というお題で、過去の話では嘘によって黒死病の恐怖を食らいつくしながら、現在のその語りは本物なのであろう、と思わせる語りの対比が面白かった。
12.7名前が無い程度の能力削除
黒死病の原因が吸血鬼だったという説があるとは知りませんでした
なので途中まで主人公はてっきりヤマメだと思っていましたよ
物語に漂う中世ヨーロッパの香りが妖怪の昔話というシチュエーションを引き立てていたと思います
13.6時間が足りない!削除
とても面白かったです。妖怪らしい描写はなかなか好みでした。
14.5K.M削除
名前出るまで、誰だか全然わからなかった……