第十二回東方SSこんぺ(嘘)

嘘を一滴、宵闇に溶かして

2013/10/27 19:24:32
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 ――目の前が取って食べれる人類?





『嘘を一滴、宵闇に溶かして』







一、

 私たち妖怪は夜目が利くと言うけれど、森の中、落ちている人間を見つけたのはさすがに初めてだった。

 私は、鼻歌を歌いながら森の中を散歩していた。春先、日が沈んで半刻の宵の口のことである。
 その日は新月で、日が落ちると、あたりはすぐに暗くなった。そうなるとただでさえ薄暗い森の中は暗さの二乗で、もう真っ暗だ。といっても私は妖怪で、しかも宵闇の妖怪だから、その程度の暗さは屁でもない。私は調子はずれの鼻歌を歌い、スキップするような足取りで森の中を進んでいた。
 大抵の妖怪は月の光が大好きだから、新月の夜になると静かになる。
 私も妖怪だから本来は自分のねぐらで閉じこもっている方が正しいのかもしれないけれど、私は変わり者だった。騒がしい月明かりの夜よりも、静かな暗い夜の方が好きなのだ。新月の、静謐な夜。妖怪も、それ以外の動植物も息をひそめて眠っているみたいに沈んだ夜。そんな夜を選んで私は散歩に出ていた。

 しばらく上機嫌で草を踏みしめて歩いていると、遠くに何か落ちているのを見つけた。
 向こうの茂みの中に、何かそれなりの大きさの物が、地面に横たわっている。
 野犬の死骸か何かだろうか。私は何となく、それに近づいてみた。
 近寄ってみると、それが野犬ではないことに気づいた。人の形をしていたのだ。見た感じ、妖怪には見えない。だとすると、人間だ。

「なんだってこんなところに」

 私は驚きながら、倒れた少女をまじまじと観察した。
 まず目についたのは、腰まである黒く長い髪だった。流れるようなその黒髪は、まるで闇に溶けてしまうみたいに見えた。
 そして、見たことのない長そでの服とスカート。その先から細く白い両手足が生えている。うつ伏せに倒れているせいで顔は分からないが、まだ年端もいかぬ少女に見えた。私もかなり小柄な妖怪だが、それよりも一回り小さい。
 私はその隣にしゃがみこむと、乱暴に少女の体を転がして仰向けにした。
 あらわになった顔は、やはり幼かった。
 人間の歳なんててんで分からないが、生まれてから十もしない歳だろうというのは推察できた。閉じられたまぶたの淵から、細長く黒い睫毛がゆるやかに伸びている。手足と同じように、顔も白く透き通っていた。ちょっと引っぱたいたら、すぐにぼろっと崩れ落ちてしまいそうな脆さを感じさせる少女だった。
 私は、少女の胸のあたりへと視線を滑らせる。じっと目を凝らすと、微かに上下しているのが分かった。
 まだ、生きている。

「さーて、どうしようかなー」

 私は腕を組んで考えた。この少女を、どうするべきか。
 具体的に言えば、食べるべきか、食べざるべきか、だ。
 私は妖怪である。
 妖怪ということは、人を襲って食べるということだ。私は変わり者だったが、人を食べるということについては他の妖怪と変わらない。
 そして、目の前の少女は、肉付きこそ良くないものの、とても美味しそうだった。白磁の肌はとても柔らかそうで、それにぞぶりと歯を立てたときの感触を思うだけで、よだれが滴ってくる。
 しかも生きている。
 そこらでのたれ死んだ旅人の死肉でも、野犬の喰い残しでもない、新鮮な生きた肉。これはまたとないチャンスだ。
 ならば、今すぐにでも齧りつこう――と考えて、やめた。そうするには問題が一つあるのだ。
 面倒くさがりの私にとっては至極やっかいな問題。
 しかし妖怪にとって、ひいてはこの幻想郷にとって、大事な、無視できない問題。まったくもって面倒くさい。


 まず、幻想郷と呼ばれるこの地は、以前(年数なんて数えてないのでよく分らないが、感覚的には結構前だ)偉い妖怪によって結界が貼られ隔離されてしまった。
 なんでも、妖怪を生かし、守るために。
 どうして結界で括られた中で生活することが妖怪を守ることにつながるのか、そこら辺の理屈は私にはよく分らないが、とにかく一番重要な点は、人を無闇に襲えなくなったということだ。
 人間を襲うことが存在意義である妖怪は、つまり、人間がいなくなれば存在できないということだ。限られた幻想郷という空間で、数少ない人間を襲うということは、真綿で首を絞めるようなものだ。
 もちろん、「少しぐらい人間を襲ってもばちは当たらないだろう」と思う輩もいるだろう。または「自分ひとりくらいルールを破っても構わないだろう」と思う輩も。
 しかし、意外にそう上手くはいかない。そういう輩に対しては結界を貼ったその偉い妖怪が直々に圧力をかけているみたいだし、人間による報復もまた馬鹿にできないのだ。
 だから私は、人は襲わない。
 ただし、偉い妖怪の圧力が怖いのでも、人間たちの復讐が怖いのでもない。人を襲ったことによるいざこざが嫌なのだ。それだったら別に人を襲わずに、のんびり過ごしている方が性に合っている。
 つまるところ面倒くさいのだ。


「うーん……」

 足元から声が上がる。
 私がそちらに目を向けると、少女が顔をしかめていた。
 しばらく眺めていると、そのまぶたがゆっくりと持ち上がった。やがて目をぱっちりと開くと、上半身だけ持ち上がる。

「あ、れ。ここ……」

 少女はきょろきょろとあたりを見回す。隣に私がいることには気づかないようだ。無理もない、新月の、真っ暗闇の森の中なのだから。
 私は、闇の中から少女を観察する。
 くりくりした瞳はこれまた髪の色と同じ、黒。見ていると吸い込まれそうなほど深い色をしていた。状況が分からずに宙をさまよう大きな目が、少女の幼い印象を加速させると同時に、利発的な子供のような印象も与えた。

 その目を見ているうちに、私の頭の中をよぎるものがあった。
 既視感。少女のことを見たことがある気がする。

 少し考えて、思い出した。
 神社の巫女だ。幻想郷の神社の、お目出度い色の服を着た巫女。あれのイメージとよく似ていた。
 さらさらした黒髪、漆黒の瞳。以前、遠目に見ただけだったが、目の前の少女はそれに似ていると思った。ただ違うとすれば、巫女に比べて、この少女は幼く、まだ年端もいかぬ年齢であること。
 しかし、どちらも肉が柔らかそうで美味しそうなのは変わらない。

「あなた、誰?」

 ふと気がつくと、少女が私を見ていた。闇に目が慣れたのか、その瞳はまっすぐ私を見据えている。
 この闇の中、人間に見つかるとは思っていなかったのでびっくりした。とっさに私は少女に返すべき言葉を探す。しかし、

「えーと……あなたは食べれる人類?」

 出てきたのはそんな馬鹿みたいな問いだった。何だそれは、と自分に突っ込みを入れる。それで「はい」と答える人間が、いったいどこにいるのだ

 思わず頭を抱える。
「うん」
「へ?」 

 聞こえるはずのない肯定の言葉。私は思わず少女の目をじっと見つめ返す。この子が返事をしたのだろうか。「うん」って。
 少女はこくんと小さく頷く。

「えっと……はい」
「いや、言い直さなくてもいいけどさ」
「うん」
「食べれるって自分で言っちゃダメでしょ」
「駄目なんですか?」少女は可愛らしく小首を傾げてみせる。
「駄目だよ」駄目だと思う。少なくとも普通の人間としては。

 変わった少女である。
 妖怪に対しての恐れがまるでない。世間知らずなのか、物怖じしない性格なのか。なんにせよ普通じゃない。

「そもそも、食べれる人類ってなんなのさ」

 自分の発言なのに、それを棚に上げて私は訊く。

「えっと、食べてもいい人間?」

 ほとんど鸚鵡返しのような返答だった。私は続けて訊いた。

「なんでお前が、食べてもいい人間なわけ?」
「食べられちゃ駄目って、教わらなかったから」

 それは確かに、教わらないだろうな。
 ため息を吐きながら、私は「いーい?」と語りかける。

「あのね、妖怪の問いなんかにまともに答えちゃダメ。嘘を吐いて、相手を煙に巻くくらいの気持ちでいなきゃ。特に今みたいな問いには、『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。すぐに食べられちゃうよ」

 私は、少女相手にくどくどと説教をする。
 頭の中で、冷静な私が「何をやってんだ」と嘲笑する。何やってんだろ、本当に。人間の小娘相手に、なんで妖怪対策のレクチャーなんかしてるんだ。
 少女の独特な雰囲気に、完全にペースを崩されている。

「嘘を吐くの?」少女は首を傾げる。
「そう、嘘を吐くの」
「嘘を吐いたらいけないって教わったよ」

 最近の人間は、そんなことを教えているのか。嘘を吐かないで、この世の中、どうやって生きていくというのだ。

「生きていくためには嘘も必要なの」
「そーなの?」
「そーなのよ」

 うん、と私は頷く。少女も、うんと頷く。
 変な状況だった。少女には、何故か自分のペースに引き込む力があるみたいだった。

「ねえ」少女が訊く。
「なに」少女と問答する理由なんかないことにとうに気づいていたが、私は律儀に返事をする。
「妖怪ってなあに?」
「へ」

 その質問に、私は思わず固まる。なに、最近の人間ってそこまで世間知らずなの?
 少し考えて、疑問が氷解する。そして同時に、少女と私の話がかみ合わなかった理由も悟った。

 この少女はきっと、幻想郷の外からやってきたのだ。

 なるほど、と得心がいった。
 見たことのない服に、世間知らずな言動。外からやってきた少女だとすれば、それらに説明がつく。
 私は、にんまりと微笑んだ。

 これは、チャンスだ。私は思う。
 人間と妖怪のバランスとやらを考慮するならば、なるほど人間を襲うのを禁じるのは道理だろう。ならば、幻想郷の人間としてカウントされていない人間を襲うのならば? そう、外来人を襲ったところで、幻想郷のバランスは崩れないだろう。
 我ながら、画期的な考えだと思った。
 私は芝居がかった口調で、少女に語りかける。

「妖怪っていうのはね、とおっても怖いのよ。人間が大好きでね、見つけたらすぐに食べちゃうの。特にお前みたいな穢れの知らない純粋な子がだぁい好き」

 自分の顔は見えないが、きっと赤ずきんを前にしたオオカミみたいに、嫌らしい笑みを浮かべているに違いない。
 少女は、状況が解らないのか、ぼんやりとこちらをながめている。
 その肌は、透き通るように白く、まるで私を誘っているように見えた。視線を滑らせる。線の細い首筋が目に飛び込んでくる。

 それに思いきり歯を立てても、誰も咎める者はいない。

 いただきます。心の中で唱えて、唇を少女の首に近づけていく。大きく口を開ける。
 さあ、あなたはどんな味?
 心の中で問いかけながら、上目づかいで少女を見上げた。

 少女と目があった。
 真っ黒な瞳。
 自分をまっすぐに見据えている、何も知らない目。

 その目に見られたら、なぜだか急速に食欲が失せていった。
「やーめたっと」
 私は少女から離れると、どっかとあぐらをかく。
 つまらない。こうまで反応がないと拍子抜けだった。
 私は人間を食べるのは好きだったけど、それは純粋な食欲を満たすためじゃない。恐怖が欲しいのだ。いざ食べられる瞬間の人間の、悲鳴、命乞い、引き攣った表情。そういうものが好きなのだ。こっちを怖がりもしない少女なんて食べても、腹は膨れても気持ちは膨らまない。
 そう思うと、波が引くみたいにやる気が遠のいていった。

「お姉さん、妖怪さんなの?」
「んー」

 状況がまるで呑み込めていない少女は、そんな場違いとも適切ともつかないような質問をする。

「そーだよ」
「人間を食べるの?」
「そう」私は、骨付き肉を頬張るようなジェスチャーをしてみせる。「むしゃむしゃってね。怖いでしょう」
「うん」少女は神妙に頷く。でもその顔は、よく分っていない顔だ。よく分らないけど、人の言うことはちゃんと返事しないといけない、と信じている子供の顔だ。

 これはいかん、と思った。
 このまま何も知らないまま大きくなれば、少女はきっと美味しくない人間に育ってしまう。ほどほどに世間を知り、ほどほどに純粋で、妖怪を怖がり、美味しく食べられてくれるような、そんな立派な人間に育たない。

「あんたは、人をもっと疑わなきゃダメ」
「え、でも」
「人はみんな嘘つきばっかなんだから。人を信じるのも大概にしなさい。特に初対面の得体の知れない奴なんかに惑わされちゃダメ」そう、特に私みたいな。
「うん」少女は頷く。まるで分かってないみたいだった。


「さて」

 私は腰を上げる。
 少し無駄なことをしゃべりすぎた気がする。これ以上話しても意味はないだろう。いい暇つぶしにはなったけれど、この人間が美味しくない部類の人間である以上、長居は無用だと思った。
 私は別れの言葉もかけずに、後ろを向く。
 そのまま歩き出そうとしたが、動けなかった。
 首だけ後ろに向ける。白く小さい手のひらが、私のスカートを掴んでいた。
 そのまま振り切って行ってしまっても良かったのかもしれないが、気まぐれで、私は声をかける。

「なに」

 少女は口をつぐんだままだ。助けを求めるように、私を仰いでいる。
 そんな目をして見られても、困る。

「だからなにさ」
「帰りたい」
「あー?」
「おうち、帰りたい」

 小さくか細い声が、夜の空気を震わせる。
 そりゃそうだよなあ、と私は思う。
 外の世界からよく分からないうちにやってきて、よく分からない奴に絡まれて。そりゃ、帰りたいよなあ。
 でも私にはどうにもできない。
 外に帰す方法も知らない。知っていたとしても帰す義理もない。
 この子がこの先どうやって生きていくのか、あるいはのたれ死ぬのか、想像するのも面倒だった。私にとってはどうでもいいことだ。
 私は少女を見下ろす。
 並んで立つと、やはり私よりも一回り小さかった。私だって小さいのに、どんだけ小さいんだよこの小娘。
 少女は、見下ろす私の目を不安げに見返していた。
 黒目がちの瞳は不安げにうるんで、今にも破裂しそうに見えた。必要以上に力のこもった肩は小刻みに震えている。
 なんだ、あるじゃん、恐怖の感情。そんな的外れなことを思って安心する。
 でもその恐怖は決して自分に向けられているものじゃない。むしろ自分がここからいなくなってしまうことの恐怖だ。
 そんな恐怖、やっぱり、食べても美味しくない。
 私はおもむろに、スカートを掴む少女の手に、自分の手のひらを重ねる。このまま強引に引き離すつもりだった。
 私は、手に徐々に力を込める。びくっと少女の手が震えた。

 そこである閃きが、私の頭の中を貫いた。
 食べれない人間なら、食べれるように仕立てればいいんだ。

 その突拍子もない思いつきは私を、わくわくさせた。
 この、何も知らない無垢な人間を、おいしく食べれる人間に育てる。小さくか細い体を私好みに成長させ、丸々と肥やす。
 適度な純粋さを残しつつ、適度に世の中のことやその他の感情を憶えさせ、適度に妖怪を恐れる人間にする。
 それが出来るのだ。
 この外からやってきた、身元不明の少女相手ならば。
 それはとても素晴らしい発想だった。天啓と言ってもいい。
 私は体を翻して少女に向き直ると、屈んで目の高さを合わせる。

「あのね」
「うん」
「私は実は、あなたのお母さんなの」

 私はまた嘘を吐く。あまりにも馬鹿みたいな嘘。騙されるはずのない、途方もない嘘。

「ママ?」
「そう、ママ」
「さっきは妖怪さんだって言ってたよ」
「それは嘘。本当はあなたを迎えに来た、あなたのママよ」

 少女は小首を傾げる。その小さな頭の中で、なにを考えているのだろう。
 信じようが信じまいが、私はどっちでもよかった。
 というか信じるはずがないと思っていた。それならそれで、力ずくで連れていけばいい。どうせこの少女に行く場所なんてないんだから。
 だけど、

「うん」

 少女は何故か、私のあからさまな嘘に首を振るのだった。
 私は呆れる。
 相変わらず、この少女の考えてることが分からなかった。年端がいかないことを差し引いても、あまりにも無防備すぎた。
 まあ、そっちのほうが好都合だ。
 私はさっと少女の手を取る。
「よろしくね」
 笑いかけてみる。出来る限りやさしく、警戒されぬように。
「うん」
 少女もそれに合わせて笑った。ぎこちない笑顔だった。


 そうして一滴の嘘は、宵闇に溶けていって。
 アンバランスな私たちの、嘘みたいな生活は始まった。
 



二、

 私は、背中を優しく揺する振動で目を覚ました。
 ベッドに横になったまま薄目を開ける。
 東向きの窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
 朝である。
 なんだってこんな朝早くに起きねばならんのだ。こちとら宵闇の妖怪だぞ。
 私は心の中で愚痴って、布団を深くかぶり直した。昨夜寝たのがもう夜が明けようかという時間帯だったから、まだ三時間も寝ていないはずだ。
 しかし、私を揺する振動は、時間がたつにつれて徐々に大きくなっていった。

「ママ」
「んー」
「起きて」
「んー」

 背後から誰かの声が聞こえる。聞きおぼえのない声だ。
 そちらを確認しようと、私は寝返りを打ち、目を開けた。
 黒髪の人間の少女がいた。

「あー」

 頭をがしがし掻きながら上半身を起こす。だんだんと昨日の記憶がよみがえってきた。
 確か、少女を拾って、この家まで連れ込んだのだ。
 我ながら面倒くさいことをしたと思う。
 自分好みの人間を作る、という発想は今でも素敵だと思うが、それにしても面倒くさい。そのために、おままごとじみたことをやらなきゃいけないなんて。

「ママ」
「はいはい、なーに」

 私は頭を掻いた手をそのまま腹に持っていき、そこをポリポリと掻く。

「お腹空いた」
「はあ」

 勝手にそこらでウサギでも狩ってこい、と言いたいところだけど、そうやって突き放すのは流石に酷なことだと思い直した。面倒くさい、と思いながらもしぶしぶ立ち上がる。
「たぶん、台所に適当な食べ物が残ってたと思う。それ、勝手に食べていいよ」

 それもちょっと投げやりな対応だったが、意外にも少女は文句を言わず、こくんと頷くととてとてと部屋から出ていった。
 私はため息を吐くとのっそりと立ち上がった。
 朝ということで本調子ではなかったが、もう一度寝なおす気も起きなかった。寝たところで、どうせまたあのちびっこに起こされるのが目に見えている。
 大きく伸びをすると、辺りを見回す。
 朝日を取り込む大き目な窓に、黄色いカーテン。本棚がふたつ、タンスがひとつ。丸テーブルひとつに椅子がふたつ。小柄なひとが二人寝泊まりするのには十分すぎる部屋だ。
 そして扉の向こうには台所にトイレに風呂。
 何とも豪華な仮住まいだと思う。私のような野良妖怪にとっては出来過ぎな環境だ。

 この家を見つけたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
 私がいつものように森の中を逍遥していると、ぽっかりと開けた広場のような場所に出た。そこに忘れられたようにこの家が建っていたのだ。
 私が見つけたときには、この家の持ち主はすでに居なかった。森の中で野犬や妖怪に襲われたのか、それとも人間の里に移住したのか。何にせよ、人が住まなくなってから長い時間が経過していた。
 この森は、通称魔法の森と呼ばれている。
 この森は常にじめじめしていて気味が悪く、人は基本的に寄り付かない。
 しかし、ここに生えるキノコは魔法の触媒として優秀なのだそうで、それを目当てにした好事家がごくたまに、この魔法の森に住んだりする。
 つまるところこの家の持ち主は、魔法使いか、それを志す者だったのだろう。
 何にしても、この場所を見つけられた私は幸運だったと思う。

「ママ」

 いつからいたのか、少女がドアから顔だけ出して、こちらを覗いていた。

「どうしたの」
「変な匂いがする」

 渋そうな顔をする。変な匂い、はて。
 私は少女に連れられて、台所へと向かった。


 * * *


 台所は思った以上にひどかった。
 少女が引っ掻き回したのだろう、食料があたりに散乱していた。
 そしてその食料がまたひどい。
 大量にあったパンはことごとくカビが生えていたし、果物の類も痛んで黒ずんでいた。ハムやソーセージから腐った匂いが立ち上っている。
 おもむろに足もとに転がっていた卵を一つ手に取って、皿に割ってみる。どろり、と黒ずんだ黄色の粘液がへばりついた。独特の異臭が漂ってくる。思わず鼻をつまんだ。真似するように、少女も鼻をつまんでいる。心なしか、涙ぐんでいるようだ。

 はて、この食料はいつ手に入れたんだっけか、と思いを巡らせる。
 確か、森を抜けた人里に続く一本道を歩いていた行商を襲って手に入れた物だ。もちろん命は取っていない。
 あれはつい最近のことだったような。いや、でももう一ヶ月経つのだろうか。そうか、そんなに前のことか。それは食料も腐るだろうなあ。
 妖怪の時間感覚なんてそんなものだ。
 大抵の妖怪は精神的な存在だから、飲まず食わずでも平気だ。もちろん、変わり者妖怪である私も。ただ、趣味として食事をすることもある。だから、たまたまその日、何か食べたいと思っていたところに行商が通りかかったものだから、それを襲った。
 そして襲ったはいいが、結局食べてる途中で飽きてほったらかしにしていたのだ。それだけだ。

 どうしたものか、と考える。どこからかハエが飛んできて、鬱陶しい。
 私はいい。食べなくても平気だ。
 だけど、人間はそうもいかないだろう。まったく面倒くさい。
 考えていると、袖を引っ張られた。
 そちらを見ると、少女が透明の袋を掲げている。見たことのない材質の袋だ。外の世界のものだろうか。

「ゴミ袋」
「ゴミ袋?」鸚鵡返しに、私は訊き返す。

 少女はこくんと頷いた。
 これで、とりあえず腐った食料を片付けようということだろうか。
 少女は足元に散乱した卵やハムやみかんを拾って、透明な袋に詰め始めるた。私もそれに倣う。
「そんなもの、どこにあったの」手を動かしながら、訊ねる。
「リュックの中」
「リュックって、あの背負う布の袋のやつ?」
「ん」こくん。

 昨夜、少女を連れて行くとき、近くに落ちていた布製の袋を見つけていた。
 少女曰く、それはリュックサックという代物で、それが彼女の唯一の持ち物だった。中は検めていなかったが、中にこの透明袋が入っていたのだろう。


 あらかた片付け終えて、一息吐く。
 まだ痛んでない果物や調味料の類、それとカビを取り除けば食べられそうなパンだけがテーブルに乗り、あとは口を縛った袋の中に閉じ込めた。

「あー疲れた」

 私は大げさに伸びをして、疲れました、とアピールする。
 実際、知らない相手と一緒に作業をするのは、結構疲れることだった。

「じゃあ、昼まで一眠りしようか。じゃあね」

 私はそそくさとベッドへ向かおうとする。しかし、少女はそんな私の袖を掴んでいた。

「お腹空いた」
「あー」

 忘れていた。もともと、この子の食事を探していたのだ。
 仕方がない、パンのカビを取り除いて食べさせるか、と考えたが、ふと思うところがあった。

「ちょっと待って」

 私はそう言いつけて、寝室へ引き返す。
 部屋の片隅に寄りかかるように置かれているリュックを手に取ると、少女の元へと戻ってきた。

「もしかしたらこの中に入ってるんじゃないかな、食べ物」

 何に使うのか分からない透明な袋が入っているくらいだ。多少の食糧くらいあってもおかしくないように思えた。
 さっそく私はリュックの蓋を開けると、中身を取り出す。
 少女用の服や下着、さっきのと同じ透明袋、封筒。鉄みたいな色をした筒のようなもの。
 掻きだしていくと、底の方に、透明な袋に入れられたパンが何個か出てきた。クリームパン、ジャムバターパン、カレーパン、などのカラフルな文字が、袋の表面に踊っている。

「これ、食べ物でしょ」私は、その一つを少女に差し出す。
 少女はおずおずとそれを受け取った。「食べていいの」と小さい声で訊く。
「あんたが持ってきたんでしょ。食べていいに決まってるじゃん」

 私の言葉を聞くと、顔を綻ばせて袋の口を開ける。
 その口から器用にパンの頭だけを出させると、齧りついた。もぐもぐと咀嚼すると、小さい喉を鳴らして飲み下す。そして、もう一度小さく齧りつく。
 私が二口で食べきりそうなそのパンを慎重に食べ進めていく姿は、小動物の食事風景を思わせた。
 まどろっこしい。見ていたら日が暮れてしまいそうだった。
 ぼんやりその姿を眺めていると、少女は動きを止めた。

「お水」
「あー水かー」

 そういえば、水のことを考えていなかった。
 一応、沢から汲んできた水があるにはあったが、それも食料と同様、いつのものか分からないような代物だ。
 どうしようか、と思案する私に、少女が鉄製の筒のようなものを手に取った。

「飲んでいい?」
「それ?」
「うん」こくんと頷く。

 どうやら筒の中には水が入っているらしい。
 水筒なのだろうか。だとしたら、鉄製の水筒を作るなんて、外の世界はだいぶ変わっている。

「だから勝手に飲みなって。誰も咎めないよ」

 私が許可を出すと、少女は水筒の蓋をはずし、それをコップにして中のものを注ぐ。
 水かと思ったそれはわずかに茶色をしていた。どうやらお茶のようだ。
 喉を小さく鳴らしながら飲み下すと、またパンに齧りつく。
 やっと半分くらいを食べ終わったところだった。全部食べきるまでにどのくらいかかることやら。
 まあ、暇だからいいけどね。
 はーあ、私はため息を吐く。暇じゃなかったら、こんな酔狂なことはやってない。
 私はぼんやりと、パンが少女の腹の中にゆっくりとおさまっていくのを眺めていた。

 
 * * *


 やっとのことで少女はパンを一つ食べきる。
 私はそれを見計らって、もう一つ別のパンの袋を差し出す。
 少女はちょっと悩んでいたが、それをずいと突き返した。いらないらしい。

「これっぽっちしか食べないの? お腹空くよ?」
「いい」

 首を頑なに横に振る。それで満腹なのだろうか。このくらいの歳の人間はそんなに食べないのだろうか。
 食べてもらわないと、困るんだけどなあ、と私は頭を掻く。
 最終的に、丸々美味しく育ってもらわないと、困る。こんな少食で、果たしてきちんと美味しく育つのだろうか。
 そうしていると、少女は私にパンを握らせてきた。

「ママが食べて」

 外の世界のパンがどういうものか、興味はあったが、少女の食料をここで減らすのは得策ではないと思った。

「ううん、ママはいらないから。また後で食べな、ね」

 受け取ったパンをまたリュックにしまい直す。取り出したその他の物も、一緒に詰めた。
 パンの数と、少女の食事量を考えると、あと三日くらいはもちそうだ、と目算する。

「さてと」

 私は台所を後にする。
 何を言われるでもなく、少女がちょこちょこと後をついてきた。
 こうしてみると、カモの親子のようだ、と思う。もっとも、少女にとってみれば本当に親子のつもりなのだろうが。
 寝室に辿り着き、私はベッドにどっかりと腰を下ろす。
 いろいろあったが、私は眠いのだ。このまま二度寝したい気分だった。
 私はゆっくり横になった。

「ママ」

 それを邪魔する声。言うまでもなく、少女だった。

「なに」

 私はもぞもぞと寝返りを打ちながら、少女に視線を向ける。
 少女はそんな私を不思議そうに見ていた。

「寝るの?」
「そう、寝るの」
「お仕事は」
「今日はお休み」永遠にお休みだ。
「私、学校に行かなくちゃ」
「ガッコー?」
「うん、お勉強するの。お友達と一緒に」

 人里にある寺子屋のようなものだろうか。噂によると、子供たちを集まって、読み書きや歴史を教えていると言うが。

「いーのよ。そんなもん」私は手をひらひらと振る。「ガッコーもお休み」
「でも」少女は不安そうに目を伏せた。そんなに勉強がしたいのだろうか。私にはよく分からない。

 面倒くさいので、私は少女をベッドの中に引きずり込む。

「きゃっ」
「あんたは真面目すぎ。もっと適当に、もっと怠けることを覚えなきゃ。私みたいに」
「でも、それじゃダメだって」
「ダメじゃない。いーい、ここで暮らす以上、私がルールだからね。私に逆らわないこと」
「えーと、うん」

 私の腕の中で居心地が悪そうにもぞもぞと少女が動く。

「分かったら、存分にぐーたらしなさい。命令よ。あくせく働いたらダメ」
「ダメ」少女は私の口調を真似してみせた。視線が交差する。何が嬉しいのか、口元を緩ませた。

「よーし、じゃあこのまま昼過ぎまで寝るよー」
「うん」

 少女はもぞもぞと動くとぴったりと身体をくっつけてきた。
 少女の体は熱かった。それは生命の持つ熱だった。生きている、少女は生きている。そんな当たり前のことを思う。春先、寒さの残る午前。そんな熱が心地よかった。
 結局その日、私たちが目を覚ましたのは夕方、日が暮れかかってからだった。

 


三、

 奇妙な共同生活が始まってから三日が過ぎた。


 面倒くさいとは思っていたが、人間の小娘を育てるのがここまでのものだとは思っていなかった。

 少女は一日きっかり三回の食事を要求してきた。
 これは誤算だった。人間は一日一回くらい食べて生活していると思っていたのだが、それでは足りないらしい。
 当初は三日もつと読んでいた少女の持ってきた食料も、これでは一日と少しでなくなってしまうだろう。まだ痛んでない果物やカビパンが残っていたが、それも長くはもたないだろう。

 少女はまた、風呂にも一日一回入りたがった。
 一日くらい入らなくても死にはしないって、と諭しても頑として譲らなかった。結局、ほとんど使ったことのない風呂を沸かして、一緒に入る。久しぶりの風呂は気持ちよかったし、悪い気持ではなかったが。

 着るものに関しては問題なかった。
 少女のリュックには、三日分の着替えが入れてあったし、順番に着回していけば一週間はもつだろうと考えている。汚れてしまったら洗えばいいし。

 総合してみると、一番何とかしなくてはいけないのは、食料だった。


 * * *


 朝。私たちは、のそのそと布団から這い出る。
 少女は眠い目をこすりながら、とてとてと部屋を出て行く。私は欠伸をしながらそれを見送った。
 朝起きて、朝食を食べ、二度寝する。
 そんなぐうたらサイクルが、二人の生活に染みつき始めていた。
 当初は怠けることに抵抗を覚えていた少女も、だんだんとこの堕落した生活に慣れてきたみたいだった。よい兆候だ。生真面目な奴とずっと一緒に住み続けるなんて、考えるだけで気詰まりがする。もっとも、この兆候が美味しい人間の第一歩として正しいのかは謎だったが。
 大きく伸びをすると、重い腰をあげて、少女を追いかけた。


 台所では、少女がリンゴと睨めっこしていた。

「どうしたの」私が訊く。少女は涙目をこちらに向けた。
「リンゴ」
「うん」
「包丁がないの」
「ああ」

 どうやら皮を剥けずに困っていたらしい。
 確かに、この家で包丁やナイフを見た記憶はない。でも、リンゴくらい、皮を剥かなくても食べられるだろうに。
 私はテーブルの上にあった、別のリンゴを手に取る。

「いーい? 皮なんか剥かなくても、大丈夫よ。ほら、こんな」私はそう言って、リンゴに歯を立てる。硬い果肉を、前歯でそぐようにして食べてみせた。しゃりしゃりと小気味のいい音がする。
 少女は不思議そうに私の行為を見ていたが、やがて意を決したようにリンゴに歯を立てた。なかなか齧ることが出来ずに苦戦して、ようやく一口、齧る。

 私はそれを眺めながら、思案する。
 カビの生えたパンは昨日で全部食べきってしまったようだ。食料はあと、数個の果物だけ。
 本格的に、食料の調達先を考えなくてはならないようだ。
 しかし、どうしようか。
 人里で買おうにも金なんかないし、人里の店を襲うのもあとがいろいろ面倒くさく、また、長期的に見て得策とも言えなかった。
 とすると――。

「ねえ」

 私は少女に言う。
 少女は、夢中でリンゴに齧りつきながら、上目づかいをこちらに向けた。

「お留守番、できる?」


 * * *


 私は森の中を歩いていた。
 この三日間は、ずっと少女と一緒だったから、一人で行動するのは久しぶりだった。解放感に胸がすく思いがする。これで真夜中ならテンションがさらに上がるのだけど、そうも言っていられない。
 歩きながら、私はきょろきょろとあたりを見回す。
 食料になりそうなものがないか、探すのだ。木の実や、ウサギなんかの小動物などがいれば嬉しいのだが。
 しばらく歩くと、沢に出た。森の中を流れる清流だ。それを見て、魚もいいな、と思う。塩でもかけて焼けば食べられるだろう。

「あら、珍しい顔」

 水面を覗き込んでいると、声をかけられた。
 顔を上げる。川の上の方、小高い岩の上から釣り糸を垂らす影があった。夜雀のミスティアだった。
 知らない顔ではないけれど、特に仲良くもない妖怪だ。

「何やってんのさ、こんなところで」
「それはこっちの台詞だけど。なに、釣り?」
「そう、釣り」ミスティアはからからと陽気に笑う。「人を襲うのも最近はいろいろ大変だしねえ、他に楽しいことでも始めようと思って」
「楽しいの?」
「んーあんまり」

 ミスティアの垂らした糸が、くいと引かれる。タイミングを合わせて釣竿を持ち上げるが、何もかかっていなかった。
 ちぇっ、また食われたよ、と口を尖らせる。
 釣り針にミミズのような虫を器用に片手でつけると、また清流に糸を垂らした。

「で、ルーミアはなんなのさ。こんな真昼間に、珍しいじゃない」
「それはあんたもじゃないの?」
「ん、まーそうなんだけどね」
「私は、ほら、暇つぶし」まさか、ここで人間の餌を探してるとは言えない。適当に嘘を吐く。

 それ以上会話は続かなかった。
 二人の沈黙を埋めるように水の流れる音がする。どこかで遠くで鳥がさえずっている。長閑だ。
 私は、手ごろな大きさの石を選んで歩きながら、ミスティアの元に行く。
 ミスティアの隣には、竹で編んだ籠が二つ置かれていた。
 片方を覗き込む。そこには、今まで釣った魚が五、六匹、白い腹を見せて横たわっていた。

「わ、結構釣れてんじゃん」
「でしょ」ミスティアが、誇らしげに歯を見せて笑う。
「ね、少しくらい分けてよ」
「だーめ。これから人里に売りに行くんだから」
「人里に?」私は眉をひそめる。何だって、わざわざそんなところに。
「ちょっとばかしお金が必要なのよ」
「ふぅん」妖怪にお金が必要な時なんて、あるのだろうか。それこそ、私みたいな奇特な状況に置かれないかぎり、そんな時なんて来ないような気がした。

 それから、二人はまた黙った。
 ミスティアは、釣りをする。
 私はここに来た目的も忘れて、ただそれを眺めていた。
 ミスティアが、それから二匹、川魚を釣り上げたとき、唐突に話し始めた。

「私はさ、この機会にちょっと商売やってみようと思って」
「はあ」

 あまりに唐突だったから、気の抜けた返事しかできない。
 ミスティアは構わず続けた。

「ほら、最近、人間を襲いづらくなったじゃん? 妖怪の賢者とかいう奴が、無闇に人を襲わないよう目を光らせてるしさ。やれ人間と妖怪のバランスとか、面倒くさい理屈こねくり回して」
「うん」私は、光を反射してきらめく水面を見ながら、相槌を打つ。
「だからさ、私はもっと別のことしようと思って。居酒屋まがいのことなんかしてみようかな、とか」
「なんでまた」
「うーんなんでだろ。強いて言えば、料理が好きだから、かな。なんか料理してると、他の誰かにも食べてもらいたくなるのよねえ」
「ふぅん」
「あと、暇だから。なんとなく」

 暇だから、なんとなく。
 それは何かを始めるときに、とても重要なことだ。
 暇だと何か酔狂なことをしたくなる。特に、妖怪みたいな長生きの存在は、暇になりがちで、とつぜん変なことをしたくなるのだ。
 私もきっとそれなんだろう。
 自分好みの人間を育てて食べるなんてことがどんなに割に合わないことだなんて、あの少女と暮らし始めて一日で、嫌というほど分かってる。
 つまり、私は暇だったのだ。

「人間相手に、さ」

 ミスティアの言葉に、私ははじかれたように顔を上げる。ミスティアの話はまだ続いていたらしい。
 私も人間のことを考えていた矢先だったから、その言葉に思わずどきっとする。

「人間相手に商売するの」
「なんでまた」
「人間のほうが舌が肥えてるからねー。料理のしがいがあるっていうかー? まあ、最近人間に興味が出てきた、っていうほうが大きいけどね」
「興味?」

 さっきから私は訊いてばかりだ、と思った。ミスティアは気にした風もなく続ける。

「うん。人間を襲わなくなってさ、私も考えたのよ。鳥頭なりに。人間ってなんだろうってさ。そう考えると、よく分からないよなー人間、って」

 妖怪は人間の想像から生み出される。
 妖怪と人間は、切っても切れない関係なのだ。それなのに妖怪は、人間を襲わねば生きていけない。生みの親を殺して、生きていくのだ。
 
「だから、今までにない新しい人間と妖怪の関係を模索する、ってわけ?」
「あはは、そこまで大それたこと考えてないって。そんなの、偉い妖怪たちが考えることでしょ。私はやっぱり、暇を持て余してるだけよ。何しよっかなーって考えた時に、人間のことが真っ先に頭に思い浮かんだだけ」
「ふうん」

 私は気の抜けたような返事をした。それきり、ミスティアも私も黙り込んだ。

 人間から妖怪が生まれたならば、結局、人間と妖怪はどこかでつながっているのだろうか。か細く、見えない糸のようなもので。あの少女が、今頃きっと私の帰りを待っているように。今、私が、何となく置いてきたあの少女のことが気になっているように。

 それからしばらく沈黙が流れた。
 その間に私は三回欠伸をし、ミスティアは二匹魚を釣った。

「さてと」
 釣った魚を魚籠に放り込むと、ミスティアは釣道具を片付け始めた。釣果は十分、ということだろうか。
 二つある籠の一方は、すでに釣った魚がひしめき合うように詰まっていた。ミスティアはおもむろに、空いている方の籠に、今しがた釣ったばかりの獲物を半分ほど移し始める。

「これ、あげる」

 ミスティアは、何を思ったかその籠をこちらに寄越した。
 見れば、中でびちびちと五匹、川魚が跳ねている。

「いいの?」
「うん、話聞いてくれたお礼」

 適当に相槌を打っていただけだったが、それでよかったのだろうか。私がそういうと、「いいんだよ」と照れ臭そうに笑った。

「なんかすっきりした。やるぞーって気になったしね」
「でも、商売道具なんでしょう」人里に持っていって売ると言っていた。
「もともとはそのつもりだったんだけどね。屋台買ったりする資金にしようと思って。あと、いざ料理屋をやる時に、何の料理をメインで出そうかなーっていう研究もかねて」
「魚料理がメインなの?」
「いや、川魚は微妙かなあ。今日の釣果はそこそこだけど、とれない日は全然とれないしね。もっと簡単にとれて、しかも人間がまだ目をつけてない食材ってないかねえ」

 そんなものが簡単に見つかるとも思わなかったが、「がんばってね」と声をかけておいた。我ながら無責任な言葉だと思う。

「じゃあ、本当にいいのね。これ」

 私は念を押す。後で返せといわれても、胃袋の中身は返せないのだ。

「いいのいいの。それじゃね」

 ミスティアはもう片方の魚籠を掴むと、釣竿を肩に担いで飛び立っていった。
 私はしばらく、籠の中の魚の白い腹を見ていたが、それを手に持ち家路を辿ることにした。
 それにしても、釣りというのはいい方法だ。
 少女の小さな胃袋を満たす分の魚ならば簡単に釣れそうだし、今度簡単な釣り竿を自作してみるのもいいかもしれない。そうすれば食材を手に入れつつ、食べきれない魚を人里に売って小金を稼ぎ、もっといい食材を手に入れることもできる。
 と、そこまで考えて、私はため息を吐く。
 私は、なんだってそこまでしなくてはいけないのだ。

「まあ、ずっと魚を食わせてればいいんだけど、それだと文句言いそうだしね」

 私は誰にでもなく言い訳すると、ふよふよ飛びながら家へと向かう。




四、

 少女の様子がおかしい。

 そのことに気が付いたのは、共同生活が始まってから六日目の朝だった。
 あとから思えば、前夜からその兆候はあったように思う。
 いつもより返答が遅かったり、心なしか足元がふらついていたり。でも、どちらも小さな兆しで、見逃してしまっても仕方なかった、と思う。
 

 私がいつものように、少女から遅れてベッドから這いだすと、台所で何か音がした。
 ごとり、という重いものが、地面に落ちる音。私は不審に思いながら、台所へと向かう。
 そこに、少女が倒れていた。

「どうしたの」

 私は少女に駆け寄る。頭を支えて抱き起した。

「あれ、ママ」
「うん、ママだよ。どうしたの」
「あれ、あれ」意識が朦朧としているらしい。心なしか、目の焦点も定まっていないように見えた。

 私は手のひらを少女の額に当ててみた。熱い。とんでもなく熱い。少女の体全体がかっかと熱を発している。
 人間について疎い私でも、これが異常事態であることはすぐに飲み込めた。

「よっと。歩ける?」

 私は少女に肩を貸しながら起き上がらせる。
 少女は自分の力で歩こうとするも、咳き込んでふらつき、倒れそうになった。私は背中からそれを支える。
 私はどうしたらいいか見当もつかない。とりあえず、少女を背負うと、ベッドに引き返し、寝かせて布団をかぶせた。

「とりあえず、寝てなさい。すぐに良くなるから」嘘を吐く。たぶん、寝ているだけでは治らない。
 それでも少女は、うんうんと頷くと素直に目を閉じる。
 本当に嘘に免疫のない子だ、と呆れる。

 さて、どうしたものか、と思案する。
 当然のことながら、人間の病気について私は何も知らない。妖怪は人間が罹るような病気にはならないのだ。
 つくづく、人間の体は不便だな、と改めて思う。
 一番いいのはもちろん、人間の医者に診てもらうことだろう。だが、そこには問題がいくつかあった。
 例えば金銭面。
 私は、病気を治すのにいったいいくらかかるのか知らない。少なくとも手元にある、釣った魚を売って得た小金程度では足りないだろうということは分かっている。
 そして、お金があったとして今度は、妖怪の私がどんな面をしてこの子を医者に連れて行くのか、という問題が残る。
 魚を売る程度ならば問題ないだろう。しかし医者に行くのは、小金を稼ぐのとは違う。
 幼い人間の子を、私のような似ても似つかない容姿の妖怪が連れて行ったとして、疑われるのは目に見えている。たとえ妖怪だとばれなくとも、二人を並べて親子だと思う人なんかいやしないのだ。

 私は、ベッドの上で寝ている少女を見下ろす。
 苦しそうに息を荒げ、ときどき咳き込んでいる。体調はやはり芳しくないようだ。

「暑い……」少女はうわ言のようにつぶやく。「暑いよ、ママ」
「暑いってったってねえ」

 私は考える。
 水でもぶっかけようか、とも思ったがそれが得策とはどうしても思えない。水を含ませた布で顔でも拭いてあげれば、体温が下がるだろうか。
 私は台所に向かうと、手拭いを水瓶の中に浸し、ぎゅうっと絞る。
 私は何をしているんだろう、と今更ながらに思ったが、それ以上考えるのが面倒くさい。
 私は適度に水分を絞り取った手拭いを手に、少女の元に戻る。
 依然として苦しそうに息をする少女の頬に、それを宛がった。

「ひゃっ」びくっ、と少女の体が跳ねる。
「あ、冷たかった?」私は反射的に手拭いを引っ込めた。
 少女はふるふると首を横に振る。「ううん。びっくりしただけ。気持ちいいよ」
「そう」私はほっと息を吐く。もう一度手拭いを、今度は首筋にそっと当てた。

 少女はくすぐったそうに体をよじる。
 私は少女の顔を、念入りに拭いていく。一通り拭き終わると、一番置きやすそうな額に、手拭いを置いてみた。
「冷たい」少女は笑う。

 しかし、あまり体調は良くなってはいないようだった。
 まだ肩で息をしているような状況だし、時折咳が混じっている。
 決断の時は迫って来ていた。

 正直、どちらでも良かった。
 このまま少女が死んでしまっても、私は一向に構わなかった。いっそ死ぬ前に食べてしまう、というのも一つの選択肢だった。あるいは、駄目元で医者に連れていって、運よく直れば、また少女を育てる生活に戻ることもできる。
 私はどっちに転がってもよかった。

「ねえ」

 私は少女の髪を何とはなしに梳きながら、問う。

「苦しい? お医者さんに行って、早く良くなりたい?」

 苦しいに決まっていた。早く良くなりたいに決まっていた。
 だけど、私は訊いた。何とはなしに、気まぐれに、だ。
 少女はしかし、私の予想外の言葉を吐いた。

「ううん、へいきだよ。私、苦しくないよ」

 どの口がそれを言うのか。
 私は呆れた。この少女の言動には呆れてばかりだが、このときばかりは本当に呆れた。
 誰が見ても、それは明らかな嘘だった。

「嘘つき」私は、少女の額をつつく。

 嘘を吐いて、相手を煙にまけ。
 そう言ったのは確かに私だ。だけど、こんなときに嘘なんか、吐くもんじゃない。彼女の心の中で、彼女に下手な嘘を吐かせたのは、いったい何だ。

 よし、決めた。
 私は少女の手をとる。少女はぼんやりと私を見ていた。

「お医者さんに行こう」

 妖怪が人間を連れて行くなんて、何を言われるか分かったもんじゃない。
 それでも、少女の嘘を聞いたら、連れて行かなくてはいけないような気になっていた。


 * * *


 私は一時間かけて人里へと辿り着いた。
 普段なら空を飛んですぐに来られるのだが、少女が一緒ならば別だった。私は、少女にとっては母親であり、変哲のない人間なのだ。空を飛ぶわけにはいかない。私は少女を背負いながら、できるだけ足早に人里の門をくぐり抜けた。

「すみません。お医者さんはどこですか」

 私は、道を行く人の中から、出来るだけ親切そうな女性を選んで声をかける。空の買い物籠を腕に下げているところを見るに、これから買い物に行くのだろう。

「あら、どうしたの?」

 女性は足を止め、やや屈むようにして私に目線を合わせる。
 私は、少女の持ってきた服の一つである、帽子がくっついた服を着ていた(パーカーというらしい)。
 金髪の私が黒髪の少女を連れていたら、怪しまれるだろう、という苦肉の策だ。少女と私で、そこまで背格好が変わらないことが幸いした。しかし、目深に帽子(フードというらしい)を被った格好もそれなりに怪しいため、あまり効果もないように思える。
 女性は私を一瞥し、訝しむように眉をひそめる。しかし、私の背中に負ぶさった少女を見るにつけ、のっぴきならない状況だということを悟ったらしい。すぐに親切な女性の顔つきに戻った。

「あら、大変! お医者様に診てもらわなきゃ」
「はい」だから、そう言ってるじゃないか。「あの、場所を」
「一番近いところなら、そうね……。伊助さんのところかしら。ちょっと分かりにくいところにあるから、私が案内するわ」
「ありがとう」私は軽く頭を下げる。少女の脱力した体が、がくんと揺れた。
 少女との関係を訊かれなかったのはありがたかった。私は、小走りで先導する女性のあとを追った。


 * * *


 伊助、という医者の家はずいぶんと古びていた。
 よく言えば昔から開業している、由緒ある家柄ということなのだろうが、どちらかと言えば不安感のほうが強く、出来るなら罹りたくない類の病院だ。
 しかし、今更四の五の言っていられるはずもなく、女性のあんなに勧められるままに戸を叩く。

「はいはい、なんだね」

 奥から出てきたのは、だいぶ歳を召した男だった。家がおんぼろなら、中身もおんぼろか。こんな男に、果たして少女が治せるのか、不安になる。

「はい、あのこの子の体調がすぐれないようで」

 私が口を出すよりも先に、道案内してくれた女性が説明する。ずいぶん世話焼きな女性だ。もっとも、この状況で話を勝手に進めてくれるのはありがたかった。

「ふむ、上がんなさい」

 老医師はそう言うと、奥に引っ込んでいく。私は慌てて靴を脱ぎ、少女の靴を脱がせる。

「あとは伊助さんの話に従ってね。少しお歳だけど、腕は確かだから」

 どうやら女性はここでお別れらしい。
「うん、ありがとう」私は礼を言い、老医師のあとを追った。


 少女の診療を終える。
 少女は畳に敷かれた布団の上で寝息を立てていた。老医師の処方した薬を飲んでからは、見違えるように顔色が良くなってきた気がする。峠は越えた、ということか。
 腕は確かというのは本当らしい。
「風邪と、肺の方が少しやられておったよ。手遅れになっていたら危なかったかもしれん」

 老医師は、診察に使った器具をしまいながら、言う。
 私は出来るだけ殊勝に見えるよう、神妙に頭を下げ、礼を言った。

「ところでその、お代のほうは」

 私は申し訳なさそうな声色で言う。
 我ながら診療が終わったこのタイミングで言いだすのは卑怯だと思ったが、背に腹は代えられない。いざとなったら情に訴えかけて、タダにでもしてもらえばいい。人間が情に弱いのは知っていた。
 老医師は、腫れぼったいような垂れ下がったまぶたの下から、こちらを睨んだ。
 品定めするような目だ。私の何かを、訝しんでいる。
 私は被せるように続ける。

「あの、実は今、持ち合わせがなくて。後で必ず払いますから」

 私は情に訴えかけるように、老医師を上目づかいで見つめる。
 目と目が合う。年老いたくせに、眼光だけはぎらりとしていて不気味だった。

「別に、お前さんのような幼子から大金を巻き上げるつもりはないよ。それよりも」

 老医師は診療器具を片付け終えると、膝をこちらに向けて座り直す。

「お前さん、変わった目の色をしてるな」

 はっ、と思い、目を逸らす。逸らしてから失策だった、と気付いた。
 ここで目を逸らしたら、自分が怪しい奴だと明言しているようなものだ。
 髪の色はフードで隠せばいいと思った。背格好が似ているなら、姉妹で通せると思った。
 しかし、目の色は、明らかに違う。
 少女は黒。私は、血のような赤だ。姉妹で通すのは難しい。
 顔を伏せた私に対し、老医師はつまらなそうに鼻を鳴らす。

「あんたが何者かなんて、私は興味ないがね。私はここに来た患者さんを治すだけだ。ただ――」

 老医師はそこで話を止める。ふうっと長く息を吐いた。沈黙が長く感じられた。

「この娘にどんな生活をしていたのか、それが知りたいね」

 私は、伏せていた顔を上げる。
 老医師は、そのぎらりとした目線をこちらに向けて、あぐらをかいていた。

「どんな、と言われても」
「例えば、栄養のあるものを、バランスよく食べさせていたかね」

 栄養。バランス。
 考えたことがなかった。
 ただ、適当に腹を膨らませることだけを考えていた。昨日は一日魚だったし、その前は魚を売ったお金で買った肉だった。
 少女は、文句も言わずそれを食べていた。
 ふん、と老医師は鼻を鳴らす。

「この子は、肺もやられておった。つまり、あまり綺麗なところで暮らせていないということじゃないかね」

 続けて、老医師は糾弾する。
 思い当たる節は多すぎた。
 第一、魔法の森という場所自体が、化物キノコの胞子が年中舞うような場所だ。私たちの住む家は、ぽっかりと開けて森の中でも日当たりがよく、キノコもあまり生えていなかったが、それでも年端もいかない少女の肺を痛めるには十分だったのだろう。
 ろくに掃除もしていないのも原因だろう。
 確か、あの家に住みだしてから、まともに掃除をしたことなんてあっただろうか。掃除していない埃の積もった部屋での生活は、どれだけ少女にとって過酷だったのだろうか。

 私は何も知らなかった。
 少女が、人間というものが、どれほど頼りなく、面倒くさい存在であるか。

 ちらりと寝ている少女のほうを見やる。
 安らかな表情で寝入っていた。少女の寝息に合わせて、少女の胸のあたりが上下するのが見て取れた。それはあまりにも小さい、生命の営みに思えた。

「お前さんたちが、どういう生活を送っているのかは知らん。お前さんたちの親御さんが、どういう考えを持っているのか」

 老医師は、あごに生えた白髪の無精ひげをなでながら言う。
「親御さん」。私たちは、複雑な家庭の姉妹だと思われているのだろうか。妖怪だとまだ悟られていないのはありがたかった。安堵する。
 しかし、安心したのもつかの間だった。次の老医師の発言は、また私を凍りつかせた。

「この子は、しばらくうちで引き取ろう」

 驚いて、顔を上げる。何を言っているのだ、この男は。
 老医師は、あごを撫でながら、少女の方へ目を向ける。

「この様態を見る限り、とてもこの子が暮らしていけるような環境じゃあるまいに。この子の命を守るために、私はしばらくこの子の身柄を引き取る。親御さんには私があとで話を通そう」
「何を、言ってるの」何を身勝手なことを。
「もちろん、親から子を取り上げるというのは横暴だと思っておる。だが、場合が場合じゃろう。このままこの子を帰したとして、この子がさらに重い病に罹ることは目に見えておる。少しの間だけ、距離をとるのも一つの策じゃと言っておるのじゃ」
「ダメ」

 駄目だ。ここで詳しく少女のことを調べられたら、私たちの関係がばれてしまう。それだけは避けなければ。

「妹と離れるのが嫌なのは分かる。だがな」

 老医師が、少女の髪を撫でる。
 突然、その行為がとても汚らわしいものに見えた。私が育てた大事なもの、それに唾をつけるような行為に見えた。
 私のものを横取りする、ハイエナのように見えた。

「ふざけるな。このジジイ」

 瞬間、私の体の奥から、怒りが噴出した。
 それは、私の物だ。それは、私が育てた物だ。ジジイに横からとられてたまるか。

「ひっ」

 老医師が、小さく喉を鳴らす。
 いつの間にかフードは取れていた。
 私の体から立ち上る妖気に、金色の髪がゆらゆらとたなびく。ぞわり、とおさえようもない怒気が、足元から闇となって噴出した。
 精一杯の目力を込めて、私は老医師を睨む。
 きっと私の瞳は、炎のように赤く滾っているだろう。老医師は顔を引きつらせると、私から後ずさりして距離をとった。

 私は、その瞬間、愉悦を感じた。

 そうだ。これだ、人間を恐怖に陥れる感覚は。
 人間を襲うのをやめてから、ずっと忘れられていた感覚。
 欲望に任せて人を襲い、恐怖に歪む顔を見ながら、喉笛にくらいつく。あの甘美な感情。それを思い出していた。
 怒りが引き、徐々に私の体を欲望が支配する。
 老いぼれの身体なんて、食べるところなどほとんどないだろう。だが、その精神は格別だ。死を前にした恐怖は、格別な調味料となって美味しさを引き立てていく。
 この、恐怖に囚われて震える老人を食らい尽くしたら、どれだけ美味しいだろう――。

「美味しくないよ」

 その声に、我に返る。
 私は声のした方に目をやる。
 少女が、布団から這いだして、私の方へその白く細い手を伸ばしていた。

「美味しくないよ。そのお爺ちゃんは美味しくない」

 ふるふると震えながら、涙声で必死に訴える。
 美味しくない。食べない方がいい、と。

 ――『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。

 いつかの声が、頭の中にフラッシュバックした。
 あれは、私が、少女に言った言葉だ。食べられたくないなら、嘘を吐け、と。あんな下らない忠告を、この少女は守っているのだ。
 美味しくない、という必死の嘘を吐いたのだ。

 なんだ、嘘つけるんじゃん。
 嘘も吐けないような小娘だったくせに。

 私は急速にやる気を失っていた。
 残ったのは、ただめんどくさい、といういつもの気怠い気持ちだった。
 私はゆっくりと立ち上がる。「ひっ」と老医師が引き攣った悲鳴を上げたが、もうそれも気にならなかった。

「かえろ」

 私は、少女へ手を伸ばす。
 帰ろう。私たちの家に。埃の積もった汚い家に。
 少女は弱々しく頷くと、その手を嬉しそうにとった。


 
 
五、

 それから、十日くらい経った。
 あれ以来少女は病気にかかることもなく、元気に過ごしていた。
 私は今までよりも健康に気を使うようになった。晴れた日には布団を干して部屋中を掃除したし、食事の栄養バランスについてもミスティアに聞いて知識を得て、魚と、食べられる野草やキノコ(これもミスティアに訊いたのだ)を組み合わせて食事を作るようになった。
 そうしていると、ときどき、面倒くさい、という言葉が頭をよぎる。
 少女と一緒に、皮に釣り糸を垂らしているとき、手拭いで懸命にテーブルを拭いているとき、布団を干しているとき。
 面倒くさい、私は何やってんだ、という声が頭に響くのだ。
 でもだからなんだ、とも思う。それなりに楽しいからいいじゃん? と。
 そうやって、私たちの奇妙な生活も軌道に乗り始めていた。

 でも、始まりが唐突ならば、終わりも唐突で。
 気づかないうちに、この生活の終わりはすぐそこまで来ていたのだ。具体的に言えば、この家の、ドアの前まで。


 * * *


 夜中。
 私と少女が、台所のテーブルで向かい合って座って話していると、こんこん、とノックの音が聞こえた。
 こんな時間に、こんな場所に用がある人がいるとは思えなかった。私は、少女と目を見合わせる。
 何となく、嫌な予感がした。

「ママ」
 
 不安そうに、少女が声を上げる。嫌な予感は、少女にも伝播したのだろうか。

「あんたは先に寝てなさい。ママが出てくるから」

 そう言って、私は少女を一足先にベッドに向かわせる。少女は不安げにドアのところで一度振り返り、寝室に引っ込んでいった。

「さてと、何が出るかなあ」

 鬼が出るか蛇が出るか。
 少なくとも、いいことは無さそうだ、と思う。


「ごきげんよう。宵闇さん」
「あー」
 私は家から出ると、それに対峙した。そして思う。
 鬼や蛇のほうがよっぽどましだったんじゃないか、と。
 紫色した、ごちゃごちゃした装飾の悪趣味なドレス。フリルのついたナイトキャップみたいな帽子。赤いリボンをあしらった、かわいらしい紫色の傘。優美な扇子。そして、これ以上ない、妖艶な笑み。
 妖怪の賢者、幻想郷のとりまとめ役。

「八雲紫さん、かしら?」
「あら、私の名前を知っていてくださるなんて、光栄ですわ」ふわり、と笑う。胡散臭い、と思う。
「まあ、有名人だし」

 これ以上有名な妖怪もいないのではないか、と思う。
 幻想郷を管理する大妖怪の一人で、外と内を区切る境界を敷いたのも彼女だ。少なくとも私には及びもつかないほどの強力なパワーを持つ大妖怪。

「あらそう? 有名すぎるのも困りものね」

 妖艶に笑う。
 直接対峙したのは初めてだけれど、掴みどころがなくて話しづらい、というのが感想だった。

「で、何の用? 私、忙しいんだけど」

 私は彼女から目線を外しながら言う。
 視界の端で、紫がにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「子育てで、ですか」
「――っ」

 どこまで知っているのだ、この妖怪は。
 私の背中に冷や汗が流れた。
 しかし、かといって紫を怒らせるようなことをした覚えはない。外から来た人間を襲うことは、ルール上問題はないはずだ。咎められる言われはない。
 大丈夫だ、と言い聞かせる。
 しかし、紫からにじみ出る謎の圧力は、私の動悸を加速させる。

「私、あなたのお子さんに用があるの」
「私に子どもなんていないけど」駄目元で白を切る。
「あらあら。お医者さんの一件、私知ってますのよ」

 紫はにやにやと笑う。お医者さんの一件、とはあの、老医師を食べ損ねたあの事件のことだろう。こちらのカードは全てお見通しのようだった。
 私は奥歯を噛みしめ、うつむく。
 何のつもりで紫がここに訪れたのかは知らないが、いい方向にはいかないだろうという予感がする。
 黙り込んだ私に対し、紫は語り始める。

「その子はね。もともと私が目をつけていたの。ご存じのとおりその子は、外から来たいわゆる外来人ですけど、私は外の世界にいたときから欲しいと思っていたのよ」
「何のために」
「何のため? 愚問ですね。もちろん、次代の博麗の巫女の候補として、ですわ」
「博麗の巫女」

 私は、いつか見た巫女の姿を脳裏に描く。
 腰まである黒髪。紅白の巫女服。遠目に見ただけだったが、以前見たときには代替わりするような歳ではなかった気がする。
 私がそういうと、紫は全てを見透かしたように微笑む。

「以前? 以前っていつですか? 何年前?」

 その言葉に、私ははっとする。
 妖怪の時間感覚と人間の一生を、改めて考える。
 私たちの「以前」なんて、人間で言う「昔」なのだ。巫女を見たのは、それこそ何十年も前だったのではないか。
 人間は、私がまばたきする間に、老いて死んでいく。

「今の巫女も、もうお婆ちゃん。ずいぶんよくやってくれましたが、そろそろ休ませてあげたいの。それで、新しい巫女となる子を探していたんだけど、そこで」

 翻していた扇子を閉じて、私の背後の家を指す。
 正確には、家の中で眠る少女を。

「見つけたのよ。巫女に相応しい素質を持つ少女」

 もちろん外の世界でね、と紫は付け足しながら、笑う。
 なおも黙り込む私に、とうとうと語り始める。

「少々、その子の生い立ちについてお話ししましょうか」

 紫は、回想するように目を閉じて、歩きはじめた。私は、黙って聴いている。

「その子は、孤児でした。物心がつく前に両親は離婚し、育児放棄。押し付けられるようにして叔父の家に預けられました。しかし、その叔父の家もひどくてねえ。ことあるごとに理由もなくその子を叱りつけ、食事もろくに与えていなかったの。暴力こそなかったものの――いえ、だからこそ余計に他人が付け入れなかったのですが――その子の扱いは、虐待に近かった。ええ、私がその子を見つけたときはもうひどい状況で」

 私は思い出す。
 少女のか細い腕。青白い肌。こちらを窺う、不安げな瞳。

「出来る限り私は外の世界には干渉しないように考えていたのですが、その子の場合は話が別でした。そう、素質があった。八つの歳ながら純粋で穢れを知らない精神、不思議な勘の強さ、生真面目さ、そして持って産まれた優れた霊力」

 私は、少女と会ったあの夜のことを思いだす。
 少女は、暗闇の中、私の位置をぴたりと把握し、声をかけたのではなかった。あれが、勘の強さや、持って産まれた不思議な力によるものだとしたら。

「ただし、誤算が一つありました。私がこっちへ招き入れる準備をしているうちに、その子は自分の力で幻想郷の結界を越えてきてしまったんです。ええ、驚きました。ただの少女が、簡単に越えられるはずもありませんから。あとから聞いた話によると、彼女はその日――結界を越えた日、どうやら施設へ入れられる予定だったそうですね。叔父とその子を見かねた知人が、その子を施設へ連れて行く予定だったとか」

 シセツ、というのがどういうものかというのは分からなかった。が、それは何となく、白い監獄のようなものを想起させた。
 そして、そうか、と私は納得する。あのリュック。
 あれはどこかに遠出するためのものだ。シセツに向かうために、誰かが持たせたのだろう。

「思えば、その所為かもしれません。叔父という繋がりと、施設という繋がり、どちらにも属さない宙ぶらりんの状態。そんな状態と少女の持って産まれた力が、幻想郷に呼び寄せたのかもしれません。幻想郷は、何にも属さなくなった、忘れられたものが辿り着く場所ですから」

 紫は話し終えると、歩みを止めた。私は紫を見据える。

「長話が過ぎたようですね。じゃあ、用件を言いましょう。その子を私に下さいな」
「いやだ、と言ったら」私は悪あがきをする。どうせ、力ではかなわないとは分かっていた。
「あらら、困っちゃうわねー」

 まるで困って無さそうな声色で、紫は微笑む。
 最終的には力ずくで取り戻せばいい、という心づもりなのだろう。完全に主導権はあちらにあった。

「うーん、荒っぽいのは嫌いなのよねえ。どうしたものかしら」

 嘘を吐け。
 どうせ、私を倒すくらい、赤子の手を捻るようなものだ、と考えてるくせに。

「そうですね。出来るだけ穏便に、話し合いで決着をつけましょう。ね」

 これだけ力量差がはっきりしている中で、対等な話し合いなんて出来るはずもなかったが、私は頷く。
 それを確認すると、紫は嬉しそうに微笑む。

「そうね。ずばり訊くけれど。何故その子を引き渡すのが嫌なのかしら」
「何故って、それは」

 それは――何故だろう?

 私は、今一度自分の胸に問いかけてみる。
 私は引き渡すのが嫌だと感じた。こんな奴に少女を引き渡すなんて、ごめんだと。しかし、それはあくまで理不尽な紫の態度が気に食わないから、反抗してやろうというだけであって、少女と離れたくない云々とは別の感情だ。
 じゃあ、と私は、少女と離れてもいいと思っているのか。
 離れたくないと泣いてすがるほど、私は少女に情が移ったのか。
 このたった数日で?

 馬鹿らしい、と思った。

 最初は、少女を育てて、食べるつもりだった。
 肉付きを良くし、適度に感情を植え付け、妖怪に対する恐怖心を覚えさせ、美味しくいただく。
 でも、途中でそれのとてつもない効率の悪さに嫌気がさしたはずだ。それでも辞めなかったのは何故だ。

 面白かったからだ。
 人間に興味がある、とミスティアは言った。
 ならば、私も同じだ。人間に興味が湧いた。だから手を焼いて世話をした。割に合わないと思いながらも、一緒に暮らした。
 でもそれは、遊びと同じじゃないか。
 そう思った瞬間、急速に気持ちが覚めていった。
 そうだ、最初からなんとなくの暇つぶしだった。それがちょっとおかしな方向に行ってしまっただけのこと。結局どこまで行っても暇つぶしなんだから、あー楽しかった、でいつか終えなくてはいけない。

「あーあ、面倒くさーい」

 私は大きく伸びをする。
 紫は、突然の行動に、呆気にとられていた。

「いーよ。勝手に連れていっても。本当なら食べてしまいたかったけど、そんなこと言ったらあんたに殺されそうだし」
「えーと、急にどうしたの?」さすがの紫も、この変わりようには驚いたらしい。
「なんか、急に馬鹿らしくなっちゃった。何でこんなのに執着してたんだろーって。もともと、妖怪と人間っていう、相容れない存在なのにさ」
「そう」

 紫は、目を伏せる。少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


 * * *


 私は手ごろな木の枝に腰をかけて、欠けた月を見上げていた。
 少女と出会ったのが新月だったから、別れるまで一月も経っていないことになる。長いようで短かったな、とぼんやり思う。

「ママ?」

 声がする。もう聞きなれてしまった声。
 私は仕方なく、木の枝から飛び降りると、地面に着地する。軽く三メートルはあった落差を軽々と飛んでみせた母親に、少女は目を白黒させる。
 少女のほうを見る。
 少女は、紫に肩を支えられるようにして立っていた。

「ずいぶんとアクロバティックなことをするのね。人間って言う嘘、突き通すつもりはなかったの」
「別に」ぶっきらぼうに私は答える。

 私は、少女にすたすたと近づくと、目線を合わせるように中腰になった。

「あのね。私、実はあんたの母親じゃないの」

 感慨もなく、そう言った。
 少女は目をぱちくりさせる。今の今まで信じていたのだろう、その嘘を。
 馬鹿らしいと思った。
 こんな小柄な母親がいるものか。子供と全く違う髪の色と目の色の母親がいるものか。

「あなたは母親ってどんなのか、知らないから無理もないかもしれないけどね。母親ってもっと、大きくて、立派で、優しいのよ。それでいて暖かいの」
「ねえ、嘘でしょ、ママ」
「そう嘘だったのよ。ぜんぶ」私は、少女の頭を撫でながら諭す。

「私がママだっていうのも嘘」「私が人間だっていうのも嘘」「私があなたを愛してるみたいにふるまっていたのも全部嘘」

 私は、一気にまくし立てた。
 その間に、少女の目からは堰を切ったように涙が溢れていた。訳が分からないなりに、ひどいことを言われているのは感じているのだろう。

「なんで、ママ。ママ、分からないよ。ママ」

 うわ言のように言いながら泣きじゃくる。少女は私のスカートを必死で握りしめて、私を離すまいとしていた。
 私は、はあ、とため息を吐く。ほんと、面倒くさい。

「ねえ。私と離れたくない?」

 私が少女に尋ねる。
 少女はその言葉に、こくこくと壊れた人形のように何度も頷いた。

「と、こう申しておりますが」

 ささやかな抵抗とばかりに紫に言ってみる。やはり、無償で引き渡すのは癪に思えた。

「ご心配いりませんわ」

 紫は待ってましたとばかりに、空間に裂け目を作り出すと(これが彼女の能力らしい)そこから赤い布を取り出した。

「八雲紫謹製、封印のリボン。特殊な魔術をかけられた糸で編んだ特別製ですわ。これを身に着けて生活するだけで、あら不思議、悲しい思い出もたちどころに忘れられるという逸品」
「うわ、えげつない」

 記憶を消すのか。私はげんなりする。
 紫は、泣きじゃくる少女の頭に、それをちょんと乗っけてみせた。
 黒い髪に、大きなリボンの赤と、あしらわれたフリルの白が映えた。なるほど、似合うな、と場違いなことを考えた。
 紫はそこで、少し悲しそうな顔をする。

「私だって、本当はこんなことしたくないわ。だけど、ね。分かるでしょう?」

 確かに、思い出を引きずって生きることは、少女にとって過酷なことだろう、と思う。
 私と暮らしていたときよりも、紫に引き取られてからのほうが裕福な暮らしになるだろうというのは想像がついた。
 ならば、私との生活の記憶など、ないほうが彼女の為なのだ。

「そして、あなたの分も用意してありますわ」

 じゃーん、と言いながら空間の裂け目から取り出されたのは、少女と同じリボンだった。
 いや、一回り小さいし、フリルもあしらわれていない。これは、リボンというよりも――

「御札、じゃない? これ」
「あら、わかっちゃいます?」うふふ、と口元を隠して紫が優雅に笑う。少女の分はあっても、私の分は用意していなかったらしい。

「まあ、確かに御札に色を塗っただけのものですけど、これもすごいのよ? つけているだけで、それまでの記憶を封印出来ちゃうの」
「それを私につけるの? 必要なくない?」
「必要大ありです。思った以上に二人が互いに入れ込んでるみたいですし。博麗の巫女として育ってもらう以上、必要以上の妖怪とのなれ合いは、ないほうが好ましいの。まあ、ほら、あなたの金髪には映えるんじゃない? ワンポイントのアクセントとして。赤い御札リボン。ほら」

 隙を見て、紫が私の髪にリボンを結びつける。

「うわ、こら勝手につけるな!」
「大丈夫よ。そんなにすぐには効いてこないから。明日の朝くらいまで、記憶の封印には猶予があるわ」

 言いながら、紫は少女の髪にもリボンを結んだ。
 御札リボンと違い、こちらはずいぶんと大きい。頭よりも大きいくらいだった。
 私は、リボンに手を伸ばす。しかし、触ろうとした瞬間、バチっと電流が走るような感覚があった。

「いつっ! なにこれ、触れないんだけど!」
「そりゃ、私謹製の封印ですから、簡単には取れませんよ。勝手に外されたら困りますしね」

 全く、余計なことをしてくれたものだ。私はため息を吐いた。
 下を見る。
 依然として、少女は私のスカートを掴み泣きじゃくっている。
 その頭を撫でてやった。すると、少女はいったん泣き止み、不安げな瞳を私に向けた。

 私はしゃがみこんで、少女と目線を合わせた。
 これが、最後の会話になるだろう、という予感があった。
 しかし、何をしゃべっていいのか、思いつかなかった。
 別れの言葉? それとも、楽しかったよと言って抱きしめる?
 どちらも、このへんてこな共同生活を締めくくるにはふさわしくない気がした。
 うーん、とひとしきり悩み、あまり纏まっていない思考のまましゃべり始める。

「ね、覚えてる。怖い妖怪に出会ったときの対処法」

 少女はきょとんとしたが、おずおずと喋りはじめる。

「美味しくないって、言わなきゃダメ」
「そう。私は美味しくないですよ、って言わなきゃダメ。純真な子は妖怪にすぐに食べられちゃうから、嘘を吐かないとダメ。私は美味しくない、苦いすっぱいってね」
「うん」少女は、神妙な顔で頷く。

 いつか、この少女が大きくなったら。
 いつか見た博麗の巫女のように美味しそうに育ったら。
 そうしたら、私が食べに行ってやろう、と思う。もちろん、博麗の巫女なんて食べたら、紫がかんかんに怒るだろうけど、知ったこっちゃない。
 きっとこの子は、紫に殺されても後悔しないような、美味しい果実に育つ。予感がした。

 だからそれまで、食べられるな。私以外の妖怪に。
 私以外の妖怪に、美味しい果実であることを見破られてはいけないのだ。

 このやり取りも、二人の記憶から消え去るんだろう。
 だけど、ほんの少し、一欠けらでもいいからどちらかの無意識の底に沈殿してくれればいい、と思った。

 よし。もう言い残すことはない。
 だけど最後に。

「愛してるわ、我が娘」

 そう言って、抱きしめてやった。
 もちろん嘘だった。愛してもいないし、娘だと思ったこともない。
 だけど、嘘で始まった関係なら、最後も嘘で閉じても、罰は当たらないんじゃないだろうか。
 少女のぬくもりを感じながら、結局ちゃんと抱きしめてやるなんてこれが初めてだな、と思った。


 * * *


「じゃあ、これで」
「うん」
 少女をおんぶした紫との、簡素なやりとり。
 少女は泣きつかれたのか眠ってしまっている。いつもならもう寝ている時間だから、無理もない。
 紫の背後には、空間の裂け目がぱっくりと口を開けていた。紫をまるまる飲み込んでしまうくらいの大きさはある。きっと、それを潜り抜ければいろんな場所へ一瞬でワープできるのだろう。想像するだにとんでもない能力だ。

「そうそう」紫は片足を裂け目に掛けながら、思い出したように言う。「ひとつ、あなたに言って置きたいことがあります」
「なに?」
「これからの、人間と妖怪の在り方について。今までは、人間と妖怪のバランスの観点から、妖怪に人間を襲わせることを全面的に禁止していました。ですが、当然これは反発が大きかった。なのでこれから上手い策を考えるつもりです。人間も妖怪も楽しく暮らせる方法を」
「楽しく暮らせる方法?」
「そう。人間を守り、かつ妖怪も自由に人間を襲える策。まだ試作段階ですが、もう少しで実用的になりますよ」
「なんか、嘘くさいなあ」

 そんな簡単に、人間と妖怪が両立できるものだろうか。
 紫は、くすりと笑って続ける。

「嘘じゃないわ。まあ、さすがにあなたたちのように人間と妖怪が一つ屋根の下で暮らす、というのはなかなか難しいかもしれませんが。でも、きっと近いうちに実現する。約束するわ。今よりももっと素敵な、人間と妖怪の関係を作る」

 この子と力を合わせてね。
 紫は、背負った少女頭を、愛おしそうに撫でる。

「ふーん。ま、期待しないで待ってるよ」
「ええ」

 紫はたおやかに笑うと、空間の隙間に体を滑り込ませる。
 これで終わりか、とぼんやり思う。まだ、言い足りないことはなかったっけか。

「あのさ」

 私は、あまり考えもせずに、喋り出していた。

「私もひとつ、言って置きたいことがあるよ」

 紫は振り返らなかった。しかし、空間の裂け目を閉じずに、じっと立っている。

「あんた、博麗の巫女の資質ってやつのひとつに、生真面目さっていうのをあげたけどさ。その子にそれを求めてるんなら見当違いだからね」
「へえ?」

 興味深げに、紫が振り返る。

「その子はぐーたらなのさ。今までの環境では、生真面目にふるまうことしかできなかっただけ。本当は、面倒くさがりだよ。私と同じように」

 私は振り返る。
 少女との日々。
 短い中でいろいろあったけれど、一番に浮かんでくるのは、毎日、布団の中でごろごろしていたことだ。私と少女は、何をするでもなく一日ごろごろしていたことだってあるんだ。どうだ。
 紫は、淡々と返す。

「そうですか。ご心配には及びません。八雲式教育で、すぐに真面目な子に戻してみせますわ」
「無理だね。私には分かる。その子は将来ものぐさになる」

 紫は、何故か面白そうに笑った。そして、音もなく、空間の隙間は閉じた。




六、

 ――あ。
 ――おっ。
 ――ミスティアじゃん、何してんのさ、こんなところで。
 ――私は、山菜採り。採って人里で売るの。ちょっと入り用で。それよりルーミアこそ、ここで何やってんの。
 ――散歩。なんとなく。
 ――新月に?
 ――そう。
 ――ふーん、別にいいけど。


 ――私さ、ウナギ屋になるかも。
 ――へえ。
 ――ヤツメウナギって知ってる? 食べると目が良く見えるようになるってウナギなんだけど。
 ――うん。
 ――それ使って商売できないかなって。私の歌で鳥目にして、私のウナギで視力回復させるの。ね、面白いアイデアじゃない?
 ――それって詐欺じゃないの?
 ――えー、そんなことないって。
 ――それに、お金が必要なの?
 ――そ、屋台が欲しくてねー。自分で作るわけにもいかないし。今必死こいてお金溜めてる最中。


 ――私はさ。
 ――うんうん。
 ――前から新月の夜、散歩するの好きなんだよね。暗くて静かだし。
 ――うん。
 ――面白い発見もあるしね。
 ――発見?
 ――そう。例えば――
 ――例えば?
 ――いい例は思いつかないけど、とにかく、何かが見つかりそうな気がするの。
 ――なにそれ、わけわかんない。
 ――うん、ほんと、わけわかんない。









エピローグ

 ねぐらにしている古木の空洞から這い出ると、私は目を丸くした。
 あたり一面、真っ赤な霧に覆われていたのだ。
 私は空を飛んで、森を上から一望してみる。するとどうだ、森が霧にすっぽり包まれ、真っ赤に染まっているではないか。いや、森だけじゃない。その先の人里へつづく道も、人里も、竹林も、神社も、幻想郷全てが紅い霧に覆われていた。
 なんだこれは、と思う。誰がこんなことを。
 私はそうしているうちに、なんだか体の奥から力が湧いてくるように感じた。どうやらこの霧は妖霧でもあるようで、妖怪である私の力を増幅してくれているようだ。
 これはいい。
 私は胸いっぱいに、霧を吸い込む。気分が高揚していく。なんでもできそうな気分になる。

 そして、久しぶりに、人間を襲いたくなった。

 私は微笑む。
 一時期は妖怪は人間を襲ってはいけない、という面倒くさいルールがあった。しかし、つい最近、スペルカードルールというものが施行され、人を合法的に襲えるようになったのだ。それを使えば、人間と妖怪が対等になれ、決闘できるとして。
 私はうきうきした気分で森の上を飛び回る。行き先は決めていない。とにかく、目についた人間を襲いたい気分だった。

 そのとき、とある人影が目に映った。
 宵闇に溶けるような黒髪、大きな紅いリボン、紅白の巫女服。間違いない、あれは博麗の巫女だ。紅い霧を突っ切るように、まっすぐに飛んでいる。
 私はほくそ笑む。
 スペルカードルールにのっとれば、博麗の巫女にだって、堂々と襲い掛かれるのだ。
 私は、彼女に近づく。彼女は、私の姿を認めるとスピードを殺して止まった。
 二人対峙して、空中で睨み合う。
 私は彼女を見る。彼女も私を見る。
 愉快になって、手を大きく横に広げた。
 そして、私は彼女に問う。


「目の前が取って食べれる人類?」



















 ――目の前が取って食べれる人類?





『嘘を一滴、宵闇に溶かして』







一、

 私たち妖怪は夜目が利くと言うけれど、森の中、落ちている人間を見つけたのはさすがに初めてだった。

 私は、鼻歌を歌いながら森の中を散歩していた。春先、日が沈んで半刻の宵の口のことである。
 その日は新月で、日が落ちると、あたりはすぐに暗くなった。そうなるとただでさえ薄暗い森の中は暗さの二乗で、もう真っ暗だ。といっても私は妖怪で、しかも宵闇の妖怪だから、その程度の暗さは屁でもない。私は調子はずれの鼻歌を歌い、スキップするような足取りで森の中を進んでいた。
 大抵の妖怪は月の光が大好きだから、新月の夜になると静かになる。
 私も妖怪だから本来は自分のねぐらで閉じこもっている方が正しいのかもしれないけれど、私は変わり者だった。騒がしい月明かりの夜よりも、静かな暗い夜の方が好きなのだ。新月の、静謐な夜。妖怪も、それ以外の動植物も息をひそめて眠っているみたいに沈んだ夜。そんな夜を選んで私は散歩に出ていた。

 しばらく上機嫌で草を踏みしめて歩いていると、遠くに何か落ちているのを見つけた。
 向こうの茂みの中に、何かそれなりの大きさの物が、地面に横たわっている。
 野犬の死骸か何かだろうか。私は何となく、それに近づいてみた。
 近寄ってみると、それが野犬ではないことに気づいた。人の形をしていたのだ。見た感じ、妖怪には見えない。だとすると、人間だ。

「なんだってこんなところに」

 私は驚きながら、倒れた少女をまじまじと観察した。
 まず目についたのは、腰まである黒く長い髪だった。流れるようなその黒髪は、まるで闇に溶けてしまうみたいに見えた。
 そして、見たことのない長そでの服とスカート。その先から細く白い両手足が生えている。うつ伏せに倒れているせいで顔は分からないが、まだ年端もいかぬ少女に見えた。私もかなり小柄な妖怪だが、それよりも一回り小さい。
 私はその隣にしゃがみこむと、乱暴に少女の体を転がして仰向けにした。
 あらわになった顔は、やはり幼かった。
 人間の歳なんててんで分からないが、生まれてから十もしない歳だろうというのは推察できた。閉じられたまぶたの淵から、細長く黒い睫毛がゆるやかに伸びている。手足と同じように、顔も白く透き通っていた。ちょっと引っぱたいたら、すぐにぼろっと崩れ落ちてしまいそうな脆さを感じさせる少女だった。
 私は、少女の胸のあたりへと視線を滑らせる。じっと目を凝らすと、微かに上下しているのが分かった。
 まだ、生きている。

「さーて、どうしようかなー」

 私は腕を組んで考えた。この少女を、どうするべきか。
 具体的に言えば、食べるべきか、食べざるべきか、だ。
 私は妖怪である。
 妖怪ということは、人を襲って食べるということだ。私は変わり者だったが、人を食べるということについては他の妖怪と変わらない。
 そして、目の前の少女は、肉付きこそ良くないものの、とても美味しそうだった。白磁の肌はとても柔らかそうで、それにぞぶりと歯を立てたときの感触を思うだけで、よだれが滴ってくる。
 しかも生きている。
 そこらでのたれ死んだ旅人の死肉でも、野犬の喰い残しでもない、新鮮な生きた肉。これはまたとないチャンスだ。
 ならば、今すぐにでも齧りつこう――と考えて、やめた。そうするには問題が一つあるのだ。
 面倒くさがりの私にとっては至極やっかいな問題。
 しかし妖怪にとって、ひいてはこの幻想郷にとって、大事な、無視できない問題。まったくもって面倒くさい。


 まず、幻想郷と呼ばれるこの地は、以前(年数なんて数えてないのでよく分らないが、感覚的には結構前だ)偉い妖怪によって結界が貼られ隔離されてしまった。
 なんでも、妖怪を生かし、守るために。
 どうして結界で括られた中で生活することが妖怪を守ることにつながるのか、そこら辺の理屈は私にはよく分らないが、とにかく一番重要な点は、人を無闇に襲えなくなったということだ。
 人間を襲うことが存在意義である妖怪は、つまり、人間がいなくなれば存在できないということだ。限られた幻想郷という空間で、数少ない人間を襲うということは、真綿で首を絞めるようなものだ。
 もちろん、「少しぐらい人間を襲ってもばちは当たらないだろう」と思う輩もいるだろう。または「自分ひとりくらいルールを破っても構わないだろう」と思う輩も。
 しかし、意外にそう上手くはいかない。そういう輩に対しては結界を貼ったその偉い妖怪が直々に圧力をかけているみたいだし、人間による報復もまた馬鹿にできないのだ。
 だから私は、人は襲わない。
 ただし、偉い妖怪の圧力が怖いのでも、人間たちの復讐が怖いのでもない。人を襲ったことによるいざこざが嫌なのだ。それだったら別に人を襲わずに、のんびり過ごしている方が性に合っている。
 つまるところ面倒くさいのだ。


「うーん……」

 足元から声が上がる。
 私がそちらに目を向けると、少女が顔をしかめていた。
 しばらく眺めていると、そのまぶたがゆっくりと持ち上がった。やがて目をぱっちりと開くと、上半身だけ持ち上がる。

「あ、れ。ここ……」

 少女はきょろきょろとあたりを見回す。隣に私がいることには気づかないようだ。無理もない、新月の、真っ暗闇の森の中なのだから。
 私は、闇の中から少女を観察する。
 くりくりした瞳はこれまた髪の色と同じ、黒。見ていると吸い込まれそうなほど深い色をしていた。状況が分からずに宙をさまよう大きな目が、少女の幼い印象を加速させると同時に、利発的な子供のような印象も与えた。

 その目を見ているうちに、私の頭の中をよぎるものがあった。
 既視感。少女のことを見たことがある気がする。

 少し考えて、思い出した。
 神社の巫女だ。幻想郷の神社の、お目出度い色の服を着た巫女。あれのイメージとよく似ていた。
 さらさらした黒髪、漆黒の瞳。以前、遠目に見ただけだったが、目の前の少女はそれに似ていると思った。ただ違うとすれば、巫女に比べて、この少女は幼く、まだ年端もいかぬ年齢であること。
 しかし、どちらも肉が柔らかそうで美味しそうなのは変わらない。

「あなた、誰?」

 ふと気がつくと、少女が私を見ていた。闇に目が慣れたのか、その瞳はまっすぐ私を見据えている。
 この闇の中、人間に見つかるとは思っていなかったのでびっくりした。とっさに私は少女に返すべき言葉を探す。しかし、

「えーと……あなたは食べれる人類?」

 出てきたのはそんな馬鹿みたいな問いだった。何だそれは、と自分に突っ込みを入れる。それで「はい」と答える人間が、いったいどこにいるのだ

 思わず頭を抱える。
「うん」
「へ?」 

 聞こえるはずのない肯定の言葉。私は思わず少女の目をじっと見つめ返す。この子が返事をしたのだろうか。「うん」って。
 少女はこくんと小さく頷く。

「えっと……はい」
「いや、言い直さなくてもいいけどさ」
「うん」
「食べれるって自分で言っちゃダメでしょ」
「駄目なんですか?」少女は可愛らしく小首を傾げてみせる。
「駄目だよ」駄目だと思う。少なくとも普通の人間としては。

 変わった少女である。
 妖怪に対しての恐れがまるでない。世間知らずなのか、物怖じしない性格なのか。なんにせよ普通じゃない。

「そもそも、食べれる人類ってなんなのさ」

 自分の発言なのに、それを棚に上げて私は訊く。

「えっと、食べてもいい人間?」

 ほとんど鸚鵡返しのような返答だった。私は続けて訊いた。

「なんでお前が、食べてもいい人間なわけ?」
「食べられちゃ駄目って、教わらなかったから」

 それは確かに、教わらないだろうな。
 ため息を吐きながら、私は「いーい?」と語りかける。

「あのね、妖怪の問いなんかにまともに答えちゃダメ。嘘を吐いて、相手を煙に巻くくらいの気持ちでいなきゃ。特に今みたいな問いには、『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。すぐに食べられちゃうよ」

 私は、少女相手にくどくどと説教をする。
 頭の中で、冷静な私が「何をやってんだ」と嘲笑する。何やってんだろ、本当に。人間の小娘相手に、なんで妖怪対策のレクチャーなんかしてるんだ。
 少女の独特な雰囲気に、完全にペースを崩されている。

「嘘を吐くの?」少女は首を傾げる。
「そう、嘘を吐くの」
「嘘を吐いたらいけないって教わったよ」

 最近の人間は、そんなことを教えているのか。嘘を吐かないで、この世の中、どうやって生きていくというのだ。

「生きていくためには嘘も必要なの」
「そーなの?」
「そーなのよ」

 うん、と私は頷く。少女も、うんと頷く。
 変な状況だった。少女には、何故か自分のペースに引き込む力があるみたいだった。

「ねえ」少女が訊く。
「なに」少女と問答する理由なんかないことにとうに気づいていたが、私は律儀に返事をする。
「妖怪ってなあに?」
「へ」

 その質問に、私は思わず固まる。なに、最近の人間ってそこまで世間知らずなの?
 少し考えて、疑問が氷解する。そして同時に、少女と私の話がかみ合わなかった理由も悟った。

 この少女はきっと、幻想郷の外からやってきたのだ。

 なるほど、と得心がいった。
 見たことのない服に、世間知らずな言動。外からやってきた少女だとすれば、それらに説明がつく。
 私は、にんまりと微笑んだ。

 これは、チャンスだ。私は思う。
 人間と妖怪のバランスとやらを考慮するならば、なるほど人間を襲うのを禁じるのは道理だろう。ならば、幻想郷の人間としてカウントされていない人間を襲うのならば? そう、外来人を襲ったところで、幻想郷のバランスは崩れないだろう。
 我ながら、画期的な考えだと思った。
 私は芝居がかった口調で、少女に語りかける。

「妖怪っていうのはね、とおっても怖いのよ。人間が大好きでね、見つけたらすぐに食べちゃうの。特にお前みたいな穢れの知らない純粋な子がだぁい好き」

 自分の顔は見えないが、きっと赤ずきんを前にしたオオカミみたいに、嫌らしい笑みを浮かべているに違いない。
 少女は、状況が解らないのか、ぼんやりとこちらをながめている。
 その肌は、透き通るように白く、まるで私を誘っているように見えた。視線を滑らせる。線の細い首筋が目に飛び込んでくる。

 それに思いきり歯を立てても、誰も咎める者はいない。

 いただきます。心の中で唱えて、唇を少女の首に近づけていく。大きく口を開ける。
 さあ、あなたはどんな味?
 心の中で問いかけながら、上目づかいで少女を見上げた。

 少女と目があった。
 真っ黒な瞳。
 自分をまっすぐに見据えている、何も知らない目。

 その目に見られたら、なぜだか急速に食欲が失せていった。
「やーめたっと」
 私は少女から離れると、どっかとあぐらをかく。
 つまらない。こうまで反応がないと拍子抜けだった。
 私は人間を食べるのは好きだったけど、それは純粋な食欲を満たすためじゃない。恐怖が欲しいのだ。いざ食べられる瞬間の人間の、悲鳴、命乞い、引き攣った表情。そういうものが好きなのだ。こっちを怖がりもしない少女なんて食べても、腹は膨れても気持ちは膨らまない。
 そう思うと、波が引くみたいにやる気が遠のいていった。

「お姉さん、妖怪さんなの?」
「んー」

 状況がまるで呑み込めていない少女は、そんな場違いとも適切ともつかないような質問をする。

「そーだよ」
「人間を食べるの?」
「そう」私は、骨付き肉を頬張るようなジェスチャーをしてみせる。「むしゃむしゃってね。怖いでしょう」
「うん」少女は神妙に頷く。でもその顔は、よく分っていない顔だ。よく分らないけど、人の言うことはちゃんと返事しないといけない、と信じている子供の顔だ。

 これはいかん、と思った。
 このまま何も知らないまま大きくなれば、少女はきっと美味しくない人間に育ってしまう。ほどほどに世間を知り、ほどほどに純粋で、妖怪を怖がり、美味しく食べられてくれるような、そんな立派な人間に育たない。

「あんたは、人をもっと疑わなきゃダメ」
「え、でも」
「人はみんな嘘つきばっかなんだから。人を信じるのも大概にしなさい。特に初対面の得体の知れない奴なんかに惑わされちゃダメ」そう、特に私みたいな。
「うん」少女は頷く。まるで分かってないみたいだった。


「さて」

 私は腰を上げる。
 少し無駄なことをしゃべりすぎた気がする。これ以上話しても意味はないだろう。いい暇つぶしにはなったけれど、この人間が美味しくない部類の人間である以上、長居は無用だと思った。
 私は別れの言葉もかけずに、後ろを向く。
 そのまま歩き出そうとしたが、動けなかった。
 首だけ後ろに向ける。白く小さい手のひらが、私のスカートを掴んでいた。
 そのまま振り切って行ってしまっても良かったのかもしれないが、気まぐれで、私は声をかける。

「なに」

 少女は口をつぐんだままだ。助けを求めるように、私を仰いでいる。
 そんな目をして見られても、困る。

「だからなにさ」
「帰りたい」
「あー?」
「おうち、帰りたい」

 小さくか細い声が、夜の空気を震わせる。
 そりゃそうだよなあ、と私は思う。
 外の世界からよく分からないうちにやってきて、よく分からない奴に絡まれて。そりゃ、帰りたいよなあ。
 でも私にはどうにもできない。
 外に帰す方法も知らない。知っていたとしても帰す義理もない。
 この子がこの先どうやって生きていくのか、あるいはのたれ死ぬのか、想像するのも面倒だった。私にとってはどうでもいいことだ。
 私は少女を見下ろす。
 並んで立つと、やはり私よりも一回り小さかった。私だって小さいのに、どんだけ小さいんだよこの小娘。
 少女は、見下ろす私の目を不安げに見返していた。
 黒目がちの瞳は不安げにうるんで、今にも破裂しそうに見えた。必要以上に力のこもった肩は小刻みに震えている。
 なんだ、あるじゃん、恐怖の感情。そんな的外れなことを思って安心する。
 でもその恐怖は決して自分に向けられているものじゃない。むしろ自分がここからいなくなってしまうことの恐怖だ。
 そんな恐怖、やっぱり、食べても美味しくない。
 私はおもむろに、スカートを掴む少女の手に、自分の手のひらを重ねる。このまま強引に引き離すつもりだった。
 私は、手に徐々に力を込める。びくっと少女の手が震えた。

 そこである閃きが、私の頭の中を貫いた。
 食べれない人間なら、食べれるように仕立てればいいんだ。

 その突拍子もない思いつきは私を、わくわくさせた。
 この、何も知らない無垢な人間を、おいしく食べれる人間に育てる。小さくか細い体を私好みに成長させ、丸々と肥やす。
 適度な純粋さを残しつつ、適度に世の中のことやその他の感情を憶えさせ、適度に妖怪を恐れる人間にする。
 それが出来るのだ。
 この外からやってきた、身元不明の少女相手ならば。
 それはとても素晴らしい発想だった。天啓と言ってもいい。
 私は体を翻して少女に向き直ると、屈んで目の高さを合わせる。

「あのね」
「うん」
「私は実は、あなたのお母さんなの」

 私はまた嘘を吐く。あまりにも馬鹿みたいな嘘。騙されるはずのない、途方もない嘘。

「ママ?」
「そう、ママ」
「さっきは妖怪さんだって言ってたよ」
「それは嘘。本当はあなたを迎えに来た、あなたのママよ」

 少女は小首を傾げる。その小さな頭の中で、なにを考えているのだろう。
 信じようが信じまいが、私はどっちでもよかった。
 というか信じるはずがないと思っていた。それならそれで、力ずくで連れていけばいい。どうせこの少女に行く場所なんてないんだから。
 だけど、

「うん」

 少女は何故か、私のあからさまな嘘に首を振るのだった。
 私は呆れる。
 相変わらず、この少女の考えてることが分からなかった。年端がいかないことを差し引いても、あまりにも無防備すぎた。
 まあ、そっちのほうが好都合だ。
 私はさっと少女の手を取る。
「よろしくね」
 笑いかけてみる。出来る限りやさしく、警戒されぬように。
「うん」
 少女もそれに合わせて笑った。ぎこちない笑顔だった。


 そうして一滴の嘘は、宵闇に溶けていって。
 アンバランスな私たちの、嘘みたいな生活は始まった。
 



二、

 私は、背中を優しく揺する振動で目を覚ました。
 ベッドに横になったまま薄目を開ける。
 東向きの窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
 朝である。
 なんだってこんな朝早くに起きねばならんのだ。こちとら宵闇の妖怪だぞ。
 私は心の中で愚痴って、布団を深くかぶり直した。昨夜寝たのがもう夜が明けようかという時間帯だったから、まだ三時間も寝ていないはずだ。
 しかし、私を揺する振動は、時間がたつにつれて徐々に大きくなっていった。

「ママ」
「んー」
「起きて」
「んー」

 背後から誰かの声が聞こえる。聞きおぼえのない声だ。
 そちらを確認しようと、私は寝返りを打ち、目を開けた。
 黒髪の人間の少女がいた。

「あー」

 頭をがしがし掻きながら上半身を起こす。だんだんと昨日の記憶がよみがえってきた。
 確か、少女を拾って、この家まで連れ込んだのだ。
 我ながら面倒くさいことをしたと思う。
 自分好みの人間を作る、という発想は今でも素敵だと思うが、それにしても面倒くさい。そのために、おままごとじみたことをやらなきゃいけないなんて。

「ママ」
「はいはい、なーに」

 私は頭を掻いた手をそのまま腹に持っていき、そこをポリポリと掻く。

「お腹空いた」
「はあ」

 勝手にそこらでウサギでも狩ってこい、と言いたいところだけど、そうやって突き放すのは流石に酷なことだと思い直した。面倒くさい、と思いながらもしぶしぶ立ち上がる。
「たぶん、台所に適当な食べ物が残ってたと思う。それ、勝手に食べていいよ」

 それもちょっと投げやりな対応だったが、意外にも少女は文句を言わず、こくんと頷くととてとてと部屋から出ていった。
 私はため息を吐くとのっそりと立ち上がった。
 朝ということで本調子ではなかったが、もう一度寝なおす気も起きなかった。寝たところで、どうせまたあのちびっこに起こされるのが目に見えている。
 大きく伸びをすると、辺りを見回す。
 朝日を取り込む大き目な窓に、黄色いカーテン。本棚がふたつ、タンスがひとつ。丸テーブルひとつに椅子がふたつ。小柄なひとが二人寝泊まりするのには十分すぎる部屋だ。
 そして扉の向こうには台所にトイレに風呂。
 何とも豪華な仮住まいだと思う。私のような野良妖怪にとっては出来過ぎな環境だ。

 この家を見つけたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
 私がいつものように森の中を逍遥していると、ぽっかりと開けた広場のような場所に出た。そこに忘れられたようにこの家が建っていたのだ。
 私が見つけたときには、この家の持ち主はすでに居なかった。森の中で野犬や妖怪に襲われたのか、それとも人間の里に移住したのか。何にせよ、人が住まなくなってから長い時間が経過していた。
 この森は、通称魔法の森と呼ばれている。
 この森は常にじめじめしていて気味が悪く、人は基本的に寄り付かない。
 しかし、ここに生えるキノコは魔法の触媒として優秀なのだそうで、それを目当てにした好事家がごくたまに、この魔法の森に住んだりする。
 つまるところこの家の持ち主は、魔法使いか、それを志す者だったのだろう。
 何にしても、この場所を見つけられた私は幸運だったと思う。

「ママ」

 いつからいたのか、少女がドアから顔だけ出して、こちらを覗いていた。

「どうしたの」
「変な匂いがする」

 渋そうな顔をする。変な匂い、はて。
 私は少女に連れられて、台所へと向かった。


 * * *


 台所は思った以上にひどかった。
 少女が引っ掻き回したのだろう、食料があたりに散乱していた。
 そしてその食料がまたひどい。
 大量にあったパンはことごとくカビが生えていたし、果物の類も痛んで黒ずんでいた。ハムやソーセージから腐った匂いが立ち上っている。
 おもむろに足もとに転がっていた卵を一つ手に取って、皿に割ってみる。どろり、と黒ずんだ黄色の粘液がへばりついた。独特の異臭が漂ってくる。思わず鼻をつまんだ。真似するように、少女も鼻をつまんでいる。心なしか、涙ぐんでいるようだ。

 はて、この食料はいつ手に入れたんだっけか、と思いを巡らせる。
 確か、森を抜けた人里に続く一本道を歩いていた行商を襲って手に入れた物だ。もちろん命は取っていない。
 あれはつい最近のことだったような。いや、でももう一ヶ月経つのだろうか。そうか、そんなに前のことか。それは食料も腐るだろうなあ。
 妖怪の時間感覚なんてそんなものだ。
 大抵の妖怪は精神的な存在だから、飲まず食わずでも平気だ。もちろん、変わり者妖怪である私も。ただ、趣味として食事をすることもある。だから、たまたまその日、何か食べたいと思っていたところに行商が通りかかったものだから、それを襲った。
 そして襲ったはいいが、結局食べてる途中で飽きてほったらかしにしていたのだ。それだけだ。

 どうしたものか、と考える。どこからかハエが飛んできて、鬱陶しい。
 私はいい。食べなくても平気だ。
 だけど、人間はそうもいかないだろう。まったく面倒くさい。
 考えていると、袖を引っ張られた。
 そちらを見ると、少女が透明の袋を掲げている。見たことのない材質の袋だ。外の世界のものだろうか。

「ゴミ袋」
「ゴミ袋?」鸚鵡返しに、私は訊き返す。

 少女はこくんと頷いた。
 これで、とりあえず腐った食料を片付けようということだろうか。
 少女は足元に散乱した卵やハムやみかんを拾って、透明な袋に詰め始めるた。私もそれに倣う。
「そんなもの、どこにあったの」手を動かしながら、訊ねる。
「リュックの中」
「リュックって、あの背負う布の袋のやつ?」
「ん」こくん。

 昨夜、少女を連れて行くとき、近くに落ちていた布製の袋を見つけていた。
 少女曰く、それはリュックサックという代物で、それが彼女の唯一の持ち物だった。中は検めていなかったが、中にこの透明袋が入っていたのだろう。


 あらかた片付け終えて、一息吐く。
 まだ痛んでない果物や調味料の類、それとカビを取り除けば食べられそうなパンだけがテーブルに乗り、あとは口を縛った袋の中に閉じ込めた。

「あー疲れた」

 私は大げさに伸びをして、疲れました、とアピールする。
 実際、知らない相手と一緒に作業をするのは、結構疲れることだった。

「じゃあ、昼まで一眠りしようか。じゃあね」

 私はそそくさとベッドへ向かおうとする。しかし、少女はそんな私の袖を掴んでいた。

「お腹空いた」
「あー」

 忘れていた。もともと、この子の食事を探していたのだ。
 仕方がない、パンのカビを取り除いて食べさせるか、と考えたが、ふと思うところがあった。

「ちょっと待って」

 私はそう言いつけて、寝室へ引き返す。
 部屋の片隅に寄りかかるように置かれているリュックを手に取ると、少女の元へと戻ってきた。

「もしかしたらこの中に入ってるんじゃないかな、食べ物」

 何に使うのか分からない透明な袋が入っているくらいだ。多少の食糧くらいあってもおかしくないように思えた。
 さっそく私はリュックの蓋を開けると、中身を取り出す。
 少女用の服や下着、さっきのと同じ透明袋、封筒。鉄みたいな色をした筒のようなもの。
 掻きだしていくと、底の方に、透明な袋に入れられたパンが何個か出てきた。クリームパン、ジャムバターパン、カレーパン、などのカラフルな文字が、袋の表面に踊っている。

「これ、食べ物でしょ」私は、その一つを少女に差し出す。
 少女はおずおずとそれを受け取った。「食べていいの」と小さい声で訊く。
「あんたが持ってきたんでしょ。食べていいに決まってるじゃん」

 私の言葉を聞くと、顔を綻ばせて袋の口を開ける。
 その口から器用にパンの頭だけを出させると、齧りついた。もぐもぐと咀嚼すると、小さい喉を鳴らして飲み下す。そして、もう一度小さく齧りつく。
 私が二口で食べきりそうなそのパンを慎重に食べ進めていく姿は、小動物の食事風景を思わせた。
 まどろっこしい。見ていたら日が暮れてしまいそうだった。
 ぼんやりその姿を眺めていると、少女は動きを止めた。

「お水」
「あー水かー」

 そういえば、水のことを考えていなかった。
 一応、沢から汲んできた水があるにはあったが、それも食料と同様、いつのものか分からないような代物だ。
 どうしようか、と思案する私に、少女が鉄製の筒のようなものを手に取った。

「飲んでいい?」
「それ?」
「うん」こくんと頷く。

 どうやら筒の中には水が入っているらしい。
 水筒なのだろうか。だとしたら、鉄製の水筒を作るなんて、外の世界はだいぶ変わっている。

「だから勝手に飲みなって。誰も咎めないよ」

 私が許可を出すと、少女は水筒の蓋をはずし、それをコップにして中のものを注ぐ。
 水かと思ったそれはわずかに茶色をしていた。どうやらお茶のようだ。
 喉を小さく鳴らしながら飲み下すと、またパンに齧りつく。
 やっと半分くらいを食べ終わったところだった。全部食べきるまでにどのくらいかかることやら。
 まあ、暇だからいいけどね。
 はーあ、私はため息を吐く。暇じゃなかったら、こんな酔狂なことはやってない。
 私はぼんやりと、パンが少女の腹の中にゆっくりとおさまっていくのを眺めていた。

 
 * * *


 やっとのことで少女はパンを一つ食べきる。
 私はそれを見計らって、もう一つ別のパンの袋を差し出す。
 少女はちょっと悩んでいたが、それをずいと突き返した。いらないらしい。

「これっぽっちしか食べないの? お腹空くよ?」
「いい」

 首を頑なに横に振る。それで満腹なのだろうか。このくらいの歳の人間はそんなに食べないのだろうか。
 食べてもらわないと、困るんだけどなあ、と私は頭を掻く。
 最終的に、丸々美味しく育ってもらわないと、困る。こんな少食で、果たしてきちんと美味しく育つのだろうか。
 そうしていると、少女は私にパンを握らせてきた。

「ママが食べて」

 外の世界のパンがどういうものか、興味はあったが、少女の食料をここで減らすのは得策ではないと思った。

「ううん、ママはいらないから。また後で食べな、ね」

 受け取ったパンをまたリュックにしまい直す。取り出したその他の物も、一緒に詰めた。
 パンの数と、少女の食事量を考えると、あと三日くらいはもちそうだ、と目算する。

「さてと」

 私は台所を後にする。
 何を言われるでもなく、少女がちょこちょこと後をついてきた。
 こうしてみると、カモの親子のようだ、と思う。もっとも、少女にとってみれば本当に親子のつもりなのだろうが。
 寝室に辿り着き、私はベッドにどっかりと腰を下ろす。
 いろいろあったが、私は眠いのだ。このまま二度寝したい気分だった。
 私はゆっくり横になった。

「ママ」

 それを邪魔する声。言うまでもなく、少女だった。

「なに」

 私はもぞもぞと寝返りを打ちながら、少女に視線を向ける。
 少女はそんな私を不思議そうに見ていた。

「寝るの?」
「そう、寝るの」
「お仕事は」
「今日はお休み」永遠にお休みだ。
「私、学校に行かなくちゃ」
「ガッコー?」
「うん、お勉強するの。お友達と一緒に」

 人里にある寺子屋のようなものだろうか。噂によると、子供たちを集まって、読み書きや歴史を教えていると言うが。

「いーのよ。そんなもん」私は手をひらひらと振る。「ガッコーもお休み」
「でも」少女は不安そうに目を伏せた。そんなに勉強がしたいのだろうか。私にはよく分からない。

 面倒くさいので、私は少女をベッドの中に引きずり込む。

「きゃっ」
「あんたは真面目すぎ。もっと適当に、もっと怠けることを覚えなきゃ。私みたいに」
「でも、それじゃダメだって」
「ダメじゃない。いーい、ここで暮らす以上、私がルールだからね。私に逆らわないこと」
「えーと、うん」

 私の腕の中で居心地が悪そうにもぞもぞと少女が動く。

「分かったら、存分にぐーたらしなさい。命令よ。あくせく働いたらダメ」
「ダメ」少女は私の口調を真似してみせた。視線が交差する。何が嬉しいのか、口元を緩ませた。

「よーし、じゃあこのまま昼過ぎまで寝るよー」
「うん」

 少女はもぞもぞと動くとぴったりと身体をくっつけてきた。
 少女の体は熱かった。それは生命の持つ熱だった。生きている、少女は生きている。そんな当たり前のことを思う。春先、寒さの残る午前。そんな熱が心地よかった。
 結局その日、私たちが目を覚ましたのは夕方、日が暮れかかってからだった。

 


三、

 奇妙な共同生活が始まってから三日が過ぎた。


 面倒くさいとは思っていたが、人間の小娘を育てるのがここまでのものだとは思っていなかった。

 少女は一日きっかり三回の食事を要求してきた。
 これは誤算だった。人間は一日一回くらい食べて生活していると思っていたのだが、それでは足りないらしい。
 当初は三日もつと読んでいた少女の持ってきた食料も、これでは一日と少しでなくなってしまうだろう。まだ痛んでない果物やカビパンが残っていたが、それも長くはもたないだろう。

 少女はまた、風呂にも一日一回入りたがった。
 一日くらい入らなくても死にはしないって、と諭しても頑として譲らなかった。結局、ほとんど使ったことのない風呂を沸かして、一緒に入る。久しぶりの風呂は気持ちよかったし、悪い気持ではなかったが。

 着るものに関しては問題なかった。
 少女のリュックには、三日分の着替えが入れてあったし、順番に着回していけば一週間はもつだろうと考えている。汚れてしまったら洗えばいいし。

 総合してみると、一番何とかしなくてはいけないのは、食料だった。


 * * *


 朝。私たちは、のそのそと布団から這い出る。
 少女は眠い目をこすりながら、とてとてと部屋を出て行く。私は欠伸をしながらそれを見送った。
 朝起きて、朝食を食べ、二度寝する。
 そんなぐうたらサイクルが、二人の生活に染みつき始めていた。
 当初は怠けることに抵抗を覚えていた少女も、だんだんとこの堕落した生活に慣れてきたみたいだった。よい兆候だ。生真面目な奴とずっと一緒に住み続けるなんて、考えるだけで気詰まりがする。もっとも、この兆候が美味しい人間の第一歩として正しいのかは謎だったが。
 大きく伸びをすると、重い腰をあげて、少女を追いかけた。


 台所では、少女がリンゴと睨めっこしていた。

「どうしたの」私が訊く。少女は涙目をこちらに向けた。
「リンゴ」
「うん」
「包丁がないの」
「ああ」

 どうやら皮を剥けずに困っていたらしい。
 確かに、この家で包丁やナイフを見た記憶はない。でも、リンゴくらい、皮を剥かなくても食べられるだろうに。
 私はテーブルの上にあった、別のリンゴを手に取る。

「いーい? 皮なんか剥かなくても、大丈夫よ。ほら、こんな」私はそう言って、リンゴに歯を立てる。硬い果肉を、前歯でそぐようにして食べてみせた。しゃりしゃりと小気味のいい音がする。
 少女は不思議そうに私の行為を見ていたが、やがて意を決したようにリンゴに歯を立てた。なかなか齧ることが出来ずに苦戦して、ようやく一口、齧る。

 私はそれを眺めながら、思案する。
 カビの生えたパンは昨日で全部食べきってしまったようだ。食料はあと、数個の果物だけ。
 本格的に、食料の調達先を考えなくてはならないようだ。
 しかし、どうしようか。
 人里で買おうにも金なんかないし、人里の店を襲うのもあとがいろいろ面倒くさく、また、長期的に見て得策とも言えなかった。
 とすると――。

「ねえ」

 私は少女に言う。
 少女は、夢中でリンゴに齧りつきながら、上目づかいをこちらに向けた。

「お留守番、できる?」


 * * *


 私は森の中を歩いていた。
 この三日間は、ずっと少女と一緒だったから、一人で行動するのは久しぶりだった。解放感に胸がすく思いがする。これで真夜中ならテンションがさらに上がるのだけど、そうも言っていられない。
 歩きながら、私はきょろきょろとあたりを見回す。
 食料になりそうなものがないか、探すのだ。木の実や、ウサギなんかの小動物などがいれば嬉しいのだが。
 しばらく歩くと、沢に出た。森の中を流れる清流だ。それを見て、魚もいいな、と思う。塩でもかけて焼けば食べられるだろう。

「あら、珍しい顔」

 水面を覗き込んでいると、声をかけられた。
 顔を上げる。川の上の方、小高い岩の上から釣り糸を垂らす影があった。夜雀のミスティアだった。
 知らない顔ではないけれど、特に仲良くもない妖怪だ。

「何やってんのさ、こんなところで」
「それはこっちの台詞だけど。なに、釣り?」
「そう、釣り」ミスティアはからからと陽気に笑う。「人を襲うのも最近はいろいろ大変だしねえ、他に楽しいことでも始めようと思って」
「楽しいの?」
「んーあんまり」

 ミスティアの垂らした糸が、くいと引かれる。タイミングを合わせて釣竿を持ち上げるが、何もかかっていなかった。
 ちぇっ、また食われたよ、と口を尖らせる。
 釣り針にミミズのような虫を器用に片手でつけると、また清流に糸を垂らした。

「で、ルーミアはなんなのさ。こんな真昼間に、珍しいじゃない」
「それはあんたもじゃないの?」
「ん、まーそうなんだけどね」
「私は、ほら、暇つぶし」まさか、ここで人間の餌を探してるとは言えない。適当に嘘を吐く。

 それ以上会話は続かなかった。
 二人の沈黙を埋めるように水の流れる音がする。どこかで遠くで鳥がさえずっている。長閑だ。
 私は、手ごろな大きさの石を選んで歩きながら、ミスティアの元に行く。
 ミスティアの隣には、竹で編んだ籠が二つ置かれていた。
 片方を覗き込む。そこには、今まで釣った魚が五、六匹、白い腹を見せて横たわっていた。

「わ、結構釣れてんじゃん」
「でしょ」ミスティアが、誇らしげに歯を見せて笑う。
「ね、少しくらい分けてよ」
「だーめ。これから人里に売りに行くんだから」
「人里に?」私は眉をひそめる。何だって、わざわざそんなところに。
「ちょっとばかしお金が必要なのよ」
「ふぅん」妖怪にお金が必要な時なんて、あるのだろうか。それこそ、私みたいな奇特な状況に置かれないかぎり、そんな時なんて来ないような気がした。

 それから、二人はまた黙った。
 ミスティアは、釣りをする。
 私はここに来た目的も忘れて、ただそれを眺めていた。
 ミスティアが、それから二匹、川魚を釣り上げたとき、唐突に話し始めた。

「私はさ、この機会にちょっと商売やってみようと思って」
「はあ」

 あまりに唐突だったから、気の抜けた返事しかできない。
 ミスティアは構わず続けた。

「ほら、最近、人間を襲いづらくなったじゃん? 妖怪の賢者とかいう奴が、無闇に人を襲わないよう目を光らせてるしさ。やれ人間と妖怪のバランスとか、面倒くさい理屈こねくり回して」
「うん」私は、光を反射してきらめく水面を見ながら、相槌を打つ。
「だからさ、私はもっと別のことしようと思って。居酒屋まがいのことなんかしてみようかな、とか」
「なんでまた」
「うーんなんでだろ。強いて言えば、料理が好きだから、かな。なんか料理してると、他の誰かにも食べてもらいたくなるのよねえ」
「ふぅん」
「あと、暇だから。なんとなく」

 暇だから、なんとなく。
 それは何かを始めるときに、とても重要なことだ。
 暇だと何か酔狂なことをしたくなる。特に、妖怪みたいな長生きの存在は、暇になりがちで、とつぜん変なことをしたくなるのだ。
 私もきっとそれなんだろう。
 自分好みの人間を育てて食べるなんてことがどんなに割に合わないことだなんて、あの少女と暮らし始めて一日で、嫌というほど分かってる。
 つまり、私は暇だったのだ。

「人間相手に、さ」

 ミスティアの言葉に、私ははじかれたように顔を上げる。ミスティアの話はまだ続いていたらしい。
 私も人間のことを考えていた矢先だったから、その言葉に思わずどきっとする。

「人間相手に商売するの」
「なんでまた」
「人間のほうが舌が肥えてるからねー。料理のしがいがあるっていうかー? まあ、最近人間に興味が出てきた、っていうほうが大きいけどね」
「興味?」

 さっきから私は訊いてばかりだ、と思った。ミスティアは気にした風もなく続ける。

「うん。人間を襲わなくなってさ、私も考えたのよ。鳥頭なりに。人間ってなんだろうってさ。そう考えると、よく分からないよなー人間、って」

 妖怪は人間の想像から生み出される。
 妖怪と人間は、切っても切れない関係なのだ。それなのに妖怪は、人間を襲わねば生きていけない。生みの親を殺して、生きていくのだ。
 
「だから、今までにない新しい人間と妖怪の関係を模索する、ってわけ?」
「あはは、そこまで大それたこと考えてないって。そんなの、偉い妖怪たちが考えることでしょ。私はやっぱり、暇を持て余してるだけよ。何しよっかなーって考えた時に、人間のことが真っ先に頭に思い浮かんだだけ」
「ふうん」

 私は気の抜けたような返事をした。それきり、ミスティアも私も黙り込んだ。

 人間から妖怪が生まれたならば、結局、人間と妖怪はどこかでつながっているのだろうか。か細く、見えない糸のようなもので。あの少女が、今頃きっと私の帰りを待っているように。今、私が、何となく置いてきたあの少女のことが気になっているように。

 それからしばらく沈黙が流れた。
 その間に私は三回欠伸をし、ミスティアは二匹魚を釣った。

「さてと」
 釣った魚を魚籠に放り込むと、ミスティアは釣道具を片付け始めた。釣果は十分、ということだろうか。
 二つある籠の一方は、すでに釣った魚がひしめき合うように詰まっていた。ミスティアはおもむろに、空いている方の籠に、今しがた釣ったばかりの獲物を半分ほど移し始める。

「これ、あげる」

 ミスティアは、何を思ったかその籠をこちらに寄越した。
 見れば、中でびちびちと五匹、川魚が跳ねている。

「いいの?」
「うん、話聞いてくれたお礼」

 適当に相槌を打っていただけだったが、それでよかったのだろうか。私がそういうと、「いいんだよ」と照れ臭そうに笑った。

「なんかすっきりした。やるぞーって気になったしね」
「でも、商売道具なんでしょう」人里に持っていって売ると言っていた。
「もともとはそのつもりだったんだけどね。屋台買ったりする資金にしようと思って。あと、いざ料理屋をやる時に、何の料理をメインで出そうかなーっていう研究もかねて」
「魚料理がメインなの?」
「いや、川魚は微妙かなあ。今日の釣果はそこそこだけど、とれない日は全然とれないしね。もっと簡単にとれて、しかも人間がまだ目をつけてない食材ってないかねえ」

 そんなものが簡単に見つかるとも思わなかったが、「がんばってね」と声をかけておいた。我ながら無責任な言葉だと思う。

「じゃあ、本当にいいのね。これ」

 私は念を押す。後で返せといわれても、胃袋の中身は返せないのだ。

「いいのいいの。それじゃね」

 ミスティアはもう片方の魚籠を掴むと、釣竿を肩に担いで飛び立っていった。
 私はしばらく、籠の中の魚の白い腹を見ていたが、それを手に持ち家路を辿ることにした。
 それにしても、釣りというのはいい方法だ。
 少女の小さな胃袋を満たす分の魚ならば簡単に釣れそうだし、今度簡単な釣り竿を自作してみるのもいいかもしれない。そうすれば食材を手に入れつつ、食べきれない魚を人里に売って小金を稼ぎ、もっといい食材を手に入れることもできる。
 と、そこまで考えて、私はため息を吐く。
 私は、なんだってそこまでしなくてはいけないのだ。

「まあ、ずっと魚を食わせてればいいんだけど、それだと文句言いそうだしね」

 私は誰にでもなく言い訳すると、ふよふよ飛びながら家へと向かう。




四、

 少女の様子がおかしい。

 そのことに気が付いたのは、共同生活が始まってから六日目の朝だった。
 あとから思えば、前夜からその兆候はあったように思う。
 いつもより返答が遅かったり、心なしか足元がふらついていたり。でも、どちらも小さな兆しで、見逃してしまっても仕方なかった、と思う。
 

 私がいつものように、少女から遅れてベッドから這いだすと、台所で何か音がした。
 ごとり、という重いものが、地面に落ちる音。私は不審に思いながら、台所へと向かう。
 そこに、少女が倒れていた。

「どうしたの」

 私は少女に駆け寄る。頭を支えて抱き起した。

「あれ、ママ」
「うん、ママだよ。どうしたの」
「あれ、あれ」意識が朦朧としているらしい。心なしか、目の焦点も定まっていないように見えた。

 私は手のひらを少女の額に当ててみた。熱い。とんでもなく熱い。少女の体全体がかっかと熱を発している。
 人間について疎い私でも、これが異常事態であることはすぐに飲み込めた。

「よっと。歩ける?」

 私は少女に肩を貸しながら起き上がらせる。
 少女は自分の力で歩こうとするも、咳き込んでふらつき、倒れそうになった。私は背中からそれを支える。
 私はどうしたらいいか見当もつかない。とりあえず、少女を背負うと、ベッドに引き返し、寝かせて布団をかぶせた。

「とりあえず、寝てなさい。すぐに良くなるから」嘘を吐く。たぶん、寝ているだけでは治らない。
 それでも少女は、うんうんと頷くと素直に目を閉じる。
 本当に嘘に免疫のない子だ、と呆れる。

 さて、どうしたものか、と思案する。
 当然のことながら、人間の病気について私は何も知らない。妖怪は人間が罹るような病気にはならないのだ。
 つくづく、人間の体は不便だな、と改めて思う。
 一番いいのはもちろん、人間の医者に診てもらうことだろう。だが、そこには問題がいくつかあった。
 例えば金銭面。
 私は、病気を治すのにいったいいくらかかるのか知らない。少なくとも手元にある、釣った魚を売って得た小金程度では足りないだろうということは分かっている。
 そして、お金があったとして今度は、妖怪の私がどんな面をしてこの子を医者に連れて行くのか、という問題が残る。
 魚を売る程度ならば問題ないだろう。しかし医者に行くのは、小金を稼ぐのとは違う。
 幼い人間の子を、私のような似ても似つかない容姿の妖怪が連れて行ったとして、疑われるのは目に見えている。たとえ妖怪だとばれなくとも、二人を並べて親子だと思う人なんかいやしないのだ。

 私は、ベッドの上で寝ている少女を見下ろす。
 苦しそうに息を荒げ、ときどき咳き込んでいる。体調はやはり芳しくないようだ。

「暑い……」少女はうわ言のようにつぶやく。「暑いよ、ママ」
「暑いってったってねえ」

 私は考える。
 水でもぶっかけようか、とも思ったがそれが得策とはどうしても思えない。水を含ませた布で顔でも拭いてあげれば、体温が下がるだろうか。
 私は台所に向かうと、手拭いを水瓶の中に浸し、ぎゅうっと絞る。
 私は何をしているんだろう、と今更ながらに思ったが、それ以上考えるのが面倒くさい。
 私は適度に水分を絞り取った手拭いを手に、少女の元に戻る。
 依然として苦しそうに息をする少女の頬に、それを宛がった。

「ひゃっ」びくっ、と少女の体が跳ねる。
「あ、冷たかった?」私は反射的に手拭いを引っ込めた。
 少女はふるふると首を横に振る。「ううん。びっくりしただけ。気持ちいいよ」
「そう」私はほっと息を吐く。もう一度手拭いを、今度は首筋にそっと当てた。

 少女はくすぐったそうに体をよじる。
 私は少女の顔を、念入りに拭いていく。一通り拭き終わると、一番置きやすそうな額に、手拭いを置いてみた。
「冷たい」少女は笑う。

 しかし、あまり体調は良くなってはいないようだった。
 まだ肩で息をしているような状況だし、時折咳が混じっている。
 決断の時は迫って来ていた。

 正直、どちらでも良かった。
 このまま少女が死んでしまっても、私は一向に構わなかった。いっそ死ぬ前に食べてしまう、というのも一つの選択肢だった。あるいは、駄目元で医者に連れていって、運よく直れば、また少女を育てる生活に戻ることもできる。
 私はどっちに転がってもよかった。

「ねえ」

 私は少女の髪を何とはなしに梳きながら、問う。

「苦しい? お医者さんに行って、早く良くなりたい?」

 苦しいに決まっていた。早く良くなりたいに決まっていた。
 だけど、私は訊いた。何とはなしに、気まぐれに、だ。
 少女はしかし、私の予想外の言葉を吐いた。

「ううん、へいきだよ。私、苦しくないよ」

 どの口がそれを言うのか。
 私は呆れた。この少女の言動には呆れてばかりだが、このときばかりは本当に呆れた。
 誰が見ても、それは明らかな嘘だった。

「嘘つき」私は、少女の額をつつく。

 嘘を吐いて、相手を煙にまけ。
 そう言ったのは確かに私だ。だけど、こんなときに嘘なんか、吐くもんじゃない。彼女の心の中で、彼女に下手な嘘を吐かせたのは、いったい何だ。

 よし、決めた。
 私は少女の手をとる。少女はぼんやりと私を見ていた。

「お医者さんに行こう」

 妖怪が人間を連れて行くなんて、何を言われるか分かったもんじゃない。
 それでも、少女の嘘を聞いたら、連れて行かなくてはいけないような気になっていた。


 * * *


 私は一時間かけて人里へと辿り着いた。
 普段なら空を飛んですぐに来られるのだが、少女が一緒ならば別だった。私は、少女にとっては母親であり、変哲のない人間なのだ。空を飛ぶわけにはいかない。私は少女を背負いながら、できるだけ足早に人里の門をくぐり抜けた。

「すみません。お医者さんはどこですか」

 私は、道を行く人の中から、出来るだけ親切そうな女性を選んで声をかける。空の買い物籠を腕に下げているところを見るに、これから買い物に行くのだろう。

「あら、どうしたの?」

 女性は足を止め、やや屈むようにして私に目線を合わせる。
 私は、少女の持ってきた服の一つである、帽子がくっついた服を着ていた(パーカーというらしい)。
 金髪の私が黒髪の少女を連れていたら、怪しまれるだろう、という苦肉の策だ。少女と私で、そこまで背格好が変わらないことが幸いした。しかし、目深に帽子(フードというらしい)を被った格好もそれなりに怪しいため、あまり効果もないように思える。
 女性は私を一瞥し、訝しむように眉をひそめる。しかし、私の背中に負ぶさった少女を見るにつけ、のっぴきならない状況だということを悟ったらしい。すぐに親切な女性の顔つきに戻った。

「あら、大変! お医者様に診てもらわなきゃ」
「はい」だから、そう言ってるじゃないか。「あの、場所を」
「一番近いところなら、そうね……。伊助さんのところかしら。ちょっと分かりにくいところにあるから、私が案内するわ」
「ありがとう」私は軽く頭を下げる。少女の脱力した体が、がくんと揺れた。
 少女との関係を訊かれなかったのはありがたかった。私は、小走りで先導する女性のあとを追った。


 * * *


 伊助、という医者の家はずいぶんと古びていた。
 よく言えば昔から開業している、由緒ある家柄ということなのだろうが、どちらかと言えば不安感のほうが強く、出来るなら罹りたくない類の病院だ。
 しかし、今更四の五の言っていられるはずもなく、女性のあんなに勧められるままに戸を叩く。

「はいはい、なんだね」

 奥から出てきたのは、だいぶ歳を召した男だった。家がおんぼろなら、中身もおんぼろか。こんな男に、果たして少女が治せるのか、不安になる。

「はい、あのこの子の体調がすぐれないようで」

 私が口を出すよりも先に、道案内してくれた女性が説明する。ずいぶん世話焼きな女性だ。もっとも、この状況で話を勝手に進めてくれるのはありがたかった。

「ふむ、上がんなさい」

 老医師はそう言うと、奥に引っ込んでいく。私は慌てて靴を脱ぎ、少女の靴を脱がせる。

「あとは伊助さんの話に従ってね。少しお歳だけど、腕は確かだから」

 どうやら女性はここでお別れらしい。
「うん、ありがとう」私は礼を言い、老医師のあとを追った。


 少女の診療を終える。
 少女は畳に敷かれた布団の上で寝息を立てていた。老医師の処方した薬を飲んでからは、見違えるように顔色が良くなってきた気がする。峠は越えた、ということか。
 腕は確かというのは本当らしい。
「風邪と、肺の方が少しやられておったよ。手遅れになっていたら危なかったかもしれん」

 老医師は、診察に使った器具をしまいながら、言う。
 私は出来るだけ殊勝に見えるよう、神妙に頭を下げ、礼を言った。

「ところでその、お代のほうは」

 私は申し訳なさそうな声色で言う。
 我ながら診療が終わったこのタイミングで言いだすのは卑怯だと思ったが、背に腹は代えられない。いざとなったら情に訴えかけて、タダにでもしてもらえばいい。人間が情に弱いのは知っていた。
 老医師は、腫れぼったいような垂れ下がったまぶたの下から、こちらを睨んだ。
 品定めするような目だ。私の何かを、訝しんでいる。
 私は被せるように続ける。

「あの、実は今、持ち合わせがなくて。後で必ず払いますから」

 私は情に訴えかけるように、老医師を上目づかいで見つめる。
 目と目が合う。年老いたくせに、眼光だけはぎらりとしていて不気味だった。

「別に、お前さんのような幼子から大金を巻き上げるつもりはないよ。それよりも」

 老医師は診療器具を片付け終えると、膝をこちらに向けて座り直す。

「お前さん、変わった目の色をしてるな」

 はっ、と思い、目を逸らす。逸らしてから失策だった、と気付いた。
 ここで目を逸らしたら、自分が怪しい奴だと明言しているようなものだ。
 髪の色はフードで隠せばいいと思った。背格好が似ているなら、姉妹で通せると思った。
 しかし、目の色は、明らかに違う。
 少女は黒。私は、血のような赤だ。姉妹で通すのは難しい。
 顔を伏せた私に対し、老医師はつまらなそうに鼻を鳴らす。

「あんたが何者かなんて、私は興味ないがね。私はここに来た患者さんを治すだけだ。ただ――」

 老医師はそこで話を止める。ふうっと長く息を吐いた。沈黙が長く感じられた。

「この娘にどんな生活をしていたのか、それが知りたいね」

 私は、伏せていた顔を上げる。
 老医師は、そのぎらりとした目線をこちらに向けて、あぐらをかいていた。

「どんな、と言われても」
「例えば、栄養のあるものを、バランスよく食べさせていたかね」

 栄養。バランス。
 考えたことがなかった。
 ただ、適当に腹を膨らませることだけを考えていた。昨日は一日魚だったし、その前は魚を売ったお金で買った肉だった。
 少女は、文句も言わずそれを食べていた。
 ふん、と老医師は鼻を鳴らす。

「この子は、肺もやられておった。つまり、あまり綺麗なところで暮らせていないということじゃないかね」

 続けて、老医師は糾弾する。
 思い当たる節は多すぎた。
 第一、魔法の森という場所自体が、化物キノコの胞子が年中舞うような場所だ。私たちの住む家は、ぽっかりと開けて森の中でも日当たりがよく、キノコもあまり生えていなかったが、それでも年端もいかない少女の肺を痛めるには十分だったのだろう。
 ろくに掃除もしていないのも原因だろう。
 確か、あの家に住みだしてから、まともに掃除をしたことなんてあっただろうか。掃除していない埃の積もった部屋での生活は、どれだけ少女にとって過酷だったのだろうか。

 私は何も知らなかった。
 少女が、人間というものが、どれほど頼りなく、面倒くさい存在であるか。

 ちらりと寝ている少女のほうを見やる。
 安らかな表情で寝入っていた。少女の寝息に合わせて、少女の胸のあたりが上下するのが見て取れた。それはあまりにも小さい、生命の営みに思えた。

「お前さんたちが、どういう生活を送っているのかは知らん。お前さんたちの親御さんが、どういう考えを持っているのか」

 老医師は、あごに生えた白髪の無精ひげをなでながら言う。
「親御さん」。私たちは、複雑な家庭の姉妹だと思われているのだろうか。妖怪だとまだ悟られていないのはありがたかった。安堵する。
 しかし、安心したのもつかの間だった。次の老医師の発言は、また私を凍りつかせた。

「この子は、しばらくうちで引き取ろう」

 驚いて、顔を上げる。何を言っているのだ、この男は。
 老医師は、あごを撫でながら、少女の方へ目を向ける。

「この様態を見る限り、とてもこの子が暮らしていけるような環境じゃあるまいに。この子の命を守るために、私はしばらくこの子の身柄を引き取る。親御さんには私があとで話を通そう」
「何を、言ってるの」何を身勝手なことを。
「もちろん、親から子を取り上げるというのは横暴だと思っておる。だが、場合が場合じゃろう。このままこの子を帰したとして、この子がさらに重い病に罹ることは目に見えておる。少しの間だけ、距離をとるのも一つの策じゃと言っておるのじゃ」
「ダメ」

 駄目だ。ここで詳しく少女のことを調べられたら、私たちの関係がばれてしまう。それだけは避けなければ。

「妹と離れるのが嫌なのは分かる。だがな」

 老医師が、少女の髪を撫でる。
 突然、その行為がとても汚らわしいものに見えた。私が育てた大事なもの、それに唾をつけるような行為に見えた。
 私のものを横取りする、ハイエナのように見えた。

「ふざけるな。このジジイ」

 瞬間、私の体の奥から、怒りが噴出した。
 それは、私の物だ。それは、私が育てた物だ。ジジイに横からとられてたまるか。

「ひっ」

 老医師が、小さく喉を鳴らす。
 いつの間にかフードは取れていた。
 私の体から立ち上る妖気に、金色の髪がゆらゆらとたなびく。ぞわり、とおさえようもない怒気が、足元から闇となって噴出した。
 精一杯の目力を込めて、私は老医師を睨む。
 きっと私の瞳は、炎のように赤く滾っているだろう。老医師は顔を引きつらせると、私から後ずさりして距離をとった。

 私は、その瞬間、愉悦を感じた。

 そうだ。これだ、人間を恐怖に陥れる感覚は。
 人間を襲うのをやめてから、ずっと忘れられていた感覚。
 欲望に任せて人を襲い、恐怖に歪む顔を見ながら、喉笛にくらいつく。あの甘美な感情。それを思い出していた。
 怒りが引き、徐々に私の体を欲望が支配する。
 老いぼれの身体なんて、食べるところなどほとんどないだろう。だが、その精神は格別だ。死を前にした恐怖は、格別な調味料となって美味しさを引き立てていく。
 この、恐怖に囚われて震える老人を食らい尽くしたら、どれだけ美味しいだろう――。

「美味しくないよ」

 その声に、我に返る。
 私は声のした方に目をやる。
 少女が、布団から這いだして、私の方へその白く細い手を伸ばしていた。

「美味しくないよ。そのお爺ちゃんは美味しくない」

 ふるふると震えながら、涙声で必死に訴える。
 美味しくない。食べない方がいい、と。

 ――『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。

 いつかの声が、頭の中にフラッシュバックした。
 あれは、私が、少女に言った言葉だ。食べられたくないなら、嘘を吐け、と。あんな下らない忠告を、この少女は守っているのだ。
 美味しくない、という必死の嘘を吐いたのだ。

 なんだ、嘘つけるんじゃん。
 嘘も吐けないような小娘だったくせに。

 私は急速にやる気を失っていた。
 残ったのは、ただめんどくさい、といういつもの気怠い気持ちだった。
 私はゆっくりと立ち上がる。「ひっ」と老医師が引き攣った悲鳴を上げたが、もうそれも気にならなかった。

「かえろ」

 私は、少女へ手を伸ばす。
 帰ろう。私たちの家に。埃の積もった汚い家に。
 少女は弱々しく頷くと、その手を嬉しそうにとった。


 
 
五、

 それから、十日くらい経った。
 あれ以来少女は病気にかかることもなく、元気に過ごしていた。
 私は今までよりも健康に気を使うようになった。晴れた日には布団を干して部屋中を掃除したし、食事の栄養バランスについてもミスティアに聞いて知識を得て、魚と、食べられる野草やキノコ(これもミスティアに訊いたのだ)を組み合わせて食事を作るようになった。
 そうしていると、ときどき、面倒くさい、という言葉が頭をよぎる。
 少女と一緒に、皮に釣り糸を垂らしているとき、手拭いで懸命にテーブルを拭いているとき、布団を干しているとき。
 面倒くさい、私は何やってんだ、という声が頭に響くのだ。
 でもだからなんだ、とも思う。それなりに楽しいからいいじゃん? と。
 そうやって、私たちの奇妙な生活も軌道に乗り始めていた。

 でも、始まりが唐突ならば、終わりも唐突で。
 気づかないうちに、この生活の終わりはすぐそこまで来ていたのだ。具体的に言えば、この家の、ドアの前まで。


 * * *


 夜中。
 私と少女が、台所のテーブルで向かい合って座って話していると、こんこん、とノックの音が聞こえた。
 こんな時間に、こんな場所に用がある人がいるとは思えなかった。私は、少女と目を見合わせる。
 何となく、嫌な予感がした。

「ママ」
 
 不安そうに、少女が声を上げる。嫌な予感は、少女にも伝播したのだろうか。

「あんたは先に寝てなさい。ママが出てくるから」

 そう言って、私は少女を一足先にベッドに向かわせる。少女は不安げにドアのところで一度振り返り、寝室に引っ込んでいった。

「さてと、何が出るかなあ」

 鬼が出るか蛇が出るか。
 少なくとも、いいことは無さそうだ、と思う。


「ごきげんよう。宵闇さん」
「あー」
 私は家から出ると、それに対峙した。そして思う。
 鬼や蛇のほうがよっぽどましだったんじゃないか、と。
 紫色した、ごちゃごちゃした装飾の悪趣味なドレス。フリルのついたナイトキャップみたいな帽子。赤いリボンをあしらった、かわいらしい紫色の傘。優美な扇子。そして、これ以上ない、妖艶な笑み。
 妖怪の賢者、幻想郷のとりまとめ役。

「八雲紫さん、かしら?」
「あら、私の名前を知っていてくださるなんて、光栄ですわ」ふわり、と笑う。胡散臭い、と思う。
「まあ、有名人だし」

 これ以上有名な妖怪もいないのではないか、と思う。
 幻想郷を管理する大妖怪の一人で、外と内を区切る境界を敷いたのも彼女だ。少なくとも私には及びもつかないほどの強力なパワーを持つ大妖怪。

「あらそう? 有名すぎるのも困りものね」

 妖艶に笑う。
 直接対峙したのは初めてだけれど、掴みどころがなくて話しづらい、というのが感想だった。

「で、何の用? 私、忙しいんだけど」

 私は彼女から目線を外しながら言う。
 視界の端で、紫がにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「子育てで、ですか」
「――っ」

 どこまで知っているのだ、この妖怪は。
 私の背中に冷や汗が流れた。
 しかし、かといって紫を怒らせるようなことをした覚えはない。外から来た人間を襲うことは、ルール上問題はないはずだ。咎められる言われはない。
 大丈夫だ、と言い聞かせる。
 しかし、紫からにじみ出る謎の圧力は、私の動悸を加速させる。

「私、あなたのお子さんに用があるの」
「私に子どもなんていないけど」駄目元で白を切る。
「あらあら。お医者さんの一件、私知ってますのよ」

 紫はにやにやと笑う。お医者さんの一件、とはあの、老医師を食べ損ねたあの事件のことだろう。こちらのカードは全てお見通しのようだった。
 私は奥歯を噛みしめ、うつむく。
 何のつもりで紫がここに訪れたのかは知らないが、いい方向にはいかないだろうという予感がする。
 黙り込んだ私に対し、紫は語り始める。

「その子はね。もともと私が目をつけていたの。ご存じのとおりその子は、外から来たいわゆる外来人ですけど、私は外の世界にいたときから欲しいと思っていたのよ」
「何のために」
「何のため? 愚問ですね。もちろん、次代の博麗の巫女の候補として、ですわ」
「博麗の巫女」

 私は、いつか見た巫女の姿を脳裏に描く。
 腰まである黒髪。紅白の巫女服。遠目に見ただけだったが、以前見たときには代替わりするような歳ではなかった気がする。
 私がそういうと、紫は全てを見透かしたように微笑む。

「以前? 以前っていつですか? 何年前?」

 その言葉に、私ははっとする。
 妖怪の時間感覚と人間の一生を、改めて考える。
 私たちの「以前」なんて、人間で言う「昔」なのだ。巫女を見たのは、それこそ何十年も前だったのではないか。
 人間は、私がまばたきする間に、老いて死んでいく。

「今の巫女も、もうお婆ちゃん。ずいぶんよくやってくれましたが、そろそろ休ませてあげたいの。それで、新しい巫女となる子を探していたんだけど、そこで」

 翻していた扇子を閉じて、私の背後の家を指す。
 正確には、家の中で眠る少女を。

「見つけたのよ。巫女に相応しい素質を持つ少女」

 もちろん外の世界でね、と紫は付け足しながら、笑う。
 なおも黙り込む私に、とうとうと語り始める。

「少々、その子の生い立ちについてお話ししましょうか」

 紫は、回想するように目を閉じて、歩きはじめた。私は、黙って聴いている。

「その子は、孤児でした。物心がつく前に両親は離婚し、育児放棄。押し付けられるようにして叔父の家に預けられました。しかし、その叔父の家もひどくてねえ。ことあるごとに理由もなくその子を叱りつけ、食事もろくに与えていなかったの。暴力こそなかったものの――いえ、だからこそ余計に他人が付け入れなかったのですが――その子の扱いは、虐待に近かった。ええ、私がその子を見つけたときはもうひどい状況で」

 私は思い出す。
 少女のか細い腕。青白い肌。こちらを窺う、不安げな瞳。

「出来る限り私は外の世界には干渉しないように考えていたのですが、その子の場合は話が別でした。そう、素質があった。八つの歳ながら純粋で穢れを知らない精神、不思議な勘の強さ、生真面目さ、そして持って産まれた優れた霊力」

 私は、少女と会ったあの夜のことを思いだす。
 少女は、暗闇の中、私の位置をぴたりと把握し、声をかけたのではなかった。あれが、勘の強さや、持って産まれた不思議な力によるものだとしたら。

「ただし、誤算が一つありました。私がこっちへ招き入れる準備をしているうちに、その子は自分の力で幻想郷の結界を越えてきてしまったんです。ええ、驚きました。ただの少女が、簡単に越えられるはずもありませんから。あとから聞いた話によると、彼女はその日――結界を越えた日、どうやら施設へ入れられる予定だったそうですね。叔父とその子を見かねた知人が、その子を施設へ連れて行く予定だったとか」

 シセツ、というのがどういうものかというのは分からなかった。が、それは何となく、白い監獄のようなものを想起させた。
 そして、そうか、と私は納得する。あのリュック。
 あれはどこかに遠出するためのものだ。シセツに向かうために、誰かが持たせたのだろう。

「思えば、その所為かもしれません。叔父という繋がりと、施設という繋がり、どちらにも属さない宙ぶらりんの状態。そんな状態と少女の持って産まれた力が、幻想郷に呼び寄せたのかもしれません。幻想郷は、何にも属さなくなった、忘れられたものが辿り着く場所ですから」

 紫は話し終えると、歩みを止めた。私は紫を見据える。

「長話が過ぎたようですね。じゃあ、用件を言いましょう。その子を私に下さいな」
「いやだ、と言ったら」私は悪あがきをする。どうせ、力ではかなわないとは分かっていた。
「あらら、困っちゃうわねー」

 まるで困って無さそうな声色で、紫は微笑む。
 最終的には力ずくで取り戻せばいい、という心づもりなのだろう。完全に主導権はあちらにあった。

「うーん、荒っぽいのは嫌いなのよねえ。どうしたものかしら」

 嘘を吐け。
 どうせ、私を倒すくらい、赤子の手を捻るようなものだ、と考えてるくせに。

「そうですね。出来るだけ穏便に、話し合いで決着をつけましょう。ね」

 これだけ力量差がはっきりしている中で、対等な話し合いなんて出来るはずもなかったが、私は頷く。
 それを確認すると、紫は嬉しそうに微笑む。

「そうね。ずばり訊くけれど。何故その子を引き渡すのが嫌なのかしら」
「何故って、それは」

 それは――何故だろう?

 私は、今一度自分の胸に問いかけてみる。
 私は引き渡すのが嫌だと感じた。こんな奴に少女を引き渡すなんて、ごめんだと。しかし、それはあくまで理不尽な紫の態度が気に食わないから、反抗してやろうというだけであって、少女と離れたくない云々とは別の感情だ。
 じゃあ、と私は、少女と離れてもいいと思っているのか。
 離れたくないと泣いてすがるほど、私は少女に情が移ったのか。
 このたった数日で?

 馬鹿らしい、と思った。

 最初は、少女を育てて、食べるつもりだった。
 肉付きを良くし、適度に感情を植え付け、妖怪に対する恐怖心を覚えさせ、美味しくいただく。
 でも、途中でそれのとてつもない効率の悪さに嫌気がさしたはずだ。それでも辞めなかったのは何故だ。

 面白かったからだ。
 人間に興味がある、とミスティアは言った。
 ならば、私も同じだ。人間に興味が湧いた。だから手を焼いて世話をした。割に合わないと思いながらも、一緒に暮らした。
 でもそれは、遊びと同じじゃないか。
 そう思った瞬間、急速に気持ちが覚めていった。
 そうだ、最初からなんとなくの暇つぶしだった。それがちょっとおかしな方向に行ってしまっただけのこと。結局どこまで行っても暇つぶしなんだから、あー楽しかった、でいつか終えなくてはいけない。

「あーあ、面倒くさーい」

 私は大きく伸びをする。
 紫は、突然の行動に、呆気にとられていた。

「いーよ。勝手に連れていっても。本当なら食べてしまいたかったけど、そんなこと言ったらあんたに殺されそうだし」
「えーと、急にどうしたの?」さすがの紫も、この変わりようには驚いたらしい。
「なんか、急に馬鹿らしくなっちゃった。何でこんなのに執着してたんだろーって。もともと、妖怪と人間っていう、相容れない存在なのにさ」
「そう」

 紫は、目を伏せる。少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


 * * *


 私は手ごろな木の枝に腰をかけて、欠けた月を見上げていた。
 少女と出会ったのが新月だったから、別れるまで一月も経っていないことになる。長いようで短かったな、とぼんやり思う。

「ママ?」

 声がする。もう聞きなれてしまった声。
 私は仕方なく、木の枝から飛び降りると、地面に着地する。軽く三メートルはあった落差を軽々と飛んでみせた母親に、少女は目を白黒させる。
 少女のほうを見る。
 少女は、紫に肩を支えられるようにして立っていた。

「ずいぶんとアクロバティックなことをするのね。人間って言う嘘、突き通すつもりはなかったの」
「別に」ぶっきらぼうに私は答える。

 私は、少女にすたすたと近づくと、目線を合わせるように中腰になった。

「あのね。私、実はあんたの母親じゃないの」

 感慨もなく、そう言った。
 少女は目をぱちくりさせる。今の今まで信じていたのだろう、その嘘を。
 馬鹿らしいと思った。
 こんな小柄な母親がいるものか。子供と全く違う髪の色と目の色の母親がいるものか。

「あなたは母親ってどんなのか、知らないから無理もないかもしれないけどね。母親ってもっと、大きくて、立派で、優しいのよ。それでいて暖かいの」
「ねえ、嘘でしょ、ママ」
「そう嘘だったのよ。ぜんぶ」私は、少女の頭を撫でながら諭す。

「私がママだっていうのも嘘」「私が人間だっていうのも嘘」「私があなたを愛してるみたいにふるまっていたのも全部嘘」

 私は、一気にまくし立てた。
 その間に、少女の目からは堰を切ったように涙が溢れていた。訳が分からないなりに、ひどいことを言われているのは感じているのだろう。

「なんで、ママ。ママ、分からないよ。ママ」

 うわ言のように言いながら泣きじゃくる。少女は私のスカートを必死で握りしめて、私を離すまいとしていた。
 私は、はあ、とため息を吐く。ほんと、面倒くさい。

「ねえ。私と離れたくない?」

 私が少女に尋ねる。
 少女はその言葉に、こくこくと壊れた人形のように何度も頷いた。

「と、こう申しておりますが」

 ささやかな抵抗とばかりに紫に言ってみる。やはり、無償で引き渡すのは癪に思えた。

「ご心配いりませんわ」

 紫は待ってましたとばかりに、空間に裂け目を作り出すと(これが彼女の能力らしい)そこから赤い布を取り出した。

「八雲紫謹製、封印のリボン。特殊な魔術をかけられた糸で編んだ特別製ですわ。これを身に着けて生活するだけで、あら不思議、悲しい思い出もたちどころに忘れられるという逸品」
「うわ、えげつない」

 記憶を消すのか。私はげんなりする。
 紫は、泣きじゃくる少女の頭に、それをちょんと乗っけてみせた。
 黒い髪に、大きなリボンの赤と、あしらわれたフリルの白が映えた。なるほど、似合うな、と場違いなことを考えた。
 紫はそこで、少し悲しそうな顔をする。

「私だって、本当はこんなことしたくないわ。だけど、ね。分かるでしょう?」

 確かに、思い出を引きずって生きることは、少女にとって過酷なことだろう、と思う。
 私と暮らしていたときよりも、紫に引き取られてからのほうが裕福な暮らしになるだろうというのは想像がついた。
 ならば、私との生活の記憶など、ないほうが彼女の為なのだ。

「そして、あなたの分も用意してありますわ」

 じゃーん、と言いながら空間の裂け目から取り出されたのは、少女と同じリボンだった。
 いや、一回り小さいし、フリルもあしらわれていない。これは、リボンというよりも――

「御札、じゃない? これ」
「あら、わかっちゃいます?」うふふ、と口元を隠して紫が優雅に笑う。少女の分はあっても、私の分は用意していなかったらしい。

「まあ、確かに御札に色を塗っただけのものですけど、これもすごいのよ? つけているだけで、それまでの記憶を封印出来ちゃうの」
「それを私につけるの? 必要なくない?」
「必要大ありです。思った以上に二人が互いに入れ込んでるみたいですし。博麗の巫女として育ってもらう以上、必要以上の妖怪とのなれ合いは、ないほうが好ましいの。まあ、ほら、あなたの金髪には映えるんじゃない? ワンポイントのアクセントとして。赤い御札リボン。ほら」

 隙を見て、紫が私の髪にリボンを結びつける。

「うわ、こら勝手につけるな!」
「大丈夫よ。そんなにすぐには効いてこないから。明日の朝くらいまで、記憶の封印には猶予があるわ」

 言いながら、紫は少女の髪にもリボンを結んだ。
 御札リボンと違い、こちらはずいぶんと大きい。頭よりも大きいくらいだった。
 私は、リボンに手を伸ばす。しかし、触ろうとした瞬間、バチっと電流が走るような感覚があった。

「いつっ! なにこれ、触れないんだけど!」
「そりゃ、私謹製の封印ですから、簡単には取れませんよ。勝手に外されたら困りますしね」

 全く、余計なことをしてくれたものだ。私はため息を吐いた。
 下を見る。
 依然として、少女は私のスカートを掴み泣きじゃくっている。
 その頭を撫でてやった。すると、少女はいったん泣き止み、不安げな瞳を私に向けた。

 私はしゃがみこんで、少女と目線を合わせた。
 これが、最後の会話になるだろう、という予感があった。
 しかし、何をしゃべっていいのか、思いつかなかった。
 別れの言葉? それとも、楽しかったよと言って抱きしめる?
 どちらも、このへんてこな共同生活を締めくくるにはふさわしくない気がした。
 うーん、とひとしきり悩み、あまり纏まっていない思考のまましゃべり始める。

「ね、覚えてる。怖い妖怪に出会ったときの対処法」

 少女はきょとんとしたが、おずおずと喋りはじめる。

「美味しくないって、言わなきゃダメ」
「そう。私は美味しくないですよ、って言わなきゃダメ。純真な子は妖怪にすぐに食べられちゃうから、嘘を吐かないとダメ。私は美味しくない、苦いすっぱいってね」
「うん」少女は、神妙な顔で頷く。

 いつか、この少女が大きくなったら。
 いつか見た博麗の巫女のように美味しそうに育ったら。
 そうしたら、私が食べに行ってやろう、と思う。もちろん、博麗の巫女なんて食べたら、紫がかんかんに怒るだろうけど、知ったこっちゃない。
 きっとこの子は、紫に殺されても後悔しないような、美味しい果実に育つ。予感がした。

 だからそれまで、食べられるな。私以外の妖怪に。
 私以外の妖怪に、美味しい果実であることを見破られてはいけないのだ。

 このやり取りも、二人の記憶から消え去るんだろう。
 だけど、ほんの少し、一欠けらでもいいからどちらかの無意識の底に沈殿してくれればいい、と思った。

 よし。もう言い残すことはない。
 だけど最後に。

「愛してるわ、我が娘」

 そう言って、抱きしめてやった。
 もちろん嘘だった。愛してもいないし、娘だと思ったこともない。
 だけど、嘘で始まった関係なら、最後も嘘で閉じても、罰は当たらないんじゃないだろうか。
 少女のぬくもりを感じながら、結局ちゃんと抱きしめてやるなんてこれが初めてだな、と思った。


 * * *


「じゃあ、これで」
「うん」
 少女をおんぶした紫との、簡素なやりとり。
 少女は泣きつかれたのか眠ってしまっている。いつもならもう寝ている時間だから、無理もない。
 紫の背後には、空間の裂け目がぱっくりと口を開けていた。紫をまるまる飲み込んでしまうくらいの大きさはある。きっと、それを潜り抜ければいろんな場所へ一瞬でワープできるのだろう。想像するだにとんでもない能力だ。

「そうそう」紫は片足を裂け目に掛けながら、思い出したように言う。「ひとつ、あなたに言って置きたいことがあります」
「なに?」
「これからの、人間と妖怪の在り方について。今までは、人間と妖怪のバランスの観点から、妖怪に人間を襲わせることを全面的に禁止していました。ですが、当然これは反発が大きかった。なのでこれから上手い策を考えるつもりです。人間も妖怪も楽しく暮らせる方法を」
「楽しく暮らせる方法?」
「そう。人間を守り、かつ妖怪も自由に人間を襲える策。まだ試作段階ですが、もう少しで実用的になりますよ」
「なんか、嘘くさいなあ」

 そんな簡単に、人間と妖怪が両立できるものだろうか。
 紫は、くすりと笑って続ける。

「嘘じゃないわ。まあ、さすがにあなたたちのように人間と妖怪が一つ屋根の下で暮らす、というのはなかなか難しいかもしれませんが。でも、きっと近いうちに実現する。約束するわ。今よりももっと素敵な、人間と妖怪の関係を作る」

 この子と力を合わせてね。
 紫は、背負った少女頭を、愛おしそうに撫でる。

「ふーん。ま、期待しないで待ってるよ」
「ええ」

 紫はたおやかに笑うと、空間の隙間に体を滑り込ませる。
 これで終わりか、とぼんやり思う。まだ、言い足りないことはなかったっけか。

「あのさ」

 私は、あまり考えもせずに、喋り出していた。

「私もひとつ、言って置きたいことがあるよ」

 紫は振り返らなかった。しかし、空間の裂け目を閉じずに、じっと立っている。

「あんた、博麗の巫女の資質ってやつのひとつに、生真面目さっていうのをあげたけどさ。その子にそれを求めてるんなら見当違いだからね」
「へえ?」

 興味深げに、紫が振り返る。

「その子はぐーたらなのさ。今までの環境では、生真面目にふるまうことしかできなかっただけ。本当は、面倒くさがりだよ。私と同じように」

 私は振り返る。
 少女との日々。
 短い中でいろいろあったけれど、一番に浮かんでくるのは、毎日、布団の中でごろごろしていたことだ。私と少女は、何をするでもなく一日ごろごろしていたことだってあるんだ。どうだ。
 紫は、淡々と返す。

「そうですか。ご心配には及びません。八雲式教育で、すぐに真面目な子に戻してみせますわ」
「無理だね。私には分かる。その子は将来ものぐさになる」

 紫は、何故か面白そうに笑った。そして、音もなく、空間の隙間は閉じた。




六、

 ――あ。
 ――おっ。
 ――ミスティアじゃん、何してんのさ、こんなところで。
 ――私は、山菜採り。採って人里で売るの。ちょっと入り用で。それよりルーミアこそ、ここで何やってんの。
 ――散歩。なんとなく。
 ――新月に?
 ――そう。
 ――ふーん、別にいいけど。


 ――私さ、ウナギ屋になるかも。
 ――へえ。
 ――ヤツメウナギって知ってる? 食べると目が良く見えるようになるってウナギなんだけど。
 ――うん。
 ――それ使って商売できないかなって。私の歌で鳥目にして、私のウナギで視力回復させるの。ね、面白いアイデアじゃない?
 ――それって詐欺じゃないの?
 ――えー、そんなことないって。
 ――それに、お金が必要なの?
 ――そ、屋台が欲しくてねー。自分で作るわけにもいかないし。今必死こいてお金溜めてる最中。


 ――私はさ。
 ――うんうん。
 ――前から新月の夜、散歩するの好きなんだよね。暗くて静かだし。
 ――うん。
 ――面白い発見もあるしね。
 ――発見?
 ――そう。例えば――
 ――例えば?
 ――いい例は思いつかないけど、とにかく、何かが見つかりそうな気がするの。
 ――なにそれ、わけわかんない。
 ――うん、ほんと、わけわかんない。









エピローグ

 ねぐらにしている古木の空洞から這い出ると、私は目を丸くした。
 あたり一面、真っ赤な霧に覆われていたのだ。
 私は空を飛んで、森を上から一望してみる。するとどうだ、森が霧にすっぽり包まれ、真っ赤に染まっているではないか。いや、森だけじゃない。その先の人里へつづく道も、人里も、竹林も、神社も、幻想郷全てが紅い霧に覆われていた。
 なんだこれは、と思う。誰がこんなことを。
 私はそうしているうちに、なんだか体の奥から力が湧いてくるように感じた。どうやらこの霧は妖霧でもあるようで、妖怪である私の力を増幅してくれているようだ。
 これはいい。
 私は胸いっぱいに、霧を吸い込む。気分が高揚していく。なんでもできそうな気分になる。

 そして、久しぶりに、人間を襲いたくなった。

 私は微笑む。
 一時期は妖怪は人間を襲ってはいけない、という面倒くさいルールがあった。しかし、つい最近、スペルカードルールというものが施行され、人を合法的に襲えるようになったのだ。それを使えば、人間と妖怪が対等になれ、決闘できるとして。
 私はうきうきした気分で森の上を飛び回る。行き先は決めていない。とにかく、目についた人間を襲いたい気分だった。

 そのとき、とある人影が目に映った。
 宵闇に溶けるような黒髪、大きな紅いリボン、紅白の巫女服。間違いない、あれは博麗の巫女だ。紅い霧を突っ切るように、まっすぐに飛んでいる。
 私はほくそ笑む。
 スペルカードルールにのっとれば、博麗の巫女にだって、堂々と襲い掛かれるのだ。
 私は、彼女に近づく。彼女は、私の姿を認めるとスピードを殺して止まった。
 二人対峙して、空中で睨み合う。
 私は彼女を見る。彼女も私を見る。
 愉快になって、手を大きく横に広げた。
 そして、私は彼女に問う。


「目の前が取って食べれる人類?」
















 ――目の前が取って食べれる人類?





『嘘を一滴、宵闇に溶かして』







一、

 私たち妖怪は夜目が利くと言うけれど、森の中、落ちている人間を見つけたのはさすがに初めてだった。

 私は、鼻歌を歌いながら森の中を散歩していた。春先、日が沈んで半刻の宵の口のことである。
 その日は新月で、日が落ちると、あたりはすぐに暗くなった。そうなるとただでさえ薄暗い森の中は暗さの二乗で、もう真っ暗だ。といっても私は妖怪で、しかも宵闇の妖怪だから、その程度の暗さは屁でもない。私は調子はずれの鼻歌を歌い、スキップするような足取りで森の中を進んでいた。
 大抵の妖怪は月の光が大好きだから、新月の夜になると静かになる。
 私も妖怪だから本来は自分のねぐらで閉じこもっている方が正しいのかもしれないけれど、私は変わり者だった。騒がしい月明かりの夜よりも、静かな暗い夜の方が好きなのだ。新月の、静謐な夜。妖怪も、それ以外の動植物も息をひそめて眠っているみたいに沈んだ夜。そんな夜を選んで私は散歩に出ていた。

 しばらく上機嫌で草を踏みしめて歩いていると、遠くに何か落ちているのを見つけた。
 向こうの茂みの中に、何かそれなりの大きさの物が、地面に横たわっている。
 野犬の死骸か何かだろうか。私は何となく、それに近づいてみた。
 近寄ってみると、それが野犬ではないことに気づいた。人の形をしていたのだ。見た感じ、妖怪には見えない。だとすると、人間だ。

「なんだってこんなところに」

 私は驚きながら、倒れた少女をまじまじと観察した。
 まず目についたのは、腰まである黒く長い髪だった。流れるようなその黒髪は、まるで闇に溶けてしまうみたいに見えた。
 そして、見たことのない長そでの服とスカート。その先から細く白い両手足が生えている。うつ伏せに倒れているせいで顔は分からないが、まだ年端もいかぬ少女に見えた。私もかなり小柄な妖怪だが、それよりも一回り小さい。
 私はその隣にしゃがみこむと、乱暴に少女の体を転がして仰向けにした。
 あらわになった顔は、やはり幼かった。
 人間の歳なんててんで分からないが、生まれてから十もしない歳だろうというのは推察できた。閉じられたまぶたの淵から、細長く黒い睫毛がゆるやかに伸びている。手足と同じように、顔も白く透き通っていた。ちょっと引っぱたいたら、すぐにぼろっと崩れ落ちてしまいそうな脆さを感じさせる少女だった。
 私は、少女の胸のあたりへと視線を滑らせる。じっと目を凝らすと、微かに上下しているのが分かった。
 まだ、生きている。

「さーて、どうしようかなー」

 私は腕を組んで考えた。この少女を、どうするべきか。
 具体的に言えば、食べるべきか、食べざるべきか、だ。
 私は妖怪である。
 妖怪ということは、人を襲って食べるということだ。私は変わり者だったが、人を食べるということについては他の妖怪と変わらない。
 そして、目の前の少女は、肉付きこそ良くないものの、とても美味しそうだった。白磁の肌はとても柔らかそうで、それにぞぶりと歯を立てたときの感触を思うだけで、よだれが滴ってくる。
 しかも生きている。
 そこらでのたれ死んだ旅人の死肉でも、野犬の喰い残しでもない、新鮮な生きた肉。これはまたとないチャンスだ。
 ならば、今すぐにでも齧りつこう――と考えて、やめた。そうするには問題が一つあるのだ。
 面倒くさがりの私にとっては至極やっかいな問題。
 しかし妖怪にとって、ひいてはこの幻想郷にとって、大事な、無視できない問題。まったくもって面倒くさい。


 まず、幻想郷と呼ばれるこの地は、以前(年数なんて数えてないのでよく分らないが、感覚的には結構前だ)偉い妖怪によって結界が貼られ隔離されてしまった。
 なんでも、妖怪を生かし、守るために。
 どうして結界で括られた中で生活することが妖怪を守ることにつながるのか、そこら辺の理屈は私にはよく分らないが、とにかく一番重要な点は、人を無闇に襲えなくなったということだ。
 人間を襲うことが存在意義である妖怪は、つまり、人間がいなくなれば存在できないということだ。限られた幻想郷という空間で、数少ない人間を襲うということは、真綿で首を絞めるようなものだ。
 もちろん、「少しぐらい人間を襲ってもばちは当たらないだろう」と思う輩もいるだろう。または「自分ひとりくらいルールを破っても構わないだろう」と思う輩も。
 しかし、意外にそう上手くはいかない。そういう輩に対しては結界を貼ったその偉い妖怪が直々に圧力をかけているみたいだし、人間による報復もまた馬鹿にできないのだ。
 だから私は、人は襲わない。
 ただし、偉い妖怪の圧力が怖いのでも、人間たちの復讐が怖いのでもない。人を襲ったことによるいざこざが嫌なのだ。それだったら別に人を襲わずに、のんびり過ごしている方が性に合っている。
 つまるところ面倒くさいのだ。


「うーん……」

 足元から声が上がる。
 私がそちらに目を向けると、少女が顔をしかめていた。
 しばらく眺めていると、そのまぶたがゆっくりと持ち上がった。やがて目をぱっちりと開くと、上半身だけ持ち上がる。

「あ、れ。ここ……」

 少女はきょろきょろとあたりを見回す。隣に私がいることには気づかないようだ。無理もない、新月の、真っ暗闇の森の中なのだから。
 私は、闇の中から少女を観察する。
 くりくりした瞳はこれまた髪の色と同じ、黒。見ていると吸い込まれそうなほど深い色をしていた。状況が分からずに宙をさまよう大きな目が、少女の幼い印象を加速させると同時に、利発的な子供のような印象も与えた。

 その目を見ているうちに、私の頭の中をよぎるものがあった。
 既視感。少女のことを見たことがある気がする。

 少し考えて、思い出した。
 神社の巫女だ。幻想郷の神社の、お目出度い色の服を着た巫女。あれのイメージとよく似ていた。
 さらさらした黒髪、漆黒の瞳。以前、遠目に見ただけだったが、目の前の少女はそれに似ていると思った。ただ違うとすれば、巫女に比べて、この少女は幼く、まだ年端もいかぬ年齢であること。
 しかし、どちらも肉が柔らかそうで美味しそうなのは変わらない。

「あなた、誰?」

 ふと気がつくと、少女が私を見ていた。闇に目が慣れたのか、その瞳はまっすぐ私を見据えている。
 この闇の中、人間に見つかるとは思っていなかったのでびっくりした。とっさに私は少女に返すべき言葉を探す。しかし、

「えーと……あなたは食べれる人類?」

 出てきたのはそんな馬鹿みたいな問いだった。何だそれは、と自分に突っ込みを入れる。それで「はい」と答える人間が、いったいどこにいるのだ

 思わず頭を抱える。
「うん」
「へ?」 

 聞こえるはずのない肯定の言葉。私は思わず少女の目をじっと見つめ返す。この子が返事をしたのだろうか。「うん」って。
 少女はこくんと小さく頷く。

「えっと……はい」
「いや、言い直さなくてもいいけどさ」
「うん」
「食べれるって自分で言っちゃダメでしょ」
「駄目なんですか?」少女は可愛らしく小首を傾げてみせる。
「駄目だよ」駄目だと思う。少なくとも普通の人間としては。

 変わった少女である。
 妖怪に対しての恐れがまるでない。世間知らずなのか、物怖じしない性格なのか。なんにせよ普通じゃない。

「そもそも、食べれる人類ってなんなのさ」

 自分の発言なのに、それを棚に上げて私は訊く。

「えっと、食べてもいい人間?」

 ほとんど鸚鵡返しのような返答だった。私は続けて訊いた。

「なんでお前が、食べてもいい人間なわけ?」
「食べられちゃ駄目って、教わらなかったから」

 それは確かに、教わらないだろうな。
 ため息を吐きながら、私は「いーい?」と語りかける。

「あのね、妖怪の問いなんかにまともに答えちゃダメ。嘘を吐いて、相手を煙に巻くくらいの気持ちでいなきゃ。特に今みたいな問いには、『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。すぐに食べられちゃうよ」

 私は、少女相手にくどくどと説教をする。
 頭の中で、冷静な私が「何をやってんだ」と嘲笑する。何やってんだろ、本当に。人間の小娘相手に、なんで妖怪対策のレクチャーなんかしてるんだ。
 少女の独特な雰囲気に、完全にペースを崩されている。

「嘘を吐くの?」少女は首を傾げる。
「そう、嘘を吐くの」
「嘘を吐いたらいけないって教わったよ」

 最近の人間は、そんなことを教えているのか。嘘を吐かないで、この世の中、どうやって生きていくというのだ。

「生きていくためには嘘も必要なの」
「そーなの?」
「そーなのよ」

 うん、と私は頷く。少女も、うんと頷く。
 変な状況だった。少女には、何故か自分のペースに引き込む力があるみたいだった。

「ねえ」少女が訊く。
「なに」少女と問答する理由なんかないことにとうに気づいていたが、私は律儀に返事をする。
「妖怪ってなあに?」
「へ」

 その質問に、私は思わず固まる。なに、最近の人間ってそこまで世間知らずなの?
 少し考えて、疑問が氷解する。そして同時に、少女と私の話がかみ合わなかった理由も悟った。

 この少女はきっと、幻想郷の外からやってきたのだ。

 なるほど、と得心がいった。
 見たことのない服に、世間知らずな言動。外からやってきた少女だとすれば、それらに説明がつく。
 私は、にんまりと微笑んだ。

 これは、チャンスだ。私は思う。
 人間と妖怪のバランスとやらを考慮するならば、なるほど人間を襲うのを禁じるのは道理だろう。ならば、幻想郷の人間としてカウントされていない人間を襲うのならば? そう、外来人を襲ったところで、幻想郷のバランスは崩れないだろう。
 我ながら、画期的な考えだと思った。
 私は芝居がかった口調で、少女に語りかける。

「妖怪っていうのはね、とおっても怖いのよ。人間が大好きでね、見つけたらすぐに食べちゃうの。特にお前みたいな穢れの知らない純粋な子がだぁい好き」

 自分の顔は見えないが、きっと赤ずきんを前にしたオオカミみたいに、嫌らしい笑みを浮かべているに違いない。
 少女は、状況が解らないのか、ぼんやりとこちらをながめている。
 その肌は、透き通るように白く、まるで私を誘っているように見えた。視線を滑らせる。線の細い首筋が目に飛び込んでくる。

 それに思いきり歯を立てても、誰も咎める者はいない。

 いただきます。心の中で唱えて、唇を少女の首に近づけていく。大きく口を開ける。
 さあ、あなたはどんな味?
 心の中で問いかけながら、上目づかいで少女を見上げた。

 少女と目があった。
 真っ黒な瞳。
 自分をまっすぐに見据えている、何も知らない目。

 その目に見られたら、なぜだか急速に食欲が失せていった。
「やーめたっと」
 私は少女から離れると、どっかとあぐらをかく。
 つまらない。こうまで反応がないと拍子抜けだった。
 私は人間を食べるのは好きだったけど、それは純粋な食欲を満たすためじゃない。恐怖が欲しいのだ。いざ食べられる瞬間の人間の、悲鳴、命乞い、引き攣った表情。そういうものが好きなのだ。こっちを怖がりもしない少女なんて食べても、腹は膨れても気持ちは膨らまない。
 そう思うと、波が引くみたいにやる気が遠のいていった。

「お姉さん、妖怪さんなの?」
「んー」

 状況がまるで呑み込めていない少女は、そんな場違いとも適切ともつかないような質問をする。

「そーだよ」
「人間を食べるの?」
「そう」私は、骨付き肉を頬張るようなジェスチャーをしてみせる。「むしゃむしゃってね。怖いでしょう」
「うん」少女は神妙に頷く。でもその顔は、よく分っていない顔だ。よく分らないけど、人の言うことはちゃんと返事しないといけない、と信じている子供の顔だ。

 これはいかん、と思った。
 このまま何も知らないまま大きくなれば、少女はきっと美味しくない人間に育ってしまう。ほどほどに世間を知り、ほどほどに純粋で、妖怪を怖がり、美味しく食べられてくれるような、そんな立派な人間に育たない。

「あんたは、人をもっと疑わなきゃダメ」
「え、でも」
「人はみんな嘘つきばっかなんだから。人を信じるのも大概にしなさい。特に初対面の得体の知れない奴なんかに惑わされちゃダメ」そう、特に私みたいな。
「うん」少女は頷く。まるで分かってないみたいだった。


「さて」

 私は腰を上げる。
 少し無駄なことをしゃべりすぎた気がする。これ以上話しても意味はないだろう。いい暇つぶしにはなったけれど、この人間が美味しくない部類の人間である以上、長居は無用だと思った。
 私は別れの言葉もかけずに、後ろを向く。
 そのまま歩き出そうとしたが、動けなかった。
 首だけ後ろに向ける。白く小さい手のひらが、私のスカートを掴んでいた。
 そのまま振り切って行ってしまっても良かったのかもしれないが、気まぐれで、私は声をかける。

「なに」

 少女は口をつぐんだままだ。助けを求めるように、私を仰いでいる。
 そんな目をして見られても、困る。

「だからなにさ」
「帰りたい」
「あー?」
「おうち、帰りたい」

 小さくか細い声が、夜の空気を震わせる。
 そりゃそうだよなあ、と私は思う。
 外の世界からよく分からないうちにやってきて、よく分からない奴に絡まれて。そりゃ、帰りたいよなあ。
 でも私にはどうにもできない。
 外に帰す方法も知らない。知っていたとしても帰す義理もない。
 この子がこの先どうやって生きていくのか、あるいはのたれ死ぬのか、想像するのも面倒だった。私にとってはどうでもいいことだ。
 私は少女を見下ろす。
 並んで立つと、やはり私よりも一回り小さかった。私だって小さいのに、どんだけ小さいんだよこの小娘。
 少女は、見下ろす私の目を不安げに見返していた。
 黒目がちの瞳は不安げにうるんで、今にも破裂しそうに見えた。必要以上に力のこもった肩は小刻みに震えている。
 なんだ、あるじゃん、恐怖の感情。そんな的外れなことを思って安心する。
 でもその恐怖は決して自分に向けられているものじゃない。むしろ自分がここからいなくなってしまうことの恐怖だ。
 そんな恐怖、やっぱり、食べても美味しくない。
 私はおもむろに、スカートを掴む少女の手に、自分の手のひらを重ねる。このまま強引に引き離すつもりだった。
 私は、手に徐々に力を込める。びくっと少女の手が震えた。

 そこである閃きが、私の頭の中を貫いた。
 食べれない人間なら、食べれるように仕立てればいいんだ。

 その突拍子もない思いつきは私を、わくわくさせた。
 この、何も知らない無垢な人間を、おいしく食べれる人間に育てる。小さくか細い体を私好みに成長させ、丸々と肥やす。
 適度な純粋さを残しつつ、適度に世の中のことやその他の感情を憶えさせ、適度に妖怪を恐れる人間にする。
 それが出来るのだ。
 この外からやってきた、身元不明の少女相手ならば。
 それはとても素晴らしい発想だった。天啓と言ってもいい。
 私は体を翻して少女に向き直ると、屈んで目の高さを合わせる。

「あのね」
「うん」
「私は実は、あなたのお母さんなの」

 私はまた嘘を吐く。あまりにも馬鹿みたいな嘘。騙されるはずのない、途方もない嘘。

「ママ?」
「そう、ママ」
「さっきは妖怪さんだって言ってたよ」
「それは嘘。本当はあなたを迎えに来た、あなたのママよ」

 少女は小首を傾げる。その小さな頭の中で、なにを考えているのだろう。
 信じようが信じまいが、私はどっちでもよかった。
 というか信じるはずがないと思っていた。それならそれで、力ずくで連れていけばいい。どうせこの少女に行く場所なんてないんだから。
 だけど、

「うん」

 少女は何故か、私のあからさまな嘘に首を振るのだった。
 私は呆れる。
 相変わらず、この少女の考えてることが分からなかった。年端がいかないことを差し引いても、あまりにも無防備すぎた。
 まあ、そっちのほうが好都合だ。
 私はさっと少女の手を取る。
「よろしくね」
 笑いかけてみる。出来る限りやさしく、警戒されぬように。
「うん」
 少女もそれに合わせて笑った。ぎこちない笑顔だった。


 そうして一滴の嘘は、宵闇に溶けていって。
 アンバランスな私たちの、嘘みたいな生活は始まった。
 



二、

 私は、背中を優しく揺する振動で目を覚ました。
 ベッドに横になったまま薄目を開ける。
 東向きの窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
 朝である。
 なんだってこんな朝早くに起きねばならんのだ。こちとら宵闇の妖怪だぞ。
 私は心の中で愚痴って、布団を深くかぶり直した。昨夜寝たのがもう夜が明けようかという時間帯だったから、まだ三時間も寝ていないはずだ。
 しかし、私を揺する振動は、時間がたつにつれて徐々に大きくなっていった。

「ママ」
「んー」
「起きて」
「んー」

 背後から誰かの声が聞こえる。聞きおぼえのない声だ。
 そちらを確認しようと、私は寝返りを打ち、目を開けた。
 黒髪の人間の少女がいた。

「あー」

 頭をがしがし掻きながら上半身を起こす。だんだんと昨日の記憶がよみがえってきた。
 確か、少女を拾って、この家まで連れ込んだのだ。
 我ながら面倒くさいことをしたと思う。
 自分好みの人間を作る、という発想は今でも素敵だと思うが、それにしても面倒くさい。そのために、おままごとじみたことをやらなきゃいけないなんて。

「ママ」
「はいはい、なーに」

 私は頭を掻いた手をそのまま腹に持っていき、そこをポリポリと掻く。

「お腹空いた」
「はあ」

 勝手にそこらでウサギでも狩ってこい、と言いたいところだけど、そうやって突き放すのは流石に酷なことだと思い直した。面倒くさい、と思いながらもしぶしぶ立ち上がる。
「たぶん、台所に適当な食べ物が残ってたと思う。それ、勝手に食べていいよ」

 それもちょっと投げやりな対応だったが、意外にも少女は文句を言わず、こくんと頷くととてとてと部屋から出ていった。
 私はため息を吐くとのっそりと立ち上がった。
 朝ということで本調子ではなかったが、もう一度寝なおす気も起きなかった。寝たところで、どうせまたあのちびっこに起こされるのが目に見えている。
 大きく伸びをすると、辺りを見回す。
 朝日を取り込む大き目な窓に、黄色いカーテン。本棚がふたつ、タンスがひとつ。丸テーブルひとつに椅子がふたつ。小柄なひとが二人寝泊まりするのには十分すぎる部屋だ。
 そして扉の向こうには台所にトイレに風呂。
 何とも豪華な仮住まいだと思う。私のような野良妖怪にとっては出来過ぎな環境だ。

 この家を見つけたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
 私がいつものように森の中を逍遥していると、ぽっかりと開けた広場のような場所に出た。そこに忘れられたようにこの家が建っていたのだ。
 私が見つけたときには、この家の持ち主はすでに居なかった。森の中で野犬や妖怪に襲われたのか、それとも人間の里に移住したのか。何にせよ、人が住まなくなってから長い時間が経過していた。
 この森は、通称魔法の森と呼ばれている。
 この森は常にじめじめしていて気味が悪く、人は基本的に寄り付かない。
 しかし、ここに生えるキノコは魔法の触媒として優秀なのだそうで、それを目当てにした好事家がごくたまに、この魔法の森に住んだりする。
 つまるところこの家の持ち主は、魔法使いか、それを志す者だったのだろう。
 何にしても、この場所を見つけられた私は幸運だったと思う。

「ママ」

 いつからいたのか、少女がドアから顔だけ出して、こちらを覗いていた。

「どうしたの」
「変な匂いがする」

 渋そうな顔をする。変な匂い、はて。
 私は少女に連れられて、台所へと向かった。


 * * *


 台所は思った以上にひどかった。
 少女が引っ掻き回したのだろう、食料があたりに散乱していた。
 そしてその食料がまたひどい。
 大量にあったパンはことごとくカビが生えていたし、果物の類も痛んで黒ずんでいた。ハムやソーセージから腐った匂いが立ち上っている。
 おもむろに足もとに転がっていた卵を一つ手に取って、皿に割ってみる。どろり、と黒ずんだ黄色の粘液がへばりついた。独特の異臭が漂ってくる。思わず鼻をつまんだ。真似するように、少女も鼻をつまんでいる。心なしか、涙ぐんでいるようだ。

 はて、この食料はいつ手に入れたんだっけか、と思いを巡らせる。
 確か、森を抜けた人里に続く一本道を歩いていた行商を襲って手に入れた物だ。もちろん命は取っていない。
 あれはつい最近のことだったような。いや、でももう一ヶ月経つのだろうか。そうか、そんなに前のことか。それは食料も腐るだろうなあ。
 妖怪の時間感覚なんてそんなものだ。
 大抵の妖怪は精神的な存在だから、飲まず食わずでも平気だ。もちろん、変わり者妖怪である私も。ただ、趣味として食事をすることもある。だから、たまたまその日、何か食べたいと思っていたところに行商が通りかかったものだから、それを襲った。
 そして襲ったはいいが、結局食べてる途中で飽きてほったらかしにしていたのだ。それだけだ。

 どうしたものか、と考える。どこからかハエが飛んできて、鬱陶しい。
 私はいい。食べなくても平気だ。
 だけど、人間はそうもいかないだろう。まったく面倒くさい。
 考えていると、袖を引っ張られた。
 そちらを見ると、少女が透明の袋を掲げている。見たことのない材質の袋だ。外の世界のものだろうか。

「ゴミ袋」
「ゴミ袋?」鸚鵡返しに、私は訊き返す。

 少女はこくんと頷いた。
 これで、とりあえず腐った食料を片付けようということだろうか。
 少女は足元に散乱した卵やハムやみかんを拾って、透明な袋に詰め始めるた。私もそれに倣う。
「そんなもの、どこにあったの」手を動かしながら、訊ねる。
「リュックの中」
「リュックって、あの背負う布の袋のやつ?」
「ん」こくん。

 昨夜、少女を連れて行くとき、近くに落ちていた布製の袋を見つけていた。
 少女曰く、それはリュックサックという代物で、それが彼女の唯一の持ち物だった。中は検めていなかったが、中にこの透明袋が入っていたのだろう。


 あらかた片付け終えて、一息吐く。
 まだ痛んでない果物や調味料の類、それとカビを取り除けば食べられそうなパンだけがテーブルに乗り、あとは口を縛った袋の中に閉じ込めた。

「あー疲れた」

 私は大げさに伸びをして、疲れました、とアピールする。
 実際、知らない相手と一緒に作業をするのは、結構疲れることだった。

「じゃあ、昼まで一眠りしようか。じゃあね」

 私はそそくさとベッドへ向かおうとする。しかし、少女はそんな私の袖を掴んでいた。

「お腹空いた」
「あー」

 忘れていた。もともと、この子の食事を探していたのだ。
 仕方がない、パンのカビを取り除いて食べさせるか、と考えたが、ふと思うところがあった。

「ちょっと待って」

 私はそう言いつけて、寝室へ引き返す。
 部屋の片隅に寄りかかるように置かれているリュックを手に取ると、少女の元へと戻ってきた。

「もしかしたらこの中に入ってるんじゃないかな、食べ物」

 何に使うのか分からない透明な袋が入っているくらいだ。多少の食糧くらいあってもおかしくないように思えた。
 さっそく私はリュックの蓋を開けると、中身を取り出す。
 少女用の服や下着、さっきのと同じ透明袋、封筒。鉄みたいな色をした筒のようなもの。
 掻きだしていくと、底の方に、透明な袋に入れられたパンが何個か出てきた。クリームパン、ジャムバターパン、カレーパン、などのカラフルな文字が、袋の表面に踊っている。

「これ、食べ物でしょ」私は、その一つを少女に差し出す。
 少女はおずおずとそれを受け取った。「食べていいの」と小さい声で訊く。
「あんたが持ってきたんでしょ。食べていいに決まってるじゃん」

 私の言葉を聞くと、顔を綻ばせて袋の口を開ける。
 その口から器用にパンの頭だけを出させると、齧りついた。もぐもぐと咀嚼すると、小さい喉を鳴らして飲み下す。そして、もう一度小さく齧りつく。
 私が二口で食べきりそうなそのパンを慎重に食べ進めていく姿は、小動物の食事風景を思わせた。
 まどろっこしい。見ていたら日が暮れてしまいそうだった。
 ぼんやりその姿を眺めていると、少女は動きを止めた。

「お水」
「あー水かー」

 そういえば、水のことを考えていなかった。
 一応、沢から汲んできた水があるにはあったが、それも食料と同様、いつのものか分からないような代物だ。
 どうしようか、と思案する私に、少女が鉄製の筒のようなものを手に取った。

「飲んでいい?」
「それ?」
「うん」こくんと頷く。

 どうやら筒の中には水が入っているらしい。
 水筒なのだろうか。だとしたら、鉄製の水筒を作るなんて、外の世界はだいぶ変わっている。

「だから勝手に飲みなって。誰も咎めないよ」

 私が許可を出すと、少女は水筒の蓋をはずし、それをコップにして中のものを注ぐ。
 水かと思ったそれはわずかに茶色をしていた。どうやらお茶のようだ。
 喉を小さく鳴らしながら飲み下すと、またパンに齧りつく。
 やっと半分くらいを食べ終わったところだった。全部食べきるまでにどのくらいかかることやら。
 まあ、暇だからいいけどね。
 はーあ、私はため息を吐く。暇じゃなかったら、こんな酔狂なことはやってない。
 私はぼんやりと、パンが少女の腹の中にゆっくりとおさまっていくのを眺めていた。

 
 * * *


 やっとのことで少女はパンを一つ食べきる。
 私はそれを見計らって、もう一つ別のパンの袋を差し出す。
 少女はちょっと悩んでいたが、それをずいと突き返した。いらないらしい。

「これっぽっちしか食べないの? お腹空くよ?」
「いい」

 首を頑なに横に振る。それで満腹なのだろうか。このくらいの歳の人間はそんなに食べないのだろうか。
 食べてもらわないと、困るんだけどなあ、と私は頭を掻く。
 最終的に、丸々美味しく育ってもらわないと、困る。こんな少食で、果たしてきちんと美味しく育つのだろうか。
 そうしていると、少女は私にパンを握らせてきた。

「ママが食べて」

 外の世界のパンがどういうものか、興味はあったが、少女の食料をここで減らすのは得策ではないと思った。

「ううん、ママはいらないから。また後で食べな、ね」

 受け取ったパンをまたリュックにしまい直す。取り出したその他の物も、一緒に詰めた。
 パンの数と、少女の食事量を考えると、あと三日くらいはもちそうだ、と目算する。

「さてと」

 私は台所を後にする。
 何を言われるでもなく、少女がちょこちょこと後をついてきた。
 こうしてみると、カモの親子のようだ、と思う。もっとも、少女にとってみれば本当に親子のつもりなのだろうが。
 寝室に辿り着き、私はベッドにどっかりと腰を下ろす。
 いろいろあったが、私は眠いのだ。このまま二度寝したい気分だった。
 私はゆっくり横になった。

「ママ」

 それを邪魔する声。言うまでもなく、少女だった。

「なに」

 私はもぞもぞと寝返りを打ちながら、少女に視線を向ける。
 少女はそんな私を不思議そうに見ていた。

「寝るの?」
「そう、寝るの」
「お仕事は」
「今日はお休み」永遠にお休みだ。
「私、学校に行かなくちゃ」
「ガッコー?」
「うん、お勉強するの。お友達と一緒に」

 人里にある寺子屋のようなものだろうか。噂によると、子供たちを集まって、読み書きや歴史を教えていると言うが。

「いーのよ。そんなもん」私は手をひらひらと振る。「ガッコーもお休み」
「でも」少女は不安そうに目を伏せた。そんなに勉強がしたいのだろうか。私にはよく分からない。

 面倒くさいので、私は少女をベッドの中に引きずり込む。

「きゃっ」
「あんたは真面目すぎ。もっと適当に、もっと怠けることを覚えなきゃ。私みたいに」
「でも、それじゃダメだって」
「ダメじゃない。いーい、ここで暮らす以上、私がルールだからね。私に逆らわないこと」
「えーと、うん」

 私の腕の中で居心地が悪そうにもぞもぞと少女が動く。

「分かったら、存分にぐーたらしなさい。命令よ。あくせく働いたらダメ」
「ダメ」少女は私の口調を真似してみせた。視線が交差する。何が嬉しいのか、口元を緩ませた。

「よーし、じゃあこのまま昼過ぎまで寝るよー」
「うん」

 少女はもぞもぞと動くとぴったりと身体をくっつけてきた。
 少女の体は熱かった。それは生命の持つ熱だった。生きている、少女は生きている。そんな当たり前のことを思う。春先、寒さの残る午前。そんな熱が心地よかった。
 結局その日、私たちが目を覚ましたのは夕方、日が暮れかかってからだった。

 


三、

 奇妙な共同生活が始まってから三日が過ぎた。


 面倒くさいとは思っていたが、人間の小娘を育てるのがここまでのものだとは思っていなかった。

 少女は一日きっかり三回の食事を要求してきた。
 これは誤算だった。人間は一日一回くらい食べて生活していると思っていたのだが、それでは足りないらしい。
 当初は三日もつと読んでいた少女の持ってきた食料も、これでは一日と少しでなくなってしまうだろう。まだ痛んでない果物やカビパンが残っていたが、それも長くはもたないだろう。

 少女はまた、風呂にも一日一回入りたがった。
 一日くらい入らなくても死にはしないって、と諭しても頑として譲らなかった。結局、ほとんど使ったことのない風呂を沸かして、一緒に入る。久しぶりの風呂は気持ちよかったし、悪い気持ではなかったが。

 着るものに関しては問題なかった。
 少女のリュックには、三日分の着替えが入れてあったし、順番に着回していけば一週間はもつだろうと考えている。汚れてしまったら洗えばいいし。

 総合してみると、一番何とかしなくてはいけないのは、食料だった。


 * * *


 朝。私たちは、のそのそと布団から這い出る。
 少女は眠い目をこすりながら、とてとてと部屋を出て行く。私は欠伸をしながらそれを見送った。
 朝起きて、朝食を食べ、二度寝する。
 そんなぐうたらサイクルが、二人の生活に染みつき始めていた。
 当初は怠けることに抵抗を覚えていた少女も、だんだんとこの堕落した生活に慣れてきたみたいだった。よい兆候だ。生真面目な奴とずっと一緒に住み続けるなんて、考えるだけで気詰まりがする。もっとも、この兆候が美味しい人間の第一歩として正しいのかは謎だったが。
 大きく伸びをすると、重い腰をあげて、少女を追いかけた。


 台所では、少女がリンゴと睨めっこしていた。

「どうしたの」私が訊く。少女は涙目をこちらに向けた。
「リンゴ」
「うん」
「包丁がないの」
「ああ」

 どうやら皮を剥けずに困っていたらしい。
 確かに、この家で包丁やナイフを見た記憶はない。でも、リンゴくらい、皮を剥かなくても食べられるだろうに。
 私はテーブルの上にあった、別のリンゴを手に取る。

「いーい? 皮なんか剥かなくても、大丈夫よ。ほら、こんな」私はそう言って、リンゴに歯を立てる。硬い果肉を、前歯でそぐようにして食べてみせた。しゃりしゃりと小気味のいい音がする。
 少女は不思議そうに私の行為を見ていたが、やがて意を決したようにリンゴに歯を立てた。なかなか齧ることが出来ずに苦戦して、ようやく一口、齧る。

 私はそれを眺めながら、思案する。
 カビの生えたパンは昨日で全部食べきってしまったようだ。食料はあと、数個の果物だけ。
 本格的に、食料の調達先を考えなくてはならないようだ。
 しかし、どうしようか。
 人里で買おうにも金なんかないし、人里の店を襲うのもあとがいろいろ面倒くさく、また、長期的に見て得策とも言えなかった。
 とすると――。

「ねえ」

 私は少女に言う。
 少女は、夢中でリンゴに齧りつきながら、上目づかいをこちらに向けた。

「お留守番、できる?」


 * * *


 私は森の中を歩いていた。
 この三日間は、ずっと少女と一緒だったから、一人で行動するのは久しぶりだった。解放感に胸がすく思いがする。これで真夜中ならテンションがさらに上がるのだけど、そうも言っていられない。
 歩きながら、私はきょろきょろとあたりを見回す。
 食料になりそうなものがないか、探すのだ。木の実や、ウサギなんかの小動物などがいれば嬉しいのだが。
 しばらく歩くと、沢に出た。森の中を流れる清流だ。それを見て、魚もいいな、と思う。塩でもかけて焼けば食べられるだろう。

「あら、珍しい顔」

 水面を覗き込んでいると、声をかけられた。
 顔を上げる。川の上の方、小高い岩の上から釣り糸を垂らす影があった。夜雀のミスティアだった。
 知らない顔ではないけれど、特に仲良くもない妖怪だ。

「何やってんのさ、こんなところで」
「それはこっちの台詞だけど。なに、釣り?」
「そう、釣り」ミスティアはからからと陽気に笑う。「人を襲うのも最近はいろいろ大変だしねえ、他に楽しいことでも始めようと思って」
「楽しいの?」
「んーあんまり」

 ミスティアの垂らした糸が、くいと引かれる。タイミングを合わせて釣竿を持ち上げるが、何もかかっていなかった。
 ちぇっ、また食われたよ、と口を尖らせる。
 釣り針にミミズのような虫を器用に片手でつけると、また清流に糸を垂らした。

「で、ルーミアはなんなのさ。こんな真昼間に、珍しいじゃない」
「それはあんたもじゃないの?」
「ん、まーそうなんだけどね」
「私は、ほら、暇つぶし」まさか、ここで人間の餌を探してるとは言えない。適当に嘘を吐く。

 それ以上会話は続かなかった。
 二人の沈黙を埋めるように水の流れる音がする。どこかで遠くで鳥がさえずっている。長閑だ。
 私は、手ごろな大きさの石を選んで歩きながら、ミスティアの元に行く。
 ミスティアの隣には、竹で編んだ籠が二つ置かれていた。
 片方を覗き込む。そこには、今まで釣った魚が五、六匹、白い腹を見せて横たわっていた。

「わ、結構釣れてんじゃん」
「でしょ」ミスティアが、誇らしげに歯を見せて笑う。
「ね、少しくらい分けてよ」
「だーめ。これから人里に売りに行くんだから」
「人里に?」私は眉をひそめる。何だって、わざわざそんなところに。
「ちょっとばかしお金が必要なのよ」
「ふぅん」妖怪にお金が必要な時なんて、あるのだろうか。それこそ、私みたいな奇特な状況に置かれないかぎり、そんな時なんて来ないような気がした。

 それから、二人はまた黙った。
 ミスティアは、釣りをする。
 私はここに来た目的も忘れて、ただそれを眺めていた。
 ミスティアが、それから二匹、川魚を釣り上げたとき、唐突に話し始めた。

「私はさ、この機会にちょっと商売やってみようと思って」
「はあ」

 あまりに唐突だったから、気の抜けた返事しかできない。
 ミスティアは構わず続けた。

「ほら、最近、人間を襲いづらくなったじゃん? 妖怪の賢者とかいう奴が、無闇に人を襲わないよう目を光らせてるしさ。やれ人間と妖怪のバランスとか、面倒くさい理屈こねくり回して」
「うん」私は、光を反射してきらめく水面を見ながら、相槌を打つ。
「だからさ、私はもっと別のことしようと思って。居酒屋まがいのことなんかしてみようかな、とか」
「なんでまた」
「うーんなんでだろ。強いて言えば、料理が好きだから、かな。なんか料理してると、他の誰かにも食べてもらいたくなるのよねえ」
「ふぅん」
「あと、暇だから。なんとなく」

 暇だから、なんとなく。
 それは何かを始めるときに、とても重要なことだ。
 暇だと何か酔狂なことをしたくなる。特に、妖怪みたいな長生きの存在は、暇になりがちで、とつぜん変なことをしたくなるのだ。
 私もきっとそれなんだろう。
 自分好みの人間を育てて食べるなんてことがどんなに割に合わないことだなんて、あの少女と暮らし始めて一日で、嫌というほど分かってる。
 つまり、私は暇だったのだ。

「人間相手に、さ」

 ミスティアの言葉に、私ははじかれたように顔を上げる。ミスティアの話はまだ続いていたらしい。
 私も人間のことを考えていた矢先だったから、その言葉に思わずどきっとする。

「人間相手に商売するの」
「なんでまた」
「人間のほうが舌が肥えてるからねー。料理のしがいがあるっていうかー? まあ、最近人間に興味が出てきた、っていうほうが大きいけどね」
「興味?」

 さっきから私は訊いてばかりだ、と思った。ミスティアは気にした風もなく続ける。

「うん。人間を襲わなくなってさ、私も考えたのよ。鳥頭なりに。人間ってなんだろうってさ。そう考えると、よく分からないよなー人間、って」

 妖怪は人間の想像から生み出される。
 妖怪と人間は、切っても切れない関係なのだ。それなのに妖怪は、人間を襲わねば生きていけない。生みの親を殺して、生きていくのだ。
 
「だから、今までにない新しい人間と妖怪の関係を模索する、ってわけ?」
「あはは、そこまで大それたこと考えてないって。そんなの、偉い妖怪たちが考えることでしょ。私はやっぱり、暇を持て余してるだけよ。何しよっかなーって考えた時に、人間のことが真っ先に頭に思い浮かんだだけ」
「ふうん」

 私は気の抜けたような返事をした。それきり、ミスティアも私も黙り込んだ。

 人間から妖怪が生まれたならば、結局、人間と妖怪はどこかでつながっているのだろうか。か細く、見えない糸のようなもので。あの少女が、今頃きっと私の帰りを待っているように。今、私が、何となく置いてきたあの少女のことが気になっているように。

 それからしばらく沈黙が流れた。
 その間に私は三回欠伸をし、ミスティアは二匹魚を釣った。

「さてと」
 釣った魚を魚籠に放り込むと、ミスティアは釣道具を片付け始めた。釣果は十分、ということだろうか。
 二つある籠の一方は、すでに釣った魚がひしめき合うように詰まっていた。ミスティアはおもむろに、空いている方の籠に、今しがた釣ったばかりの獲物を半分ほど移し始める。

「これ、あげる」

 ミスティアは、何を思ったかその籠をこちらに寄越した。
 見れば、中でびちびちと五匹、川魚が跳ねている。

「いいの?」
「うん、話聞いてくれたお礼」

 適当に相槌を打っていただけだったが、それでよかったのだろうか。私がそういうと、「いいんだよ」と照れ臭そうに笑った。

「なんかすっきりした。やるぞーって気になったしね」
「でも、商売道具なんでしょう」人里に持っていって売ると言っていた。
「もともとはそのつもりだったんだけどね。屋台買ったりする資金にしようと思って。あと、いざ料理屋をやる時に、何の料理をメインで出そうかなーっていう研究もかねて」
「魚料理がメインなの?」
「いや、川魚は微妙かなあ。今日の釣果はそこそこだけど、とれない日は全然とれないしね。もっと簡単にとれて、しかも人間がまだ目をつけてない食材ってないかねえ」

 そんなものが簡単に見つかるとも思わなかったが、「がんばってね」と声をかけておいた。我ながら無責任な言葉だと思う。

「じゃあ、本当にいいのね。これ」

 私は念を押す。後で返せといわれても、胃袋の中身は返せないのだ。

「いいのいいの。それじゃね」

 ミスティアはもう片方の魚籠を掴むと、釣竿を肩に担いで飛び立っていった。
 私はしばらく、籠の中の魚の白い腹を見ていたが、それを手に持ち家路を辿ることにした。
 それにしても、釣りというのはいい方法だ。
 少女の小さな胃袋を満たす分の魚ならば簡単に釣れそうだし、今度簡単な釣り竿を自作してみるのもいいかもしれない。そうすれば食材を手に入れつつ、食べきれない魚を人里に売って小金を稼ぎ、もっといい食材を手に入れることもできる。
 と、そこまで考えて、私はため息を吐く。
 私は、なんだってそこまでしなくてはいけないのだ。

「まあ、ずっと魚を食わせてればいいんだけど、それだと文句言いそうだしね」

 私は誰にでもなく言い訳すると、ふよふよ飛びながら家へと向かう。




四、

 少女の様子がおかしい。

 そのことに気が付いたのは、共同生活が始まってから六日目の朝だった。
 あとから思えば、前夜からその兆候はあったように思う。
 いつもより返答が遅かったり、心なしか足元がふらついていたり。でも、どちらも小さな兆しで、見逃してしまっても仕方なかった、と思う。
 

 私がいつものように、少女から遅れてベッドから這いだすと、台所で何か音がした。
 ごとり、という重いものが、地面に落ちる音。私は不審に思いながら、台所へと向かう。
 そこに、少女が倒れていた。

「どうしたの」

 私は少女に駆け寄る。頭を支えて抱き起した。

「あれ、ママ」
「うん、ママだよ。どうしたの」
「あれ、あれ」意識が朦朧としているらしい。心なしか、目の焦点も定まっていないように見えた。

 私は手のひらを少女の額に当ててみた。熱い。とんでもなく熱い。少女の体全体がかっかと熱を発している。
 人間について疎い私でも、これが異常事態であることはすぐに飲み込めた。

「よっと。歩ける?」

 私は少女に肩を貸しながら起き上がらせる。
 少女は自分の力で歩こうとするも、咳き込んでふらつき、倒れそうになった。私は背中からそれを支える。
 私はどうしたらいいか見当もつかない。とりあえず、少女を背負うと、ベッドに引き返し、寝かせて布団をかぶせた。

「とりあえず、寝てなさい。すぐに良くなるから」嘘を吐く。たぶん、寝ているだけでは治らない。
 それでも少女は、うんうんと頷くと素直に目を閉じる。
 本当に嘘に免疫のない子だ、と呆れる。

 さて、どうしたものか、と思案する。
 当然のことながら、人間の病気について私は何も知らない。妖怪は人間が罹るような病気にはならないのだ。
 つくづく、人間の体は不便だな、と改めて思う。
 一番いいのはもちろん、人間の医者に診てもらうことだろう。だが、そこには問題がいくつかあった。
 例えば金銭面。
 私は、病気を治すのにいったいいくらかかるのか知らない。少なくとも手元にある、釣った魚を売って得た小金程度では足りないだろうということは分かっている。
 そして、お金があったとして今度は、妖怪の私がどんな面をしてこの子を医者に連れて行くのか、という問題が残る。
 魚を売る程度ならば問題ないだろう。しかし医者に行くのは、小金を稼ぐのとは違う。
 幼い人間の子を、私のような似ても似つかない容姿の妖怪が連れて行ったとして、疑われるのは目に見えている。たとえ妖怪だとばれなくとも、二人を並べて親子だと思う人なんかいやしないのだ。

 私は、ベッドの上で寝ている少女を見下ろす。
 苦しそうに息を荒げ、ときどき咳き込んでいる。体調はやはり芳しくないようだ。

「暑い……」少女はうわ言のようにつぶやく。「暑いよ、ママ」
「暑いってったってねえ」

 私は考える。
 水でもぶっかけようか、とも思ったがそれが得策とはどうしても思えない。水を含ませた布で顔でも拭いてあげれば、体温が下がるだろうか。
 私は台所に向かうと、手拭いを水瓶の中に浸し、ぎゅうっと絞る。
 私は何をしているんだろう、と今更ながらに思ったが、それ以上考えるのが面倒くさい。
 私は適度に水分を絞り取った手拭いを手に、少女の元に戻る。
 依然として苦しそうに息をする少女の頬に、それを宛がった。

「ひゃっ」びくっ、と少女の体が跳ねる。
「あ、冷たかった?」私は反射的に手拭いを引っ込めた。
 少女はふるふると首を横に振る。「ううん。びっくりしただけ。気持ちいいよ」
「そう」私はほっと息を吐く。もう一度手拭いを、今度は首筋にそっと当てた。

 少女はくすぐったそうに体をよじる。
 私は少女の顔を、念入りに拭いていく。一通り拭き終わると、一番置きやすそうな額に、手拭いを置いてみた。
「冷たい」少女は笑う。

 しかし、あまり体調は良くなってはいないようだった。
 まだ肩で息をしているような状況だし、時折咳が混じっている。
 決断の時は迫って来ていた。

 正直、どちらでも良かった。
 このまま少女が死んでしまっても、私は一向に構わなかった。いっそ死ぬ前に食べてしまう、というのも一つの選択肢だった。あるいは、駄目元で医者に連れていって、運よく直れば、また少女を育てる生活に戻ることもできる。
 私はどっちに転がってもよかった。

「ねえ」

 私は少女の髪を何とはなしに梳きながら、問う。

「苦しい? お医者さんに行って、早く良くなりたい?」

 苦しいに決まっていた。早く良くなりたいに決まっていた。
 だけど、私は訊いた。何とはなしに、気まぐれに、だ。
 少女はしかし、私の予想外の言葉を吐いた。

「ううん、へいきだよ。私、苦しくないよ」

 どの口がそれを言うのか。
 私は呆れた。この少女の言動には呆れてばかりだが、このときばかりは本当に呆れた。
 誰が見ても、それは明らかな嘘だった。

「嘘つき」私は、少女の額をつつく。

 嘘を吐いて、相手を煙にまけ。
 そう言ったのは確かに私だ。だけど、こんなときに嘘なんか、吐くもんじゃない。彼女の心の中で、彼女に下手な嘘を吐かせたのは、いったい何だ。

 よし、決めた。
 私は少女の手をとる。少女はぼんやりと私を見ていた。

「お医者さんに行こう」

 妖怪が人間を連れて行くなんて、何を言われるか分かったもんじゃない。
 それでも、少女の嘘を聞いたら、連れて行かなくてはいけないような気になっていた。


 * * *


 私は一時間かけて人里へと辿り着いた。
 普段なら空を飛んですぐに来られるのだが、少女が一緒ならば別だった。私は、少女にとっては母親であり、変哲のない人間なのだ。空を飛ぶわけにはいかない。私は少女を背負いながら、できるだけ足早に人里の門をくぐり抜けた。

「すみません。お医者さんはどこですか」

 私は、道を行く人の中から、出来るだけ親切そうな女性を選んで声をかける。空の買い物籠を腕に下げているところを見るに、これから買い物に行くのだろう。

「あら、どうしたの?」

 女性は足を止め、やや屈むようにして私に目線を合わせる。
 私は、少女の持ってきた服の一つである、帽子がくっついた服を着ていた(パーカーというらしい)。
 金髪の私が黒髪の少女を連れていたら、怪しまれるだろう、という苦肉の策だ。少女と私で、そこまで背格好が変わらないことが幸いした。しかし、目深に帽子(フードというらしい)を被った格好もそれなりに怪しいため、あまり効果もないように思える。
 女性は私を一瞥し、訝しむように眉をひそめる。しかし、私の背中に負ぶさった少女を見るにつけ、のっぴきならない状況だということを悟ったらしい。すぐに親切な女性の顔つきに戻った。

「あら、大変! お医者様に診てもらわなきゃ」
「はい」だから、そう言ってるじゃないか。「あの、場所を」
「一番近いところなら、そうね……。伊助さんのところかしら。ちょっと分かりにくいところにあるから、私が案内するわ」
「ありがとう」私は軽く頭を下げる。少女の脱力した体が、がくんと揺れた。
 少女との関係を訊かれなかったのはありがたかった。私は、小走りで先導する女性のあとを追った。


 * * *


 伊助、という医者の家はずいぶんと古びていた。
 よく言えば昔から開業している、由緒ある家柄ということなのだろうが、どちらかと言えば不安感のほうが強く、出来るなら罹りたくない類の病院だ。
 しかし、今更四の五の言っていられるはずもなく、女性のあんなに勧められるままに戸を叩く。

「はいはい、なんだね」

 奥から出てきたのは、だいぶ歳を召した男だった。家がおんぼろなら、中身もおんぼろか。こんな男に、果たして少女が治せるのか、不安になる。

「はい、あのこの子の体調がすぐれないようで」

 私が口を出すよりも先に、道案内してくれた女性が説明する。ずいぶん世話焼きな女性だ。もっとも、この状況で話を勝手に進めてくれるのはありがたかった。

「ふむ、上がんなさい」

 老医師はそう言うと、奥に引っ込んでいく。私は慌てて靴を脱ぎ、少女の靴を脱がせる。

「あとは伊助さんの話に従ってね。少しお歳だけど、腕は確かだから」

 どうやら女性はここでお別れらしい。
「うん、ありがとう」私は礼を言い、老医師のあとを追った。


 少女の診療を終える。
 少女は畳に敷かれた布団の上で寝息を立てていた。老医師の処方した薬を飲んでからは、見違えるように顔色が良くなってきた気がする。峠は越えた、ということか。
 腕は確かというのは本当らしい。
「風邪と、肺の方が少しやられておったよ。手遅れになっていたら危なかったかもしれん」

 老医師は、診察に使った器具をしまいながら、言う。
 私は出来るだけ殊勝に見えるよう、神妙に頭を下げ、礼を言った。

「ところでその、お代のほうは」

 私は申し訳なさそうな声色で言う。
 我ながら診療が終わったこのタイミングで言いだすのは卑怯だと思ったが、背に腹は代えられない。いざとなったら情に訴えかけて、タダにでもしてもらえばいい。人間が情に弱いのは知っていた。
 老医師は、腫れぼったいような垂れ下がったまぶたの下から、こちらを睨んだ。
 品定めするような目だ。私の何かを、訝しんでいる。
 私は被せるように続ける。

「あの、実は今、持ち合わせがなくて。後で必ず払いますから」

 私は情に訴えかけるように、老医師を上目づかいで見つめる。
 目と目が合う。年老いたくせに、眼光だけはぎらりとしていて不気味だった。

「別に、お前さんのような幼子から大金を巻き上げるつもりはないよ。それよりも」

 老医師は診療器具を片付け終えると、膝をこちらに向けて座り直す。

「お前さん、変わった目の色をしてるな」

 はっ、と思い、目を逸らす。逸らしてから失策だった、と気付いた。
 ここで目を逸らしたら、自分が怪しい奴だと明言しているようなものだ。
 髪の色はフードで隠せばいいと思った。背格好が似ているなら、姉妹で通せると思った。
 しかし、目の色は、明らかに違う。
 少女は黒。私は、血のような赤だ。姉妹で通すのは難しい。
 顔を伏せた私に対し、老医師はつまらなそうに鼻を鳴らす。

「あんたが何者かなんて、私は興味ないがね。私はここに来た患者さんを治すだけだ。ただ――」

 老医師はそこで話を止める。ふうっと長く息を吐いた。沈黙が長く感じられた。

「この娘にどんな生活をしていたのか、それが知りたいね」

 私は、伏せていた顔を上げる。
 老医師は、そのぎらりとした目線をこちらに向けて、あぐらをかいていた。

「どんな、と言われても」
「例えば、栄養のあるものを、バランスよく食べさせていたかね」

 栄養。バランス。
 考えたことがなかった。
 ただ、適当に腹を膨らませることだけを考えていた。昨日は一日魚だったし、その前は魚を売ったお金で買った肉だった。
 少女は、文句も言わずそれを食べていた。
 ふん、と老医師は鼻を鳴らす。

「この子は、肺もやられておった。つまり、あまり綺麗なところで暮らせていないということじゃないかね」

 続けて、老医師は糾弾する。
 思い当たる節は多すぎた。
 第一、魔法の森という場所自体が、化物キノコの胞子が年中舞うような場所だ。私たちの住む家は、ぽっかりと開けて森の中でも日当たりがよく、キノコもあまり生えていなかったが、それでも年端もいかない少女の肺を痛めるには十分だったのだろう。
 ろくに掃除もしていないのも原因だろう。
 確か、あの家に住みだしてから、まともに掃除をしたことなんてあっただろうか。掃除していない埃の積もった部屋での生活は、どれだけ少女にとって過酷だったのだろうか。

 私は何も知らなかった。
 少女が、人間というものが、どれほど頼りなく、面倒くさい存在であるか。

 ちらりと寝ている少女のほうを見やる。
 安らかな表情で寝入っていた。少女の寝息に合わせて、少女の胸のあたりが上下するのが見て取れた。それはあまりにも小さい、生命の営みに思えた。

「お前さんたちが、どういう生活を送っているのかは知らん。お前さんたちの親御さんが、どういう考えを持っているのか」

 老医師は、あごに生えた白髪の無精ひげをなでながら言う。
「親御さん」。私たちは、複雑な家庭の姉妹だと思われているのだろうか。妖怪だとまだ悟られていないのはありがたかった。安堵する。
 しかし、安心したのもつかの間だった。次の老医師の発言は、また私を凍りつかせた。

「この子は、しばらくうちで引き取ろう」

 驚いて、顔を上げる。何を言っているのだ、この男は。
 老医師は、あごを撫でながら、少女の方へ目を向ける。

「この様態を見る限り、とてもこの子が暮らしていけるような環境じゃあるまいに。この子の命を守るために、私はしばらくこの子の身柄を引き取る。親御さんには私があとで話を通そう」
「何を、言ってるの」何を身勝手なことを。
「もちろん、親から子を取り上げるというのは横暴だと思っておる。だが、場合が場合じゃろう。このままこの子を帰したとして、この子がさらに重い病に罹ることは目に見えておる。少しの間だけ、距離をとるのも一つの策じゃと言っておるのじゃ」
「ダメ」

 駄目だ。ここで詳しく少女のことを調べられたら、私たちの関係がばれてしまう。それだけは避けなければ。

「妹と離れるのが嫌なのは分かる。だがな」

 老医師が、少女の髪を撫でる。
 突然、その行為がとても汚らわしいものに見えた。私が育てた大事なもの、それに唾をつけるような行為に見えた。
 私のものを横取りする、ハイエナのように見えた。

「ふざけるな。このジジイ」

 瞬間、私の体の奥から、怒りが噴出した。
 それは、私の物だ。それは、私が育てた物だ。ジジイに横からとられてたまるか。

「ひっ」

 老医師が、小さく喉を鳴らす。
 いつの間にかフードは取れていた。
 私の体から立ち上る妖気に、金色の髪がゆらゆらとたなびく。ぞわり、とおさえようもない怒気が、足元から闇となって噴出した。
 精一杯の目力を込めて、私は老医師を睨む。
 きっと私の瞳は、炎のように赤く滾っているだろう。老医師は顔を引きつらせると、私から後ずさりして距離をとった。

 私は、その瞬間、愉悦を感じた。

 そうだ。これだ、人間を恐怖に陥れる感覚は。
 人間を襲うのをやめてから、ずっと忘れられていた感覚。
 欲望に任せて人を襲い、恐怖に歪む顔を見ながら、喉笛にくらいつく。あの甘美な感情。それを思い出していた。
 怒りが引き、徐々に私の体を欲望が支配する。
 老いぼれの身体なんて、食べるところなどほとんどないだろう。だが、その精神は格別だ。死を前にした恐怖は、格別な調味料となって美味しさを引き立てていく。
 この、恐怖に囚われて震える老人を食らい尽くしたら、どれだけ美味しいだろう――。

「美味しくないよ」

 その声に、我に返る。
 私は声のした方に目をやる。
 少女が、布団から這いだして、私の方へその白く細い手を伸ばしていた。

「美味しくないよ。そのお爺ちゃんは美味しくない」

 ふるふると震えながら、涙声で必死に訴える。
 美味しくない。食べない方がいい、と。

 ――『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。

 いつかの声が、頭の中にフラッシュバックした。
 あれは、私が、少女に言った言葉だ。食べられたくないなら、嘘を吐け、と。あんな下らない忠告を、この少女は守っているのだ。
 美味しくない、という必死の嘘を吐いたのだ。

 なんだ、嘘つけるんじゃん。
 嘘も吐けないような小娘だったくせに。

 私は急速にやる気を失っていた。
 残ったのは、ただめんどくさい、といういつもの気怠い気持ちだった。
 私はゆっくりと立ち上がる。「ひっ」と老医師が引き攣った悲鳴を上げたが、もうそれも気にならなかった。

「かえろ」

 私は、少女へ手を伸ばす。
 帰ろう。私たちの家に。埃の積もった汚い家に。
 少女は弱々しく頷くと、その手を嬉しそうにとった。


 
 
五、

 それから、十日くらい経った。
 あれ以来少女は病気にかかることもなく、元気に過ごしていた。
 私は今までよりも健康に気を使うようになった。晴れた日には布団を干して部屋中を掃除したし、食事の栄養バランスについてもミスティアに聞いて知識を得て、魚と、食べられる野草やキノコ(これもミスティアに訊いたのだ)を組み合わせて食事を作るようになった。
 そうしていると、ときどき、面倒くさい、という言葉が頭をよぎる。
 少女と一緒に、皮に釣り糸を垂らしているとき、手拭いで懸命にテーブルを拭いているとき、布団を干しているとき。
 面倒くさい、私は何やってんだ、という声が頭に響くのだ。
 でもだからなんだ、とも思う。それなりに楽しいからいいじゃん? と。
 そうやって、私たちの奇妙な生活も軌道に乗り始めていた。

 でも、始まりが唐突ならば、終わりも唐突で。
 気づかないうちに、この生活の終わりはすぐそこまで来ていたのだ。具体的に言えば、この家の、ドアの前まで。


 * * *


 夜中。
 私と少女が、台所のテーブルで向かい合って座って話していると、こんこん、とノックの音が聞こえた。
 こんな時間に、こんな場所に用がある人がいるとは思えなかった。私は、少女と目を見合わせる。
 何となく、嫌な予感がした。

「ママ」
 
 不安そうに、少女が声を上げる。嫌な予感は、少女にも伝播したのだろうか。

「あんたは先に寝てなさい。ママが出てくるから」

 そう言って、私は少女を一足先にベッドに向かわせる。少女は不安げにドアのところで一度振り返り、寝室に引っ込んでいった。

「さてと、何が出るかなあ」

 鬼が出るか蛇が出るか。
 少なくとも、いいことは無さそうだ、と思う。


「ごきげんよう。宵闇さん」
「あー」
 私は家から出ると、それに対峙した。そして思う。
 鬼や蛇のほうがよっぽどましだったんじゃないか、と。
 紫色した、ごちゃごちゃした装飾の悪趣味なドレス。フリルのついたナイトキャップみたいな帽子。赤いリボンをあしらった、かわいらしい紫色の傘。優美な扇子。そして、これ以上ない、妖艶な笑み。
 妖怪の賢者、幻想郷のとりまとめ役。

「八雲紫さん、かしら?」
「あら、私の名前を知っていてくださるなんて、光栄ですわ」ふわり、と笑う。胡散臭い、と思う。
「まあ、有名人だし」

 これ以上有名な妖怪もいないのではないか、と思う。
 幻想郷を管理する大妖怪の一人で、外と内を区切る境界を敷いたのも彼女だ。少なくとも私には及びもつかないほどの強力なパワーを持つ大妖怪。

「あらそう? 有名すぎるのも困りものね」

 妖艶に笑う。
 直接対峙したのは初めてだけれど、掴みどころがなくて話しづらい、というのが感想だった。

「で、何の用? 私、忙しいんだけど」

 私は彼女から目線を外しながら言う。
 視界の端で、紫がにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「子育てで、ですか」
「――っ」

 どこまで知っているのだ、この妖怪は。
 私の背中に冷や汗が流れた。
 しかし、かといって紫を怒らせるようなことをした覚えはない。外から来た人間を襲うことは、ルール上問題はないはずだ。咎められる言われはない。
 大丈夫だ、と言い聞かせる。
 しかし、紫からにじみ出る謎の圧力は、私の動悸を加速させる。

「私、あなたのお子さんに用があるの」
「私に子どもなんていないけど」駄目元で白を切る。
「あらあら。お医者さんの一件、私知ってますのよ」

 紫はにやにやと笑う。お医者さんの一件、とはあの、老医師を食べ損ねたあの事件のことだろう。こちらのカードは全てお見通しのようだった。
 私は奥歯を噛みしめ、うつむく。
 何のつもりで紫がここに訪れたのかは知らないが、いい方向にはいかないだろうという予感がする。
 黙り込んだ私に対し、紫は語り始める。

「その子はね。もともと私が目をつけていたの。ご存じのとおりその子は、外から来たいわゆる外来人ですけど、私は外の世界にいたときから欲しいと思っていたのよ」
「何のために」
「何のため? 愚問ですね。もちろん、次代の博麗の巫女の候補として、ですわ」
「博麗の巫女」

 私は、いつか見た巫女の姿を脳裏に描く。
 腰まである黒髪。紅白の巫女服。遠目に見ただけだったが、以前見たときには代替わりするような歳ではなかった気がする。
 私がそういうと、紫は全てを見透かしたように微笑む。

「以前? 以前っていつですか? 何年前?」

 その言葉に、私ははっとする。
 妖怪の時間感覚と人間の一生を、改めて考える。
 私たちの「以前」なんて、人間で言う「昔」なのだ。巫女を見たのは、それこそ何十年も前だったのではないか。
 人間は、私がまばたきする間に、老いて死んでいく。

「今の巫女も、もうお婆ちゃん。ずいぶんよくやってくれましたが、そろそろ休ませてあげたいの。それで、新しい巫女となる子を探していたんだけど、そこで」

 翻していた扇子を閉じて、私の背後の家を指す。
 正確には、家の中で眠る少女を。

「見つけたのよ。巫女に相応しい素質を持つ少女」

 もちろん外の世界でね、と紫は付け足しながら、笑う。
 なおも黙り込む私に、とうとうと語り始める。

「少々、その子の生い立ちについてお話ししましょうか」

 紫は、回想するように目を閉じて、歩きはじめた。私は、黙って聴いている。

「その子は、孤児でした。物心がつく前に両親は離婚し、育児放棄。押し付けられるようにして叔父の家に預けられました。しかし、その叔父の家もひどくてねえ。ことあるごとに理由もなくその子を叱りつけ、食事もろくに与えていなかったの。暴力こそなかったものの――いえ、だからこそ余計に他人が付け入れなかったのですが――その子の扱いは、虐待に近かった。ええ、私がその子を見つけたときはもうひどい状況で」

 私は思い出す。
 少女のか細い腕。青白い肌。こちらを窺う、不安げな瞳。

「出来る限り私は外の世界には干渉しないように考えていたのですが、その子の場合は話が別でした。そう、素質があった。八つの歳ながら純粋で穢れを知らない精神、不思議な勘の強さ、生真面目さ、そして持って産まれた優れた霊力」

 私は、少女と会ったあの夜のことを思いだす。
 少女は、暗闇の中、私の位置をぴたりと把握し、声をかけたのではなかった。あれが、勘の強さや、持って産まれた不思議な力によるものだとしたら。

「ただし、誤算が一つありました。私がこっちへ招き入れる準備をしているうちに、その子は自分の力で幻想郷の結界を越えてきてしまったんです。ええ、驚きました。ただの少女が、簡単に越えられるはずもありませんから。あとから聞いた話によると、彼女はその日――結界を越えた日、どうやら施設へ入れられる予定だったそうですね。叔父とその子を見かねた知人が、その子を施設へ連れて行く予定だったとか」

 シセツ、というのがどういうものかというのは分からなかった。が、それは何となく、白い監獄のようなものを想起させた。
 そして、そうか、と私は納得する。あのリュック。
 あれはどこかに遠出するためのものだ。シセツに向かうために、誰かが持たせたのだろう。

「思えば、その所為かもしれません。叔父という繋がりと、施設という繋がり、どちらにも属さない宙ぶらりんの状態。そんな状態と少女の持って産まれた力が、幻想郷に呼び寄せたのかもしれません。幻想郷は、何にも属さなくなった、忘れられたものが辿り着く場所ですから」

 紫は話し終えると、歩みを止めた。私は紫を見据える。

「長話が過ぎたようですね。じゃあ、用件を言いましょう。その子を私に下さいな」
「いやだ、と言ったら」私は悪あがきをする。どうせ、力ではかなわないとは分かっていた。
「あらら、困っちゃうわねー」

 まるで困って無さそうな声色で、紫は微笑む。
 最終的には力ずくで取り戻せばいい、という心づもりなのだろう。完全に主導権はあちらにあった。

「うーん、荒っぽいのは嫌いなのよねえ。どうしたものかしら」

 嘘を吐け。
 どうせ、私を倒すくらい、赤子の手を捻るようなものだ、と考えてるくせに。

「そうですね。出来るだけ穏便に、話し合いで決着をつけましょう。ね」

 これだけ力量差がはっきりしている中で、対等な話し合いなんて出来るはずもなかったが、私は頷く。
 それを確認すると、紫は嬉しそうに微笑む。

「そうね。ずばり訊くけれど。何故その子を引き渡すのが嫌なのかしら」
「何故って、それは」

 それは――何故だろう?

 私は、今一度自分の胸に問いかけてみる。
 私は引き渡すのが嫌だと感じた。こんな奴に少女を引き渡すなんて、ごめんだと。しかし、それはあくまで理不尽な紫の態度が気に食わないから、反抗してやろうというだけであって、少女と離れたくない云々とは別の感情だ。
 じゃあ、と私は、少女と離れてもいいと思っているのか。
 離れたくないと泣いてすがるほど、私は少女に情が移ったのか。
 このたった数日で?

 馬鹿らしい、と思った。

 最初は、少女を育てて、食べるつもりだった。
 肉付きを良くし、適度に感情を植え付け、妖怪に対する恐怖心を覚えさせ、美味しくいただく。
 でも、途中でそれのとてつもない効率の悪さに嫌気がさしたはずだ。それでも辞めなかったのは何故だ。

 面白かったからだ。
 人間に興味がある、とミスティアは言った。
 ならば、私も同じだ。人間に興味が湧いた。だから手を焼いて世話をした。割に合わないと思いながらも、一緒に暮らした。
 でもそれは、遊びと同じじゃないか。
 そう思った瞬間、急速に気持ちが覚めていった。
 そうだ、最初からなんとなくの暇つぶしだった。それがちょっとおかしな方向に行ってしまっただけのこと。結局どこまで行っても暇つぶしなんだから、あー楽しかった、でいつか終えなくてはいけない。

「あーあ、面倒くさーい」

 私は大きく伸びをする。
 紫は、突然の行動に、呆気にとられていた。

「いーよ。勝手に連れていっても。本当なら食べてしまいたかったけど、そんなこと言ったらあんたに殺されそうだし」
「えーと、急にどうしたの?」さすがの紫も、この変わりようには驚いたらしい。
「なんか、急に馬鹿らしくなっちゃった。何でこんなのに執着してたんだろーって。もともと、妖怪と人間っていう、相容れない存在なのにさ」
「そう」

 紫は、目を伏せる。少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


 * * *


 私は手ごろな木の枝に腰をかけて、欠けた月を見上げていた。
 少女と出会ったのが新月だったから、別れるまで一月も経っていないことになる。長いようで短かったな、とぼんやり思う。

「ママ?」

 声がする。もう聞きなれてしまった声。
 私は仕方なく、木の枝から飛び降りると、地面に着地する。軽く三メートルはあった落差を軽々と飛んでみせた母親に、少女は目を白黒させる。
 少女のほうを見る。
 少女は、紫に肩を支えられるようにして立っていた。

「ずいぶんとアクロバティックなことをするのね。人間って言う嘘、突き通すつもりはなかったの」
「別に」ぶっきらぼうに私は答える。

 私は、少女にすたすたと近づくと、目線を合わせるように中腰になった。

「あのね。私、実はあんたの母親じゃないの」

 感慨もなく、そう言った。
 少女は目をぱちくりさせる。今の今まで信じていたのだろう、その嘘を。
 馬鹿らしいと思った。
 こんな小柄な母親がいるものか。子供と全く違う髪の色と目の色の母親がいるものか。

「あなたは母親ってどんなのか、知らないから無理もないかもしれないけどね。母親ってもっと、大きくて、立派で、優しいのよ。それでいて暖かいの」
「ねえ、嘘でしょ、ママ」
「そう嘘だったのよ。ぜんぶ」私は、少女の頭を撫でながら諭す。

「私がママだっていうのも嘘」「私が人間だっていうのも嘘」「私があなたを愛してるみたいにふるまっていたのも全部嘘」

 私は、一気にまくし立てた。
 その間に、少女の目からは堰を切ったように涙が溢れていた。訳が分からないなりに、ひどいことを言われているのは感じているのだろう。

「なんで、ママ。ママ、分からないよ。ママ」

 うわ言のように言いながら泣きじゃくる。少女は私のスカートを必死で握りしめて、私を離すまいとしていた。
 私は、はあ、とため息を吐く。ほんと、面倒くさい。

「ねえ。私と離れたくない?」

 私が少女に尋ねる。
 少女はその言葉に、こくこくと壊れた人形のように何度も頷いた。

「と、こう申しておりますが」

 ささやかな抵抗とばかりに紫に言ってみる。やはり、無償で引き渡すのは癪に思えた。

「ご心配いりませんわ」

 紫は待ってましたとばかりに、空間に裂け目を作り出すと(これが彼女の能力らしい)そこから赤い布を取り出した。

「八雲紫謹製、封印のリボン。特殊な魔術をかけられた糸で編んだ特別製ですわ。これを身に着けて生活するだけで、あら不思議、悲しい思い出もたちどころに忘れられるという逸品」
「うわ、えげつない」

 記憶を消すのか。私はげんなりする。
 紫は、泣きじゃくる少女の頭に、それをちょんと乗っけてみせた。
 黒い髪に、大きなリボンの赤と、あしらわれたフリルの白が映えた。なるほど、似合うな、と場違いなことを考えた。
 紫はそこで、少し悲しそうな顔をする。

「私だって、本当はこんなことしたくないわ。だけど、ね。分かるでしょう?」

 確かに、思い出を引きずって生きることは、少女にとって過酷なことだろう、と思う。
 私と暮らしていたときよりも、紫に引き取られてからのほうが裕福な暮らしになるだろうというのは想像がついた。
 ならば、私との生活の記憶など、ないほうが彼女の為なのだ。

「そして、あなたの分も用意してありますわ」

 じゃーん、と言いながら空間の裂け目から取り出されたのは、少女と同じリボンだった。
 いや、一回り小さいし、フリルもあしらわれていない。これは、リボンというよりも――

「御札、じゃない? これ」
「あら、わかっちゃいます?」うふふ、と口元を隠して紫が優雅に笑う。少女の分はあっても、私の分は用意していなかったらしい。

「まあ、確かに御札に色を塗っただけのものですけど、これもすごいのよ? つけているだけで、それまでの記憶を封印出来ちゃうの」
「それを私につけるの? 必要なくない?」
「必要大ありです。思った以上に二人が互いに入れ込んでるみたいですし。博麗の巫女として育ってもらう以上、必要以上の妖怪とのなれ合いは、ないほうが好ましいの。まあ、ほら、あなたの金髪には映えるんじゃない? ワンポイントのアクセントとして。赤い御札リボン。ほら」

 隙を見て、紫が私の髪にリボンを結びつける。

「うわ、こら勝手につけるな!」
「大丈夫よ。そんなにすぐには効いてこないから。明日の朝くらいまで、記憶の封印には猶予があるわ」

 言いながら、紫は少女の髪にもリボンを結んだ。
 御札リボンと違い、こちらはずいぶんと大きい。頭よりも大きいくらいだった。
 私は、リボンに手を伸ばす。しかし、触ろうとした瞬間、バチっと電流が走るような感覚があった。

「いつっ! なにこれ、触れないんだけど!」
「そりゃ、私謹製の封印ですから、簡単には取れませんよ。勝手に外されたら困りますしね」

 全く、余計なことをしてくれたものだ。私はため息を吐いた。
 下を見る。
 依然として、少女は私のスカートを掴み泣きじゃくっている。
 その頭を撫でてやった。すると、少女はいったん泣き止み、不安げな瞳を私に向けた。

 私はしゃがみこんで、少女と目線を合わせた。
 これが、最後の会話になるだろう、という予感があった。
 しかし、何をしゃべっていいのか、思いつかなかった。
 別れの言葉? それとも、楽しかったよと言って抱きしめる?
 どちらも、このへんてこな共同生活を締めくくるにはふさわしくない気がした。
 うーん、とひとしきり悩み、あまり纏まっていない思考のまましゃべり始める。

「ね、覚えてる。怖い妖怪に出会ったときの対処法」

 少女はきょとんとしたが、おずおずと喋りはじめる。

「美味しくないって、言わなきゃダメ」
「そう。私は美味しくないですよ、って言わなきゃダメ。純真な子は妖怪にすぐに食べられちゃうから、嘘を吐かないとダメ。私は美味しくない、苦いすっぱいってね」
「うん」少女は、神妙な顔で頷く。

 いつか、この少女が大きくなったら。
 いつか見た博麗の巫女のように美味しそうに育ったら。
 そうしたら、私が食べに行ってやろう、と思う。もちろん、博麗の巫女なんて食べたら、紫がかんかんに怒るだろうけど、知ったこっちゃない。
 きっとこの子は、紫に殺されても後悔しないような、美味しい果実に育つ。予感がした。

 だからそれまで、食べられるな。私以外の妖怪に。
 私以外の妖怪に、美味しい果実であることを見破られてはいけないのだ。

 このやり取りも、二人の記憶から消え去るんだろう。
 だけど、ほんの少し、一欠けらでもいいからどちらかの無意識の底に沈殿してくれればいい、と思った。

 よし。もう言い残すことはない。
 だけど最後に。

「愛してるわ、我が娘」

 そう言って、抱きしめてやった。
 もちろん嘘だった。愛してもいないし、娘だと思ったこともない。
 だけど、嘘で始まった関係なら、最後も嘘で閉じても、罰は当たらないんじゃないだろうか。
 少女のぬくもりを感じながら、結局ちゃんと抱きしめてやるなんてこれが初めてだな、と思った。


 * * *


「じゃあ、これで」
「うん」
 少女をおんぶした紫との、簡素なやりとり。
 少女は泣きつかれたのか眠ってしまっている。いつもならもう寝ている時間だから、無理もない。
 紫の背後には、空間の裂け目がぱっくりと口を開けていた。紫をまるまる飲み込んでしまうくらいの大きさはある。きっと、それを潜り抜ければいろんな場所へ一瞬でワープできるのだろう。想像するだにとんでもない能力だ。

「そうそう」紫は片足を裂け目に掛けながら、思い出したように言う。「ひとつ、あなたに言って置きたいことがあります」
「なに?」
「これからの、人間と妖怪の在り方について。今までは、人間と妖怪のバランスの観点から、妖怪に人間を襲わせることを全面的に禁止していました。ですが、当然これは反発が大きかった。なのでこれから上手い策を考えるつもりです。人間も妖怪も楽しく暮らせる方法を」
「楽しく暮らせる方法?」
「そう。人間を守り、かつ妖怪も自由に人間を襲える策。まだ試作段階ですが、もう少しで実用的になりますよ」
「なんか、嘘くさいなあ」

 そんな簡単に、人間と妖怪が両立できるものだろうか。
 紫は、くすりと笑って続ける。

「嘘じゃないわ。まあ、さすがにあなたたちのように人間と妖怪が一つ屋根の下で暮らす、というのはなかなか難しいかもしれませんが。でも、きっと近いうちに実現する。約束するわ。今よりももっと素敵な、人間と妖怪の関係を作る」

 この子と力を合わせてね。
 紫は、背負った少女頭を、愛おしそうに撫でる。

「ふーん。ま、期待しないで待ってるよ」
「ええ」

 紫はたおやかに笑うと、空間の隙間に体を滑り込ませる。
 これで終わりか、とぼんやり思う。まだ、言い足りないことはなかったっけか。

「あのさ」

 私は、あまり考えもせずに、喋り出していた。

「私もひとつ、言って置きたいことがあるよ」

 紫は振り返らなかった。しかし、空間の裂け目を閉じずに、じっと立っている。

「あんた、博麗の巫女の資質ってやつのひとつに、生真面目さっていうのをあげたけどさ。その子にそれを求めてるんなら見当違いだからね」
「へえ?」

 興味深げに、紫が振り返る。

「その子はぐーたらなのさ。今までの環境では、生真面目にふるまうことしかできなかっただけ。本当は、面倒くさがりだよ。私と同じように」

 私は振り返る。
 少女との日々。
 短い中でいろいろあったけれど、一番に浮かんでくるのは、毎日、布団の中でごろごろしていたことだ。私と少女は、何をするでもなく一日ごろごろしていたことだってあるんだ。どうだ。
 紫は、淡々と返す。

「そうですか。ご心配には及びません。八雲式教育で、すぐに真面目な子に戻してみせますわ」
「無理だね。私には分かる。その子は将来ものぐさになる」

 紫は、何故か面白そうに笑った。そして、音もなく、空間の隙間は閉じた。




六、

 ――あ。
 ――おっ。
 ――ミスティアじゃん、何してんのさ、こんなところで。
 ――私は、山菜採り。採って人里で売るの。ちょっと入り用で。それよりルーミアこそ、ここで何やってんの。
 ――散歩。なんとなく。
 ――新月に?
 ――そう。
 ――ふーん、別にいいけど。


 ――私さ、ウナギ屋になるかも。
 ――へえ。
 ――ヤツメウナギって知ってる? 食べると目が良く見えるようになるってウナギなんだけど。
 ――うん。
 ――それ使って商売できないかなって。私の歌で鳥目にして、私のウナギで視力回復させるの。ね、面白いアイデアじゃない?
 ――それって詐欺じゃないの?
 ――えー、そんなことないって。
 ――それに、お金が必要なの?
 ――そ、屋台が欲しくてねー。自分で作るわけにもいかないし。今必死こいてお金溜めてる最中。


 ――私はさ。
 ――うんうん。
 ――前から新月の夜、散歩するの好きなんだよね。暗くて静かだし。
 ――うん。
 ――面白い発見もあるしね。
 ――発見?
 ――そう。例えば――
 ――例えば?
 ――いい例は思いつかないけど、とにかく、何かが見つかりそうな気がするの。
 ――なにそれ、わけわかんない。
 ――うん、ほんと、わけわかんない。









エピローグ

 ねぐらにしている古木の空洞から這い出ると、私は目を丸くした。
 あたり一面、真っ赤な霧に覆われていたのだ。
 私は空を飛んで、森を上から一望してみる。するとどうだ、森が霧にすっぽり包まれ、真っ赤に染まっているではないか。いや、森だけじゃない。その先の人里へつづく道も、人里も、竹林も、神社も、幻想郷全てが紅い霧に覆われていた。
 なんだこれは、と思う。誰がこんなことを。
 私はそうしているうちに、なんだか体の奥から力が湧いてくるように感じた。どうやらこの霧は妖霧でもあるようで、妖怪である私の力を増幅してくれているようだ。
 これはいい。
 私は胸いっぱいに、霧を吸い込む。気分が高揚していく。なんでもできそうな気分になる。

 そして、久しぶりに、人間を襲いたくなった。

 私は微笑む。
 一時期は妖怪は人間を襲ってはいけない、という面倒くさいルールがあった。しかし、つい最近、スペルカードルールというものが施行され、人を合法的に襲えるようになったのだ。それを使えば、人間と妖怪が対等になれ、決闘できるとして。
 私はうきうきした気分で森の上を飛び回る。行き先は決めていない。とにかく、目についた人間を襲いたい気分だった。

 そのとき、とある人影が目に映った。
 宵闇に溶けるような黒髪、大きな紅いリボン、紅白の巫女服。間違いない、あれは博麗の巫女だ。紅い霧を突っ切るように、まっすぐに飛んでいる。
 私はほくそ笑む。
 スペルカードルールにのっとれば、博麗の巫女にだって、堂々と襲い掛かれるのだ。
 私は、彼女に近づく。彼女は、私の姿を認めるとスピードを殺して止まった。
 二人対峙して、空中で睨み合う。
 私は彼女を見る。彼女も私を見る。
 愉快になって、手を大きく横に広げた。
 そして、私は彼女に問う。


「目の前が取って食べれる人類?」













 ――目の前が取って食べれる人類?





『嘘を一滴、宵闇に溶かして』







一、

 私たち妖怪は夜目が利くと言うけれど、森の中、落ちている人間を見つけたのはさすがに初めてだった。

 私は、鼻歌を歌いながら森の中を散歩していた。春先、日が沈んで半刻の宵の口のことである。
 その日は新月で、日が落ちると、あたりはすぐに暗くなった。そうなるとただでさえ薄暗い森の中は暗さの二乗で、もう真っ暗だ。といっても私は妖怪で、しかも宵闇の妖怪だから、その程度の暗さは屁でもない。私は調子はずれの鼻歌を歌い、スキップするような足取りで森の中を進んでいた。
 大抵の妖怪は月の光が大好きだから、新月の夜になると静かになる。
 私も妖怪だから本来は自分のねぐらで閉じこもっている方が正しいのかもしれないけれど、私は変わり者だった。騒がしい月明かりの夜よりも、静かな暗い夜の方が好きなのだ。新月の、静謐な夜。妖怪も、それ以外の動植物も息をひそめて眠っているみたいに沈んだ夜。そんな夜を選んで私は散歩に出ていた。

 しばらく上機嫌で草を踏みしめて歩いていると、遠くに何か落ちているのを見つけた。
 向こうの茂みの中に、何かそれなりの大きさの物が、地面に横たわっている。
 野犬の死骸か何かだろうか。私は何となく、それに近づいてみた。
 近寄ってみると、それが野犬ではないことに気づいた。人の形をしていたのだ。見た感じ、妖怪には見えない。だとすると、人間だ。

「なんだってこんなところに」

 私は驚きながら、倒れた少女をまじまじと観察した。
 まず目についたのは、腰まである黒く長い髪だった。流れるようなその黒髪は、まるで闇に溶けてしまうみたいに見えた。
 そして、見たことのない長そでの服とスカート。その先から細く白い両手足が生えている。うつ伏せに倒れているせいで顔は分からないが、まだ年端もいかぬ少女に見えた。私もかなり小柄な妖怪だが、それよりも一回り小さい。
 私はその隣にしゃがみこむと、乱暴に少女の体を転がして仰向けにした。
 あらわになった顔は、やはり幼かった。
 人間の歳なんててんで分からないが、生まれてから十もしない歳だろうというのは推察できた。閉じられたまぶたの淵から、細長く黒い睫毛がゆるやかに伸びている。手足と同じように、顔も白く透き通っていた。ちょっと引っぱたいたら、すぐにぼろっと崩れ落ちてしまいそうな脆さを感じさせる少女だった。
 私は、少女の胸のあたりへと視線を滑らせる。じっと目を凝らすと、微かに上下しているのが分かった。
 まだ、生きている。

「さーて、どうしようかなー」

 私は腕を組んで考えた。この少女を、どうするべきか。
 具体的に言えば、食べるべきか、食べざるべきか、だ。
 私は妖怪である。
 妖怪ということは、人を襲って食べるということだ。私は変わり者だったが、人を食べるということについては他の妖怪と変わらない。
 そして、目の前の少女は、肉付きこそ良くないものの、とても美味しそうだった。白磁の肌はとても柔らかそうで、それにぞぶりと歯を立てたときの感触を思うだけで、よだれが滴ってくる。
 しかも生きている。
 そこらでのたれ死んだ旅人の死肉でも、野犬の喰い残しでもない、新鮮な生きた肉。これはまたとないチャンスだ。
 ならば、今すぐにでも齧りつこう――と考えて、やめた。そうするには問題が一つあるのだ。
 面倒くさがりの私にとっては至極やっかいな問題。
 しかし妖怪にとって、ひいてはこの幻想郷にとって、大事な、無視できない問題。まったくもって面倒くさい。


 まず、幻想郷と呼ばれるこの地は、以前(年数なんて数えてないのでよく分らないが、感覚的には結構前だ)偉い妖怪によって結界が貼られ隔離されてしまった。
 なんでも、妖怪を生かし、守るために。
 どうして結界で括られた中で生活することが妖怪を守ることにつながるのか、そこら辺の理屈は私にはよく分らないが、とにかく一番重要な点は、人を無闇に襲えなくなったということだ。
 人間を襲うことが存在意義である妖怪は、つまり、人間がいなくなれば存在できないということだ。限られた幻想郷という空間で、数少ない人間を襲うということは、真綿で首を絞めるようなものだ。
 もちろん、「少しぐらい人間を襲ってもばちは当たらないだろう」と思う輩もいるだろう。または「自分ひとりくらいルールを破っても構わないだろう」と思う輩も。
 しかし、意外にそう上手くはいかない。そういう輩に対しては結界を貼ったその偉い妖怪が直々に圧力をかけているみたいだし、人間による報復もまた馬鹿にできないのだ。
 だから私は、人は襲わない。
 ただし、偉い妖怪の圧力が怖いのでも、人間たちの復讐が怖いのでもない。人を襲ったことによるいざこざが嫌なのだ。それだったら別に人を襲わずに、のんびり過ごしている方が性に合っている。
 つまるところ面倒くさいのだ。


「うーん……」

 足元から声が上がる。
 私がそちらに目を向けると、少女が顔をしかめていた。
 しばらく眺めていると、そのまぶたがゆっくりと持ち上がった。やがて目をぱっちりと開くと、上半身だけ持ち上がる。

「あ、れ。ここ……」

 少女はきょろきょろとあたりを見回す。隣に私がいることには気づかないようだ。無理もない、新月の、真っ暗闇の森の中なのだから。
 私は、闇の中から少女を観察する。
 くりくりした瞳はこれまた髪の色と同じ、黒。見ていると吸い込まれそうなほど深い色をしていた。状況が分からずに宙をさまよう大きな目が、少女の幼い印象を加速させると同時に、利発的な子供のような印象も与えた。

 その目を見ているうちに、私の頭の中をよぎるものがあった。
 既視感。少女のことを見たことがある気がする。

 少し考えて、思い出した。
 神社の巫女だ。幻想郷の神社の、お目出度い色の服を着た巫女。あれのイメージとよく似ていた。
 さらさらした黒髪、漆黒の瞳。以前、遠目に見ただけだったが、目の前の少女はそれに似ていると思った。ただ違うとすれば、巫女に比べて、この少女は幼く、まだ年端もいかぬ年齢であること。
 しかし、どちらも肉が柔らかそうで美味しそうなのは変わらない。

「あなた、誰?」

 ふと気がつくと、少女が私を見ていた。闇に目が慣れたのか、その瞳はまっすぐ私を見据えている。
 この闇の中、人間に見つかるとは思っていなかったのでびっくりした。とっさに私は少女に返すべき言葉を探す。しかし、

「えーと……あなたは食べれる人類?」

 出てきたのはそんな馬鹿みたいな問いだった。何だそれは、と自分に突っ込みを入れる。それで「はい」と答える人間が、いったいどこにいるのだ

 思わず頭を抱える。
「うん」
「へ?」 

 聞こえるはずのない肯定の言葉。私は思わず少女の目をじっと見つめ返す。この子が返事をしたのだろうか。「うん」って。
 少女はこくんと小さく頷く。

「えっと……はい」
「いや、言い直さなくてもいいけどさ」
「うん」
「食べれるって自分で言っちゃダメでしょ」
「駄目なんですか?」少女は可愛らしく小首を傾げてみせる。
「駄目だよ」駄目だと思う。少なくとも普通の人間としては。

 変わった少女である。
 妖怪に対しての恐れがまるでない。世間知らずなのか、物怖じしない性格なのか。なんにせよ普通じゃない。

「そもそも、食べれる人類ってなんなのさ」

 自分の発言なのに、それを棚に上げて私は訊く。

「えっと、食べてもいい人間?」

 ほとんど鸚鵡返しのような返答だった。私は続けて訊いた。

「なんでお前が、食べてもいい人間なわけ?」
「食べられちゃ駄目って、教わらなかったから」

 それは確かに、教わらないだろうな。
 ため息を吐きながら、私は「いーい?」と語りかける。

「あのね、妖怪の問いなんかにまともに答えちゃダメ。嘘を吐いて、相手を煙に巻くくらいの気持ちでいなきゃ。特に今みたいな問いには、『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。すぐに食べられちゃうよ」

 私は、少女相手にくどくどと説教をする。
 頭の中で、冷静な私が「何をやってんだ」と嘲笑する。何やってんだろ、本当に。人間の小娘相手に、なんで妖怪対策のレクチャーなんかしてるんだ。
 少女の独特な雰囲気に、完全にペースを崩されている。

「嘘を吐くの?」少女は首を傾げる。
「そう、嘘を吐くの」
「嘘を吐いたらいけないって教わったよ」

 最近の人間は、そんなことを教えているのか。嘘を吐かないで、この世の中、どうやって生きていくというのだ。

「生きていくためには嘘も必要なの」
「そーなの?」
「そーなのよ」

 うん、と私は頷く。少女も、うんと頷く。
 変な状況だった。少女には、何故か自分のペースに引き込む力があるみたいだった。

「ねえ」少女が訊く。
「なに」少女と問答する理由なんかないことにとうに気づいていたが、私は律儀に返事をする。
「妖怪ってなあに?」
「へ」

 その質問に、私は思わず固まる。なに、最近の人間ってそこまで世間知らずなの?
 少し考えて、疑問が氷解する。そして同時に、少女と私の話がかみ合わなかった理由も悟った。

 この少女はきっと、幻想郷の外からやってきたのだ。

 なるほど、と得心がいった。
 見たことのない服に、世間知らずな言動。外からやってきた少女だとすれば、それらに説明がつく。
 私は、にんまりと微笑んだ。

 これは、チャンスだ。私は思う。
 人間と妖怪のバランスとやらを考慮するならば、なるほど人間を襲うのを禁じるのは道理だろう。ならば、幻想郷の人間としてカウントされていない人間を襲うのならば? そう、外来人を襲ったところで、幻想郷のバランスは崩れないだろう。
 我ながら、画期的な考えだと思った。
 私は芝居がかった口調で、少女に語りかける。

「妖怪っていうのはね、とおっても怖いのよ。人間が大好きでね、見つけたらすぐに食べちゃうの。特にお前みたいな穢れの知らない純粋な子がだぁい好き」

 自分の顔は見えないが、きっと赤ずきんを前にしたオオカミみたいに、嫌らしい笑みを浮かべているに違いない。
 少女は、状況が解らないのか、ぼんやりとこちらをながめている。
 その肌は、透き通るように白く、まるで私を誘っているように見えた。視線を滑らせる。線の細い首筋が目に飛び込んでくる。

 それに思いきり歯を立てても、誰も咎める者はいない。

 いただきます。心の中で唱えて、唇を少女の首に近づけていく。大きく口を開ける。
 さあ、あなたはどんな味?
 心の中で問いかけながら、上目づかいで少女を見上げた。

 少女と目があった。
 真っ黒な瞳。
 自分をまっすぐに見据えている、何も知らない目。

 その目に見られたら、なぜだか急速に食欲が失せていった。
「やーめたっと」
 私は少女から離れると、どっかとあぐらをかく。
 つまらない。こうまで反応がないと拍子抜けだった。
 私は人間を食べるのは好きだったけど、それは純粋な食欲を満たすためじゃない。恐怖が欲しいのだ。いざ食べられる瞬間の人間の、悲鳴、命乞い、引き攣った表情。そういうものが好きなのだ。こっちを怖がりもしない少女なんて食べても、腹は膨れても気持ちは膨らまない。
 そう思うと、波が引くみたいにやる気が遠のいていった。

「お姉さん、妖怪さんなの?」
「んー」

 状況がまるで呑み込めていない少女は、そんな場違いとも適切ともつかないような質問をする。

「そーだよ」
「人間を食べるの?」
「そう」私は、骨付き肉を頬張るようなジェスチャーをしてみせる。「むしゃむしゃってね。怖いでしょう」
「うん」少女は神妙に頷く。でもその顔は、よく分っていない顔だ。よく分らないけど、人の言うことはちゃんと返事しないといけない、と信じている子供の顔だ。

 これはいかん、と思った。
 このまま何も知らないまま大きくなれば、少女はきっと美味しくない人間に育ってしまう。ほどほどに世間を知り、ほどほどに純粋で、妖怪を怖がり、美味しく食べられてくれるような、そんな立派な人間に育たない。

「あんたは、人をもっと疑わなきゃダメ」
「え、でも」
「人はみんな嘘つきばっかなんだから。人を信じるのも大概にしなさい。特に初対面の得体の知れない奴なんかに惑わされちゃダメ」そう、特に私みたいな。
「うん」少女は頷く。まるで分かってないみたいだった。


「さて」

 私は腰を上げる。
 少し無駄なことをしゃべりすぎた気がする。これ以上話しても意味はないだろう。いい暇つぶしにはなったけれど、この人間が美味しくない部類の人間である以上、長居は無用だと思った。
 私は別れの言葉もかけずに、後ろを向く。
 そのまま歩き出そうとしたが、動けなかった。
 首だけ後ろに向ける。白く小さい手のひらが、私のスカートを掴んでいた。
 そのまま振り切って行ってしまっても良かったのかもしれないが、気まぐれで、私は声をかける。

「なに」

 少女は口をつぐんだままだ。助けを求めるように、私を仰いでいる。
 そんな目をして見られても、困る。

「だからなにさ」
「帰りたい」
「あー?」
「おうち、帰りたい」

 小さくか細い声が、夜の空気を震わせる。
 そりゃそうだよなあ、と私は思う。
 外の世界からよく分からないうちにやってきて、よく分からない奴に絡まれて。そりゃ、帰りたいよなあ。
 でも私にはどうにもできない。
 外に帰す方法も知らない。知っていたとしても帰す義理もない。
 この子がこの先どうやって生きていくのか、あるいはのたれ死ぬのか、想像するのも面倒だった。私にとってはどうでもいいことだ。
 私は少女を見下ろす。
 並んで立つと、やはり私よりも一回り小さかった。私だって小さいのに、どんだけ小さいんだよこの小娘。
 少女は、見下ろす私の目を不安げに見返していた。
 黒目がちの瞳は不安げにうるんで、今にも破裂しそうに見えた。必要以上に力のこもった肩は小刻みに震えている。
 なんだ、あるじゃん、恐怖の感情。そんな的外れなことを思って安心する。
 でもその恐怖は決して自分に向けられているものじゃない。むしろ自分がここからいなくなってしまうことの恐怖だ。
 そんな恐怖、やっぱり、食べても美味しくない。
 私はおもむろに、スカートを掴む少女の手に、自分の手のひらを重ねる。このまま強引に引き離すつもりだった。
 私は、手に徐々に力を込める。びくっと少女の手が震えた。

 そこである閃きが、私の頭の中を貫いた。
 食べれない人間なら、食べれるように仕立てればいいんだ。

 その突拍子もない思いつきは私を、わくわくさせた。
 この、何も知らない無垢な人間を、おいしく食べれる人間に育てる。小さくか細い体を私好みに成長させ、丸々と肥やす。
 適度な純粋さを残しつつ、適度に世の中のことやその他の感情を憶えさせ、適度に妖怪を恐れる人間にする。
 それが出来るのだ。
 この外からやってきた、身元不明の少女相手ならば。
 それはとても素晴らしい発想だった。天啓と言ってもいい。
 私は体を翻して少女に向き直ると、屈んで目の高さを合わせる。

「あのね」
「うん」
「私は実は、あなたのお母さんなの」

 私はまた嘘を吐く。あまりにも馬鹿みたいな嘘。騙されるはずのない、途方もない嘘。

「ママ?」
「そう、ママ」
「さっきは妖怪さんだって言ってたよ」
「それは嘘。本当はあなたを迎えに来た、あなたのママよ」

 少女は小首を傾げる。その小さな頭の中で、なにを考えているのだろう。
 信じようが信じまいが、私はどっちでもよかった。
 というか信じるはずがないと思っていた。それならそれで、力ずくで連れていけばいい。どうせこの少女に行く場所なんてないんだから。
 だけど、

「うん」

 少女は何故か、私のあからさまな嘘に首を振るのだった。
 私は呆れる。
 相変わらず、この少女の考えてることが分からなかった。年端がいかないことを差し引いても、あまりにも無防備すぎた。
 まあ、そっちのほうが好都合だ。
 私はさっと少女の手を取る。
「よろしくね」
 笑いかけてみる。出来る限りやさしく、警戒されぬように。
「うん」
 少女もそれに合わせて笑った。ぎこちない笑顔だった。


 そうして一滴の嘘は、宵闇に溶けていって。
 アンバランスな私たちの、嘘みたいな生活は始まった。
 



二、

 私は、背中を優しく揺する振動で目を覚ました。
 ベッドに横になったまま薄目を開ける。
 東向きの窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
 朝である。
 なんだってこんな朝早くに起きねばならんのだ。こちとら宵闇の妖怪だぞ。
 私は心の中で愚痴って、布団を深くかぶり直した。昨夜寝たのがもう夜が明けようかという時間帯だったから、まだ三時間も寝ていないはずだ。
 しかし、私を揺する振動は、時間がたつにつれて徐々に大きくなっていった。

「ママ」
「んー」
「起きて」
「んー」

 背後から誰かの声が聞こえる。聞きおぼえのない声だ。
 そちらを確認しようと、私は寝返りを打ち、目を開けた。
 黒髪の人間の少女がいた。

「あー」

 頭をがしがし掻きながら上半身を起こす。だんだんと昨日の記憶がよみがえってきた。
 確か、少女を拾って、この家まで連れ込んだのだ。
 我ながら面倒くさいことをしたと思う。
 自分好みの人間を作る、という発想は今でも素敵だと思うが、それにしても面倒くさい。そのために、おままごとじみたことをやらなきゃいけないなんて。

「ママ」
「はいはい、なーに」

 私は頭を掻いた手をそのまま腹に持っていき、そこをポリポリと掻く。

「お腹空いた」
「はあ」

 勝手にそこらでウサギでも狩ってこい、と言いたいところだけど、そうやって突き放すのは流石に酷なことだと思い直した。面倒くさい、と思いながらもしぶしぶ立ち上がる。
「たぶん、台所に適当な食べ物が残ってたと思う。それ、勝手に食べていいよ」

 それもちょっと投げやりな対応だったが、意外にも少女は文句を言わず、こくんと頷くととてとてと部屋から出ていった。
 私はため息を吐くとのっそりと立ち上がった。
 朝ということで本調子ではなかったが、もう一度寝なおす気も起きなかった。寝たところで、どうせまたあのちびっこに起こされるのが目に見えている。
 大きく伸びをすると、辺りを見回す。
 朝日を取り込む大き目な窓に、黄色いカーテン。本棚がふたつ、タンスがひとつ。丸テーブルひとつに椅子がふたつ。小柄なひとが二人寝泊まりするのには十分すぎる部屋だ。
 そして扉の向こうには台所にトイレに風呂。
 何とも豪華な仮住まいだと思う。私のような野良妖怪にとっては出来過ぎな環境だ。

 この家を見つけたのは、二ヶ月ほど前のことだ。
 私がいつものように森の中を逍遥していると、ぽっかりと開けた広場のような場所に出た。そこに忘れられたようにこの家が建っていたのだ。
 私が見つけたときには、この家の持ち主はすでに居なかった。森の中で野犬や妖怪に襲われたのか、それとも人間の里に移住したのか。何にせよ、人が住まなくなってから長い時間が経過していた。
 この森は、通称魔法の森と呼ばれている。
 この森は常にじめじめしていて気味が悪く、人は基本的に寄り付かない。
 しかし、ここに生えるキノコは魔法の触媒として優秀なのだそうで、それを目当てにした好事家がごくたまに、この魔法の森に住んだりする。
 つまるところこの家の持ち主は、魔法使いか、それを志す者だったのだろう。
 何にしても、この場所を見つけられた私は幸運だったと思う。

「ママ」

 いつからいたのか、少女がドアから顔だけ出して、こちらを覗いていた。

「どうしたの」
「変な匂いがする」

 渋そうな顔をする。変な匂い、はて。
 私は少女に連れられて、台所へと向かった。


 * * *


 台所は思った以上にひどかった。
 少女が引っ掻き回したのだろう、食料があたりに散乱していた。
 そしてその食料がまたひどい。
 大量にあったパンはことごとくカビが生えていたし、果物の類も痛んで黒ずんでいた。ハムやソーセージから腐った匂いが立ち上っている。
 おもむろに足もとに転がっていた卵を一つ手に取って、皿に割ってみる。どろり、と黒ずんだ黄色の粘液がへばりついた。独特の異臭が漂ってくる。思わず鼻をつまんだ。真似するように、少女も鼻をつまんでいる。心なしか、涙ぐんでいるようだ。

 はて、この食料はいつ手に入れたんだっけか、と思いを巡らせる。
 確か、森を抜けた人里に続く一本道を歩いていた行商を襲って手に入れた物だ。もちろん命は取っていない。
 あれはつい最近のことだったような。いや、でももう一ヶ月経つのだろうか。そうか、そんなに前のことか。それは食料も腐るだろうなあ。
 妖怪の時間感覚なんてそんなものだ。
 大抵の妖怪は精神的な存在だから、飲まず食わずでも平気だ。もちろん、変わり者妖怪である私も。ただ、趣味として食事をすることもある。だから、たまたまその日、何か食べたいと思っていたところに行商が通りかかったものだから、それを襲った。
 そして襲ったはいいが、結局食べてる途中で飽きてほったらかしにしていたのだ。それだけだ。

 どうしたものか、と考える。どこからかハエが飛んできて、鬱陶しい。
 私はいい。食べなくても平気だ。
 だけど、人間はそうもいかないだろう。まったく面倒くさい。
 考えていると、袖を引っ張られた。
 そちらを見ると、少女が透明の袋を掲げている。見たことのない材質の袋だ。外の世界のものだろうか。

「ゴミ袋」
「ゴミ袋?」鸚鵡返しに、私は訊き返す。

 少女はこくんと頷いた。
 これで、とりあえず腐った食料を片付けようということだろうか。
 少女は足元に散乱した卵やハムやみかんを拾って、透明な袋に詰め始めるた。私もそれに倣う。
「そんなもの、どこにあったの」手を動かしながら、訊ねる。
「リュックの中」
「リュックって、あの背負う布の袋のやつ?」
「ん」こくん。

 昨夜、少女を連れて行くとき、近くに落ちていた布製の袋を見つけていた。
 少女曰く、それはリュックサックという代物で、それが彼女の唯一の持ち物だった。中は検めていなかったが、中にこの透明袋が入っていたのだろう。


 あらかた片付け終えて、一息吐く。
 まだ痛んでない果物や調味料の類、それとカビを取り除けば食べられそうなパンだけがテーブルに乗り、あとは口を縛った袋の中に閉じ込めた。

「あー疲れた」

 私は大げさに伸びをして、疲れました、とアピールする。
 実際、知らない相手と一緒に作業をするのは、結構疲れることだった。

「じゃあ、昼まで一眠りしようか。じゃあね」

 私はそそくさとベッドへ向かおうとする。しかし、少女はそんな私の袖を掴んでいた。

「お腹空いた」
「あー」

 忘れていた。もともと、この子の食事を探していたのだ。
 仕方がない、パンのカビを取り除いて食べさせるか、と考えたが、ふと思うところがあった。

「ちょっと待って」

 私はそう言いつけて、寝室へ引き返す。
 部屋の片隅に寄りかかるように置かれているリュックを手に取ると、少女の元へと戻ってきた。

「もしかしたらこの中に入ってるんじゃないかな、食べ物」

 何に使うのか分からない透明な袋が入っているくらいだ。多少の食糧くらいあってもおかしくないように思えた。
 さっそく私はリュックの蓋を開けると、中身を取り出す。
 少女用の服や下着、さっきのと同じ透明袋、封筒。鉄みたいな色をした筒のようなもの。
 掻きだしていくと、底の方に、透明な袋に入れられたパンが何個か出てきた。クリームパン、ジャムバターパン、カレーパン、などのカラフルな文字が、袋の表面に踊っている。

「これ、食べ物でしょ」私は、その一つを少女に差し出す。
 少女はおずおずとそれを受け取った。「食べていいの」と小さい声で訊く。
「あんたが持ってきたんでしょ。食べていいに決まってるじゃん」

 私の言葉を聞くと、顔を綻ばせて袋の口を開ける。
 その口から器用にパンの頭だけを出させると、齧りついた。もぐもぐと咀嚼すると、小さい喉を鳴らして飲み下す。そして、もう一度小さく齧りつく。
 私が二口で食べきりそうなそのパンを慎重に食べ進めていく姿は、小動物の食事風景を思わせた。
 まどろっこしい。見ていたら日が暮れてしまいそうだった。
 ぼんやりその姿を眺めていると、少女は動きを止めた。

「お水」
「あー水かー」

 そういえば、水のことを考えていなかった。
 一応、沢から汲んできた水があるにはあったが、それも食料と同様、いつのものか分からないような代物だ。
 どうしようか、と思案する私に、少女が鉄製の筒のようなものを手に取った。

「飲んでいい?」
「それ?」
「うん」こくんと頷く。

 どうやら筒の中には水が入っているらしい。
 水筒なのだろうか。だとしたら、鉄製の水筒を作るなんて、外の世界はだいぶ変わっている。

「だから勝手に飲みなって。誰も咎めないよ」

 私が許可を出すと、少女は水筒の蓋をはずし、それをコップにして中のものを注ぐ。
 水かと思ったそれはわずかに茶色をしていた。どうやらお茶のようだ。
 喉を小さく鳴らしながら飲み下すと、またパンに齧りつく。
 やっと半分くらいを食べ終わったところだった。全部食べきるまでにどのくらいかかることやら。
 まあ、暇だからいいけどね。
 はーあ、私はため息を吐く。暇じゃなかったら、こんな酔狂なことはやってない。
 私はぼんやりと、パンが少女の腹の中にゆっくりとおさまっていくのを眺めていた。

 
 * * *


 やっとのことで少女はパンを一つ食べきる。
 私はそれを見計らって、もう一つ別のパンの袋を差し出す。
 少女はちょっと悩んでいたが、それをずいと突き返した。いらないらしい。

「これっぽっちしか食べないの? お腹空くよ?」
「いい」

 首を頑なに横に振る。それで満腹なのだろうか。このくらいの歳の人間はそんなに食べないのだろうか。
 食べてもらわないと、困るんだけどなあ、と私は頭を掻く。
 最終的に、丸々美味しく育ってもらわないと、困る。こんな少食で、果たしてきちんと美味しく育つのだろうか。
 そうしていると、少女は私にパンを握らせてきた。

「ママが食べて」

 外の世界のパンがどういうものか、興味はあったが、少女の食料をここで減らすのは得策ではないと思った。

「ううん、ママはいらないから。また後で食べな、ね」

 受け取ったパンをまたリュックにしまい直す。取り出したその他の物も、一緒に詰めた。
 パンの数と、少女の食事量を考えると、あと三日くらいはもちそうだ、と目算する。

「さてと」

 私は台所を後にする。
 何を言われるでもなく、少女がちょこちょこと後をついてきた。
 こうしてみると、カモの親子のようだ、と思う。もっとも、少女にとってみれば本当に親子のつもりなのだろうが。
 寝室に辿り着き、私はベッドにどっかりと腰を下ろす。
 いろいろあったが、私は眠いのだ。このまま二度寝したい気分だった。
 私はゆっくり横になった。

「ママ」

 それを邪魔する声。言うまでもなく、少女だった。

「なに」

 私はもぞもぞと寝返りを打ちながら、少女に視線を向ける。
 少女はそんな私を不思議そうに見ていた。

「寝るの?」
「そう、寝るの」
「お仕事は」
「今日はお休み」永遠にお休みだ。
「私、学校に行かなくちゃ」
「ガッコー?」
「うん、お勉強するの。お友達と一緒に」

 人里にある寺子屋のようなものだろうか。噂によると、子供たちを集まって、読み書きや歴史を教えていると言うが。

「いーのよ。そんなもん」私は手をひらひらと振る。「ガッコーもお休み」
「でも」少女は不安そうに目を伏せた。そんなに勉強がしたいのだろうか。私にはよく分からない。

 面倒くさいので、私は少女をベッドの中に引きずり込む。

「きゃっ」
「あんたは真面目すぎ。もっと適当に、もっと怠けることを覚えなきゃ。私みたいに」
「でも、それじゃダメだって」
「ダメじゃない。いーい、ここで暮らす以上、私がルールだからね。私に逆らわないこと」
「えーと、うん」

 私の腕の中で居心地が悪そうにもぞもぞと少女が動く。

「分かったら、存分にぐーたらしなさい。命令よ。あくせく働いたらダメ」
「ダメ」少女は私の口調を真似してみせた。視線が交差する。何が嬉しいのか、口元を緩ませた。

「よーし、じゃあこのまま昼過ぎまで寝るよー」
「うん」

 少女はもぞもぞと動くとぴったりと身体をくっつけてきた。
 少女の体は熱かった。それは生命の持つ熱だった。生きている、少女は生きている。そんな当たり前のことを思う。春先、寒さの残る午前。そんな熱が心地よかった。
 結局その日、私たちが目を覚ましたのは夕方、日が暮れかかってからだった。

 


三、

 奇妙な共同生活が始まってから三日が過ぎた。


 面倒くさいとは思っていたが、人間の小娘を育てるのがここまでのものだとは思っていなかった。

 少女は一日きっかり三回の食事を要求してきた。
 これは誤算だった。人間は一日一回くらい食べて生活していると思っていたのだが、それでは足りないらしい。
 当初は三日もつと読んでいた少女の持ってきた食料も、これでは一日と少しでなくなってしまうだろう。まだ痛んでない果物やカビパンが残っていたが、それも長くはもたないだろう。

 少女はまた、風呂にも一日一回入りたがった。
 一日くらい入らなくても死にはしないって、と諭しても頑として譲らなかった。結局、ほとんど使ったことのない風呂を沸かして、一緒に入る。久しぶりの風呂は気持ちよかったし、悪い気持ではなかったが。

 着るものに関しては問題なかった。
 少女のリュックには、三日分の着替えが入れてあったし、順番に着回していけば一週間はもつだろうと考えている。汚れてしまったら洗えばいいし。

 総合してみると、一番何とかしなくてはいけないのは、食料だった。


 * * *


 朝。私たちは、のそのそと布団から這い出る。
 少女は眠い目をこすりながら、とてとてと部屋を出て行く。私は欠伸をしながらそれを見送った。
 朝起きて、朝食を食べ、二度寝する。
 そんなぐうたらサイクルが、二人の生活に染みつき始めていた。
 当初は怠けることに抵抗を覚えていた少女も、だんだんとこの堕落した生活に慣れてきたみたいだった。よい兆候だ。生真面目な奴とずっと一緒に住み続けるなんて、考えるだけで気詰まりがする。もっとも、この兆候が美味しい人間の第一歩として正しいのかは謎だったが。
 大きく伸びをすると、重い腰をあげて、少女を追いかけた。


 台所では、少女がリンゴと睨めっこしていた。

「どうしたの」私が訊く。少女は涙目をこちらに向けた。
「リンゴ」
「うん」
「包丁がないの」
「ああ」

 どうやら皮を剥けずに困っていたらしい。
 確かに、この家で包丁やナイフを見た記憶はない。でも、リンゴくらい、皮を剥かなくても食べられるだろうに。
 私はテーブルの上にあった、別のリンゴを手に取る。

「いーい? 皮なんか剥かなくても、大丈夫よ。ほら、こんな」私はそう言って、リンゴに歯を立てる。硬い果肉を、前歯でそぐようにして食べてみせた。しゃりしゃりと小気味のいい音がする。
 少女は不思議そうに私の行為を見ていたが、やがて意を決したようにリンゴに歯を立てた。なかなか齧ることが出来ずに苦戦して、ようやく一口、齧る。

 私はそれを眺めながら、思案する。
 カビの生えたパンは昨日で全部食べきってしまったようだ。食料はあと、数個の果物だけ。
 本格的に、食料の調達先を考えなくてはならないようだ。
 しかし、どうしようか。
 人里で買おうにも金なんかないし、人里の店を襲うのもあとがいろいろ面倒くさく、また、長期的に見て得策とも言えなかった。
 とすると――。

「ねえ」

 私は少女に言う。
 少女は、夢中でリンゴに齧りつきながら、上目づかいをこちらに向けた。

「お留守番、できる?」


 * * *


 私は森の中を歩いていた。
 この三日間は、ずっと少女と一緒だったから、一人で行動するのは久しぶりだった。解放感に胸がすく思いがする。これで真夜中ならテンションがさらに上がるのだけど、そうも言っていられない。
 歩きながら、私はきょろきょろとあたりを見回す。
 食料になりそうなものがないか、探すのだ。木の実や、ウサギなんかの小動物などがいれば嬉しいのだが。
 しばらく歩くと、沢に出た。森の中を流れる清流だ。それを見て、魚もいいな、と思う。塩でもかけて焼けば食べられるだろう。

「あら、珍しい顔」

 水面を覗き込んでいると、声をかけられた。
 顔を上げる。川の上の方、小高い岩の上から釣り糸を垂らす影があった。夜雀のミスティアだった。
 知らない顔ではないけれど、特に仲良くもない妖怪だ。

「何やってんのさ、こんなところで」
「それはこっちの台詞だけど。なに、釣り?」
「そう、釣り」ミスティアはからからと陽気に笑う。「人を襲うのも最近はいろいろ大変だしねえ、他に楽しいことでも始めようと思って」
「楽しいの?」
「んーあんまり」

 ミスティアの垂らした糸が、くいと引かれる。タイミングを合わせて釣竿を持ち上げるが、何もかかっていなかった。
 ちぇっ、また食われたよ、と口を尖らせる。
 釣り針にミミズのような虫を器用に片手でつけると、また清流に糸を垂らした。

「で、ルーミアはなんなのさ。こんな真昼間に、珍しいじゃない」
「それはあんたもじゃないの?」
「ん、まーそうなんだけどね」
「私は、ほら、暇つぶし」まさか、ここで人間の餌を探してるとは言えない。適当に嘘を吐く。

 それ以上会話は続かなかった。
 二人の沈黙を埋めるように水の流れる音がする。どこかで遠くで鳥がさえずっている。長閑だ。
 私は、手ごろな大きさの石を選んで歩きながら、ミスティアの元に行く。
 ミスティアの隣には、竹で編んだ籠が二つ置かれていた。
 片方を覗き込む。そこには、今まで釣った魚が五、六匹、白い腹を見せて横たわっていた。

「わ、結構釣れてんじゃん」
「でしょ」ミスティアが、誇らしげに歯を見せて笑う。
「ね、少しくらい分けてよ」
「だーめ。これから人里に売りに行くんだから」
「人里に?」私は眉をひそめる。何だって、わざわざそんなところに。
「ちょっとばかしお金が必要なのよ」
「ふぅん」妖怪にお金が必要な時なんて、あるのだろうか。それこそ、私みたいな奇特な状況に置かれないかぎり、そんな時なんて来ないような気がした。

 それから、二人はまた黙った。
 ミスティアは、釣りをする。
 私はここに来た目的も忘れて、ただそれを眺めていた。
 ミスティアが、それから二匹、川魚を釣り上げたとき、唐突に話し始めた。

「私はさ、この機会にちょっと商売やってみようと思って」
「はあ」

 あまりに唐突だったから、気の抜けた返事しかできない。
 ミスティアは構わず続けた。

「ほら、最近、人間を襲いづらくなったじゃん? 妖怪の賢者とかいう奴が、無闇に人を襲わないよう目を光らせてるしさ。やれ人間と妖怪のバランスとか、面倒くさい理屈こねくり回して」
「うん」私は、光を反射してきらめく水面を見ながら、相槌を打つ。
「だからさ、私はもっと別のことしようと思って。居酒屋まがいのことなんかしてみようかな、とか」
「なんでまた」
「うーんなんでだろ。強いて言えば、料理が好きだから、かな。なんか料理してると、他の誰かにも食べてもらいたくなるのよねえ」
「ふぅん」
「あと、暇だから。なんとなく」

 暇だから、なんとなく。
 それは何かを始めるときに、とても重要なことだ。
 暇だと何か酔狂なことをしたくなる。特に、妖怪みたいな長生きの存在は、暇になりがちで、とつぜん変なことをしたくなるのだ。
 私もきっとそれなんだろう。
 自分好みの人間を育てて食べるなんてことがどんなに割に合わないことだなんて、あの少女と暮らし始めて一日で、嫌というほど分かってる。
 つまり、私は暇だったのだ。

「人間相手に、さ」

 ミスティアの言葉に、私ははじかれたように顔を上げる。ミスティアの話はまだ続いていたらしい。
 私も人間のことを考えていた矢先だったから、その言葉に思わずどきっとする。

「人間相手に商売するの」
「なんでまた」
「人間のほうが舌が肥えてるからねー。料理のしがいがあるっていうかー? まあ、最近人間に興味が出てきた、っていうほうが大きいけどね」
「興味?」

 さっきから私は訊いてばかりだ、と思った。ミスティアは気にした風もなく続ける。

「うん。人間を襲わなくなってさ、私も考えたのよ。鳥頭なりに。人間ってなんだろうってさ。そう考えると、よく分からないよなー人間、って」

 妖怪は人間の想像から生み出される。
 妖怪と人間は、切っても切れない関係なのだ。それなのに妖怪は、人間を襲わねば生きていけない。生みの親を殺して、生きていくのだ。
 
「だから、今までにない新しい人間と妖怪の関係を模索する、ってわけ?」
「あはは、そこまで大それたこと考えてないって。そんなの、偉い妖怪たちが考えることでしょ。私はやっぱり、暇を持て余してるだけよ。何しよっかなーって考えた時に、人間のことが真っ先に頭に思い浮かんだだけ」
「ふうん」

 私は気の抜けたような返事をした。それきり、ミスティアも私も黙り込んだ。

 人間から妖怪が生まれたならば、結局、人間と妖怪はどこかでつながっているのだろうか。か細く、見えない糸のようなもので。あの少女が、今頃きっと私の帰りを待っているように。今、私が、何となく置いてきたあの少女のことが気になっているように。

 それからしばらく沈黙が流れた。
 その間に私は三回欠伸をし、ミスティアは二匹魚を釣った。

「さてと」
 釣った魚を魚籠に放り込むと、ミスティアは釣道具を片付け始めた。釣果は十分、ということだろうか。
 二つある籠の一方は、すでに釣った魚がひしめき合うように詰まっていた。ミスティアはおもむろに、空いている方の籠に、今しがた釣ったばかりの獲物を半分ほど移し始める。

「これ、あげる」

 ミスティアは、何を思ったかその籠をこちらに寄越した。
 見れば、中でびちびちと五匹、川魚が跳ねている。

「いいの?」
「うん、話聞いてくれたお礼」

 適当に相槌を打っていただけだったが、それでよかったのだろうか。私がそういうと、「いいんだよ」と照れ臭そうに笑った。

「なんかすっきりした。やるぞーって気になったしね」
「でも、商売道具なんでしょう」人里に持っていって売ると言っていた。
「もともとはそのつもりだったんだけどね。屋台買ったりする資金にしようと思って。あと、いざ料理屋をやる時に、何の料理をメインで出そうかなーっていう研究もかねて」
「魚料理がメインなの?」
「いや、川魚は微妙かなあ。今日の釣果はそこそこだけど、とれない日は全然とれないしね。もっと簡単にとれて、しかも人間がまだ目をつけてない食材ってないかねえ」

 そんなものが簡単に見つかるとも思わなかったが、「がんばってね」と声をかけておいた。我ながら無責任な言葉だと思う。

「じゃあ、本当にいいのね。これ」

 私は念を押す。後で返せといわれても、胃袋の中身は返せないのだ。

「いいのいいの。それじゃね」

 ミスティアはもう片方の魚籠を掴むと、釣竿を肩に担いで飛び立っていった。
 私はしばらく、籠の中の魚の白い腹を見ていたが、それを手に持ち家路を辿ることにした。
 それにしても、釣りというのはいい方法だ。
 少女の小さな胃袋を満たす分の魚ならば簡単に釣れそうだし、今度簡単な釣り竿を自作してみるのもいいかもしれない。そうすれば食材を手に入れつつ、食べきれない魚を人里に売って小金を稼ぎ、もっといい食材を手に入れることもできる。
 と、そこまで考えて、私はため息を吐く。
 私は、なんだってそこまでしなくてはいけないのだ。

「まあ、ずっと魚を食わせてればいいんだけど、それだと文句言いそうだしね」

 私は誰にでもなく言い訳すると、ふよふよ飛びながら家へと向かう。




四、

 少女の様子がおかしい。

 そのことに気が付いたのは、共同生活が始まってから六日目の朝だった。
 あとから思えば、前夜からその兆候はあったように思う。
 いつもより返答が遅かったり、心なしか足元がふらついていたり。でも、どちらも小さな兆しで、見逃してしまっても仕方なかった、と思う。
 

 私がいつものように、少女から遅れてベッドから這いだすと、台所で何か音がした。
 ごとり、という重いものが、地面に落ちる音。私は不審に思いながら、台所へと向かう。
 そこに、少女が倒れていた。

「どうしたの」

 私は少女に駆け寄る。頭を支えて抱き起した。

「あれ、ママ」
「うん、ママだよ。どうしたの」
「あれ、あれ」意識が朦朧としているらしい。心なしか、目の焦点も定まっていないように見えた。

 私は手のひらを少女の額に当ててみた。熱い。とんでもなく熱い。少女の体全体がかっかと熱を発している。
 人間について疎い私でも、これが異常事態であることはすぐに飲み込めた。

「よっと。歩ける?」

 私は少女に肩を貸しながら起き上がらせる。
 少女は自分の力で歩こうとするも、咳き込んでふらつき、倒れそうになった。私は背中からそれを支える。
 私はどうしたらいいか見当もつかない。とりあえず、少女を背負うと、ベッドに引き返し、寝かせて布団をかぶせた。

「とりあえず、寝てなさい。すぐに良くなるから」嘘を吐く。たぶん、寝ているだけでは治らない。
 それでも少女は、うんうんと頷くと素直に目を閉じる。
 本当に嘘に免疫のない子だ、と呆れる。

 さて、どうしたものか、と思案する。
 当然のことながら、人間の病気について私は何も知らない。妖怪は人間が罹るような病気にはならないのだ。
 つくづく、人間の体は不便だな、と改めて思う。
 一番いいのはもちろん、人間の医者に診てもらうことだろう。だが、そこには問題がいくつかあった。
 例えば金銭面。
 私は、病気を治すのにいったいいくらかかるのか知らない。少なくとも手元にある、釣った魚を売って得た小金程度では足りないだろうということは分かっている。
 そして、お金があったとして今度は、妖怪の私がどんな面をしてこの子を医者に連れて行くのか、という問題が残る。
 魚を売る程度ならば問題ないだろう。しかし医者に行くのは、小金を稼ぐのとは違う。
 幼い人間の子を、私のような似ても似つかない容姿の妖怪が連れて行ったとして、疑われるのは目に見えている。たとえ妖怪だとばれなくとも、二人を並べて親子だと思う人なんかいやしないのだ。

 私は、ベッドの上で寝ている少女を見下ろす。
 苦しそうに息を荒げ、ときどき咳き込んでいる。体調はやはり芳しくないようだ。

「暑い……」少女はうわ言のようにつぶやく。「暑いよ、ママ」
「暑いってったってねえ」

 私は考える。
 水でもぶっかけようか、とも思ったがそれが得策とはどうしても思えない。水を含ませた布で顔でも拭いてあげれば、体温が下がるだろうか。
 私は台所に向かうと、手拭いを水瓶の中に浸し、ぎゅうっと絞る。
 私は何をしているんだろう、と今更ながらに思ったが、それ以上考えるのが面倒くさい。
 私は適度に水分を絞り取った手拭いを手に、少女の元に戻る。
 依然として苦しそうに息をする少女の頬に、それを宛がった。

「ひゃっ」びくっ、と少女の体が跳ねる。
「あ、冷たかった?」私は反射的に手拭いを引っ込めた。
 少女はふるふると首を横に振る。「ううん。びっくりしただけ。気持ちいいよ」
「そう」私はほっと息を吐く。もう一度手拭いを、今度は首筋にそっと当てた。

 少女はくすぐったそうに体をよじる。
 私は少女の顔を、念入りに拭いていく。一通り拭き終わると、一番置きやすそうな額に、手拭いを置いてみた。
「冷たい」少女は笑う。

 しかし、あまり体調は良くなってはいないようだった。
 まだ肩で息をしているような状況だし、時折咳が混じっている。
 決断の時は迫って来ていた。

 正直、どちらでも良かった。
 このまま少女が死んでしまっても、私は一向に構わなかった。いっそ死ぬ前に食べてしまう、というのも一つの選択肢だった。あるいは、駄目元で医者に連れていって、運よく直れば、また少女を育てる生活に戻ることもできる。
 私はどっちに転がってもよかった。

「ねえ」

 私は少女の髪を何とはなしに梳きながら、問う。

「苦しい? お医者さんに行って、早く良くなりたい?」

 苦しいに決まっていた。早く良くなりたいに決まっていた。
 だけど、私は訊いた。何とはなしに、気まぐれに、だ。
 少女はしかし、私の予想外の言葉を吐いた。

「ううん、へいきだよ。私、苦しくないよ」

 どの口がそれを言うのか。
 私は呆れた。この少女の言動には呆れてばかりだが、このときばかりは本当に呆れた。
 誰が見ても、それは明らかな嘘だった。

「嘘つき」私は、少女の額をつつく。

 嘘を吐いて、相手を煙にまけ。
 そう言ったのは確かに私だ。だけど、こんなときに嘘なんか、吐くもんじゃない。彼女の心の中で、彼女に下手な嘘を吐かせたのは、いったい何だ。

 よし、決めた。
 私は少女の手をとる。少女はぼんやりと私を見ていた。

「お医者さんに行こう」

 妖怪が人間を連れて行くなんて、何を言われるか分かったもんじゃない。
 それでも、少女の嘘を聞いたら、連れて行かなくてはいけないような気になっていた。


 * * *


 私は一時間かけて人里へと辿り着いた。
 普段なら空を飛んですぐに来られるのだが、少女が一緒ならば別だった。私は、少女にとっては母親であり、変哲のない人間なのだ。空を飛ぶわけにはいかない。私は少女を背負いながら、できるだけ足早に人里の門をくぐり抜けた。

「すみません。お医者さんはどこですか」

 私は、道を行く人の中から、出来るだけ親切そうな女性を選んで声をかける。空の買い物籠を腕に下げているところを見るに、これから買い物に行くのだろう。

「あら、どうしたの?」

 女性は足を止め、やや屈むようにして私に目線を合わせる。
 私は、少女の持ってきた服の一つである、帽子がくっついた服を着ていた(パーカーというらしい)。
 金髪の私が黒髪の少女を連れていたら、怪しまれるだろう、という苦肉の策だ。少女と私で、そこまで背格好が変わらないことが幸いした。しかし、目深に帽子(フードというらしい)を被った格好もそれなりに怪しいため、あまり効果もないように思える。
 女性は私を一瞥し、訝しむように眉をひそめる。しかし、私の背中に負ぶさった少女を見るにつけ、のっぴきならない状況だということを悟ったらしい。すぐに親切な女性の顔つきに戻った。

「あら、大変! お医者様に診てもらわなきゃ」
「はい」だから、そう言ってるじゃないか。「あの、場所を」
「一番近いところなら、そうね……。伊助さんのところかしら。ちょっと分かりにくいところにあるから、私が案内するわ」
「ありがとう」私は軽く頭を下げる。少女の脱力した体が、がくんと揺れた。
 少女との関係を訊かれなかったのはありがたかった。私は、小走りで先導する女性のあとを追った。


 * * *


 伊助、という医者の家はずいぶんと古びていた。
 よく言えば昔から開業している、由緒ある家柄ということなのだろうが、どちらかと言えば不安感のほうが強く、出来るなら罹りたくない類の病院だ。
 しかし、今更四の五の言っていられるはずもなく、女性のあんなに勧められるままに戸を叩く。

「はいはい、なんだね」

 奥から出てきたのは、だいぶ歳を召した男だった。家がおんぼろなら、中身もおんぼろか。こんな男に、果たして少女が治せるのか、不安になる。

「はい、あのこの子の体調がすぐれないようで」

 私が口を出すよりも先に、道案内してくれた女性が説明する。ずいぶん世話焼きな女性だ。もっとも、この状況で話を勝手に進めてくれるのはありがたかった。

「ふむ、上がんなさい」

 老医師はそう言うと、奥に引っ込んでいく。私は慌てて靴を脱ぎ、少女の靴を脱がせる。

「あとは伊助さんの話に従ってね。少しお歳だけど、腕は確かだから」

 どうやら女性はここでお別れらしい。
「うん、ありがとう」私は礼を言い、老医師のあとを追った。


 少女の診療を終える。
 少女は畳に敷かれた布団の上で寝息を立てていた。老医師の処方した薬を飲んでからは、見違えるように顔色が良くなってきた気がする。峠は越えた、ということか。
 腕は確かというのは本当らしい。
「風邪と、肺の方が少しやられておったよ。手遅れになっていたら危なかったかもしれん」

 老医師は、診察に使った器具をしまいながら、言う。
 私は出来るだけ殊勝に見えるよう、神妙に頭を下げ、礼を言った。

「ところでその、お代のほうは」

 私は申し訳なさそうな声色で言う。
 我ながら診療が終わったこのタイミングで言いだすのは卑怯だと思ったが、背に腹は代えられない。いざとなったら情に訴えかけて、タダにでもしてもらえばいい。人間が情に弱いのは知っていた。
 老医師は、腫れぼったいような垂れ下がったまぶたの下から、こちらを睨んだ。
 品定めするような目だ。私の何かを、訝しんでいる。
 私は被せるように続ける。

「あの、実は今、持ち合わせがなくて。後で必ず払いますから」

 私は情に訴えかけるように、老医師を上目づかいで見つめる。
 目と目が合う。年老いたくせに、眼光だけはぎらりとしていて不気味だった。

「別に、お前さんのような幼子から大金を巻き上げるつもりはないよ。それよりも」

 老医師は診療器具を片付け終えると、膝をこちらに向けて座り直す。

「お前さん、変わった目の色をしてるな」

 はっ、と思い、目を逸らす。逸らしてから失策だった、と気付いた。
 ここで目を逸らしたら、自分が怪しい奴だと明言しているようなものだ。
 髪の色はフードで隠せばいいと思った。背格好が似ているなら、姉妹で通せると思った。
 しかし、目の色は、明らかに違う。
 少女は黒。私は、血のような赤だ。姉妹で通すのは難しい。
 顔を伏せた私に対し、老医師はつまらなそうに鼻を鳴らす。

「あんたが何者かなんて、私は興味ないがね。私はここに来た患者さんを治すだけだ。ただ――」

 老医師はそこで話を止める。ふうっと長く息を吐いた。沈黙が長く感じられた。

「この娘にどんな生活をしていたのか、それが知りたいね」

 私は、伏せていた顔を上げる。
 老医師は、そのぎらりとした目線をこちらに向けて、あぐらをかいていた。

「どんな、と言われても」
「例えば、栄養のあるものを、バランスよく食べさせていたかね」

 栄養。バランス。
 考えたことがなかった。
 ただ、適当に腹を膨らませることだけを考えていた。昨日は一日魚だったし、その前は魚を売ったお金で買った肉だった。
 少女は、文句も言わずそれを食べていた。
 ふん、と老医師は鼻を鳴らす。

「この子は、肺もやられておった。つまり、あまり綺麗なところで暮らせていないということじゃないかね」

 続けて、老医師は糾弾する。
 思い当たる節は多すぎた。
 第一、魔法の森という場所自体が、化物キノコの胞子が年中舞うような場所だ。私たちの住む家は、ぽっかりと開けて森の中でも日当たりがよく、キノコもあまり生えていなかったが、それでも年端もいかない少女の肺を痛めるには十分だったのだろう。
 ろくに掃除もしていないのも原因だろう。
 確か、あの家に住みだしてから、まともに掃除をしたことなんてあっただろうか。掃除していない埃の積もった部屋での生活は、どれだけ少女にとって過酷だったのだろうか。

 私は何も知らなかった。
 少女が、人間というものが、どれほど頼りなく、面倒くさい存在であるか。

 ちらりと寝ている少女のほうを見やる。
 安らかな表情で寝入っていた。少女の寝息に合わせて、少女の胸のあたりが上下するのが見て取れた。それはあまりにも小さい、生命の営みに思えた。

「お前さんたちが、どういう生活を送っているのかは知らん。お前さんたちの親御さんが、どういう考えを持っているのか」

 老医師は、あごに生えた白髪の無精ひげをなでながら言う。
「親御さん」。私たちは、複雑な家庭の姉妹だと思われているのだろうか。妖怪だとまだ悟られていないのはありがたかった。安堵する。
 しかし、安心したのもつかの間だった。次の老医師の発言は、また私を凍りつかせた。

「この子は、しばらくうちで引き取ろう」

 驚いて、顔を上げる。何を言っているのだ、この男は。
 老医師は、あごを撫でながら、少女の方へ目を向ける。

「この様態を見る限り、とてもこの子が暮らしていけるような環境じゃあるまいに。この子の命を守るために、私はしばらくこの子の身柄を引き取る。親御さんには私があとで話を通そう」
「何を、言ってるの」何を身勝手なことを。
「もちろん、親から子を取り上げるというのは横暴だと思っておる。だが、場合が場合じゃろう。このままこの子を帰したとして、この子がさらに重い病に罹ることは目に見えておる。少しの間だけ、距離をとるのも一つの策じゃと言っておるのじゃ」
「ダメ」

 駄目だ。ここで詳しく少女のことを調べられたら、私たちの関係がばれてしまう。それだけは避けなければ。

「妹と離れるのが嫌なのは分かる。だがな」

 老医師が、少女の髪を撫でる。
 突然、その行為がとても汚らわしいものに見えた。私が育てた大事なもの、それに唾をつけるような行為に見えた。
 私のものを横取りする、ハイエナのように見えた。

「ふざけるな。このジジイ」

 瞬間、私の体の奥から、怒りが噴出した。
 それは、私の物だ。それは、私が育てた物だ。ジジイに横からとられてたまるか。

「ひっ」

 老医師が、小さく喉を鳴らす。
 いつの間にかフードは取れていた。
 私の体から立ち上る妖気に、金色の髪がゆらゆらとたなびく。ぞわり、とおさえようもない怒気が、足元から闇となって噴出した。
 精一杯の目力を込めて、私は老医師を睨む。
 きっと私の瞳は、炎のように赤く滾っているだろう。老医師は顔を引きつらせると、私から後ずさりして距離をとった。

 私は、その瞬間、愉悦を感じた。

 そうだ。これだ、人間を恐怖に陥れる感覚は。
 人間を襲うのをやめてから、ずっと忘れられていた感覚。
 欲望に任せて人を襲い、恐怖に歪む顔を見ながら、喉笛にくらいつく。あの甘美な感情。それを思い出していた。
 怒りが引き、徐々に私の体を欲望が支配する。
 老いぼれの身体なんて、食べるところなどほとんどないだろう。だが、その精神は格別だ。死を前にした恐怖は、格別な調味料となって美味しさを引き立てていく。
 この、恐怖に囚われて震える老人を食らい尽くしたら、どれだけ美味しいだろう――。

「美味しくないよ」

 その声に、我に返る。
 私は声のした方に目をやる。
 少女が、布団から這いだして、私の方へその白く細い手を伸ばしていた。

「美味しくないよ。そのお爺ちゃんは美味しくない」

 ふるふると震えながら、涙声で必死に訴える。
 美味しくない。食べない方がいい、と。

 ――『自分は食べてもおいしくないよ』って全力でアピールしなきゃダメ。

 いつかの声が、頭の中にフラッシュバックした。
 あれは、私が、少女に言った言葉だ。食べられたくないなら、嘘を吐け、と。あんな下らない忠告を、この少女は守っているのだ。
 美味しくない、という必死の嘘を吐いたのだ。

 なんだ、嘘つけるんじゃん。
 嘘も吐けないような小娘だったくせに。

 私は急速にやる気を失っていた。
 残ったのは、ただめんどくさい、といういつもの気怠い気持ちだった。
 私はゆっくりと立ち上がる。「ひっ」と老医師が引き攣った悲鳴を上げたが、もうそれも気にならなかった。

「かえろ」

 私は、少女へ手を伸ばす。
 帰ろう。私たちの家に。埃の積もった汚い家に。
 少女は弱々しく頷くと、その手を嬉しそうにとった。


 
 
五、

 それから、十日くらい経った。
 あれ以来少女は病気にかかることもなく、元気に過ごしていた。
 私は今までよりも健康に気を使うようになった。晴れた日には布団を干して部屋中を掃除したし、食事の栄養バランスについてもミスティアに聞いて知識を得て、魚と、食べられる野草やキノコ(これもミスティアに訊いたのだ)を組み合わせて食事を作るようになった。
 そうしていると、ときどき、面倒くさい、という言葉が頭をよぎる。
 少女と一緒に、皮に釣り糸を垂らしているとき、手拭いで懸命にテーブルを拭いているとき、布団を干しているとき。
 面倒くさい、私は何やってんだ、という声が頭に響くのだ。
 でもだからなんだ、とも思う。それなりに楽しいからいいじゃん? と。
 そうやって、私たちの奇妙な生活も軌道に乗り始めていた。

 でも、始まりが唐突ならば、終わりも唐突で。
 気づかないうちに、この生活の終わりはすぐそこまで来ていたのだ。具体的に言えば、この家の、ドアの前まで。


 * * *


 夜中。
 私と少女が、台所のテーブルで向かい合って座って話していると、こんこん、とノックの音が聞こえた。
 こんな時間に、こんな場所に用がある人がいるとは思えなかった。私は、少女と目を見合わせる。
 何となく、嫌な予感がした。

「ママ」
 
 不安そうに、少女が声を上げる。嫌な予感は、少女にも伝播したのだろうか。

「あんたは先に寝てなさい。ママが出てくるから」

 そう言って、私は少女を一足先にベッドに向かわせる。少女は不安げにドアのところで一度振り返り、寝室に引っ込んでいった。

「さてと、何が出るかなあ」

 鬼が出るか蛇が出るか。
 少なくとも、いいことは無さそうだ、と思う。


「ごきげんよう。宵闇さん」
「あー」
 私は家から出ると、それに対峙した。そして思う。
 鬼や蛇のほうがよっぽどましだったんじゃないか、と。
 紫色した、ごちゃごちゃした装飾の悪趣味なドレス。フリルのついたナイトキャップみたいな帽子。赤いリボンをあしらった、かわいらしい紫色の傘。優美な扇子。そして、これ以上ない、妖艶な笑み。
 妖怪の賢者、幻想郷のとりまとめ役。

「八雲紫さん、かしら?」
「あら、私の名前を知っていてくださるなんて、光栄ですわ」ふわり、と笑う。胡散臭い、と思う。
「まあ、有名人だし」

 これ以上有名な妖怪もいないのではないか、と思う。
 幻想郷を管理する大妖怪の一人で、外と内を区切る境界を敷いたのも彼女だ。少なくとも私には及びもつかないほどの強力なパワーを持つ大妖怪。

「あらそう? 有名すぎるのも困りものね」

 妖艶に笑う。
 直接対峙したのは初めてだけれど、掴みどころがなくて話しづらい、というのが感想だった。

「で、何の用? 私、忙しいんだけど」

 私は彼女から目線を外しながら言う。
 視界の端で、紫がにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「子育てで、ですか」
「――っ」

 どこまで知っているのだ、この妖怪は。
 私の背中に冷や汗が流れた。
 しかし、かといって紫を怒らせるようなことをした覚えはない。外から来た人間を襲うことは、ルール上問題はないはずだ。咎められる言われはない。
 大丈夫だ、と言い聞かせる。
 しかし、紫からにじみ出る謎の圧力は、私の動悸を加速させる。

「私、あなたのお子さんに用があるの」
「私に子どもなんていないけど」駄目元で白を切る。
「あらあら。お医者さんの一件、私知ってますのよ」

 紫はにやにやと笑う。お医者さんの一件、とはあの、老医師を食べ損ねたあの事件のことだろう。こちらのカードは全てお見通しのようだった。
 私は奥歯を噛みしめ、うつむく。
 何のつもりで紫がここに訪れたのかは知らないが、いい方向にはいかないだろうという予感がする。
 黙り込んだ私に対し、紫は語り始める。

「その子はね。もともと私が目をつけていたの。ご存じのとおりその子は、外から来たいわゆる外来人ですけど、私は外の世界にいたときから欲しいと思っていたのよ」
「何のために」
「何のため? 愚問ですね。もちろん、次代の博麗の巫女の候補として、ですわ」
「博麗の巫女」

 私は、いつか見た巫女の姿を脳裏に描く。
 腰まである黒髪。紅白の巫女服。遠目に見ただけだったが、以前見たときには代替わりするような歳ではなかった気がする。
 私がそういうと、紫は全てを見透かしたように微笑む。

「以前? 以前っていつですか? 何年前?」

 その言葉に、私ははっとする。
 妖怪の時間感覚と人間の一生を、改めて考える。
 私たちの「以前」なんて、人間で言う「昔」なのだ。巫女を見たのは、それこそ何十年も前だったのではないか。
 人間は、私がまばたきする間に、老いて死んでいく。

「今の巫女も、もうお婆ちゃん。ずいぶんよくやってくれましたが、そろそろ休ませてあげたいの。それで、新しい巫女となる子を探していたんだけど、そこで」

 翻していた扇子を閉じて、私の背後の家を指す。
 正確には、家の中で眠る少女を。

「見つけたのよ。巫女に相応しい素質を持つ少女」

 もちろん外の世界でね、と紫は付け足しながら、笑う。
 なおも黙り込む私に、とうとうと語り始める。

「少々、その子の生い立ちについてお話ししましょうか」

 紫は、回想するように目を閉じて、歩きはじめた。私は、黙って聴いている。

「その子は、孤児でした。物心がつく前に両親は離婚し、育児放棄。押し付けられるようにして叔父の家に預けられました。しかし、その叔父の家もひどくてねえ。ことあるごとに理由もなくその子を叱りつけ、食事もろくに与えていなかったの。暴力こそなかったものの――いえ、だからこそ余計に他人が付け入れなかったのですが――その子の扱いは、虐待に近かった。ええ、私がその子を見つけたときはもうひどい状況で」

 私は思い出す。
 少女のか細い腕。青白い肌。こちらを窺う、不安げな瞳。

「出来る限り私は外の世界には干渉しないように考えていたのですが、その子の場合は話が別でした。そう、素質があった。八つの歳ながら純粋で穢れを知らない精神、不思議な勘の強さ、生真面目さ、そして持って産まれた優れた霊力」

 私は、少女と会ったあの夜のことを思いだす。
 少女は、暗闇の中、私の位置をぴたりと把握し、声をかけたのではなかった。あれが、勘の強さや、持って産まれた不思議な力によるものだとしたら。

「ただし、誤算が一つありました。私がこっちへ招き入れる準備をしているうちに、その子は自分の力で幻想郷の結界を越えてきてしまったんです。ええ、驚きました。ただの少女が、簡単に越えられるはずもありませんから。あとから聞いた話によると、彼女はその日――結界を越えた日、どうやら施設へ入れられる予定だったそうですね。叔父とその子を見かねた知人が、その子を施設へ連れて行く予定だったとか」

 シセツ、というのがどういうものかというのは分からなかった。が、それは何となく、白い監獄のようなものを想起させた。
 そして、そうか、と私は納得する。あのリュック。
 あれはどこかに遠出するためのものだ。シセツに向かうために、誰かが持たせたのだろう。

「思えば、その所為かもしれません。叔父という繋がりと、施設という繋がり、どちらにも属さない宙ぶらりんの状態。そんな状態と少女の持って産まれた力が、幻想郷に呼び寄せたのかもしれません。幻想郷は、何にも属さなくなった、忘れられたものが辿り着く場所ですから」

 紫は話し終えると、歩みを止めた。私は紫を見据える。

「長話が過ぎたようですね。じゃあ、用件を言いましょう。その子を私に下さいな」
「いやだ、と言ったら」私は悪あがきをする。どうせ、力ではかなわないとは分かっていた。
「あらら、困っちゃうわねー」

 まるで困って無さそうな声色で、紫は微笑む。
 最終的には力ずくで取り戻せばいい、という心づもりなのだろう。完全に主導権はあちらにあった。

「うーん、荒っぽいのは嫌いなのよねえ。どうしたものかしら」

 嘘を吐け。
 どうせ、私を倒すくらい、赤子の手を捻るようなものだ、と考えてるくせに。

「そうですね。出来るだけ穏便に、話し合いで決着をつけましょう。ね」

 これだけ力量差がはっきりしている中で、対等な話し合いなんて出来るはずもなかったが、私は頷く。
 それを確認すると、紫は嬉しそうに微笑む。

「そうね。ずばり訊くけれど。何故その子を引き渡すのが嫌なのかしら」
「何故って、それは」

 それは――何故だろう?

 私は、今一度自分の胸に問いかけてみる。
 私は引き渡すのが嫌だと感じた。こんな奴に少女を引き渡すなんて、ごめんだと。しかし、それはあくまで理不尽な紫の態度が気に食わないから、反抗してやろうというだけであって、少女と離れたくない云々とは別の感情だ。
 じゃあ、と私は、少女と離れてもいいと思っているのか。
 離れたくないと泣いてすがるほど、私は少女に情が移ったのか。
 このたった数日で?

 馬鹿らしい、と思った。

 最初は、少女を育てて、食べるつもりだった。
 肉付きを良くし、適度に感情を植え付け、妖怪に対する恐怖心を覚えさせ、美味しくいただく。
 でも、途中でそれのとてつもない効率の悪さに嫌気がさしたはずだ。それでも辞めなかったのは何故だ。

 面白かったからだ。
 人間に興味がある、とミスティアは言った。
 ならば、私も同じだ。人間に興味が湧いた。だから手を焼いて世話をした。割に合わないと思いながらも、一緒に暮らした。
 でもそれは、遊びと同じじゃないか。
 そう思った瞬間、急速に気持ちが覚めていった。
 そうだ、最初からなんとなくの暇つぶしだった。それがちょっとおかしな方向に行ってしまっただけのこと。結局どこまで行っても暇つぶしなんだから、あー楽しかった、でいつか終えなくてはいけない。

「あーあ、面倒くさーい」

 私は大きく伸びをする。
 紫は、突然の行動に、呆気にとられていた。

「いーよ。勝手に連れていっても。本当なら食べてしまいたかったけど、そんなこと言ったらあんたに殺されそうだし」
「えーと、急にどうしたの?」さすがの紫も、この変わりようには驚いたらしい。
「なんか、急に馬鹿らしくなっちゃった。何でこんなのに執着してたんだろーって。もともと、妖怪と人間っていう、相容れない存在なのにさ」
「そう」

 紫は、目を伏せる。少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


 * * *


 私は手ごろな木の枝に腰をかけて、欠けた月を見上げていた。
 少女と出会ったのが新月だったから、別れるまで一月も経っていないことになる。長いようで短かったな、とぼんやり思う。

「ママ?」

 声がする。もう聞きなれてしまった声。
 私は仕方なく、木の枝から飛び降りると、地面に着地する。軽く三メートルはあった落差を軽々と飛んでみせた母親に、少女は目を白黒させる。
 少女のほうを見る。
 少女は、紫に肩を支えられるようにして立っていた。

「ずいぶんとアクロバティックなことをするのね。人間って言う嘘、突き通すつもりはなかったの」
「別に」ぶっきらぼうに私は答える。

 私は、少女にすたすたと近づくと、目線を合わせるように中腰になった。

「あのね。私、実はあんたの母親じゃないの」

 感慨もなく、そう言った。
 少女は目をぱちくりさせる。今の今まで信じていたのだろう、その嘘を。
 馬鹿らしいと思った。
 こんな小柄な母親がいるものか。子供と全く違う髪の色と目の色の母親がいるものか。

「あなたは母親ってどんなのか、知らないから無理もないかもしれないけどね。母親ってもっと、大きくて、立派で、優しいのよ。それでいて暖かいの」
「ねえ、嘘でしょ、ママ」
「そう嘘だったのよ。ぜんぶ」私は、少女の頭を撫でながら諭す。

「私がママだっていうのも嘘」「私が人間だっていうのも嘘」「私があなたを愛してるみたいにふるまっていたのも全部嘘」

 私は、一気にまくし立てた。
 その間に、少女の目からは堰を切ったように涙が溢れていた。訳が分からないなりに、ひどいことを言われているのは感じているのだろう。

「なんで、ママ。ママ、分からないよ。ママ」

 うわ言のように言いながら泣きじゃくる。少女は私のスカートを必死で握りしめて、私を離すまいとしていた。
 私は、はあ、とため息を吐く。ほんと、面倒くさい。

「ねえ。私と離れたくない?」

 私が少女に尋ねる。
 少女はその言葉に、こくこくと壊れた人形のように何度も頷いた。

「と、こう申しておりますが」

 ささやかな抵抗とばかりに紫に言ってみる。やはり、無償で引き渡すのは癪に思えた。

「ご心配いりませんわ」

 紫は待ってましたとばかりに、空間に裂け目を作り出すと(これが彼女の能力らしい)そこから赤い布を取り出した。

「八雲紫謹製、封印のリボン。特殊な魔術をかけられた糸で編んだ特別製ですわ。これを身に着けて生活するだけで、あら不思議、悲しい思い出もたちどころに忘れられるという逸品」
「うわ、えげつない」

 記憶を消すのか。私はげんなりする。
 紫は、泣きじゃくる少女の頭に、それをちょんと乗っけてみせた。
 黒い髪に、大きなリボンの赤と、あしらわれたフリルの白が映えた。なるほど、似合うな、と場違いなことを考えた。
 紫はそこで、少し悲しそうな顔をする。

「私だって、本当はこんなことしたくないわ。だけど、ね。分かるでしょう?」

 確かに、思い出を引きずって生きることは、少女にとって過酷なことだろう、と思う。
 私と暮らしていたときよりも、紫に引き取られてからのほうが裕福な暮らしになるだろうというのは想像がついた。
 ならば、私との生活の記憶など、ないほうが彼女の為なのだ。

「そして、あなたの分も用意してありますわ」

 じゃーん、と言いながら空間の裂け目から取り出されたのは、少女と同じリボンだった。
 いや、一回り小さいし、フリルもあしらわれていない。これは、リボンというよりも――

「御札、じゃない? これ」
「あら、わかっちゃいます?」うふふ、と口元を隠して紫が優雅に笑う。少女の分はあっても、私の分は用意していなかったらしい。

「まあ、確かに御札に色を塗っただけのものですけど、これもすごいのよ? つけているだけで、それまでの記憶を封印出来ちゃうの」
「それを私につけるの? 必要なくない?」
「必要大ありです。思った以上に二人が互いに入れ込んでるみたいですし。博麗の巫女として育ってもらう以上、必要以上の妖怪とのなれ合いは、ないほうが好ましいの。まあ、ほら、あなたの金髪には映えるんじゃない? ワンポイントのアクセントとして。赤い御札リボン。ほら」

 隙を見て、紫が私の髪にリボンを結びつける。

「うわ、こら勝手につけるな!」
「大丈夫よ。そんなにすぐには効いてこないから。明日の朝くらいまで、記憶の封印には猶予があるわ」

 言いながら、紫は少女の髪にもリボンを結んだ。
 御札リボンと違い、こちらはずいぶんと大きい。頭よりも大きいくらいだった。
 私は、リボンに手を伸ばす。しかし、触ろうとした瞬間、バチっと電流が走るような感覚があった。

「いつっ! なにこれ、触れないんだけど!」
「そりゃ、私謹製の封印ですから、簡単には取れませんよ。勝手に外されたら困りますしね」

 全く、余計なことをしてくれたものだ。私はため息を吐いた。
 下を見る。
 依然として、少女は私のスカートを掴み泣きじゃくっている。
 その頭を撫でてやった。すると、少女はいったん泣き止み、不安げな瞳を私に向けた。

 私はしゃがみこんで、少女と目線を合わせた。
 これが、最後の会話になるだろう、という予感があった。
 しかし、何をしゃべっていいのか、思いつかなかった。
 別れの言葉? それとも、楽しかったよと言って抱きしめる?
 どちらも、このへんてこな共同生活を締めくくるにはふさわしくない気がした。
 うーん、とひとしきり悩み、あまり纏まっていない思考のまましゃべり始める。

「ね、覚えてる。怖い妖怪に出会ったときの対処法」

 少女はきょとんとしたが、おずおずと喋りはじめる。

「美味しくないって、言わなきゃダメ」
「そう。私は美味しくないですよ、って言わなきゃダメ。純真な子は妖怪にすぐに食べられちゃうから、嘘を吐かないとダメ。私は美味しくない、苦いすっぱいってね」
「うん」少女は、神妙な顔で頷く。

 いつか、この少女が大きくなったら。
 いつか見た博麗の巫女のように美味しそうに育ったら。
 そうしたら、私が食べに行ってやろう、と思う。もちろん、博麗の巫女なんて食べたら、紫がかんかんに怒るだろうけど、知ったこっちゃない。
 きっとこの子は、紫に殺されても後悔しないような、美味しい果実に育つ。予感がした。

 だからそれまで、食べられるな。私以外の妖怪に。
 私以外の妖怪に、美味しい果実であることを見破られてはいけないのだ。

 このやり取りも、二人の記憶から消え去るんだろう。
 だけど、ほんの少し、一欠けらでもいいからどちらかの無意識の底に沈殿してくれればいい、と思った。

 よし。もう言い残すことはない。
 だけど最後に。

「愛してるわ、我が娘」

 そう言って、抱きしめてやった。
 もちろん嘘だった。愛してもいないし、娘だと思ったこともない。
 だけど、嘘で始まった関係なら、最後も嘘で閉じても、罰は当たらないんじゃないだろうか。
 少女のぬくもりを感じながら、結局ちゃんと抱きしめてやるなんてこれが初めてだな、と思った。


 * * *


「じゃあ、これで」
「うん」
 少女をおんぶした紫との、簡素なやりとり。
 少女は泣きつかれたのか眠ってしまっている。いつもならもう寝ている時間だから、無理もない。
 紫の背後には、空間の裂け目がぱっくりと口を開けていた。紫をまるまる飲み込んでしまうくらいの大きさはある。きっと、それを潜り抜ければいろんな場所へ一瞬でワープできるのだろう。想像するだにとんでもない能力だ。

「そうそう」紫は片足を裂け目に掛けながら、思い出したように言う。「ひとつ、あなたに言って置きたいことがあります」
「なに?」
「これからの、人間と妖怪の在り方について。今までは、人間と妖怪のバランスの観点から、妖怪に人間を襲わせることを全面的に禁止していました。ですが、当然これは反発が大きかった。なのでこれから上手い策を考えるつもりです。人間も妖怪も楽しく暮らせる方法を」
「楽しく暮らせる方法?」
「そう。人間を守り、かつ妖怪も自由に人間を襲える策。まだ試作段階ですが、もう少しで実用的になりますよ」
「なんか、嘘くさいなあ」

 そんな簡単に、人間と妖怪が両立できるものだろうか。
 紫は、くすりと笑って続ける。

「嘘じゃないわ。まあ、さすがにあなたたちのように人間と妖怪が一つ屋根の下で暮らす、というのはなかなか難しいかもしれませんが。でも、きっと近いうちに実現する。約束するわ。今よりももっと素敵な、人間と妖怪の関係を作る」

 この子と力を合わせてね。
 紫は、背負った少女頭を、愛おしそうに撫でる。

「ふーん。ま、期待しないで待ってるよ」
「ええ」

 紫はたおやかに笑うと、空間の隙間に体を滑り込ませる。
 これで終わりか、とぼんやり思う。まだ、言い足りないことはなかったっけか。

「あのさ」

 私は、あまり考えもせずに、喋り出していた。

「私もひとつ、言って置きたいことがあるよ」

 紫は振り返らなかった。しかし、空間の裂け目を閉じずに、じっと立っている。

「あんた、博麗の巫女の資質ってやつのひとつに、生真面目さっていうのをあげたけどさ。その子にそれを求めてるんなら見当違いだからね」
「へえ?」

 興味深げに、紫が振り返る。

「その子はぐーたらなのさ。今までの環境では、生真面目にふるまうことしかできなかっただけ。本当は、面倒くさがりだよ。私と同じように」

 私は振り返る。
 少女との日々。
 短い中でいろいろあったけれど、一番に浮かんでくるのは、毎日、布団の中でごろごろしていたことだ。私と少女は、何をするでもなく一日ごろごろしていたことだってあるんだ。どうだ。
 紫は、淡々と返す。

「そうですか。ご心配には及びません。八雲式教育で、すぐに真面目な子に戻してみせますわ」
「無理だね。私には分かる。その子は将来ものぐさになる」

 紫は、何故か面白そうに笑った。そして、音もなく、空間の隙間は閉じた。




六、

 ――あ。
 ――おっ。
 ――ミスティアじゃん、何してんのさ、こんなところで。
 ――私は、山菜採り。採って人里で売るの。ちょっと入り用で。それよりルーミアこそ、ここで何やってんの。
 ――散歩。なんとなく。
 ――新月に?
 ――そう。
 ――ふーん、別にいいけど。


 ――私さ、ウナギ屋になるかも。
 ――へえ。
 ――ヤツメウナギって知ってる? 食べると目が良く見えるようになるってウナギなんだけど。
 ――うん。
 ――それ使って商売できないかなって。私の歌で鳥目にして、私のウナギで視力回復させるの。ね、面白いアイデアじゃない?
 ――それって詐欺じゃないの?
 ――えー、そんなことないって。
 ――それに、お金が必要なの?
 ――そ、屋台が欲しくてねー。自分で作るわけにもいかないし。今必死こいてお金溜めてる最中。


 ――私はさ。
 ――うんうん。
 ――前から新月の夜、散歩するの好きなんだよね。暗くて静かだし。
 ――うん。
 ――面白い発見もあるしね。
 ――発見?
 ――そう。例えば――
 ――例えば?
 ――いい例は思いつかないけど、とにかく、何かが見つかりそうな気がするの。
 ――なにそれ、わけわかんない。
 ――うん、ほんと、わけわかんない。









エピローグ

 ねぐらにしている古木の空洞から這い出ると、私は目を丸くした。
 あたり一面、真っ赤な霧に覆われていたのだ。
 私は空を飛んで、森を上から一望してみる。するとどうだ、森が霧にすっぽり包まれ、真っ赤に染まっているではないか。いや、森だけじゃない。その先の人里へつづく道も、人里も、竹林も、神社も、幻想郷全てが紅い霧に覆われていた。
 なんだこれは、と思う。誰がこんなことを。
 私はそうしているうちに、なんだか体の奥から力が湧いてくるように感じた。どうやらこの霧は妖霧でもあるようで、妖怪である私の力を増幅してくれているようだ。
 これはいい。
 私は胸いっぱいに、霧を吸い込む。気分が高揚していく。なんでもできそうな気分になる。

 そして、久しぶりに、人間を襲いたくなった。

 私は微笑む。
 一時期は妖怪は人間を襲ってはいけない、という面倒くさいルールがあった。しかし、つい最近、スペルカードルールというものが施行され、人を合法的に襲えるようになったのだ。それを使えば、人間と妖怪が対等になれ、決闘できるとして。
 私はうきうきした気分で森の上を飛び回る。行き先は決めていない。とにかく、目についた人間を襲いたい気分だった。

 そのとき、とある人影が目に映った。
 宵闇に溶けるような黒髪、大きな紅いリボン、紅白の巫女服。間違いない、あれは博麗の巫女だ。紅い霧を突っ切るように、まっすぐに飛んでいる。
 私はほくそ笑む。
 スペルカードルールにのっとれば、博麗の巫女にだって、堂々と襲い掛かれるのだ。
 私は、彼女に近づく。彼女は、私の姿を認めるとスピードを殺して止まった。
 二人対峙して、空中で睨み合う。
 私は彼女を見る。彼女も私を見る。
 愉快になって、手を大きく横に広げた。
 そして、私は彼女に問う。


「目の前が取って食べれる人類?」











 ――良薬は口に苦し って言葉知ってる?




 * * *


 ぐぬぬ、時間が足りなくて設定が練りきれていない……。
 そ、それでも枯木も山のにぎわいと信じて投稿させていただきます。さあ、存分に叩いて!(ドМ)



 それでは、今回のコンペも無事終わることを祈って。ご読了ありがとうございました!
道端
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コメント



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1.6あらつき削除
すっきりまとまっていて良いという印象。
とはいえ、中盤~終わりが内容薄いなあという感じでした。
2.10名無削除
まったく嘘つきばっかりばかりで嫌になる。
3.10mayuladyz削除
共同生活のアイディアはとても面白かった
何時食われるのか…とドキドキしながら読んだ
締めも綺麗にまとまっていたと思う(*`・∀・´*)

それから細かく描写はしていなけど(不要な描写と言うべきかな?)
それでも要所をしっかりと押さえていた
これが文才なのかと思ったよ

これで設定を練り切れなかったと
言うんだから嫉妬しちゃうよね(´・ω・`)
4.3エーリング削除
ううむ、原作に繋ぎたい意図は解るんですが、所々キャラクターの言動におかしな点が。面倒くさいと言いながら何でもやっちゃうとことかリボン大人しくつけられちゃうとことか。
5.8がま口削除
いえいえ。シンプルながら既存の設定に即した、とても読みやすい良作でしたよ。
霊夢さんの出生には様々な意見がありますが、今回は不憫な生い立ちだったんだねぇ(泣)
ゆえに、短い間ながらルーミアと過ごした日々との別れのシーンはうるっときました。
蛇足ですが、ルーミアのリボンは記憶を封印している訳ですよね。じゃあ、誰かが取っちゃったりしたら一気に記憶が噴き出すのかな!
……こんなゲスい発想をしてしまう私って、いったい何なんだ(哀)
6.5みすゞ削除
ルーミア「霊夢はわしが育てた」
この設定は珍しいなと思いました。
7.8PNS削除
ストーリーの真相が抜群に面白かったです。原作に繋がるオチも王道でいいですね。
惜しむらくは、もっと納得感のある読み応えが全体的に欲しかったところかなぁ……(人のこと全く言えないんですが)
それにしても、博麗ウマソーとか名前がつけられてなくてよかったw
8.7ナルスフ削除
うおお、今回もかっこいいルーミア枠があるとは。
ルーミアと霊夢と言えば、Win版の幕開けを飾った始まりの二人。そして本当に、この二人の出会いからすべてが始まったのだとしたら。
なんだかんだでルーミアを慕っていた霊夢と、なんだかんだで情のようなものが湧いていたルーミア。お互いのことを忘れてしまっていても、ちゃんと心に決めたことを実行した二人。熱いですねえ。
ちゃんと霊夢の行く末を見抜いていたルーミアも、親としての適性の高さを想わせて、グッときます。
勢いで十分楽しんで読ませていただきました。
が、批評するとなると結構細かいところが気になります。
まずもってエピソード不足なのではないかと。結局リセットされちゃうわけですし、もうちょっと二人の絆と変容を思わせるものがあればなと思いました。目立ったエピソードって医者に連れて行ったくらいですし、せめて日常描写以外に、霊夢側がルーミアに信頼を寄せるエピソードがあれば、ルーミアが嘘を明かすあたりがもちっと劇的になったと思うのですが。ルーミア側も諦めるのが結構あっさりしてますしね。
伊助さん、もう一回出番欲しかったです。ミスティアが人間との新しい関係を模索してるという描写があったのですから、人間側がどうだったのか。妖怪が人間を医者に連れてきた、というありえないものを目撃してしまった人間が何を考えたのか。とても気になりましたが、結局彼は最後までビビってるだけで何も語ってはくれなかったので、残念でした。
これは割と個人的ですけど、『それまでの記憶を封印』という言い回し。最終的にミスティアのことを覚えていたっぽいので、霊夢に関する記憶だけが消えたんでしょうけど、『それまでの記憶を封印=現在のルーミアの消滅』とも読み取れるので。紫が「邪魔だから消えてくださいね。あ、消えるまでには多少猶予はありますよ。ま、お札には触れないので、せいぜい明朝まで恐怖に怯えててくださいね(笑)」って言ってるみたいで、ぐうの音も出ないほどの畜生に見えて胸糞悪かったです。『この子に関する記憶』とかにしてくれればまだよかったんですけど。まぁ元々胸糞悪い役回りですけどね。
後は、虐待されてたのに『純粋で穢れを知らない精神』ってどうよ? とか、人里が保護区域なだけで、人里以外では普通に人食えるんじゃなかったっけ? とか。
面白かった。けれど、あとちょっと磨ければ、と言わざるを得ない作品だったと思います。
9.8完熟オレンジ削除
もう少しお話を広げることもできたんじゃないかなぁ、と思ってこの評価。
個人的には好きな部類のお話でした。執筆お疲れさまです。
10.6生煮え削除
手堅く纏まっていて完成度の高い作品だと思いました。反面、この話はここまでのスケールですよと小さく纏まりすぎてしまった感もあり、その点は少し残念に思います。欲を言えば妖怪から見た人間観をさらにもう一歩掘り下げてほしかったというのと、再会シーンも見たかったなと思いました。
11.8きみたか削除
ごっつい肩書としょぼい攻撃、赤いリボンに謎を残すルーミアさん。
そこにお題を絡めて綺麗に描き上げられており、後書きで自らおっしゃるよりは良作ではないかと思います。
本筋と関係のあるようなないようなみすちーが、変化の象徴としていい味を出してます。
12.8名前が無い程度の能力削除
どうやら娘さんは立派に、ぐーたらに育ったようですね
薄闇のように穏やかに進んでいく物語が心地良かったです
素敵なお話をありがとうございます
13.6時間が足りない!削除
こういう話、結構好きなんです。
だからこそ、もう少し二人の具体的なエピソードを読みたかったなあ、と思いました。
二人の別れと、再会にどれだけ意味をこめられるかがこの話のキーポイントだと思うので、やはりもっ

と二人の交流を描いた方が良かったのではないかと思います。
14.8K.M削除
こういう組み合わせ、自分としてはかなり好きです。