第十二回東方SSこんぺ(嘘)

勿忘草に想いを託し

2013/10/27 23:46:47
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 それはいつも通りの、他愛もない勝負事の延長線だった。

「なぁ、霊夢。次の勝負についてなんだが……」
「あー?」

 冬が終わり、春の気配が幻想郷に顔を見せ始めた頃。
 季節ともども寒々しい枝を晒していた博麗神社の桜たちは蕾をつけ、ロクに人目に触れることなく、しかし誇らしげに桜花を散らせていた。
 枝に付いているならまだしも、神社の景観を損なう花びらに風情など抱く筈もない博麗霊夢は、まるで仇敵でも叩くように箒を繰っていた。
 そんな所に花びらを巻き上げやって来たのが暇人、霧雨魔理沙だった。
 普段は目的もなくやって来る癖に、この時ばかりは違っていた。億劫そうに首を向ける霊夢に怯む様子もなく、魔理沙はこう言った。

「次は、お互いの寿命で勝負してみないか?」
「……はぁ。やって来て何を言うかと思えば、またそんな事? 飽きない奴ねぇ」
「お前との勝負事で飽きなんてくる筈がないぜ」
「そう言って、あんたが私に勝った例が無いじゃない。例外が弾幕ごっこくらいだけど、それでも私が勝ち越してるし」
「だからこその今回の内容だぜ」
「あぁ、寿命だっけ? なに、私と殺し合いでもしようっての? いい度胸してるじゃない」
「馬鹿。生命を賭けるんじゃない、寿命を競うんだ」

 なーんだ、と殊更残念そうに呟くと、魔理沙が青い顔をするものだから可笑しかった。
 しかし、寿命を競うという事はつまりである。

「それって、どっちが先に死ぬか、って事よね」
「そうだけど、そこは『どっちが長生きするか』って言おうぜ」
「一緒の事じゃない。しかも寿命って、いつ来るかも分かんないようなものを勝ち負けの条件にする訳?」

 霊夢が言う通り、寿命がいつ来るかなんて事は当の本人でさえ分からない。
 一年後か、十年後か、もっと先かもしれない。寿命とは非常に曖昧で模糊としたものなのだ。
 そんないつ終わるともしれない勝負を、気の短い霊夢が快諾するつもりなどなかった。
 しかし、そこは彼女の性格など知り尽くした魔理沙であった。「まぁ、聞け」と言い、言葉を続けた。

「私だってこの勝負が長引くだろう事は理解してる。だからって、殺し合って早目に終わらせようだなんて事は間違っても思っちゃいない。この勝負は謂わば、ボーナスゲームだ」
「ぼーなすげーむ?」

 聞き慣れない横文字に、霊夢は首を横に傾けた。

「簡単に勝敗が決しないなら、これを大どんでん返し有りの大勝負にすればいいんだ。
 それまでの負けなんて一瞬でチャラにしてしまえるような大逆転を。起死回生の大勝利に。長く生きた方はまさに―――人生の勝利者って訳だ」

 大仰な魔理沙の言葉。だが、霊夢の心はそう簡単には動かない。

「随分としょっぱい人生の勝利者もあったもんね」
「お、負けた時の言い訳の前借りかい? 気の早い奴だな」
「何で私が勝負を受ける前提で話が進んでるのよ」
「んん? なら私の不戦勝でいいぜ? その代り、今後お前がどれだけ他の勝負で勝とうが、この一勝のお陰で私の勝利は永遠に揺るがないがな!」
「……何よそれ、ずるい」

 普段の仏頂面とは程遠く、年相応にいじける霊夢の顔を、魔理沙は楽しそうに見ていた。
 いつも通り、無駄に自信に溢れたその笑顔。それが一生、自分に向けられるのかと思うと、癪で仕方がなかった。
 この感情も魔理沙が引き出したもの。霊夢はまんまと彼女の言葉に乗せられてしまっていた。
 ここで勝負を受けてしまえば、ますます魔理沙の術中に嵌った結果になるのだったが、この勝負を受けないという選択は霊夢の中から綺麗さっぱり消えてしまっていた。
 あるのはそのボーナスゲームとやらを制し、完全勝利を決めた未来の自分の姿のみ。
 彼女は存外に負けず嫌いなのだった。

「……いいわ。その勝負、乗ってやろうじゃないの」
「そうでなくっちゃ。ま、勝つのは私だがな!」
「その言葉、そっくりそのまま返してあげる」
「墓の中で泣いたって遅いんだぜ?」
「あんたの墓の前でなら泣いてあげるわよ」

 抜かせ、と肘で小突いてくる魔理沙を鬱陶しそうに払う振りをしながら、霊夢は笑っていた。
 何のことはない。この暇潰し意外の何ものでもない勝負を楽しんでいたのは、霊夢も同じだったのだ。
 勿論、そんな彼女の心情も察していた魔理沙もまた、浮かべる笑みを強めていた。

 もう何十何百と趣向を変えながら行われてきた勝負。壮大なものもあれば、下らないものもあった。
 しかし、どんな勝負であれ、二人はいつだって真剣に挑んだ。勝ちの大半を霊夢だったが、思いもよらぬ形で魔理沙が勝ちを掻っ攫っていくこともあった。
 そんなことを繰り返してきた。そして、今回も。

 「準備があるから、またな」と、飛び去った魔理沙を見送る霊夢の顔には変わらず笑みが浮かんでいた。
 愽麗の巫女としての勘か、結局は自分が勝利するだろうという確信が霊夢の中にはあった。
 何故なら、肝心な勝負の時に限って、魔理沙という少女は自分には絶対に敵わないと知っていたからだ。
 勝利が約束された勝負ほど面白味のないものもないが、霊夢には構わない事だった。
 その時が来れば、自分は先に逝ってしまう魔理沙を穏やかに見送ろうと、それだけを心に決めて、霊夢も出かける準備を始めた。

 いつになるとも分からない未来の勝敗などよりも、人里の新作の甘味を味わうことの方が今の霊夢の気を惹くに十分な力を持っていた。



 ―――そして実際、勝負は霊夢の勝ちに終わった。
 それまでの戦績と合わせても圧倒的な勝利だった。
 完膚なきまでに完全無欠の勝利を霊夢は手にした。

 魔理沙が亡くなったその瞬間、霊夢は人生の勝利者となった。



 そしてそれは、勝負開始から僅か一ヶ月後の出来事であった。



 # # #



 幼い頃から博麗として育てられた霊夢に友達などというありふれた存在はいなかった。
 彼女の周りにいたのは、先代の巫女とたまに顔を見せる妖怪の賢者くらいで、参拝客の顔を見ることさえまれだった。
 ましてや、幻想郷の外れにある神社へ同年代の子どもがやって来る機会などそうそうある筈も無く、故に霊夢に友達を作る機会などなかった。
 それを可哀想だと外野が言うのは自由だ。実際にその意見は、世間一般からして正しいだろう。
 しかし、当の霊夢本人がそんな環境を苦にすることもなく、また友達という存在を欲していなかったならどうだろう。
 だとすれば、何の問題も無い。実際、何の問題も無く、彼女の日常は回っていた。

 それが変わったのが、霧雨魔理沙という少女が博麗神社にやって来たその日からだ。

 今よりもずっと幼い霊夢はある日、吸い込まれそうな程に青く広がる空の中に黒点を見付けた。
 黒点はふらふらゆらゆらと空を漂っていて、まるで風に翻弄される芥のようだと思った。
 それはゆっくりと時間を掛けながらも近付いてきて、それが芥ではなく人であると分かった時、霊夢は珍しく驚きを覚えた。
 理由の一つは、近付いてくる人影が何故か箒に跨った霊夢とさほど歳の変わらないであろう少女だったこと。
 もう一つは、その少女はふらふらからくるくるへと軌道を変えて……地面に向けて落下を始めていたことだ。
 誰かにやれと言われた訳じゃなかった。しかし、落下する少女を目にしたその瞬間、霊夢は迷いなく地を蹴り、宙へ飛んでいた。
 その理由は勿論、少女を受け止める為に。

 そして、流星の如き勢いで降ってきた少女を、霊夢は身体で受け止めた。

『……っう!』

 少女は確かに霊夢と同じ歳の頃に見えた。しかしそれは、受け止めた霊夢の身体も当の少女と大差ない事も意味していた。
 おまけに、重力という自然の力がしなくてもいいのに少女の身体に味方していたのだ。
 結果、受け止めた霊夢の身体は勢いを殺しきれず、地面に向けて急降下を始めた。
 もしもそのまま固い地面に叩き付けられれば、落ちてきた少女の重さも相まって、霊夢は轢かれた蛙のように成り果てていたかもしれない。
 それだけの勢いが、霊夢のまだ小さな身体を襲ったのだ。

 しかし、そこで無様を晒さないのが次期博麗の巫女だった。
 地面に触れる寸前で体勢を仰向けから垂直に変えたかと思えば、重力や前(さき)までの勢いなど知ったことかとばかりのありえない軌道で、また空へと昇ったのだ。
 落ちてきた少女を抱え、まるで重さなど感じさせないように、ふわりふわりと。
 
 霊夢の力は「空を飛ぶ程度の能力」である。地に墜ちるなどという対極にある事態を、彼女の本質が間違っても許す筈がなかった。

『ぅん……うにぃ?』

 とはいえ、生命の危機を直近で感じれば流石の霊夢といえども肝が冷え、吐く息は荒かった。
 そして、自分がこんなに必死の想いをして助けてやったというのに気絶している少女が腹立たしくて、苛立ち紛れにその柔らかそうな頬を抓った。
 頬は霊夢の予想の通り、むにーっと横に長く伸びて……される痛みかこそばゆさかで、少女が薄く目を開けた。

『……ひゃれ? わらひ、ひょらをひょんでて、ひょれひゃらどうひたんだっひぇ……? ひゃひか、まりょくがきれてめのまえがまっくりゃになって……』
『落ちてきたとこを私に助けられたのよ』
『あー、ひょうだったのかぁ……って、だれひゃおまへ!? にゃんでわらひのほっへをつねっひぇ……わー!? ひゃんでとんでるんらー!?』
『あーもう、うるっさい!! いま降ろしてあげるからだまって!!』

 寝惚けた事を言ったかと思えば、ぴーぴー喚くものだから霊夢は心底うんざりした。
 あまりに喧しいものだから、さっさと地面に降ろしてやれば、今度は「お前は何者だ、さっき空を飛んでたよな、っていうか、ここは何処なんだ?」ともっと喧しくなった。
 トドメとばかりに、

『お前も空を飛べるんだな!? じゃあ、私とどれだけ長く飛べるか勝負だ!』

 なんて言うものだから、霊夢は頭痛までしてきていた。
 どれだけ嫌だと断っても勝負しろと言って聞かず、つい大声で怒鳴ると涙目になるのだから受けざるを得なかった。
 とはいえ、魔力切れで気絶して落下した少女がまともに飛べる筈もなく、愛用の箒に跨がって必至になるも、結果は霊夢の不戦勝に終わった。
 ふわりふわりと地面すれすれを飛ぶ霊夢を少女は恨めしげに見てきたが、『自分が言った事も忘れて勝負を仕掛けてくるんだから阿呆な子ね』としか思えなかった。

 少女は先代の巫女に連れられて帰っていった。
 帰り際に『また勝負しような!』と言われたが無視した。『それと、私の名前は霧雨魔理沙だ。またな!』と、これは何故だか覚えていた。
 少女を送り届けてきた先代もまた言った。『お友達が出来て良かったわね』と。
 霊夢にはよく分からなかった。ただ、いつもより晩御飯が豪華で嬉しかった事は覚えている。

 ―――それが、愽麗霊夢と霧雨魔理沙の初めての出会いだった。

 その後の二人を語るには、過ごした日々があまりに濃密で言葉にするのは難しい。
 しかし、二人の「これから」を語ることは簡単だ。何故なら、霧雨魔理沙は死に、その全ての動きを停止した。死人に口なし、喋ることだって当然しないからだ。
 あえて綴るとすれば、霊夢は生き長らえ、楽園の素敵な巫女として幻想郷を見守っていくだろう……と、それが「これから」なのだ。

 その事実を、魔理沙の遺体を前にして、霊夢は受け入れなければならない。



 # # #


 魔理沙の葬儀は命蓮寺で行われていた。
 彼女の訃報を聞いた父親がせめて葬式くらいはと喪主に名乗り上げ、生前から彼女と親交のあった聖白蓮がこれを受けた形だ。
 参列者は人間に限らなかった。魔理沙の顔は、人間だけに限るにはあまりに狭過ぎた。
 呼んでもいないのに、人間の中に混じる妖怪、神、妖精、仙人その他―――亡霊まで参列していたのは冗談のようでもある。
 人妖神仙が入り乱れ、喪服の黒も映えない十人十色な参列者たちで埋め尽くされる葬儀など魔理沙くらいだろう。
 これも彼女の人望あってのことだが、そもそも魔理沙なら自分の葬式なんていらないと断る筈だ。
 誰もがそれを思って笑い、賑やかし役が減って幻想郷が静かになることを寂しく思いながら、彼女の冥福を祈っていた。

 ……そんな中で、未だ呆然としている者が一人いた。誰あろう、霊夢である。

 服装はいつもの紅白の巫女服ではない。場に合わせた黒の喪服姿だ。
 そんな霊夢に多くの視線が向けられる。それは彼女の滅多に見ない出で立ちに対する好奇の視線……ではなく、多分に哀れみを含んだものだった。
 彼女は、霊夢は自分の焼香番を迎えたというのに一歩も動けなかった。ただ、ぼうっと魔理沙の入った棺桶を見ていた。
 業を煮やした連中に半ば引き摺られるように棺桶の前に座らされても、指の一本すら動かさず、虚ろな目を向け続けていた。
 そんな普段からすればありえない腑抜けた霊夢の姿を見ても、やはり失望よりも同情の目の方が向けられる。
 無理もない、と誰もがその目で語っていた。

「…………」

 焼香をあげることもせず、ぺたんと力なく棺桶の前に座る霊夢の瞳の先には、魔理沙がいた。
 その身体は死人とは思えない程に整っていて、蹴飛ばしでもすれば悪態を吐きながら起きるんじゃないかと錯覚させる。
 しかし、よく見てみればその肌は青白い。平素の彼女は体温を持て余し気味だったのか、熟れた林檎のような肌色をしていたのに。
 彼女の象徴ともいえる金の髪も、どこかくすんで見えた。あの太陽を彷彿とさせる輝きを見ることは、もう二度とないのだ。
 魔理沙は、完全完璧なまでに死んでいた。

 あまりに早過ぎる死だった。
 その身体、顔付きを見れば、老衰などでないことは明らか。では、何が魔理沙の命を奪ったのか。

「…………」

 霊夢の瞳が僅かに動く。魔理沙の頭から足の先までをゆっくりと見る。
 白装束に包まれた細い身体、その下には隠し切れない傷跡が点在している。
 それこそが魔理沙を死に追いやった致命傷である。

『霊夢!』
「……っ」

 唐突に、魔理沙に名前を呼ばれた気がした。
 迷子が親を探すように霊夢の視線が左右にゆらゆら揺れるが、幻聴以外の何ものでもない。
 魔理沙は眠っている。死んだようにではなく、死んで永遠の眠りについている。

 その口から名前を呼ばれることは、もう二度とないのだ。



 魔理沙が亡くなった日、その日の霊夢の体調はすこぶる悪かった。
 朝から頭がぼーっとして、咳は止まらず、身体の節々は痛み、おまけに熱っぽかった。どう考えても質の悪い風邪であり、本来なら早く治す為に家に籠って養生にあてるつもりだった。
 しかし、そういう時に限って妖怪退治の依頼がやって来るもので、博麗の巫女として断ることも出来ず、気怠い身体を引き摺り霊夢は出掛けたのだ。

 幸い、畑に悪戯するような木っ端妖怪が相手だったので、依頼自体はあっさりと片付いた。
 しかし、里の人間からすれば畑を荒らされるか荒らされないかでその後の生活に大きな差が出来る訳だ。
 つまり、感謝しきりの里人の厚意を無碍に出来ず、予定よりも長い時間を拘束されてしまった。
 お礼だと渡された野菜や米、塩や味噌などの調味料をこの時ほどいらないと思った日はない。

 具合の悪さと両手に抱えた荷物の重さを存分に感じながら、霊夢はふらふらと帰途につこうとしていた。
 神社に帰ったら荷物などそこらに放り出して、うがいと着替えを済ませたらさっさと床に就こう。
 熱に浮かされた霊夢の思考のほとんどはそれで埋めつくされていた。
 僅かに空いた思考の隙間で、魔理沙がいたら看病を任せてもいいかもしれない、なんて血迷った事も考えながら。

『おーい、霊夢ーっ!』

 風切り音さえ遠くなっていたというのに、その声は不思議と霊夢の耳に飛び込んできた。
 億劫そうに首を下に向ければ神社があって、その境内で白黒の魔法使いが手を振っていた。
 本当にいるとは思わなかった。相変わらず、人の事情など無視してやって来る。
 これは本当に看病の一つでもやってもらわなくては割に合わない。
 あれに自分の身体を任せることに不安はあるが……風邪なのだから仕方がない。

 そんな風に魔理沙の事を思うと、霊夢の中で一日中張り詰めていた緊張が不意に途切れた。途切れて、しまった。

『―――あ、れ?』

 不思議な感覚が霊夢を襲った。
 何かに上から押さえ付けられるような不快な感覚。真っ直ぐに飛んでいた身体が平衡を保てないでいた。
 それは本来、誰もが受けていて、霊夢とは決定的に無縁であった自然の力。
 重力が、霊夢の身体に作用していた。

 落ちる、堕ちる、墜ちていく―――。
 意識は地面が近付いていることを認識しているのに、身体は緩慢な反応を返すだけ。
 ただ重力という暴力にされるがまま、抵抗らしい抵抗も出来ずに落下運動を強制された。

 びょうびょうと風の音が五月蠅かった。しかし、それもほんの数秒先には聞こえなくなるのだ。
 それは何となく寂しいな、と霊夢は思い、まだ死にたくないな、とも思った。
 そんな霊夢の想いを嘲笑うように地面は刻一刻と近付いて来ていた。
 落ちてきた高さからして、叩き付けられれば間違いなく即死だ。如何に霊夢といえども、死ぬのは怖い。
 しかし、それ以上に魔理沙に悪いことをしてしまった、と場違いな事を考えてしまった。

 魔理沙の目の前で死んでしまうこと。
 つい最近、どっちが長く生きるか勝負と約束したばかりだというのに、あっさり死んでしまうこと。
 自分が死ねばもう二度と、魔理沙と勝負してあげられないこと。 
 最後は自惚れかもしれないが、自分が死ねば魔理沙は悲しむんじゃないかと思った。
 だから、心の内で彼女に謝った。
 ごめんなさい、と。

 その時にはもう地面は目の前だった。しかし、心は不思議と落ち着いていた。
 死を悟った者の境地に至ったのか。それとも、持ち前の能天気さがこんな時にまで顔を覗かせたのか。
 霊夢にも分からなかった。ただ、初めての接吻が地面相手というのは何とも色気がなくて自分らしいな、などと考える余裕さえあった。
 そして、せめて最期は自分も少なからず愛したこの地の景色を目に焼き付けようとして、



『霊夢……っ!!!』



 ―――悲痛な声を上げて、自分に向けて駆けてくる魔理沙の姿を見た。



 次の瞬間、霊夢の身体を凄まじい衝撃が襲った。
 息が止まるなんて生易しいものではない。口から内臓が飛び出るかと思う程のえげつない一撃。
 身体にぴりぴりとした違和感もあった。骨の一本や二本はイったと直観的にそう感じた。
 勘でなくとも、危機的状況にあると理解するのは容易かった。

 ……しかし、血反吐を吐いたり、意識が断絶したりはしなかった。むしろ、際限ない痛みは霊夢の意識を虐め立てた。
 朦朧としながらも、どうして、という疑念を払えないでいると、彼女の手がある感触を得た。
 それは地面の固く埃っぽい感触とはまるで違う、ミルクの香り漂う柔らかな毛布のようで。
 そんな上等な物を持ち合わせた覚えのない霊夢はそれが何であるかを確かめようとして、ただでさえ血の気の失せた顔をさらに青くした。

『…………まり、さ?』

 霊夢の下にいたのは、魔理沙だった。
 いつも被っている帽子は放り捨てられたのか頭に無く、金の髪も洋服も埃に塗れていた。それだけなら良かった。
 魔理沙の頭から赤い色がじくりと滲み出ていた。赤は髪を汚したかと思えば、それだけでは足らぬとばかり、石畳に広がっていった。
 生命の証である血が、こんこんと湧き出ていく。そして、勢いを増す流血とは正反対に、魔理沙は動かない。

『あっ……』

 一瞬前まで健常そのものだった魔理沙が自分以上に傷を負っている現状は、いっそ冗談のように思えた。
 しかし、自分の下で不規則に浅い呼吸を繰り返す彼女を見れば、否が応にもこれが現実なのだと思い知らされた。
 血を止めなくては、と分かっているのに霊夢の手足は微動すら困難だと痛みを以て告げてきた。
 だけれど、このままでは魔理沙が危うい。危機感に突き動かされるまま、痛みを無視して身体を動かそうとした。
 結果、動いた。ただし、左手のみ。その左手も、血を止めるにはあまりにも心許ない。
 絶望的な状況に、愕然とした。

『…………あー、霊夢?』

 と、霊夢の名前を呼ぶ声がした。
 思わず痛みも忘れて首を下に向けた。荒い息を吐きながらも、薄目を開けて自分を見る魔理沙がいた。
 事態は解決も好転もしていない。なのに、魔理沙が目を開けてくれたというそれだけの事が、霊夢を途方もなく安心させた。

『魔理沙!? あんた、何で……って、そんなこと言ってる場合じゃない! 血が出てるっ!』
『ん? あぁ、何かぬるぬる気持ち悪いと思ったら、そうか、血が出てるのか……』
『暢気なこと言ってんじゃないわよ! 早く誰か呼ば、ない……と?』

 「あれ?」という言葉と共に、霊夢の身体から完全に力が抜けた。
 痛みだけでなく、風邪の気怠さまで顔を見せたのが原因だ。信じられない身体の事態に、霊夢の思考は停止しかけた。
 そんな自身の体調にすら気付けていない満身創痍の霊夢を、同じく満身創痍な魔理沙はさも可笑しげに見やり、緩慢な動作で手を伸ばした。
 伸ばした先は霊夢の頬。まるで宝物でも扱うように、粗野な彼女に似つかわしくない優しい手付きで撫でた。
 なでり、なでり。霊夢は目を白黒しながら、されるがままだった。

『魔理沙……?』
『……霊夢、無事か?』
『……お世辞にも無事とは言えないけど、あんたが下になってくれたお陰で、大分マシな目で済んだみたい』
『そうか、そりゃあ重畳だ……』

 そう言う魔理沙の表情は今まで見せたことがない程に穏やかで、その穏やかさが逆に霊夢の不安を煽った。

『……ねぇ魔理沙、無理を承知で言うけど、あんた動いて誰か呼べそう?』
『あー、いつもの魔理沙さんならお茶の子さいさいなんだがなぁ……。どうにも、この身体は言う事を聞いてくれそうにないぜ……』
『そう……』

 歯を噛み締めた。予想していた答えだった。
 魔理沙を責めるのはお門違い。そも、彼女の傷は自分の不注意が原因なのだから。

『あんたも私も動けそうにないし、どうすればいいのかしら……』
『霊夢……』
『もうこうなったら、いっそ大結界を緩めてでも紫を呼ぶしか……』
『なぁ、霊夢……』
『何よ!?』

 思わず大声になった。最近は動じなくなってきたが、昔なら泣かせていただろう剣幕だ。
 魔理沙は泣いていなかった。そして、表情は変わらず穏やかなまま。
 そんな顔をして欲しくなかった。だって、霊夢は気付いていたから。
 その表情は、先代の巫女が姿を消す前に自分に見せていたのと同じ表情だ、と。

『お前が無事でいてくれて、本当に良かった……』
『……へ? 魔理沙?』

 絞り出すようにそれだけ呟いて、魔理沙はまた目を閉じた。
 呆ける霊夢は咄嗟に起こそうとするも、意識が続いたのはそこまでだった。落下した瞬間と同等の眩暈が彼女を襲った。
 また落ちていった。今度は地面ではなく、深い深いイドの底へと落ちていった。

 次に霊夢が目を覚ましたのは、落下したその二日後だった。
 いつの間に寝かされていたのか、気付いた時には見慣れた寝室の布団の中にいた。
 妖怪の賢者がそうしたんだろうと直感的に思えば、案の定だった。記憶に無い二日間の事を賢者越しに霊夢は知った。

 まずは、あの後のこと。
 霊夢の異変に僅かに遅れて気付いた賢者だったが、その後の対応は迅速であった。
 すぐさま霊夢───とその場で一緒に倒れていた魔理沙───を永遠亭に運び、治療を行わせたという。
 危険な状態ではあったが、打撲と骨の数ヶ所にヒビが入った程度で済んだのは本当に幸いな事だ、と賢者は語った。

 しかし、傷の治療が上手くいっても、霊夢の身体にはまだ風邪が猛威を奮っていた。
 永遠亭で医療行為を行うと言われたそうだが、巫女には神社の方が合っているからという、よく分からない理由で神社での療養を選択したらしい。
 霊地がどうとか、何処ぞの風水道士のような理由を持ち出されたが、やはりよく分からなかった。
 だが、身体にはあの猛烈な気怠さや痛みは無く、二日でここまで持ち直したのだから、一応の効果はあったらしい。

 二日も寝たきりで軋む身体に辟易していた霊夢に、もう一つ伝える事があると賢者は言った。
 何だろうと胡乱な頭で考えれば、答えは一つだった。賢者が口を開くよりも先に、霊夢は問うた。

『魔理沙は……? 魔理沙は、無事、なのよね?』

 身を挺して自分を救い、無惨に傷ついた少女。永遠亭に運ばれたと聞く彼女の容態を、気にならない筈がなかった。
 不安げに瞳を揺らす霊夢に賢者は、

『霊夢、落ち着いて聞きなさい』
『やだ、何でそんな怖い顔してるのよ。魔理沙は無事なんでしょ? もうとっくに起きて、私の事を寝坊助だとか言って笑ってるんでしょ? 魔理沙は───』

 どこまでも冷徹に、事実を告げた。

『霧雨魔理沙は死にました。葬儀は明日の午前……最期くらいはあなたも見送ってあげなさい』



 魔理沙と最後の勝負事を決めたあの日、霊夢は言った。魔理沙の墓の前でなら泣いてやる、と。
 しかし、実際はどうだ。彼女の亡骸を前にしても、涙の一滴だって出てきやしない。
 自分はそんなに薄情な人間だったろうか、と自問するが変わらない。
 阿呆のように魔理沙を見詰めることしか出来ない。

 疑問はもう一つある。何故、魔理沙は自分を助ける真似をしたのだろうという事だ。
 もし、魔理沙があの状況で下になっていなければ、霊夢は死んでいた。彼女の持ち前の勘が死は避けられぬと告げていたので間違いない。
 そうなれば自動的に彼女は件の勝負事に勝利し、晴れて人生の勝利者を名乗れたというのに。

 霊夢は気付いていた。魔理沙はいつだって自分の背中を追って、追い越そうと努力をしていた事を。
 彼女からすれば不本意な勝利かもしれない。でも、勝ちに変わりはない筈だった。
 だというのに彼女は、

『お前が無事でいてくれて、本当に良かった……』

 見たくもない光景が魔理沙の声と共にフラッシュバックした。
 勝ちを捨てて、あまつさえ、それで死んでいては本末転倒ではないか。

 ずきりずきりと鈍い痛みが霊夢の頭を苛む。
 嫌だった。認めたくなかった。
 魔理沙が死んだという事実。
 しかも、自分を庇って死ぬだなんて。

 魔理沙も所詮は人間だったという話なのだろうか。
 だから、全身を強打した程度で死んでしまったのか。
 血を失えば生命の危機に瀕し、手遅れなら肉の塊と成り果てる。
 彼女は、霧雨魔理沙は、そんな十把一絡げの凡人のそれでしかなかったというのか。

「……違う」

 違う、魔理沙は強い。魔理沙は決して凡人などではない。
 失敗に失敗を重ねに重ね、その失敗に裏付けされた多大な努力と僅かな成功を糧に彼女は強くなっていったのだ。
 人間は勿論、妖怪を打ち倒す程の力を秘めていた。霊夢にはまだ届かなくとも、いつかは追い付き、追い越していたかもしれない。
 そんな、あんなにも鮮烈で快活な少女が、こんなにあっさりと死んでいい筈がないのだ。
 これは性質の悪い冗談で。
 虚構に塗れた悪夢のよう。



 ―――まるでそう、嘘みたいな話ではないか。



「あ……」

 霊夢の頭の中で何かがカチリと嵌る音がした。
 自らを納得させるに足る一片を見出した瞬間、霊夢の表情に色が甦った。
 正気とは正反対の、狂気という名の異色だ。

「はは……」

 そうだったのだ。魔理沙が死んだなんてことは嘘で、性質の悪い冗談だったのだ。
 だって、霧雨魔理沙という少女が死ぬなんてことはありえないことだから。
 霊夢はまんまと騙されて、相手の思い描いた通りのドツボに嵌ってしまっていたのだ。
 どうせ、本当は大した傷でもないのに大層な怪我の振りをして、霊夢が意識を取り戻すまでの間に幻想郷住民を巻き込んでのドッキリでも仕掛けたのだろう。
 まったく、手の込んだ真似をしてくれる。

 仕掛け人は誰か。そんなこと、目の前で寝た振りを決め込む魔理沙に決まっている。
 息をしているようには見えないが、霊夢を騙す為だけに仮死状態にでもなっているのだろうか。見上げた根性だと霊夢は思う。
 いや、もしかしたら、目の前の魔理沙は魔理沙でないのかもしれない。アリスあたりの恐ろしく精巧な魔理沙を模した人形の可能性もある。
 あの魔法使いは妙な所でお人好しなので、自分を騙す為に手を貸してくれという魔理沙の願いを断り切れない姿を想像するのは容易い。想像して小さく笑う。

 だとすると、魔理沙はここでない何処かにいるのだろう。
 そして呆然と阿呆面を晒す霊夢を、何処からか眺めて腹を抱えて笑っているに違いない。
 何て悪質な冗談を考え付く奴だろうか。親の顔を見てみたい……と思えば、沈痛な表情を貼り付けて迫真の演技を続ける魔理沙の父親を後ろに見付けた。
 勘当した娘でも、やはり頼み事となれば応えてやりたくなるのが親の性というものなのだろうか。大変だな、と他人事に霊夢はそう思った。

 何にしても、これだけ霊夢の心を惑わしたのだ。無論、魔理沙を簡単に許してやるつもりなどない。
 目の前に現れた暁には、自分が受けた精神的苦痛の倍の倍の倍は返してやらないと気が済みそうにない。
 種明かしの時を今か今かと待つが、魔理沙が出てくる気配はない。目の前の魔理沙も起き上がる気配はない。

「あは、まだ続けるつもり?」

 霊夢は事態を察したというのに、魔理沙の方はまだ種明かしをするつもりはないらしい。
 企画した当初からそのような予定だったのか、気付いた魔理沙が急遽先延ばしにしたのか。いずれにしろ、霊夢は臨むところである。
 種明かしに意気揚々と現れる魔理沙を、霊夢はそれ以上の笑顔で以て出迎えてやるつもりなのだから。

 いつまでも動かないかと思えば、いきなり笑い出した霊夢を不審がる声が上がるが、もはや気にしない。
 座らされる前と同じく、引き摺られるようにして棺桶の前から退いた霊夢は、ただただ穏やかな表情を浮かべていた。
 その表情は誰から見ても、友人との離別を果たしながらも気丈に振る舞う少女のそれだった。
 その実、狂気に意識を浸していたなどと、この時、誰が予想し得ただろうか。

 誰もが少女二人の不幸に心を痛め、件の二人の片割れは暢気に明後日を見ていた。

 出棺の後、速やかに火葬が行われた。
 小柄の少女らしい細い骨が砕かれ、どんどんと骨壺の中に入れられていった。
 火葬が済めば骨壺は命蓮寺の共同墓地へ。
 手入れの行き届いたものもあれば、そうでないものもある。そんな墓たちの中の一つ、霧雨家のそこで納骨は行われた。
 自力では二度と出ることの出来ないその場所へ、霧雨魔理沙だったものは静かに治まった。

 啜り泣く声も聞こえる中、霊夢はやはり穏やかな表情を湛えたまま佇んでいた。一連の流れを、まるで劇でも眺めるような無機質な瞳で追いながら。

 こうして、致命的な食い違いを孕んだ葬儀は、恙なく終わりを迎えた。
 そして、問題が浮き彫りになるのに時間はそう掛からなかった。



 # # #



 霧雨魔理沙が幻想郷から姿を消した。しかし、この地は目に見えるような変化も無く在り続けている。

 幻想郷は、あの日から年を跨ぎ、四季は一巡していた。
 春は去り、夏を越え、秋は足早に、冬は長く。
 一年という時間は多様な顔を見せて過ぎていった。

 そうして、冬が終われば、また春がやってくる。
 昨年よりも少し遅い到来ではあったが、春度は例年よりも高いくらいだ。
 春一番の風が吹く度に、春度が幻想の地全体に行き渡っていく。
 すると、それに当てられた草花は芽吹き、寝起きの鳥たちの囀りで幻想郷が俄に騒がしさを取り戻すのだ。

 春度に当てられるのは何も草花や畜生だけではない。むしろ、頭の春具合であればこちらの方が増し増しだ。
 いわゆる人間や妖怪といった者たちの大半も、無意識下で春度を感じ取り、活動を活発化させていく。
 里の人間であれば、冬に溜めていた鬱憤を晴らすように野良作業に精を出し、妖怪や妖精といった魑魅魍魎らは、酒を飲む格好の口実を得たと乱痴気騒ぎを始める。
 幻想郷の春はいつだって騒々しく、それでいて華やかだ。

 ……その乱痴気騒ぎが、昔より静かに感じるのは気のせいだろうか。
 おそらく気のせいではない。そしてそれは、今回に限った話でもない。

 華が減った。何処にでも顔を出し、騒ぎ、鮮やかに咲く黄金色をした華が。
 彼女はいつだって騒ぎの中心にいた。人間の癖に妖怪よりも騒がしく、誰よりも楽しげだった。
 騒がし役は上手い下手がある。彼女はそれが抜群に上手かった。だから、彼女のいない騒ぎの中心はどことなく賑やかさに欠けている。
 彼女の存在は、宴の中にも色濃く残っていた。

 しかし、人間一人が減ったからといって、しょぼくれる連中などこの地にはいない。
 彼女がいなくとも、宴は行われている。新たな盛り上げ役だって生まれた。今までと同じように。
 誰もが霧雨魔理沙という少女がいた事を知りながらも、過去に囚われずに日々を過ごしている。
 薄情ではない。それがこの地の住民としての正しいあり方なのだ。

 霧雨魔理沙のいない幻想郷は、それでも今日という日を廻っている。
 誰もが現実を享受し、幻想郷のささやかな恩恵を得て暮らしている。
 ───ただ一人を除いて。



 春と言えば桜。桜と言えば幻想郷にも数々の名所が存在するが、博麗神社ほどの名所もない。
 春度を存分に高めた博麗神社の桜たちは、春告精の訪れと共に一斉に開花を始めた。
 何処よりも早く、何処の桜よりも美しく咲き誇るその様は、見る者を魅了してやまないこと間違いなしだ。
 勿論、見る者がいればの話である。

 桜の咲き誇る博麗神社は、巫女である博麗霊夢を除いて無人だった。
 別にそれは珍しいことではない。閑古鳥が鳴いているのは、今に始まったことではないからだ。
 ただ、違和感がある。無人でも確かにあった温かみが、今では微塵も感じられない。
 博麗神社は何者の来訪も拒まなかったが、今この場に漂うのは明確な拒絶の意思だ。
 いったい誰が、というのは愚問だろう。他でもない、霊夢の意思である。

「…………」

 冷たい表情に僅かな苛立ちを乗せて、彼女は境内を一心に箒で掃いている。

 霊夢だけが変わってしまっていた。
 元々、他人に心を開かない性格をしていたが、今では完全に閉ざしてしまった。
 それも急にそうなった訳ではない。転機は全て、魔理沙が亡くなったその日からだった。

 一年前の痛ましい出来事。事情を噂伝いに聞いた多くの者が見舞いに霊夢の元を訪れた。
 魔理沙とはまた違った側面から、霊夢も人望があった。
 そして、見舞った者は当初、大いに困惑した。
 霊夢は魔理沙がいなくなった事を、気に病んでなどいなかった。

 いや、そもそも……魔理沙が死んだと理解していなかった。

 誰もが魔理沙の死に触れ、霊夢に気にし過ぎるなと言葉を掛けた。
 葬儀中の霊夢は明らかにショックを受けていた為、無理を承知でもそう言わざるを得なかった。
 その言葉に対して、霊夢はさも可笑しな話を聞いたとばかりの表情を浮かべて言った。

『なに馬鹿なこと言ってんのよ。魔理沙が死ぬなんてありえないじゃない』

 霊夢はさも当たり前の事のように、そう言った。
 しかし、その言葉に納得した者は誰もいなかった。何故なら、魔理沙が棺桶に入れられ、火に焼かれて骨となり、墓の下に納められたのをその目で見ていたからだ。
 そこまでされれば魔理沙が死んだということは確定的であり、霊夢の言う事が間違いであると分かる。魔理沙が蓬莱人でもない限り、ありえないのだ。
 何人もがその間違いを指摘した。だが、霊夢は取り付く島もなく「魔理沙は死んでなんかいない」と主張し続けた。
 あまつさえ、葬儀は自分をからかう為の演出だった、魔理沙が仕掛人で今も何処かに隠れているに違いない、などと戯言を言いだす始末だ。

 その段階になって異常を覚えた者は見たのだ。霊夢の瞳に渦巻く狂気を。

 それはドロドロと汚泥のような鈍い輝きを放っていて、臭い立つような危うさを漂わせていた。
 霊夢の眼球が動く度に、泥もそれに合わせて移動する。その跡は蛞蝓が通ったようにテラテラと粘ついていた。触れれば最後、こちらの汚染も避けられない。
 その色は底無しに深く、貪欲に霊夢から正気を削り続けていた。

 それを見て、早々に諦めて帰る者、何とか正気を取り戻そうと奮闘する者とがいたが、無駄だった。
 霊夢の心に蔓延る狂気は、何者の救いも拒み、一蹴した。
 時間も、奇跡も、運命も、薬も、説教も、迷いを断ち切る剣も、何の役にだって立たなかった。
 唯一救える可能性を持った人物も、もうこの世にはいない。

 その事実を知った多くの者たちが、霊夢の元を離れた。

 霊夢の力に惹かれていた者は、腑抜けきった霊夢になど興味を持てず、蔑みの視線で以て去っていった。
 文屋などは巫女の異変として大々的に取り扱ったが、熱が冷めれば天狗らしい薄情さで、あっさりと見切りをつけた。
 友人という立場に近い者は、何とか霊夢の目を醒まそうと奮闘したが、魔理沙の死を無理やり理解させようとしたのがいけなかった。
 霊夢は魔理沙の死を拒絶したから理性を失なったのであって、なのに、それを受け入れろと無理強いするのは逆効果でしかない。
 霊夢の怒りとも悲しみともつかない絶叫と共に、親切という名の刃は折られた。力ない者は彼女を憐れみ、去っていった。

 誰もが霊夢の元を去った。
 かつての彼女を中心とした賑わいは、たったの一年で遠い過去のものに成り果てた。
 しかし、それでも霊夢は一切気にしていなかった。
 元より、他人など必要としない少女だった。厚意を押し付けられるより、勝手に幻滅して去ってくれる方がありがたいとさえ思っていた。
 そうすれば、苛立つことも、煩わされることもなく、待ち続けられるから。

 ―――魔理沙は来ない。

 この一年間、霊夢は魔理沙を待ち続けていた。
 晴れの日も、雨の日も、曇りの日も。台風が来ようが、雪が降ろうが待ち続けた。
 春は縁側でお団子にお茶を用意して待った。
 夏は暑さを紛らわす為に氷水(すい)も作って待った。
 秋は滅多にしない御馳走も腕によりを掛けて待った。
 冬は二人で入っても狭くないように炬燵を新調してまで待った。

 ―――魔理沙は待てども一向に姿を現さない。

 勿論、待つばかりの霊夢ではなかった。隠れているだろう魔理沙を何度も探して回った。
 しかし、何処を探しても見当たらない。彼女の超常的な勘もこればっかりは何の働きもしなかった。
 だから待った。待って、待って、待ち続けて……一年が経とうとしている。
 霊夢の心にあった余裕が、少しずつ、少しずつ剥がれてきていた。

 ―――あぁ、周りの声が五月蠅くて堪らない。

 それもこれも、神社にやって来た有象無象どもが悪いのだ。
 最近は少なくなったとはいえ、口々に魔理沙は死んだなどと不吉な事を言ってきた。
 そんな事はない。ありえない。ありえる筈がない。信じられる訳がない。
 魔理沙は死んでなんかいない。

 ―――だから、それを証明して欲しい。

 今まで姿を見せなかったことなんてまるで悪びれもせず、
 あの太陽みたく輝く笑顔を浮かべて、
 どいつもこいつもの言い分こそが間違いなのだと。

 霊夢は想いを乗せるように、箒を強く一掃きした。
 すると、気紛れな西風の神でも箒に宿ったのか、春風が博麗神社を撫でた。
 途端、舞い上がる桜の花びらに、霊夢は思わず腕で顔を覆った。
 視界が薄紅色で染まる中、霊夢はそれを見た。

 ―――桜吹雪の中で揺れる黄金色の髪を見た。

「魔理―――!!」

 箒を放り出し、声を上げる霊夢の前には、

「おはよう、霊夢。気持ちの良い春ね」
「……何だ、紫か」

 冬眠から明けたらしい八雲紫が、いつもの格好にいつもの日傘を差して立っていた。
 刹那湧いた喜びが、急速に萎んでいくのを霊夢は己の内に感じた。

「……何の用? 寝坊助には寝坊助の仕事が待ってるんでしょう?」
「結界の事を言ってるのなら、それは優秀な式がやってくれてるから間に合ってますわ。私の仕事は、霊夢とお話すること」
「私はあんたと話すことなんてない。とっとと帰ってまた布団でも引っ被ってなさいよ」
「相変わらず愛想の欠片もない子ですこと。あなたもこの桜みたいに私を楽しませてみなさい。一芸も出来ない巫女なんて草花にだって劣るわ」

 そう言ってくすくすと笑う紫が、霊夢は鬱陶しくて堪らない。
 何が可笑しいのか。出来るものなら即刻退治してしまいたい気分だった。

「生憎と私はあんたを楽しませる為に出来てないんでね。愛想が欲しければ山の神社に向かうといいわ。お金の掛からない笑顔で迎えてくれる巫女がいるでしょうから」
「お山の巫女はどうでもいいの。あなたの調子はどう? 見た感じ壮健そうではあるけど、神社は相変わらず……いえ、いつにも増してうら寂しい。これはどういうことかしら?」
「さぁね? 狐にでも化かされて幻覚でも見てるんじゃない? 狐じゃなければ狸に」
「前者は私の狗、後者もご同業に化かされるほど落ちぶれてはいなくてよ。それにしてもしっかりして欲しいものね、霊夢。私の神社の格を落とさないで」
「うちに格なんてものがあったなんて初めて知ったわ」

 はっ、と鼻で笑うと対峙する紫の目が細まった。
 それだけで並みの連中は心臓を握られたかのような悪寒を覚えるのだが、無重力の巫女である霊夢に恐れはない。

「ふーん?」
「何よ、文句でもあるの?」
「いいえ。……ただ、今日はやけに苛立ってるように見えたから」
「……」

 ただ、彼女の勘が微かな警鐘を鳴らした気がした。

「あなたは愛想の悪い子だけど、誰彼構わずに八つ当たりする子ではなかった」
「……あんたは別よ」
「特別扱いしてもらえるのは光栄だけど、憂さ晴らしに利用されるのはこちらも気分が悪いわ」

 気分を悪くしてるのはどっちだ、という思いは寸での所で飲み込んだ。

「ねぇ、霊夢。あなたを苛立たせている原因は何?」
「教えたら、あんたがどうかしてくれるっていうの?」
「私がそんな親切な妖怪さんだと思って? 妖怪の本質とは人を恐怖させること。なら……妖怪である私は、親切とは真逆のことをする方が妥当だとは思わない?」

 霊夢の中の警鐘が更に音を高くする。

「なら、私も教えない」
「えぇ、教えてくれなくて結構。当ててみせるから」
「な……」
「あなたを苛立たせる理由は、あなたにとって今日が特別な日だから」

 警鐘は最大へ。片手は自然と懐の御札を掴んでいた。
 洗練された動作は、投げるまでに一秒も必要としない。その忌まわしい口を封じる為、霊夢は腕を振るった。



「確かそう―――霧雨魔理沙が博麗霊夢に最後の勝負を挑んだのも、一年前の今日のこの日でしたわね」



 稲妻のような閃光と共に、無数の御札が紫の元へと殺到する。ごっこ遊びとは違う、必殺の威力を秘めた攻撃。
 向けられた純粋な敵意に、しかし紫は動じることはない。
 彼女がその手袋に包まれた指で空を撫ぜたかと思うと、そこを中心に亀裂が生まれた。小さくも確かな歪みに、空間が悲鳴を上げる。

 本来起こりえない筈の事象を可能とするのが妖怪。そして、ありとあらゆる境界、スキマを駆使する八雲紫はその中でも最上に位置する存在だ。

 霊夢の放った御札は紫を仕留める寸前でスキマに飲まれた。勿論、紫には傷一つありはしない。
 はしたなく舌打ちを放つと、霊夢は地面を一蹴り、宙へと逃げた。
 そのまま身を反転し、全速で場を離れようとする。

「逃がさないわよ」
「……っ!」

 が、相対するは妖怪の賢者である。
 霊夢の一歩先の行動を読むことなど児戯に等しく、彼女の足元に別のスキマを作り、無防備なその脚を捕らえることなど羽虫を落とすより容易い。

「紫ぃ……! その手を、放しなさい……!」
「嫌よ。放したら霊夢は逃げちゃうじゃない。……それに、あなたは私に指図出来るような立場にあると思って?」
「あ、ぐうっ!!」
「こうやって少し力を込めるだけで痛がる。もっと力を込めれば飛ぶこともままならない。人間って本当に脆いものね。
 ……さて、この際あなたを調教ついでにいじめるのも良いんだけど、それだと話が進まないから泣く泣く諦めるとしましょう。
 霊夢、あなたまだ魔理沙のことで引き摺ってるんですってね? 意外と女々しい所もあるじゃないの」
「あんたまで、魔理沙が死んだって言うの……!?」

 霊夢の瞳にまた狂気が宿る。憎悪にも似た暗い色が、煌々と光を返す。
 しかし、紫はそれを鼻で笑う。まるで霊夢の狂気など子ども騙しだと告げるように。
 深い深い、霊夢の湛える闇よりもなお深い、八雲紫の紫紺の瞳が、目の前の人間を射抜く。

「そういえば、まだ私自身が言葉にしたことは無かったわね。他の子たちが耳にたこが出来るくらいに言って聞かせるだろうからと思って放置してたけど……使えないわ。まぁ、これも楽をしようとした罰なのだと甘んじて受け入れるとしましょう。
 で、霧雨魔理沙の事ですけど、あの子は死んだわ。あなたも見たでしょう? あの子があなたを庇い下敷きになって、棺桶の中で眠って、火葬されて骨になって、お墓に納められるまでの過程の全てを」
「うるさい……」
「忘れたとは言わせない。ありえないという言葉も認めない。信じられないなら直視せよ。霧雨魔理沙のいない現実を」
「うるさいうるさい……」
「あの日からあの娘はあなたの前に現れた? あなたの名前を呼んだ? あなたと弾幕を交わした? この狭い世界で、この日まで『ない』というのであれば、導き出される答えは一つ」
「うるさいうるさいうるさいうるさい……っ!」

 霊夢の抗議も虚しく、無情な事実が紡がれる。

「認めなさい―――霧雨魔理沙は、死んだのよ」
「うるさぁあああああああああああああああいっ!!!!」
「五月蠅いのはあなたよ、霊夢。現実を受け止め、声が枯れるまで泣き果てるがいい」

 霊夢の脚を掴んでいた腕が、ぐっと霊夢を引き寄せる。腹を空かせた蛇のように大口を開けたスキマは、そのまま彼女を丸ごと飲み込んだ。
 スキマが閉じると、博麗神社の境内には紫一人だけ。
 その彼女を励ますように、春風がその脇を駆けて行く。

「幻想郷は全てを受け入れるけど、拒む者には容赦はしないの。受け入れなさい、あなたの心は幻想郷よりなお広い」

 呟かれる言葉は、黒白も紅白も混じらない無人の空に溶けて消えた。 



 # # #



 スキマに飲まれ、暫し異空間で気味の悪い浮遊感を味わった霊夢だったが、次の瞬間には地面に叩きつけられる衝撃を味わっていた。

「いっ、たぁ……」

 尻から落ちたのが幸を奏したのか、身体を痛めて動けなくなるという最悪な事態は避けられた。
 鈍い痛みは徐々に弱まっていき、一時的に引っ込んでいた怒りと形勢を逆転した。

「……っ、紫ぃ! どうせ見てんでしょう!? 見てないで出てきなさいよ! 封印なんかじゃ生温いわ。首引っこ抜いて晒し首にしてやるっ!」

 普段になく過激な、それでいて偽りのない死刑宣告が霊夢の口から飛び出る。
 しかし、紫はその誘いには乗ってこない。本気の霊夢に恐れをなしたか、本気と分かってなお相手をするまでもないと判断したのか。
 考えるまでもなく後者である。嘗められている、その思いが一層強くなり、思わず手近にある物に当たりそうになった。
 寸での所で止めたのは、奇妙な既視感を覚えたからだ。

「……? ここ何処?」

 紫のスキマは本人もよく使っているが、とりわけ移動手段として使われている。
 此方と彼方とをスキマで繋ぐことで、距離を無視した移動が可能なのだ。
 霊夢もスキマに飲まれた経験は一度や二度ではないので、自分がいきなり別の場所にいる現状に驚いたりはしない。
 問題は何処に繋がれたかであり、そして今いる此所を彼女はどうやら知っているようだった。
 昼間だというのに若干薄暗く見通しが悪いが、目が慣れてくるとはっきり見えた。
 知らない筈がなかった。だって、そこは、

「魔理沙の家……?」

 霊夢が待ち続ける人の根城だった。
 だというのに、霊夢を襲う違和感は何なのだろう。魔理沙の家なのに、魔理沙の家ではないような、記憶との間に拭いきれない齟齬を感じる。
 そして、何か、という疑問は少し目を凝らせばあっさりと氷解した。
 それは、魔理沙の家にしては、あまりに整い過ぎている事だ。

「嘘でしょう……?」

 呆然と呟く。あの整理整頓という概念を母親の胎にでも起き忘れたような魔理沙が、自分の家をこんなに綺麗に出来る筈がない。
 彼女の家はいつだって物に溢れて、足の踏み場さえロクになかった。それが今ではどうだ、何の苦もなくこの狭い家の中を踏破出来そうなくらい床には何も無い。
 菟集癖のある彼女にとっては地獄でしかないだろう環境は、魔理沙という少女を知っていればこそ、違和感を強めた。

 そして何より、霊夢の感じるもう一つの違和感。
 それは何の生活臭も感じない事。人のいる温かみが、今の博麗神社よりもっと希薄……いや、皆無だった。

「何よ、これ」

 言い知れない不安が胸の内から湧いてくる。振り払えども、不安は消えない。
 だから、霊夢は己を鼓舞した。何を恐れる必要があるのか、ここは勝手知ったる魔理沙の家じゃないか、と。
 魔窟ではあるまいし、とぎこちなく笑いながら散策を始める。
 それが自身を安心させる為にとった無意識の行動だと霊夢は気付かない。

 所詮は少女一人の一軒家。散策を終えるのにそう時間は掛からなかった。

 居間を眺める。ガランとしている。雑然と物が積まれていたテーブルの上は埃だけが乗っていて、無数にあった椅子は部屋の隅に固めて置かれていた。
 台所を見た。シンクがつい最近使われた様子はなく、隅には息絶えてどれくらい経つのか、カサカサの木乃伊になった油虫が転がっていた。
 風呂場を覗いた。水気は感じなかった。しかし、放置された黴がそこそこに侵食していたせいか、タイルは黒ずみ、酷い臭いがした。
 魔理沙の私室に入った。ここも居間と同じく整然としていて気味が悪かった。整えられたベッドのシーツには皺一つなく、それが却って温かみを失わせていた。
 クローゼットを開けた。夏物も冬物も関係なく突っ込まれていた筈の白黒モノトーンの洋服たちは、付喪神にでもなって出歩いたように消え失せていた。

 こんな閑散とした家を、魔理沙の家だと言いたくなかった。
 しかし、霊夢の勘は間違いなくここが魔理沙の家だと頼んでもいないのに告げてくれる。
 何の生活味も感じさせない空気と消えた私物たち。
 それは、家主がいなくなったから近親者もしくはそれに近しい誰かが整理したからとは考えられないだろうか。

「ありえないわよ、そんなの。だって……」

 誰かが魔理沙の家に入っていた記憶なんてない、そこまで考えて霊夢は動きを止めた。
 そもそもの話……霊夢の言う記憶とはいつが最後のものだったか。

「あ、れ……?」

 必死に思い返す。最後に魔理沙の家を訪ねた記憶を。
 その時はまだ家の中は雑然としていて物置かと思ったのを覚えている。
 あまりに酷いものだから霊夢が無理やりに片付けを始めたのだ。悲鳴を上げて制止に掛かる魔理沙を無視して捨てに捨てた。
 一日掛けてもガラクタは全然減らなくて、その癖に魔理沙は拗ねて、宥めるついでにご飯を作ってあげた。

 そんな何気ない日常の最後は、霊夢の記憶が正しければ、あの思い出すのも忌まわしい日より以前のこと。
 つまり、霊夢はこの一年近く魔理沙の家を訪れていなかったことになる。

 魔理沙がいなくなって、霊夢は幻想郷の各地を探して回った。そして、見付けられなかった。
 見付けられないのは単に魔理沙が隠密上手な所為だと思っていた。何せ、こそ泥の真似事を働くくらいなのだ。
 だとしてもである。彼女の長年住んできた住処を訪ねないというのは、理に適わない。
 人は自分の居場所をそうそう手放せるものではない。魔理沙が霊夢をからかう為に家を離れていたとしても、帰ってくる可能性は十分に考えられる。

 だとしたら何故、霊夢は一年近くも魔理沙の家を訪ねなかったのか。
 何か避けたいことでもあったのか。ここに来れば、知りたくもない事を知ってしまうからなのか。

「やだ……。やだやだ……」

 自分の体から血の気が引いていくのを霊夢は感じた。さっきまで紫相手に昂らせていた怒気は見る影もない。
 ただ、いち早くこの家から出なくては、という想いで頭がいっぱいになる。
 でないと、きっと自分を保てなくなるから。

 しかし、そういう極限状態な時に限って、人は見なくてもいいものを見付けてしまうものだ。

「あ……」

 魔理沙の綺麗な部屋の中で唯一、以前のままの姿を留めている場所があった。
 それは魔理沙の愛用していた机の上。乱雑に置かれた古めかしい本、放り出された羽ペン、くしゃくしゃになった羊皮紙。
 霊夢の見慣れた魔理沙の記憶がそのままそこにあった。

「あぁ……」

 霊夢は知っていた。魔理沙の努力とは即ち、継続力にあった事を。
 魔理沙はどんな日であっても研究し、本に纏めない日は無いと豪語していた。
 研究を行うのに天気は関係なく、病気を患おうが、弾幕ごっこに負けて傷を負った状態だろうが、結果だけは常に書き記すのだと。

 以前、魔理沙の家を訪ねた折に渋る魔理沙を説得して本を見せてもらったことがある。
 日付け以外、何について記されているのかはその手の学はさっぱりな霊夢には理解出来なかったが、魔理沙の努力の証であることだけは嫌でも伝わってきた。
 本の一貢一貢に、隙間無く書き綴られた文字と図形が載っていた。
 血が滲むという言葉の通り、インクとは違う赤色が貢を汚していることもあった。
 手垢や手汗で黄ばんだ貢を見る度、何度も自身の研究を見返し努力したのだと分かった。

 そんな魔理沙の長年の努力が綴られた魔導書が、霊夢の目の前に無造作に置かれていた。

 何故、机の上だけが散らかったままなのか。いや、それは魔理沙が定期的に帰って研究を纏めることだけは欠かさずに行っているのだとすれば合点がいく。
 もし目の前の本に真新しい記述があれば、魔理沙の隠密生活も今日までだ。このまま待って、のこのこ帰ってくるだろう彼女を出迎えてやればいい。
 ……だがもし、そこに何も書かれていなかったらどうするか。
 
「……っ」

 生唾をごくりと飲み込む。
 おそらく、自分は踏み込んではいけない領域に踏み込んだのだろう、という自覚が霊夢にはあった。
 彼女の勘は最大限に警鐘を鳴らし、引き返せ、という言葉が頭の中で踊り狂っている。
 
 ……それでも、霊夢の手は魔理沙の魔導書の方へ伸びた。
 もういい加減に限界だった。魔理沙の生存を否定される日常にうんざりしていた。
 目の前に魔理沙の生存を確認出来る術があるというのなら、ハイリスクハイリターンも覚悟の上だった。

 霊夢は数ある魔導書の中、一番見た目の新しい物を手に取った。
 震える手で本を開く。逸る指で貢を捲っていく。
 相変わらず中身はさっぱり入ってこないが、見るべきはそこではない。几帳面に毎日書かれた日付こそが重要なのだ。
 
 ぱらぱらと貢を捲る音だけが狭い家の中で響いていた。
 焦るような一定しない軽い音。それが暫く続いていたかと思えば、唐突に止まった。
 そして、堪えきれない嗚咽が代わりに響く。

「うそ、よ……こんな……」

 霊夢は思わず零す。しかし、目の前の魔導書は事実だと黙して語っている。
 魔導書が最後に記述された形跡があるのは去年。それも、霊夢を魔理沙が庇い傷を負ったあの日。
 血反吐を吐いてでも書き逃したことがないと言い切った魔理沙が、一年近くも、忌まわしいあの日から書くことをやめた……やめざるを得なかったということはつまり、

「魔理沙、あんた、本当に死んじゃってたの……?」

 そういうことなのだろうか、と霊夢の心はこの時ようやく事実を受け入れた。
 その瞬間、今まで何処に溜めていたのかと思う程の涙が溢れてくる。
 涙は拭っても拭っても止まる気配を見せず、頬を伝い落ちた涙は埃の積もった床に大きな波紋を作った。

「うっく、嫌だ……。ふっ、魔理沙、いなくならないでよ……」

 霊夢は、もう此岸にはいない友人に向かって今さらのように駄々をこねた。
 事実を受け入れても彼女の心が追い付かない。事実を拒否したことで、より一層に。
 しかし、その願いを言うには音速よりも、光速よりもあまりに遅過ぎた。

「魔理沙ぁ、何で私なんかを庇って死んじゃうのよ……。私より長生きして、勝つのは私だって、そう言ったじゃない……! 死んでちゃ、意味ないじゃない……!」

 魔理沙を殺したのは自分も同然だ、と霊夢は思った。
 自分があの日、風邪を引かなかったら、妖怪退治の依頼なんて受けなければ、空から落ちるなんてヘマをしなければ、魔理沙の上に落ちずに地面に叩き付けられて死んでいたら。
 魔理沙は死ぬことはなかった。「たられば」を挙げればキリがない。しかし、自分の所為にでもしなければ、霊夢は気が保てない。
 霊夢の心は今にも壊れる寸前だった。
 と、その時、

「……え?」

 パタン、という音の先、いつの間にか机の上に一つの便箋が現れた。
 思わず手に取って確かめる。便箋の表には、見慣れた字で「霊夢へ」と書かれていた。
 自分以外、誰も部屋にはいないというのに何となく部屋を見回した。
 勿論、誰もいない。いないが、いるのだろうという確信を持って、星型のシールを剥がして便箋を開けた。

 中には数枚の手紙と赤い液体の入った小瓶とが入っていた。

「中に入ってるのは、何? いえ、それよりも手紙。これってやっぱり、魔理沙の字よね」

 決して上手くはない、丸みを帯びた少女らしいこの字は確かに魔理沙の字だ。
 となると、この手紙は魔理沙が生前に霊夢へ宛てた手紙……つまるところ遺書なのだろう。
 霊夢は僅かに身を強張らせ、緊張した様子で目を通した。



『よぉ、これに目を通しているだろう未来の霊夢。お前がこの手紙を読んでるってことは、私は死んでるんだろうな。
 でまぁ、早速で悪いんだが、私の死後の扱いについて相談だぜ。結構長いから覚悟して読んでくれよな?
 まず一つ目、葬式はいらん。うちの馬鹿親父あたりが生きてたら最後の最期で父親面してしゃしゃり出てきそうだが、無視してくれて構わん。白蓮辺りに話つけといてくれ。
 んで、二つ目は私の遺品整理はやめてくれ。これは馬鹿親父もそうだが、香霖あたりがいらん親切心でやりかねないからな。掃除とかしてるようだったら夢想封印でも掛けといてくれ。
 最後の三つ目、これが大変なんだ。何が大変って私が死ぬ時期によって大変さが増すんだよ。
 まぁ、ここまで言うと勘の良いお前なら気付くと思うが、パチュリーに借りてた本を返しといて欲しいんだ。一応、死ぬまでって約束だったからな。約束は守る、私は良い魔法使いだろう?
 ……あ、もしかしたらアリスや小鈴あたりからも借りてるかもしれん。それもあったらついでに頼む。
 一応、借りてる本のリストは自動筆記されるようになってるから。隠し場所も書いておくから、それを見て返本よろしくな』



 手紙から顔を上げた霊夢は唖然とした表情を浮かべていた。まさか、手紙越しに使い走りを頼まれるとは思ってもいなかった。
 しかも遅い、あまりに遅過ぎるお願いであった。一年くらい前に読んでいれば叶えられたかもしれない。というよりも、直接頼めばよかったのでは、という疑念もある。
 さらにこれである。返本リスト、どう見ても一人で返すには多過ぎる。ざっと見ても百は超えているだろう。これがもっと後になれば更に増えていたのかと思うとゾッとする話である。
 何だか緊張して読もうとした自分が酷く間抜けに思えてならない霊夢は、今度は肩の力を抜いて続きを読み始めた。



『とまぁ、お使いに関しては以上だ。無事、お前が全てのお使いをこなしてくれていることを今から祈っとくぜ。さて、本題といこうか。
 先ずは一言、おめでとうと言わせてもらおうか。お前はこの霧雨魔理沙を相手に完全無欠の勝利を飾った訳だが、勝利の味の方はいかがかな? マズイなんて言われちゃ困るぜ。死んだ私が不憫だ。
 それにしても、寿命で勝負しても負けてしまうとはなぁ。だとしたら正直、ショックだな。何が敗因か、お前も一緒に考えてみようぜ』



 霊夢の表情がまた強張る。しかし、読み飛ばしたりはせず、決然とした表情で文字を負った。



『あれかな、マトモにご飯を食べなかったり、寝てなかったり、いわゆる不摂生ってヤツが原因かな? ありえそうで自分の勘が怖いぜ。
 逆にお前なんかは歳を取っても取らなくても同じような生活続けてそうだもんなぁ。そういう奴は妖怪みたいに長生きしそうだ。
 まぁ、これはおそらく天寿を全うしてのことだろうからな。悔しさも少なそうだ。今から生活を改めようなんて気はないからさらさらないから安心してくれ。
 次にあるとしたら病気かな。魔理沙さんはか弱いからな、風邪あたりでもコロっと逝ってしまいそうだぜ。
 まぁ、これも土蜘蛛あたりにいらんちょっかいでも出してなければ大丈夫だろう。なって死んだなら仕方がないって言い訳も立つから問題ないな。
 んでまぁ、もう一つ考えるとすれば事故だろうなぁ。これは個人的に一番あるんじゃないかって思ってる。
 私は座学も好きだが、実践とか実戦とかの方が性に合ってるからな。いつかヘマやらかしてポックリってのは十分ありえるな。
 これは私の不注意だとか気の迷いが原因だろうからなぁ。多分、めちゃくちゃ後悔するな、うん』



 そこまで読んで、霊夢は歯噛みする。
 文面通りに受け取れば、魔理沙は霊夢を助けたことを後悔しながら死んでいったことになる。
 それも仕方のないこと、と霊夢が諦観の想いで続きを読み進めると、



『それもまぁ、私が勝手に死んだ場合はだけどな。例外はある』



 そんな事が書かれていた。



『例えばだ。あー、自分で書いてても想像がつかないが、私が誰かの為に死んだ時とかだ。
 ……うん、自分で言っててもそんな自分は気持ち悪いな。私に自己犠牲の精神が有るか無いか、そこからが問題だぜ。いや、話が進まないから有ると仮定して書く。
 心優しくて自己犠牲精神に溢れた天使のような魔理沙さんがいるとするぜ。で、目の前には今にも事故で死にそうな人がいるのな。
 天使のような魔理沙さんは、そんな状況に出くわすんだ。どうするって聞かれたら、「助ける!」って答えるのが万人に聞いた正解なんだろうな。
 でも、私はきっと咄嗟に助けようなんて思わない。だって、怖いじゃないか。間に合わなくて目の前で死なれたり、事故に自分まで巻き込まれて死ぬなんてさ。
 私は魔法使いでもあるけど、根っこは人間なんだ。不可能なことの方が多いし、怖いものは未だに怖い。
 だからこそ、自分がそんな恐怖や未熟な部分を押し殺してでも助けたいと思えるようなことがあれば、ついでに助けて死ぬなら、私は後悔なんてしない。
 自分が助けたいと思った人物を助けられた自分を褒めない馬鹿が何処にいる。
 もしそんな風に動いたら、それだけで私は自分の勇気を称えるぜ。まぁ、運悪く死んだら残念だが、何もしないで相手に死なれるよりは百倍マシだと思ってるだろうな。
 ま、私に限ってそんなことはないと思うけど! 恥ずかしい妄想を垂れ流してしまった。忘れてくれるとありがたいぜ』



 魔理沙の文字から気恥ずかしさが伝わってくるようだった。
 しかし、霊夢はそれどころではない。目の前が滲んで、続きを読むのにもやっとの状態なのだ。



『まぁ、私が書いてる手紙だから一方通行になるのは仕方ないとは思ってるんだが、この手紙を読んでる霊夢はどうしてるかな。
 もう大人になってるのかな。胸が今よりも大きくなってると良いな。
 それとも皺くちゃの婆さんになってるかな。今のキツイ性格のまま年を取ってないことを祈っとくぜ。
 もしかしたら全然変わってないかもな。だとしたら、私は寂しいなぁ。お前と長く張り合えないなんて詰まらんじゃないか。
 お前はどうかな? お前は私が死んで寂しいって、そう思ってくれるかな? そうだとまぁ、嬉しくないこともないな。
 ……まさかとは思うが、私の事が忘れられないで勝手に苦しんでるとかそんなことはないよな?』



 霊夢の心中を見透かしたような言葉に、ぐすぐす鼻を鳴らしていた霊夢もドキリとした。



『そんな事を書いてたら急に不安になってきたぜ。だから、私はお前に一つ置き土産をしておこうと思う』



 置き土産という言葉に、視線は自然と同封されていた物に向いた。
 赤い液体の入った小瓶が机の上に転がっていた。



『便箋に中身の入った小瓶があったと思う。確認したか? あったら続けてくれ。
 それは私が一晩ぐっすり寝てから作った即興の忘却薬だ。胡散臭いと思うだろう? 一口飲んでみな、たちどころ記憶は忘却の彼方だぜ。
 もし真剣に悩んでいるなら、それを飲んで私のことは忘れろ。必要ないならその場で捨ててくれ。
 私から伝える事は以上だ。読んでくれてありがとうな、霊夢』



 手紙はそこで終わっていた。慌てて手紙を捲れば、後には白紙が一枚あるのみ。
 最後の最期で書くことに飽きてしまったのか。魔理沙らしいといえばらしいことだが、釈然としない。
 しかし、今は手紙の内容よりも小瓶である。

 霊夢が親指と人差し指で小瓶を挟む。大きさは二寸あるかないかといったところ。そのため液体の量もさほど多くはない。
 しかし、魔理沙の言葉を信じれば、これには一人分の記憶を丸々消してしまえるくらいの効果があるらしい。
 霊夢の瞳が吟味するようにうっすらと細まり、コルク栓を抜いた。微かに芳醇な香りが漂う。
 左右に揺らし、ちゃぷちゃぷと波立つそれを見詰めること数瞬―――霊夢は中身の液体を床にぶち撒けていた。

「ふん……!」

 鼻を鳴らして小瓶と手紙とを机に叩き付けるように置く。
 霊夢は明らかに怒っていた。しかし、それは誰もが見慣れていた彼女の怒り姿だった。
 誰もいない部屋で、今は亡き書き手の手紙に向かって、霊夢は吼えた。

「魔理沙! あんた手紙の上だからって好き勝手書いてくれちゃってるじゃないの! あんたの事を忘れろですってぇ? んな事できる訳ないでしょうがっ!!
 あぁ、あんたがいなくて寂しかったわよ! 辛かったわよ! ようやくあんたが死んでるって分かったら思いっ切り泣いちゃったわよ! びーびー子どもみたいに泣きましたとも!
 一体どれだけ一緒に過ごしてきたと思ってる訳? 私の記憶、あんたでどれだけ占められてるか分かってる!? 薬一個程度で消えると思うな、アホンダラ!!
 あんたが私を大事な人だって想ってくれてたようにねぇ、私だってあんたを大事に想ってたにきまってるじゃない! 察しなさいよ、この大馬鹿魔理沙ーっ!!」

 吼えて、埃っぽい部屋の空気に思わず噎せた。
 涙が出る。でも、それは嬉しい涙だった。言いたい事を言えて、霊夢の心は晴れやかだ。
 もう思い残すことのない彼女は一つゆっくり息を吐いて、家から立ち去ろうと身体の向きを変えた。
 そして、また一つ奇妙なものを見た。

「え、これ……何?」

 霊夢の足元を赤い線がゆっくりと這っていた。
 その線は机を、正確にはその上にある白紙の手紙を目指していた。
 重力を無視して机の脚を昇り切った赤い線は白紙に近付いたかと思うと、吸い込まれていった。
 代わりに、今まで白紙だった紙に赤い文字が浮かんだ。

「今のって、小瓶に入ってた水? あいつったら、手の込んだことするんだから……」

 呆れて呟く霊夢の顔に笑みが浮かぶ。
 前まで白紙だった手紙こそ、魔理沙からの最後の手紙だった。



『これを見てるってことは、小瓶の中身は捨てちまったのか。馬鹿なことをしたなぁ、霊夢。飲んでればこんな面倒臭い女の想いを受け取らずに済んだっていうのに。……仕掛けを仕組んだ私が言うことでもないか。
 さお前がこれを読んでくれてるとしたら私は嬉しいなぁ。仕掛けを無駄にせずに済んだってことだからな。これには本当に三日三晩寝ずで頑張ったんだ。力作だったろう?
 さて、お前は私との思い出を大事にしたいみたいだが、私にはお前の想いは重過ぎるよ。
 私はお前と違って無重力の存在じゃない。背負えば重みで潰れるようなちっぽけな存在だ。
 死んでまでお前の想いなんて背負ってたら飛べずにきっと地獄行きだ。私は地獄なんて御免だからな、天国に行く為にお前の気持ちは受け取らん。そこら辺のゴミ箱にでも捨てておくがいいぜ。
 それが無理だって言うなら交換条件だ。私からの想いを受け取れ。私の遺品だぞ? さぞや重たい想いが詰まってるだろうぜ? お前でも飛べなくなるかもしれないぜ?
 それでもいいって言うんなら、引き出しを開けろ。この手紙を読めば開くようにしてあるから。
 そこにあるのが私からお前宛ての本当の置き土産だ。煩わしく思ったら捨ててくれて構わないからな。
 ……という訳だ。私がいつまで生きているかは知らんが、きっとどの私もお前といて退屈はしなかっただろうさ。
 あばよ、霊夢。楽しかったぜ。私の事なんてさっさと忘れて、いい男でも掴まえて幸せになれよ。

 天国の魔理沙より、いつかの霊夢へ』



 最後の手紙を優しく掻き抱き、霊夢は引き出しを引いた。
 そこに迷いは一切無かった。



 ―――カチッ。



 # # #



 博麗神社を彩っていた桜は散った。
 見事なまでの開花ぶりを見せつけ、そして僅かな時間で潔く散り果てた。
 いつもの落ち着いた色合いの神社に逆戻りである。

 しかし、神社にはつい最近までなかった活気が戻っていた。その大きな要因は勿論、博麗の巫女の復調である。
 つい最近までの氷のように冷めた巫女から、真水くらいに冷たい巫女に戻ったことで既知の者は驚き、そして喜んだ。
 巫女の快気祝いと称した宴会は連日連夜行われ、久し振りに羽目を外し過ぎた連中が巫女に調伏されるまでの「お約束」も復活した。
 まだ多少の確執のある者もいるが、時間が解決してくれることだろう。
 何にせよ、博麗の巫女の復調の影響は大きかった。

 そんな当の巫女、博麗霊夢はどうしているかというと、神社の縁側にいた。
 それだけならいつも通りの風景なのだが、珍しいことに本を読んでいた。
 風に揺られる貢を指で押さえ、時々思い出したように捲っていく。それだけで絵になるような光景である。

 彼女の片手が本から離れ、側に置いていた湯飲みを取ろうとして……スキマから現れた八雲紫に掻っ攫われてしまった。

「こんにちは、霊夢。今日も暖かくて気持ちの良い日ね」
「こら、私のお茶を返しなさい」
「だって、喉が渇いたんですもの」
「それならそうと言えばいいでしょう。淹れてあげるんだから」
「あら、珍しいこともあるものね。霊夢が私にお茶を淹れてくれるなんて」
「……今日だけよ。あんたには世話になったし」
「何の事かしらねぇ」

 惚ける紫は無視して、霊夢はお茶と湯飲みの追加に向かう。
 どうせ新しく淹れようと思っていた所なので、特に不満もなかった。

「ところで霊夢、今日は何の日だか覚えてる?」
「……あんた、厭らしい奴ねぇ」
「んふふ、当ててあげましょうか?」
「結構。今日は魔理沙の命日でしょう。とっくにお墓参りも済ませてるわよ」
「あらそう。残念」

 本当に残念そうに言うものだから、逆に怒る気も失せる霊夢だった。

「私もついでに行ったのだけど……」
「いつ?」
「霊夢のすぐ後」
「やっぱりあんたって厭らしいわ」
「もう、淑女に向かって厭らしいなんて言っちゃ駄目よ? それで話の続きなんだけど……私、お墓を見てビックリするなんて初めてだったわ」

 紫の言葉に、霊夢も頷きで相違した。
 彼女も行った初めは驚きのあまり、持ってきていた物を落としてしまった。まさかお墓の外まで献花で溢れているなんて誰が予想出来ただろう。
 博麗霊夢と八雲紫の二人を驚かすとは、幻想郷住人たちの面目躍如といった所だろうか。

「あいつは何だかんだで慕われてたりしたからね。私としては納得出来る部分もあるかな」
「私も死んだら魔理沙みたいに皆に偲んでもらえるかしら?」
「無理でしょう」
「どうして?」
「あんたと魔理沙じゃ役者が違うもの」

 霊夢の言葉に、紫は一瞬ぽかんとした珍しい表情を見せ、それもそうね、と受け取った湯飲みの中身をゆっくりと啜った。

「それにしても、霊夢」
「あによ」
「あなたが読書なんて珍しいのね? 明日は五月雨でも降るかしら」
「そこまで言うことないでしょう」
「でも私、あなたが本なんて読んでる姿を見るの初めてよ?」
「それはまぁ、仕方ないのよ。私も巫女の仕事で忙しい訳だし?」
「ふーん。巫女の仕事が忙しいだなんて、私、初めて知りましたわ」

 小馬鹿にするように鼻を鳴らす紫に急須の中身をぶち撒けてやろうかとも思ったが、自分の分が無くなるので何とか内なる衝動を抑える霊夢だった。
 その間に紫は霊夢が読んでいた本をしげしげと眺めていた。
 外来本と思われる書籍。鈴奈庵という刻印が押してあることから、貸本なのだろう。

「これ、どんなお話なの?」
「あ? あー、世捨て人も同然の男の人が旅をするお話。今、私が読んだ所までだと、変な村に定住したところね」
「旅をするお話なのに定住しちゃうの?」
「んー、旅って行ってもそんなに遠くまで行かないのよ。その代わり、ほとんど徒歩で歩いて回るから帰りが遅くなるのもザラね」
「変わった主人公ねぇ」
「あんたがそれを言う? でもまぁ、変な人は確かね。あんまりに変だから回りからは仙人だとか言われてるし」
「ちなみに感想は?」
「万人受けはしないわね。私は好きだけど。雰囲気を楽しめる人向けね」

 ふーん、と興味が有るのか無いのか分からない返事をしながら、紫はパラパラとページを捲る。
 と、その拍子に挟んでいた栞がひらりと落ちてしまった。霊夢が眉を立てて怒る。

「あー! まだ途中だったのに! どこまで読んだか分かんなくなっちゃったじゃないの!」
「あら、可愛らしい栞」
「こら! 話を誤魔化そうとするな!」
「どうしたの? これ」
「だから誤魔化すなって……」
「ど・う・し・た・の?」
「うっ……魔理沙がくれたのよ」
「魔理沙が?」
「そうよ。……あいつが遺品だって言うから仕方なく貰ってあげたのよ」
「あぁ、だから本なんて読み始めたのね」
「っ! あーもう、うっさい! お茶も飲まないならさっさと帰れ!!」
「おぉ、怖い怖い」

 そう言いながら紫はひらひらと手の平で栞を弄び、その表面を見て楽しげな顔を引っ込めた。
 突然の紫の変化に、霊夢も虚を突かれてしまう。

「霊夢、これは確かに魔理沙からあなたに贈られたものなのね?」
「え、うん、そうだけど。私もまぁその、気に入ってはいるの。押し花の栞なんて、魔理沙にしてはセンスが良いと思わない?」

 言ってはにかむ霊夢とは対照的に、紫の表情はどこか憂いを帯びていた。

「そうね。ところで、霊夢はこの押し花にされた花の名前を知っている?」
「ううん、知らない」
「Vergissmeinnicht―――これは勿忘草と言うのよ」
「勿忘草?」
「えぇ。ムラサキ科ワスレナグサ属の多年生植物で季語は春。そして、その花言葉は……」
「花言葉は?」
「ごめんなさい、それを私が口にすることはきっと許されないことなの」

 霊夢の手に栞を返し、紫は憐れむように呟く。

「……あぁ、いじらしく可愛らしい仕掛け。だけど、愚かな子。こんな形でしか想いを伝えられなかったなんて……」
「……紫? 何の話をしてるの?」



 不安げな霊夢の声に、何故か今にも泣きそうな顔で紫は言った。



「嘘吐きは最期まで嘘吐きだったという、それだけの話よ」
勿忘草の花言葉……「真実の愛」「私を忘れないで」

このお話を、全ての嘘吐き達に捧ぐ。
完熟オレンジ
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コメント



0.簡易評価なし
1.8si削除
最初はよくある話かと思いましたが、畳み掛けるような魔理沙の手紙にやられました。もっと早く素直になれていれば……
手紙の文面的に、初めからこうする気しかなかったのでしょうけど。
でも残される方が辛いので、この魔理沙は最後まで嘘吐きで、我儘だったのでしょうね。
2.5あらつき削除
ストレートな話で。ストレートすぎたかな
3.7ばかのひ削除
短めですっきり読みやすい! 面白かった!
花言葉を知っていて、タイトル、魔理沙の死から大体の予想はできてしまったのですがそれでも受け入れることができたのは読みやすいからでしょうか
素晴らしかった
4.7無名削除
嘘に隠された真実に気付けた時、 どうしようもなくこみ上げてくる気持ちがある。
霊夢が自身で作り上げた「嘘」が破れる瞬間も、また然り。
魔理沙の仕掛けと手紙の文面に嘘を覆いきれない程の真実が溢れている気もしますが、それはそれで良いのだなと思えました。
5.9名前が無い程度の能力削除
Good!
6.7名無削除
魔理沙らしい
7.5mayuladyz削除
偉そうな口を聞くけどすまぬ
感想はうーんだった
魔理沙ちゃんを犠牲にした割には
物語のインパクトや面白さがいまいちだったように思えた

これは私だけかもしれないが
字を読むのが苦痛なのに(自分の作品も含めて私は字を読むのが嫌い)
さらに魔理沙が死んで(´・ω・`)ってなっているのに
その(´・ω・`)を覆すような面白さを見出さなかった

勘違いしないで欲しいのは
誰もが思い付かないような狂気に走れとは言ってないよ

ただ、魔理沙の死で受けたストレスが
読み終えてもなんだか晴れない気分になった
魔理沙の死で得られる対価と
物語の重みが釣り合わない様に感じた

簡潔に言うと
魔理沙が死ななくても
同じような物語は再現できたと思った。

それから気になったのは冒頭
『それはいつも通りの、……』
ではインパクトが薄い思った

私なら
「次は、お互いの寿命で勝負してみないか?」
を冒頭として使い、一行目から「何言ってんだ。こいつ」
と思わせて読者に興味を抱かせるようにする

しかし冒頭に一番相応しいと感じたのは
体調不良の霊夢が空から落ちるシーンだと思った

このシーンを先に提示すると、魔理沙の寿命勝負提示のシーンで
霊夢が先に死ぬかも……と読者に思わせることができ
でも、実は魔理沙が犠牲になりますってことになり
展開を読む読者は ( ゚д゚ )やられた! と思ったかもしれない

さらに霊夢の墜落シーンは
読者の興味を引き付けるのには
インパクトは十分であり冒頭に相応しいと思ったぜ

まあ感性の違いもあるから、参考ていどにしてくれ(´・ω・`)V
8.5がま口削除
定番なお話をテーマに絡めてまとめたなぁ、という印象でした。
手紙の仕掛けが、いかにも魔理沙らしいという感じがしました。
あと主が居ないがらんとした部屋を見て、部屋主の死をはっきり意識するという感覚に深く共感しました。
9.5みすゞ削除
霊夢さん切ない・・・。ただ魔理沙の遺書(?)は気が回り過ぎかも。
10.9PNS削除
ものっそい丁寧に書かれていて、よい作品。作者様の愛が伝わります。
構成がもう一段凝っていたり、カタルシスがもう一回り大きければ、迷わず10点を差し上げていたと思います。
それにしても十分楽しめました。
11.9ナルスフ削除
魔理沙また死んだのか(褒め言葉)とか思いながら読み進めていったのですが、意外なまでに私好みのストレートな作品。
じわりと広がる狂気から、魔理沙の凝った仕掛けと、忘れ薬を捨てることによって出てくる彼女の本心。
タイトルにもあるのに、紫から改めて言葉に出されて、はっ、となりました。
ああ、本当にいじらしくかわいい仕掛け。
天使のような魔理沙さんの愛されっぷりにちょっと口元をほころばせつつ。
ありがとうございました。
12.6道端削除
 感動的でロマンティックで、好きな話なんだけど、もう少し捻りというか意外性みたいなものが欲しい、と思ってしまうのは我儘だろうか。
 魔理沙が死ぬ、という展開も、出だしが出だしだけにもう死亡フラグビンビンだったし、勿忘草という魔理沙のメッセージもタイトルで予想できたし、花言葉も知ってたし、魔理沙が死ぬ一か月前に勝負が始まったというのも後から考えると出来過ぎているし。うーむ。
13.8烏口泣鳴削除
霊夢の周りの暖かな空気が大変心地良かったです。特に役者が違うと言われて呆ける紫が印象に残りました。
14.5生煮え削除
話の筋は自然なものでしたしテーマも悪くなく、オチは成る程と思える良い物でした。全体に見せ方と、文章の言い回しがあまり良くない印象です。
見せ方の面では魔理沙が死んだ事を周知の事実とする物語を俯瞰する視点と、魔理沙の死を嘘とする霊夢の視点の、そのどちらに寄るのでもない中途半端な視点で物語が展開していく印象で、読者としては十分に感情移入しきれないだけでなく僅かに戸惑う面もありました。言い回しは感覚や好みもあるので難しいところですが、例えば『重力という自然の力がしなくてもいいのに少女の身体に味方していたのだ。』『霊夢の力は「空を飛ぶ程度の能力」である。地に墜ちるなどという対極にある事態を、彼女の本質が間違っても許す筈がなかった。』など、必要以上に遠回しなうえに、遠回しにしたことで得る物がさほど感じられない表現がけっこう見られて、物語の流れを少し邪魔していたかなという印象です。
15.7きみたか削除
霊夢が魔理沙の死を認めない描写が長すぎかなぁと思わなくもなく。また、原因となる霊夢墜落の原因描写は逆に不足気味に感じました。魔理沙の遺書は興味深かった。
16.5名前が無い程度の能力削除
勿忘草という名前なのに花言葉が「真実の愛」「私を忘れないで」なんて見ようによっては皮肉ですね
魔理沙があのような最後だと霊夢がこれほどまでに執着してしまうのも無理は無いと思います
ただ、突然の勝負やその死、遺言など話自体はどこかしらわざとらしさが漂っていたように感じました
17.2エーリング削除
最初にこの勝負とこの仕掛けをやろうと思った、魔理沙側のきっかけとなるエピソードが欲しい所です。それがあると手紙の文章に深みが生まれると思います。
18.8時間が足りない!削除
こういうストレートな話には弱くて、涙腺が……。
最後の花言葉のくだりはずるい。
19.7K.M削除
冒頭からの流れるような速攻決着に引き込まれました。
20.7智弘削除
死別モノは好物だし、それを別にしても好き。