第十二回東方SSこんぺ(嘘)

幽霊兎はどこに消えた?

2013/10/27 23:51:20
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「とうに死んでいるわ。……一目瞭然だけど」

 無感情な声が診断を下す。

 太い廊下の突き当たり、丁の字の接点にあたる場所。
 兎達が三方向に分かれ、そこから数歩離れた場所で息を凝らしていた。

 八意永琳が、床にひざまずいている。
 彼女がいたわるように触れているもの、うつ伏せになった血の気の無い肌の亡骸には――

 『四肢が無かった』。
 両の手足が根元から滑らかに切断されており、断面に濁った赤が見えている。
 ただしランプの置かれた床は、血で汚れておらず、磨いたばかりのように綺麗なままだ。

 故に、遺棄されていたその骸は、あまりにも奇怪だった。
 ちょうど、兎の身体で作ったこけしが、廊下に横たわっているという風だった。

「そんな……」

 かすれた声がした。
 多くの視線が亡骸から、三本に分かれた廊下の一つ、その最奥へと移る。
 茫然と呟いた少女は、一人だけ他の妖獣よりも背が高く、髪が長く、耳の形も異なっていた。

「……ウドンゲ」

 視線を集めた少女の体が一度震えた。
 固唾を呑んだ他の兎達が見守る中、永琳ははじめて顔をそちらに向ける。

「これが、貴方が『最初に見た』死体?」

 ウドンゲと呼ばれたその兎は、すぐに答えられずにいた。
 握った拳を胸に軽く当て、一度深く呼吸してから、否定する。

「……違う気がします……お師匠様……でも……よく似ています」
「そう。なら、これは『第二の被害者』ということになるのかしら」

 硬化した廊下の空気が、また一段と重くなった。

 一匹が嗚咽を漏らす。それを呼び水として、兎達はすすり泣きを始めた。
 ある者は顔を覆って、ある者は目をこすって、ある者などは気が触れたかのように床を叩きながら。
 苦楽を共にした仲間の魂を、涙船で送ろうとしていた。

 永琳は立ち上がろうとしないまま、兎達の涙が長雨となる前に、冷静に指示を下す。

「検死をするわ。皆は部屋に戻っていなさい。ウドンゲ、貴方もよ。この遺体の詳しいことについては、後で伝えるから」
「…………はい」

 少女、鈴仙は力なくうなずく。そしてすぐに振り返り、逃げるように廊下を歩み始める。
 心の内で、無音の叫びを繰り返しながら。

 ――知っているんです、お師匠様。私はきっと、その兎を知っているんです。

 廊下に集まった兎達の中に、鈴仙と同じくらいの背の女性がいた。
 美しく、妖艶な微笑みを浮かべて、死骸を眺めている。

「雅に欠けたことをするのね」
 
 すれ違いざまに、彼女の呟きが耳に届いた。

「犯人、早く見つけないとね」

 軽くうなずくだけで、鈴仙は足を止めずに廊下を進む。
 数度角を曲がり、突き当りの扉が見えた瞬間、その足が加速した。

 鈴仙は部屋を開けて飛び込み、後ろ手に扉を閉めた。
 
 一呼吸の後、糸が切れたように、その場に座り込む。
 床に置いた拳の上に、ようやく瞼からあふれ出た滴が、ぽたりと落ちた。
 
 寂しい。
 兎達に混じって泣けないことも。あの兎が死んでしまったことも。
 事件は終わっていなかった。そのことに自分は気づいていなかった。
 だから二つ目の事件を防げなかった。あの兎を死なせてしまった。
 私が殺したも同然だ。私のせいで。私のせいで。私のせいで……。
 
 畳の上で呻きたいだけ呻いてから、ようやく鈴仙は落ち着きを取り戻した。
 ここで呻いていても、何も進展はしない。今やるべきことは、他にある。

 のろのろと立ち上がって、敷かれた布団の横を過ぎ、机に向かう。
 机上にはちぎり取られたメモ用紙がいくつか、そして手書きの見取り図が広げられている。
 数刻ぶりに、それら情報の断片に視線を落とし、口の中で呟く。

 ――もう一度……最初から考えてみないと……。

 封印したばかりの過去の扉に、鈴仙は再び、鍵を差し込んだ。











 ――幽霊兎はどこに消えた?――












 そう、いい感じです。

 その調子で、今度は上っていきましょう。

 水中にある階段を、一段ずつ。
 今貴方が聞いている音は、貴方が階段を上る音。

 上に行くにつれて、だんだん明るくなっていく。
 悪いものは全て、水の底に沈んで、すべて良いものに変わっていく。
 
 階段が終わりに近づいています。
 もう少しで、水面に顔が出る。
 三つ数えたら、合図で貴方は目を覚ます。



 3……2…………1…………






 見えざる手に瞼を撫でられ、鈴仙は両の目を開いた。
 視界は水中を彷徨っているかのようにぼやけていたが、徐々に物の輪郭がはっきりしていく。

 階段を歩く音――いや、あれは時計の音だった――は、いつの間にか消えていた。
 今、聞こえているのは、万年筆の先がサリサリと紙を引っ掻く音。
 小人の内緒話を聞いているようで、耳に心地よい。再びまどろみが頭に沁み込んでいく。

 鈴仙は身じろぎして、背もたれとドッキングしていた腰を動かし、預けていた頭を椅子から起こした。
 机に向かってカルテに書きこんでいる師の姿に、焦点が結ばれる。

 白いランプに上着の赤が浮かび上がり、青が沈んでいた。スカートは反対に青が浮かび上がり、赤が沈んでおり、星座を象った刺繍が施されていた。一つに編まれた銀の長い髪は、やはり老いと若さという二つの印象を内包している。
 横顔は、年齢不詳。整い過ぎた顔立ちは、クリスタルグラスが持つ人工的な美を思わせる。
 月で生まれた鈴仙にとって、それは最も慣れ親しんだ美しさといってよかった。
 引き込まれることはあっても、飽きることがない美だ。

 ……睡魔に頭をマッサージされている、こんな時でなければ。

「診断の結果」

 ぼうっとしていた鈴仙の意識を、タイミングよくその声が引き戻す。

「外傷はほぼ完治。体温は平熱。血圧は正常。脈拍は問題なし。呼吸にも異常なし……」

 カルテに書きこむ手を止めず、八意永琳は診断内容を語り続ける。

「問題の目の方だけど、視力はほぼ回復。波長の認識能力については、昨日から数値が上昇傾向にあり……」

 小人の内緒話が終わった。永琳は万年筆を筆立てに戻し、

「つまり、概ね健康よ。催眠治療の効果も出ているようだわ。今後も引き続き、行っていきましょう」
「はい……」

 鈴仙は返事するが、あまりに力のない声に、きまりが悪くなったので、

「ありがとうございます、お師匠様」

 しっかりと言い直し、頭を下げた。
 顔を上げると、ちょうど永琳が、こちらを向いて微笑んでいた。
 たった今正常と診断されたばかりの鈴仙の動悸が、不安定になる。

「もうだいぶ慣れたかしら」

 そう尋ねられたので、鈴仙はできるだけハキハキと答えた。
 
「最初の治療の時よりも、だいぶ慣れました。傷はすっかり痛みがなくなりましたし、痕も残らないでしょう。まだ『力』が不安定なのが、気にかかりますけど、このまま催眠治療を受けていれば、お師匠様の仰る通り、きっとよくなると思います。そうすれば、もっとお役に立てるはずかと」
 
 永琳は目を細め、僅かに笑みを深めた。

「ここでの生活に慣れたか、という意味で聞いたのよ」

 どうかしら、と再度聞かれて、顔を熱くした鈴仙は、ぎこちなくうなずく。
 おかげさまで、とにっこり笑うのが正しい応じ方なのだろうとは思うのだが、いくつかのイメージが茶々を入れてくる。
 屋敷の住人のうち、鈴仙にとって友好的な関係を築けているとすれば、今のところこの八意永琳のみ。
 他の住人とのコミュニケーションが十分に取れているとは認め難い。
 特にそのうちの『一匹』については、予想以上に手こずっているといってよかった。

 事情を理解しているのか、気にしていないのか、永琳は小さくうなずき、

「それは結構。今日の診察はこれで終わりよ。お疲れ様。何か聞きたいなら、今のうちに言って」
「優曇華院って……」

 鈴仙は鏡の前で練習を重ねた、好感の持てそうな笑顔を作る。

「気に入っています。この名に恥じぬよう、精いっぱい仕事を務めさせていただきます」

 鈴仙・優曇華院。そんな兎がこの屋敷に誕生してから今日で五日。
 月にいた頃の名前に漢字をあて、月の都に生える植物の名を新たにいただいた。
 過去を忘れ、新しい世界での未来を生きる上で、それは最もありがたい贈り物だと感じており、今も感謝の念に堪えない。

 が、その名を与えてくれた当人は、特別な表情を浮かべぬまま、机に向き直る。

「それなら、遠慮なく仕事をあげるわ。たっぷりとね」

 鈴仙は固まった笑みを顔に載せたまま、内心で大きく肩を落とした。
 おべんちゃらが通じるような相手ではない、ということはもう十分承知している。
 それでも毎度のごとく、優しい反応を期待してしまうのは、ペットとして育てられた兎の性かもしれない。

「これがお昼までの仕事の内容よ」
「かしこまりました」

 師の手から一枚の紙を受け取り、鈴仙は書きつけられた内容を見る……と、

「……え?」

 思わず、視線が師の横顔へと戻った。

「お師匠様……これ……」
「失礼のないようにね」
 
 永琳はあくまで素気のない声で告げてくる。
 けれども鈴仙は紙に書かれた午前の雑用の内容を、もう一度、頭の中で読み上げていた。

 姫に昼餉の膳を運ぶこと

 項目の一番下に書かれていた仕事は、ここに来てから初の大役だった。






 (1)二つはいつ四つになった? 






 永遠亭。
 迷いの竹林の中に、ひっそりと建つこの屋敷は、隠れ家と呼ぶのに似合わぬ広大な敷地を有していた。
 古の月の都にて比較的多く見られる建築形式であり、寝殿造とも書院造とも言い難い。
 正殿と広い庭の存在は前者の特徴が、襖で部屋が区切られている様は後者の特徴が表れている。
 いずせにせよ古びた様子を感じさせぬ立派な建築物であるが、その中身は決して歩き回るのに易しい場所ではなかった。

 たとえば、ここに住んでまだ日が浅い玉兎は、庭に面した廊下を歩く間、数字を心で唱えることにしていた。

 ――三つ……四つ……。

 鈴仙は余裕のない顔で、重ねた色違いのお膳を運ぶ。
 右脇に別の廊下が現れる度に、頭の中の数を増やしていく。

 これは屋敷の中で迷わないための工夫である。
 永遠亭の内部は非常に入り組んでいて、奥に行くに従って通路は複雑になっている。
 上へと通じる階段はいくつかあるが、二階に上ったとしても、同階層の全ての部屋を行き来できるわけではない。
 地下もまた同様で、忍び込んだ盗人が飢え死にするのではないか、というくらい難儀な造りだ。

 なので鈴仙は今のところ、外廊下をよく使っていた。
 東西南北にある屋敷の外辺から、いくつ角を曲がるかで、部屋から部屋への道順を覚えているのだ。
 中を通っていくよりも遠回りだが、その分迷いにくいため、しばらくはこのやり方で仕事を済ませるつもりでいた。

 ざわざわと物々しい音がしたため、鈴仙は歩きながら、庭の方を眺める。
 左から右まで、隙間なくびっしりと、広い屋敷を囲むように竹が生えている様が見て取れた。
 初夏の正午前の太陽は、分厚い雲をものともせず、今日も居並ぶ青竹に日光の大盤振る舞い。
 その営みが何百年と続けられた結果、生い茂った竹の葉が風が吹く度にこすれ合って音を立て、あのような大きなさざめきを生むようになったというわけだ。

 実は永遠亭に訪れる前、鈴仙はあの竹林の向こう側で野垂れ死にしかけていた、らしい。
 らしいというのは、当時の記憶が曖昧で、どうやってここに運ばれたのかを詳しく聞いていないからだ。
 この屋敷に来てから初めて、『迷いの竹林』という、妖怪をも迷わせる領域について知ったのである。
 一応、あれらの竹は永遠亭にとっての隠れ蓑となっていて、侵入者を防いでくれているとも、永琳から聞いていた。
 けれども、あの魔境より命からがら生還した者の眼には、入りたくても入れない竹の亡者達が、屋敷への侵入を虎視眈々と狙っているように感じられなくもない。
 
 鈴仙は歩きながら、俯き加減となり、物思いに耽る。
 月での辛い事件から地上に逃げてきて、ここにたどり着くまで、不運なことが連鎖的に続いていた。
 穢れの中で生きていく術もなく、先の見えぬままで、挙句の果てに竹林の中で飢えて倒れ、やがては骸となっていたはずだった。

 運よく永遠亭に拾われたことで、今は元気になって、こうして手伝いをしながら住むことを許されている。
 しかも永琳の助手見習いという、破格の待遇で。滅多な幸運ではない。
 まだ覚えなくてはいけないことや、解決しなくてはいけないことはたくさん残っているが、進むべき道が見えているだけでも、ありがたい。

 ――まずは、与えられた仕事に、最高の結果で応えることね。
 
 鈴仙は気を引き締め直し、頭を持ち上げた。
 が、

「…………あ」

 すぐに引き締めたばかりの顔から、血の気が引いた。
 考え事をしながら歩いていたために、ついつい道を数えるのを忘れてしまった。
 曲がる角を通り過ぎてしまったかもしれない。姫様の部屋に着く道はどれだったっけ?

 鈴仙は脇道の一つを覗きながら、小さく唸る。目的地まで、あとせいぜい三十歩くらいのはずだ。
 あてずっぽうで選べば迷う可能性がある。見えている襖を手当たり次第開けるのは失礼だろうし、非効率だ。
 初めの目印に戻って、やり直すというのが確実だが、時間がかかる。
 さらには、こうして迷っている間にも、ご飯が冷めてしまうかもしれない。 
 
 一人で悩んでいると、背後から、てってってってって、と足音が近づいてきて、

「おっとぉ!」
「わっ?」

 何か柔らかいものがぶつかった。
 鈴仙は足をもつれさせたが、壁にお尻を押し付けて、お膳をひっくり返しながら転倒という惨事を回避する。
 ぶつかってきたであろう白い毬は、廊下を二度ほどホップして、くるん、と空中でこちらに向き直り、

「あれ? 鈴仙? こんなとこでなにしてんの?」
「………………」

 謝りもしないそいつを、鈴仙は無言で睨みつけた。
 悪戯兎、因幡てゐ。彼女は鈴仙の持っている二段のお膳を見て、ニタァと、糸が引きそうな笑みを浮かべ、

「はっはぁん。読めた読めた。また迷子になったのね。それ姫様のお昼ご飯? 部屋に行く道が分からなくなって困ってるところなんだ。ね? 当たったでしょ」
「……そうよ」
「道案内してあげるわ。料金は前払い。お昼のおかずと午後のおやつ」
「もう貴方に道は聞かないって決めたの」

 鈴仙はきっぱりと拒絶して、目の前の兎から顔をそむける。
 その先に回り込むようにてゐは移動し、こちらの顔を下から覗きこんで、

「なになに? なによ。この前の悪戯、気にしてんの? あの時はちゃんと師匠の診察室に着けたじゃん」
「ええ、そうね」

 当時の体験を思い出し、無表情を装う鈴仙の背筋に悪寒が走った。
 四日前に永遠亭内で道に迷った時も、どこからともなく、この兎が現れたのだ。
 その時てゐは、
 「この紐を引いて歩いてゆけば、必ずや師匠の元に着くであろう」
 と細い紐を渡してきたのである。
 彼女の言葉を真に受けて引っ張り続けながら歩いていたら、本当に向こうから永琳が迎えに来てくれたのだった。

 彼女の見事な銀の三つ編みの先端に、鈴仙の持つ紐の片端をくくりつけた状態で。

 二度とあんな師匠の笑顔は見たくない。

「でもこのままだと、いつまで経ってもたどり着けないわよー。さー困った困った。どうするピンチの鈴仙」
「………………」
「じゃあさ、こうしない? 私が他に道に詳しい奴を紹介するから、そいつの紹介料として、後で私にご馳走してくれるっていうのは」

 ぴく、と鈴仙の耳が動く。妙な提案だったが、一考の余地はある。
 道が分からないのは確かだし、ここで単独で無謀な決断をして、大失敗するよりはマシに思えた。

「その兎は信用できるんでしょうね」
「大丈夫大丈夫。もしかしたら、私よりもこの屋敷に詳しいかもしれない優秀な奴よ。じゃ、取引成立ね」

 うなずくよりも先に、てゐはピョンピョンと跳ねて廊下を去っていった。
 鈴仙はお膳を抱え直し、早くその案内の兎を連れて戻ってくれるといいけど……と後ろ姿を見守る。

 さて、てゐは十メートルほど進んだ後、唐突に襖の一つを開け放ち、大声で言った。
 
「姫様ー。どうせ暇なんでしょー? 迷子の兎が案内してほしいんだってー」

 もう一度転びかけた鈴仙は、なんとかお膳を傾けぬように耐えた。
 「じゃあ後はよろしくねー」とてゐは再び跳ねながら、廊下の奥へと消えていく。
 入れ違いに、彼女が襖を開けた部屋から、ひょっこりと顔が覗き出て、

「どこに行きたいのイナバ?」
「…………姫様のお部屋に」
「あらそう。ちょうどよかった。ここが私の部屋よ」
「…………そうですね」

 鈴仙は丁重に応える。
 その一方で、お膳を置いて、庭に蓋つきの穴を掘ってこもりたい欲求をこらえていた。
 どうしてあの性悪は、「すぐそこの襖よ」と言ってくれなかったのか。

 桃色の広い袖が、部屋の外で一度優雅に振られ、

「中へいらっしゃい」

 と鈴仙を招いた。

 小走りに向かった鈴仙は、部屋の前に立ち、「失礼いたします」とその場に膝をつく。
 お膳を畳みの上に置き、一度指をついて礼をしてから、中に入らせてもらう。

 永遠亭の姫君、蓬莱山輝夜の部屋は、存外質素なものだった。
 十畳間の床に、文机と茶道具、そして緑のない盆栽が置かれているくらいで、とにかく物が少ない。
 せめて几帳のようなもので遮られていれば、少しは気品が生まれるかもしれないが、そういった何かを隠すためのものはなく、御帳台のような寝所もないために余計に殺風景に見える。
 とはいえ、後に鈴仙が聞いた話によれば、この姫は毎月、時には毎日永遠亭内の好きな部屋を、自分の私室として使っているらしい。
 つまり屋敷を独り占めにした野良猫のように、住み処を変えるのである。なんとも奔放で贅沢な話だ。

 しずしずとした足取りで、鈴仙はお膳を輝夜の前に運ぶ。
 それから、自分のお膳を持って退出しようとすると、

「そこに座って。貴方もここで食べればいいわ」
「でも私は……」
「永琳に頼んで、私の方から貴方を食事に誘ったの」

 輝夜は晴れやかな表情で、鈴仙の目を丸くするようなことを言う。
 主人の命令とあっては、断ることはできない。
 にわかに緊張しつつ、鈴仙は自分の分のお膳を一畳分離して置き、正座する。

「いただきます」
「いただきます……」

 輝夜に倣って手を合わせ、鈴仙は箸を取りながら、献立に目をやった。
 胡麻豆腐。こんにゃくの刺身。野草の天ぷら。汁は味噌汁やすまし汁ではなく、餅を落としたお雑煮だった。
 あとはご飯に漬物と果物――今日はザクロだ。

 月の出身である鈴仙としては、永遠亭の食事は味付けが薄い気がしないでもないものの、食材はほとんど慣れたものだし、不味いわけではない。
 ただ調理する兎達の衛生観念に疑問が残っているため、まだ心の底から食事を楽しめたことはなかった。
 今日も、せめてもの気休めに、自分の分の盛り付けは自分の手で行ったのだが。

 ――そういえば、昨日もお餅だったわね。

 と雑煮をすすりながら思う。
 その前の晩も、磯辺焼きというものが出たが、兎達が餅をついているところを鈴仙はまだ見ていなかった。

 箸を進めながら、それとなく、姫の方の料理を観察する。
 お膳の色が違うだけで、彼女の献立も鈴仙のものとほとんど変わらないようだった。
 けれども何となく豪華な印象を与えるのは、きっと食べる仕草に気品があるからだろう。
 急くことなく、たるむこともなく、黙って箸を口に運んでいき、音もなく召し上がる。

 ここに来てから一度、短い時間だったが、鈴仙はすでに姫と顔を合わせている。
 はじめて彼女に謁見した時、鈴仙は見事に思い知らされた。「私って……姫じゃないんだな」と。
 外見の年齢は鈴仙とそう変わらないのに、彼女の居住まいは高貴で大人びており、確かな風格がある。
 月では珍しい黒髪は、鈴仙と同じかそれ以上に長く、てゐのそれと違って真っ直ぐで艶やかだ。 
 一方、顔立ちは愛玩動物代表の兎が恥らうほど愛らしい。
 それらが合わさったのを目の当たりにすると、つい箸が止まり、見蕩れてしまいそうになる。

 共に食事をさせていただけるだけで、鈴仙はかつてない特別な時間を過ごした心地になれた。

「「ご馳走様でした」」

 食べるペースを姫様に合わせていた鈴仙は、同じタイミングで手を合わせる。

「ただ今、お茶のご用意をいたします」
「まだ今朝に淹れたのが、これに残ってるわ。湯飲みも二つ用意してあるから、イナバが注いでくれる?」
「かしこまりました」

 輝夜の傍らに置かれた急須に足を運びながら、ぬるいお茶が好きなのかしら、と鈴仙は内心で訝しんだ。
 ところが、実際に手に持ってみて、

 「熱っ……」

 と火傷しそうになる。

 「気をつけてね」と軽く注意を受け、頭を下げながら、ああそうだった、と鈴仙は記憶を思い返す。
 この急須の中身は決して、冷めることはないのだろう。輝夜がそうと望まない限り。

 いつまでも淹れたてなお茶を美味しそうに飲む『永遠の姫』は、心安い口調で、

「玉兎と食事をしたのは、いつ以来かしら。もしかすると、初めてかもしれないわ」
「それは光栄です」
「どうして私がイナバを食事に誘ったか、気にしてるみたいね」
「いいえ。私は玉兎ですし、姫様が憂慮なさるのは自然なことではないでしょうか」

 鈴仙は曖昧な気持ちを隠して、気を悪くしない答えを選ぶ。
 玉兎というのは、月の兎の呼び方である。そう呼ばれていたのも、だいぶ昔のことのように思えてならない。
 当時は輝夜も永琳も、地上の第一級危険人物として、講義の際の紙の上でしか相対することのない存在だった。
 蓬莱の薬を服用して不死となり、地上へと追放された姫。かつてはその教育係であり、蓬莱の薬を製造した八意永琳。

「じゃあイナバ。ちょっとだけ私の話し相手になってもらえないかしら」
「はい。私でよろしければ」

 鈴仙は頭の中で素早く、午後の仕事に必要な時間を算出する。三十分くらいは割けるはずだ。

「ありがとうね、イナバ」
「はい……あの……一応先日、鈴仙・優曇華院という名前をいただいたんです」
「へぇ、そうなの。なら、イナバを足せばいいじゃない。鈴仙・うどんなんちゃら・イナバ」
「そう、ですね」

 鈴仙は頬を引き攣らせながらうなずく。
 この程度のパワハラは、月にいた頃から慣れっこだ。

「貴方、永琳の治療を受けてるんですって?」
「はい」
「どこも悪いようには見えないわ」
「体の傷はほとんど癒えています。ただ、まだ目の方が本調子ではなくて……」
「あら。じゃあこれ、わかるかしら」
「ふふ、ちゃんと二本に見えていますよ。視力が落ちているわけではないので、それくらいは……」
「二本じゃないわ。人差し指が一本と中指が一本。同じにしてはダメ」
「………………」
「目は悪くないけど、別のところが足りてなさそうね」
「す、すみません」

 鈴仙は素直に頭を下げる。
 物凄くバカにされたような気がしたが、ご機嫌を取るためであれば、謝罪以外の選択肢は存在しない。
 たとえ「指を区別するなら、兎の方も区別してください」などと進言したくとも、黙って謝るのが賢い兎だ。

「でも色々と大変でしょうね。地上は月とは全然違うから」

 輝夜はお茶を一口飲んで、心なしか遠くに視線を移す。

「私も月からこの地に下りてきた時は、見るもの全てが珍しくて、怖くも思えたわ。何もかもが用意されているあの都から出ても、目新しいものはないと思っていたのだけれど……」

 鈴仙もまさしく、同じ気持ちを抱いていた。
 実際に土の上に降りて暮らしてみると、ここは月に慣れていればいるほど住みにくい世界だとわかった。
 体感したことのない体の重み。体験したことのない湿気。
 そしていたるところに穢れが蔓延っていて、酸素の量が半分になったかのように、すぐ体が息切れを起こす。

 一見わびさびがあるようで、日常の隅々まで科学の手が行き届いた、かつての世界。
 そこから逃げ出し、地上に来てから初めて目を開けた時、鈴仙は裸で放り出されたような心地がしたものだった。
 月にいた頃は、同じ仲間と一緒に、地上について様々なことを語り、思いを馳せたものだ。
 でも今考えればその当時は、水槽を上から覗きこんでみようとする程度の意識しか持っていなかったのだろう。
 
「月に暮らしている時は、私達が普段どんな恩恵を受けているかなんて考えたことがありませんでした」
「そうね。わざわざ穢れた地上に降りてくるとすれば、それは罪人くらいしかいないわ」

 何気ないその一言に、鈴仙は動けなくなった。
 この流れであれば、当然次にくる質問は……。

「貴方はどうして月から逃げてきたの?」
「それは……」

 鈴仙は頭の中に準備していた無難な答えで、お茶を濁そうとした。
 
 その瞬間、舌が麻痺を起こした。
 さらに、はっきりと引き攣る。頬ではなく、内臓が。

「ん……」

 鈴仙はその場に湯飲みを置いて、口を押えた。
 背中を丸め、息を止める。閉じた瞼の裏が熱くなる。

 イナバ  どうしたの

 声が遠い。
 返事をすることもできない
 背中を押しつぶすような重みと、生きたまま身を切られるような痛みが、交互にやってくる。


 イナバ しっかりしなさい イナバ 

 闇の中で、鈴仙はもがく。空気を求める。


(昏く深い水の底に……貴方は今沈んでいる)


 頭の奥から、穏やかな声が届いた。
 理解するよりも先に、ねじ切られる寸前だった意識が、その声にすがりつく。


(そこに貴方は記憶を置いていく。それから急がず、振り返らず、ゆっくり階段を上り、水面へと戻ってくる)


 鈴仙は声に従った。
 振り返ることなく、駆け足で上りたくなる気持ちを抑えて、一段ずつ、一段ずつ、記憶から遠ざかっていく。


 やがて部屋の音が耳に帰ってきた。

「……気分は落ち着いたみたいね」
「…………はい。お見苦しい姿をお見せして、申し訳ありません」

 背中をさすられていることに気付き、鈴仙は慌てて膝を引いて、その場で頭を下げた。

 己の眼の他に、完治していない厄介な病気。
 それが師匠の催眠によって癒そうとしている、地上に下りてくる以前より患っていたこの病である。
 これでもまだ改善した方なのだ。初めの頃は、思い出すだけで七転八倒していたから。
 とはいえ、主人の前とあっては、あるまじき失態である。 

 あるまじき失態である。だがこれでもまだ改善した方だ。初めの頃は、思い出すだけで七転八倒していたから。

「そんなにかしこまらなくてもいいわよ。もう貴方の昔話は聞かないことにするわ。月のこともね」
「いえ……ですけど、ありがとうございます」
 
 再び礼を述べ、鈴仙は体を起こす。
 輝夜は空気を変えるように、軽く手を打ち、

「もっと明るくて、なんでもない話題にしましょう。食後のお話にちょうどいい軽さのお話」
「はい。そうしていただけると、私も嬉しいです」

 鈴仙は今度こそ、作り物ではない本物の笑顔を浮かべて言った。
 ちょっと変わってる気がするけど、優しそうなご主人様でよかったー、とホッとする。
 「それじゃぁ、尋ねたいのだけど」と輝夜は片袖で口元を覆い隠し、くすくすと笑う。

「玉兎って、昔から耳が四本あったかしら?」
「………………はい?」

 頓珍漢な問いに、鈴仙は思わず問い返していた。
 それから、猛烈に嫌な予感がして、おそるおそる頭に手をやって……。


 絶句した。





 ※※※※※





 配膳室の戸を開けると同時に、幕が下りたようにお喋りが止む。
 洗い物をしていた兎達は、残らず動きを停止させていた。
 部屋に入った鈴仙は、お膳をわざとガシャンと乱暴に流し台に置き、周囲を見渡す。
 標的の姿はない。

「てゐはどこ?」

 兎達は固まったまま、誰も口を開こうとしなかった。
 舌打ちしたくなる気持ちを我慢して、鈴仙は一匹の兎を指す。

「そこの貴方、答えて。てゐは今どこにいる?」
「……知りません」

 兎は怯えた様子で、首を振って応える。
 鈴仙は違う兎に目線を動かす。結局、全ての兎が首を振るのを確認し、口調に苛立ちを隠せなくなる。

「後で戻るわ。私の分のお膳はここに置いておいて。自分で洗うから」

 外に出て、鈴仙が向かった先は、すぐ近くにある洗面所だった。
 施設に上下水道が整備されているのは当たり前という環境で育った鈴仙にとって、永遠亭も同じシステムで動いているのは助かる。いつでも好きな時に手を洗ったり、お風呂を利用したりできるから。
 
 蛇口をひねり、掌に水を溜め、パシャン、と自分の顔に叩きつける。

「ふ――」

 溜めこんだ息を、細く、長く洗面台に吐く。心にたまった澱を、全て出すつもりで。

 鈴仙はタオルを顔に当てて水気を取り、鏡に目をやる。
 この屋敷では見慣れない――そして自らの生涯で最も見慣れた玉兎が立っていた。

 薄紫の髪は生まれつきのものだ。
 もっとハッキリした色ならよかったのに、と小さい頃は思い、せめてもと長く伸ばした。
 赤い瞳は皆と同じ。ただし、キスができるくらい顔を近づければ、かすかに螺旋が浮き出ているのがわかる。
 服は紺色のブレザーと白いブラウス、赤いネクタイ。桃色のミニスカート。
 それらは月の都の防衛を努める『月の使者』の制服であり、単純な見た目とは裏腹に様々な機能を有していた。

 鈴仙は鏡で、自らの状態を素早くチェックする。
 体調に異常はない。顔色はいい。服装に乱れもない。耳が四つに増えているということも……。

「………………」
 
 鏡の中にいる兎の眉間に、皺ができた。
 その傍らに、先程まで小脇に抱えていた、鈴仙の耳とそっくりな『つけ耳』が置かれている。 

 なんとも忌々しいやり口だった。あの性悪兎は先程出会った時に、このつけ耳の罠を仕掛けていたのだ。
 頭に直接はめるタイプのものであれば、すぐに違和感に気付くことができただろう。
 ところが奴の仕掛けたつけ耳は、本体部分に針金を刺し、粘着テープを添えるように貼り付けたものだった。
 どちらも月では珍しくないどころか、原始的とさえ言える材料とはいえ、特殊で凝った代物である。
 これを最初の体当たりの時に背中に貼り付けてきたのだ。ブレザー越しだったため、鈴仙は気付けなかった。
 てゐの今回の悪戯は、姫に案内役を頼ませたあの一件で完了したのだと安心してしまっていた。
 その後もずっと耳が四つの状態で、姫様と食事をしていたと思うと、羞恥で顔が爆発しそうだった。

 ――次こそは……必ず。

 ギリ、と歯を鳴らす。鏡の向こうに立つ少女の面持ちは、さながら兎の悪霊であった。
 顔を振って気を取り直し、まだ体に何かおかしなものがついていないか、今一度確認する。
 今度こそ大丈夫だ、という確信がようやく持ててから、鈴仙はつけ耳を持って庭へと向かった。

 竹林に向かって、手の内の玩具を思いっきり放り投げる。すかさず右手を掲げ、人差し指を向けて、

 シュパァン、と乾いた音が静寂を突き破った。

 つけ耳は空中で一度浮き上がり、弾けて分裂し、林の向こうに落ちていった。
 命中。ただし鈴仙の顔色は晴れない。
 右手を見つめたまま、瞬きを繰り返す。

 ――まだ照準が狂ってる……早く直らないかな。

「ナイスシュート」

 爽やかでありながら、邪悪な声がかけられた。
 鈴仙は反射的に振り向き、指をかざす。

「ドントシュート」

 歩いて十歩の距離にいた兎は、両手を上げて降参をアピールする。
 鈴仙は構わず撃った。ただし想像の中で。
 実際には腕を下ろし、かわりに恨み言をぶつけていた。

「よくもやってくれたわね。今度の悪戯は、姫様に案内を頼ませたアレだけだと思って甘く見てたわ」
「あっちは別に悪戯じゃないよ。いつまで経っても姫様の部屋に着けなそうだったから手助けしてやったの。それに案内してやるのは兎って言った覚えはないもん。姫様の方が私よりもここに住んで長いしー。ウサギウソツカナイ」

 平然とうそぶく兎は、一見、垂れた耳と尻尾を除けば、十代半ば以上には見えない少女である。
 鈴仙よりも若い、というより幼い顔立ちで、目は赤くてくりくりと丸く、口元には愛嬌がある。
 半袖の桃色がかったワンピースがよく似合っていて、可愛いと云えぬこともない外見だ。
 ただしこの兎の中身が、その髪と同じく真っ黒だということを、鈴仙はここ数日間で嫌というほど思い知らされていた。

 とぼける兎、因幡てゐに、鈴仙は近づき、正面から睨め付ける。
 相手の背が低いため、ちょうど見下ろす格好になる。

「たった今、嘘を吐かないっていう嘘を吐いたわ。私がこのお屋敷に来てから、何度あんたに騙されて、悪戯されたと思ってんのよ」
「えーと、いくつだったかしらー。っていうか最初にどんな悪戯しかけたかも忘れちゃった」
「怪我して寝ている私の顔に、落書きしたでしょう」
「あ、そうだった。でも顔の落書きのことなら、ちゃんと次の朝に謝ったわよ。ゴメンね、って」

 ――よりにもよって次の日も『ゴメンね』と顔に書く奴がいるか。反省の色ゼロでしょうが。

 許されるのであれば、そのすまし顔に墨を塗って、半紙を叩きつけてやりたい。
 ただし鈴仙は苛立っている様を表に出さず、あくまで涼しげな顔をキープする。
 髪を触ってなびかせ、軽く肩をすくめて、

「子供っぽい発想ね。私に構ってもらいたいのなら、一緒に仕事を手伝うとか、他にやり方があるというのに。もう少し有意義な時間の使い方を心がけなさい」

 「仕方ないわね」という風にかすかな笑みを浮かべて、全く効いていないそぶりをする。
 こういう手合いは反応したり激昂したりするよりも、つまらない獲物と思わせるに限るだろうから。
 対するてゐは、野生動物の新しい行動を発見した学者のように首を傾げていた。
 それからポンと手を打ち、

「あー、そっかそっか。師匠の真似してんのね。全然貫録が無いから、わかんなかった」

 ――耐えろ私。無視するんだ。

 そしてお前は寂しさで死んでしまえ、と鈴仙はあくまでポーズを保ったまま、向かいに立つ兎に無言で言い放つ。
 てゐは相変わらず、わざとやっているとしか思えない嫌味な仕草で、かぶりを振り、

「無理しちゃってんねー。我慢するよりは普通に怒って吐き出す方がいいっていうのに。そんな引き攣った顔面神経痛みたいな笑顔じゃ、幸運も若さも逃げていくわ。ストレスは健康の最大の敵。あんたの前にいる、笑いの絶えない世界一幸せな兎を見習うべし」
「大きなお世話。あんたの悪戯が無くなれば、私はその時間をずっと大笑いして過ごしてあげるわよ」

 思わず本音が出た。
 が、

「それは出来ない相談ね。だって誰かに悪戯するほど笑えることって、この世のどこを探してもないもん」
「………………」
「ちなみにこれはバカにしてるわけじゃなくて、顔面の健康体操だから気にしないで」

 あっかんベーをするてゐに、鈴仙の体の奥にしまいこんでいた殺気が、勢いよく飛び出そうとする。
 それを機敏に察したらしく、てゐはポーンと跳躍して間合いを取り、その場で足踏みしてから、

「それじゃ、またねー鈴仙。今後の出し物をお楽しみあれー」

 ぴょん、ぴょん、と背を向けて因幡の白兎は去っていく。

 鈴仙は床に足をつけたまま、追おうとしなかった。 
 いい。これでいい。あの兎は確かに運がいい。
 ここが戦場であれば、彼女はボロ雑巾となっていただろうから。
 あれくらい腹の立つ敵がいれば、月での軍事演習も三倍くらい身が入っただろうに。

 いなくなった小さな背中に、架空の弾丸をいくつも叩きこみ、掌のツボを押しながら、鈴仙はそう思った。
 望みが通るなら、師匠に精神安定剤を処方してもらいたいくらいだ。

 そこで無数の視線に気付いた鈴仙は、素早く振り返った。
 兎達が曲がり角の陰から、こちらの様子を窺っている。

「何見てるの!」

 一喝すると、全ての顔が引っ込み、慌てて逃げ出していく足音がした。

 永遠亭には、何百匹もの兎が住んでいるものの、玉兎は鈴仙一人で、他は残らず地上の妖怪兎だ。
 同じ兎という名を持つ種族だが、ここで過ごして七日ほど、玉兎と地上の兎の差について、かなり思うところがある。
 外見の違いはわかりやすい。この永遠亭の兎は、先程のてゐも含めて、お餅のように垂れた耳で、丸いふわふわの尻尾がお尻についている。また、兎達は人型の状態でも背が低い。髪の色も、黒か茶しかない。鈴仙の薄紫の髪はそれだけ目立つのだ。

 そしてここの兎達は、穢れに対してひどく鈍い。
 死者は土に還る。故に土は穢れの歴史の集積である。
 月では石の上を歩いていた。それは永遠の象徴でもあった。
 なのにここの兎は、屋敷の廊下を裸足で歩き、その足で庭に出ていくこともある。
 もちろん屋敷に上がるときには、汚れた足をきちんと拭いているのだが、玉兎であれば穢れを厭い、そもそも足を土で汚して歩くようなことを試みないだろう。
 そして兎達は皆、警戒心が異常に強い。なおかつ月の住人が持つ地上人に対する絶対性が通用しない。
 特別扱いしてもらうつもりもなかったものの、ここまで距離を置かれると、居心地の悪さはどうしても残る。

 ただ地上の兎は力が弱く、頭もそこまで良くはないことも分かっていた。
 なのでそれらはこの永遠亭で過ごす上で、障害にならないし、いずれ自分を貴重な働き手とみなしてくれる公算はある。
 目下の問題、永遠亭で過ごす間に、最も障害となっているのは、

 ――間違いなく、あの因幡てゐだわ……。

 地上の兎はどれも波長が短いが、あの兎はとびっきり波長が短い。
 そういう存在は過剰になるのだが、てゐに関してはどんな隠行を用いているのか、どうしてもいつも気付けない。
 戦闘訓練を受けた玉兎の背後を取ることも、いとも簡単にやってのける。摩訶不思議で薄気味が悪かった。
 そしてくだらない悪戯を、朝昼晩と毎日のように仕掛けてくる。
 無視を決め込んでいれば、いずれ折れるのは向こうと思っていたが、考えが甘かったかもしれない。

 そのうちあいつをギャフンと言わせて、力関係をはっきりさせたい。
 そうすれば、他の兎達も自分の言うことを聞くに違いない、と鈴仙は考えている。

 ――けどまずは、上からの評価。

 鈴仙は手を組んで上に掲げ、体の筋を伸ばす。

 永琳と輝夜、彼女達の鈴仙への評価を絶対的なものにすることが先だ。
 きちんと仕事をこなし、彼女達から確固とした信頼を得なければ、いつここを追い出されてもおかしくはない。
 また穢れに満ちた地上の世界を彷徨うことになれば、今度こそ命がもたないだろう。
 だから我慢あるのみ。目の上のたんこぶは、自然と癒えてそのうち消えてくれる。
 
 ――明日はきっと、その先はもっともっと、今日よりも過ごしやすくなってるはずだわ。

 鈴仙はそう信じて、次の仕事にかかることにした。




 あの幽霊兎の事件が起こったのは、翌日のことである。






 (2)兎の首はどこに消えた?






 ――くやじー!! あの性悪兎めぇ!!

 AM8:30。
 廊下を走る鈴仙は、やり場のない怒りにとらわれていた。
 原因はてゐの悪戯である。性懲りもなく、また引っかかってしまった。
 しかし今回の仕掛けはかなり捻りが効いていて、その真意を覚るのが難しすぎた。
 
 それは朝食を終えて、鈴仙が自室に戻ってからのことである。
 なんと、部屋の家具の配置が全て変わっており、きちんと掃除されていたのだ。

 勿論てゐの仕業だと疑った(事実、てゐの仕業だということが後に判明した)。
 あの兎が親切心などで片づけをしてくれるはずがない。怪しすぎる。
 すぐに鈴仙は何か物がなくなっていないか、どこかに何か罠が仕掛けられていないかを徹底的に調べた。
 天井から床まで、押し入れの隅々まで。鍵つきの鞄をひっくり返して中身を確かめてみたし、畳んだ布団をもう一度広げてみたりした。絶対に何かあるはずだと、必死になって悪意の芽を探しまわった。

 結論からいうと、何も見つからなかった。
 そこで鈴仙は、入口に現れたてゐの笑みを見て、何を盗まれたのかを悟った。
 『時間』である。師匠の診療の約束の時間が、もうあと残り三十秒に迫っていた。
 半狂乱で夢中になって部屋を漁り回っていたために、すっかり失念してしまっていた。
 慌てて、てゐを部屋から追い出して準備をしてから、猛然と廊下を駆けているところである。

 診療室に五分遅れで到着。
 これまで常に十五分前に到着していた鈴仙にとって、初めての遅刻であった。

「今朝はいつもより遅かったわね」
「すみません。部屋の片付けに、ちょっと手間取ってしまって……」
「それは今の私、あるいはこれから始める治療に必要な情報?」
「いいえ、失礼しました。よろしくお願いします」

 一切の口答えを自らに禁じ、鈴仙は今朝も催眠治療を受けた。
 ただ神経が昂ぶっていたためか、昨日ほど成果が出ず、永琳は早々に切り上げてしまった。
 鈴仙はもう少しで泣きそうだった。
 けれども、天はまだ自分を見捨ててはいなかったらしい。

「これが今日の仕事よ」

 そう永琳に渡された紙には、昨日の姫との会食に優るとも劣らぬ、重要な仕事が書きつけられていた。
 三十分後、薬の仕分けを終えた鈴仙は、診察室を出て、永遠亭の初めての場所へと小走りに向かっていた。

 抱えているのは、大きめの紙袋。中には小袋に密封したばかりの丸薬がたくさん入っている。
 永琳が昨日のうちに開発した薬である。なんでも師匠は、一日に数十種の薬を開発するらしい。
 毒と薬の垣根を作るのは使用者の側であり、実際に本質的な差はなく、ましてや月の天才八意永琳の薬となれば、悪用に用いられた場合、その危険性はそこらの毒薬とは比較にならない。
 だから、今胸の内ポケットに忍ばせている小さな鍵を渡されたとき、鈴仙は気持ちが奮い立つのを覚えた。
 薬の管理を任せてもらえるということは、ある程度信用されているということに他ならないのだから。

 これからも毎日少しずつ、新しい仕事が増えていくだろう。
 それを乗り越えたあかつきには、きっと助手にしてもらえる。あの月の天才、八意永琳の弟子に。
 地上に下りる時に抱いていた、鈴仙の淡い夢が叶うかもしれないのだ。

「うん。私はきっと前に進んでる」

 口に出してみると、ますます元気が湧いてきた。
 現金なもので、今朝の苛立ちはすっかりなくなっているようだ。

 ――っと。浮かれてばかりもいられないわ。
 
 鈴仙は小走りを止め、ゆるんだ顔を引き締め直して、足取りをしっかりとした歩調に変えた。
 今日こそ命じられた仕事を完璧にこなし、名誉を挽回しなければ。

 紙に書かれた簡易的な地図を、もう一度確認する。

「やっぱり、ずいぶん奥にあるのね……次の角を左に曲がって、と」

 迷路としか思えない造りの永遠亭だが、鈴仙は近頃、ようやく慣れてきたところだった。
 合わせ鏡のように続く廊下と襖にも、実は滲んだ染みやわずかな傷が残っているのだ。
 そしてこの永遠亭は、そうしたごく僅かな違いが『永遠』に保存される。
 なので十分に目印としての役割を果たしてくれる。
 本当はものの波長がしっかりと見えるレベルまで、自分の能力が回復すれば話が早いのだが。

 そんなことを思ううちに、鈴仙は引き戸がいくつか並んだ廊下に出た。

「ここが『わの間』ね……」

 月の使者として、地上の言葉も学んでいた鈴仙は、頭に自然と五十音の表記が浮かび上がる。
 永遠亭は襖部屋と引き戸部屋等の同規格の部屋が集まってできていて、碁盤の目のように分けられている。
 だがその通路は所々途切れていたり、袋小路になっている場所もあり、中を行く者には実際以上に広く感じられる。
 万が一の時に侵入者を惑わすための仕掛けだと教えられていた。

 この『わの間』にある部屋は全て、主に倉庫となっているらしい。
 そして部屋の中は外と時間の進み方が違っている、という説明を受けた時には、月の進んだ科学力に慣れていた鈴仙にしても、さすがに驚いた。
 すなわち、物の保管には大変便利な仕掛けが備わっているというわけだ。

 鈴仙は早速、特徴を覚える。
 等間隔に並んだ四つの引き戸が壁の中に溶け込んでおり、それぞれに覗き穴らしきものが設けられている。
 一番奥の戸の先は、行き止まりとなっていた。
 貴族のお屋敷というと、天井も廊下もゆとりがあるのが相場であろうに、この区画は軒並み狭い。
 けれども、これだけ特徴的な扉が並んでいるのだから、今後はここも新たな、別の場所へ行く際の中継地点となってくれるだろう。

 鈴仙は最奥の部屋、『わ―1』の戸の鍵を開けて中に入り、仕事に取り掛かった。
 天井に付くくらいの薬棚が視界を目一杯横列している様は、初見の者にとっては壮観だ。
 鈴仙は持ってきた薬を、番号を絶対に間違えぬよう注意しつつ、てきぱきと棚にしまっていく。
 無事に仕事を終え、部屋を出て鍵がしまっているかを確認して、

「これでよし、と」

 任務完了。意外に早く終えることができた。
 あと残っている仕事はいずれも簡単なものなので、休憩時間をたくさん作れるはずだ。
 鈴仙は軽くなった袋を抱えて、来た道を戻り始めた。
 
 しかし、ふと他の倉庫にも興味が湧いてくる。

 ――こんな小さな覗き穴で、中がどうなってるか分かるのかしら。

 鈴仙は試しに、並んでいる戸の穴を覗いてみることにした。

 なるほど。覗き穴は小さいし、中は薄暗いものの、どんな部屋かは大体見当がつく。
 『わ―2』は雰囲気からして資料室か何かだろう。月でも似たようなものを利用させてもらった覚えがある。
 『わ―3』を覗いてみると、すぐに本棚が目に入った。鈴仙は読書に熱心な方ではなかったが、せっかく言葉を学んだのだし、地上の書物を読んでみるのもいいかもしれない。
  
 そんな調子で、鈴仙は楽しみながら、最後に『わ―7』の戸から部屋の中を覗いてみた。


 小さな覗き穴の中で、『兎の首』が転がっているのが見えた。


 ――え……。
  

 床に転がっているそれは、うつ伏せになった兎の頭部だった。
 もじゃにもじゃに乱れた茶色の髪の間から、血の気の薄いうなじが見えている。

 そして、すぐ側には兎の半身が横たわっていて……。

「ひっ」

 息を呑んで戸から後ずさり、反対側の廊下の壁に背中をぶつける。
 
 ――死んでいる……? 死んでいる……!

 兎が首を切られて、死んでいる。
 なぜ。なぜここに死体が。

 膝ががくがくと震えだす。
 叫ぼうとした。なのに声がうまく出てこない。
 落ち着け、と言い聞かせるが、心臓が命令を受け付けてくれない。
 いやだ、いやだ、と鈴仙の意思を無視して抵抗してくる。

「ううっ……」
 
 鈴仙は口を押さえて呻いた。
 ずるずると背中が壁からずり落ちる。ついには床の上に座り込む。 
 目をつむって、身を押し固めるように丸くなる自分自身に、命令を下した。

 ――落ち着け。すぐに立たなくていい。深呼吸だ。

 立つのに必要なエネルギーを、別のものに使えばいい。 
 自らの体を抱きしめ、無理矢理震えを抑えつけながら、呼吸に費やす秒数を数える。

 やがて、全身を蝕んでいた苦痛が、潮が引くように去っていった。
 いくらか落ち着いたことを確認し、鈴仙は膝を引きずるようにして、戸に向かう。
 体が重い。知らないうちに、引力がまた強くなったんだろうか。

 頭を振ってバカな考えをよそに置き、一つのことに集中した。
 取っ手に手をかけ、そこを支えにして、膝を徐々に伸ばしていく。
 完全に背筋が伸びた状態に戻ってから、細心の注意を払って、横に引こうとする。

 ――開かない……。

 驚くことじゃない。
 普通に考えれば、鍵がかかってるのは当然だ。
 じゃあなぜ、あそこに死体がある?

 意を決して、もう一度穴から中を覗いてみた。
 やはり、兎の生首は消えていなかった。
 側にある半身、スカートからはみ出した両足も、ぴくりとも動かない。

 鈴仙は大きく息を吐き出して、その場にしゃがみこむのを堪えた。
 ダメだ。これ以上は見ていられそうにない。
 けど放っておくわけにもいかない。勇気を出せ。

 やむを得ず、右の人差し指を取っ手に向け、左手で手首をしっかり固定する。
 鈴仙は撃った。一発。二発。
 戦闘訓練を受けた玉兎が持つ、とっておきのマスターキー。扉が轟音を立てて振動する。
 けれども、大穴が開くどころか、木の板には傷一つつかなかった。
 喘ぎながら、鈴仙は何度も思念の弾丸を叩きこんだが、全て弾かれてしまった。

 永遠の力が働いているのだ。
 鈴仙はそのことにようやく気付いた。
 この永遠亭は、変化を拒むという魔法が建物全体にかけられている。
 故に扉を壊すことも、傷をつけることもできない。
 
 ――落ち着け……落ち着け私……。

 拳を強く胸に押し当てながら、鈴仙は念じる。
 今の自分ができることは……最も頼りになる存在を呼びに行くことだ!

「師匠……!」

 鈴仙は弾かれたように、廊下を走り始めた。
 扉から離れれば離れるほど、体から重みが消えていき、推進力が増していく。

「部屋番号はわ―7……! わ―7……!」

 何度も繰り返しながら、同時に道を間違えぬよう、できうる限りの注意を払って走る。
 長い迷路を脱出し、永琳の診察室へとたどりつき、

「お師匠様!」

 叫ぶと同時に、鈴仙はノックもせずに扉を開け放った。
 けれども診察室には誰もいなかった。
 危うくその場に崩れ落ちそうになるが、
 
「何してんのー鈴仙?」

 間延びした声をかけられ、咄嗟に振り向く。
 そこにいたのは紛れもなく、神出鬼没の悪戯兎だった。
 この際、相手が藁だとわかっていても縋るほかはない。

「てゐ、お師匠様がどこにいるか知らない?」
「さぁ。実験室とかかしら」
「すぐに連れてって……いや、今すぐ呼んで来てっ」

 肩を掴んで揺さぶるものの、驚いてるのかおどけているのか、てゐは両目をくるくる回す。
 鈴仙がなぜこんな剣幕になっているのか分かっていない様子だ。
 だが、

「早く! 非常事態なの! 『わ―7』に、首を切られた兎の死体が……!」

 そう怒鳴った途端、てゐの目が大きく見開かれた。
 次の瞬間、彼女は永琳の診察室に飛び込んでいた。
 
 壁にある戸棚に飛びつき、そのままダイヤルを回し始める。

「えーとここは、3、7、1、9、4、2……」
「ちょちょっと、師匠の部屋で勝手に何をして……」

 鈴仙が止めようとするよりも先に、棚の戸が開いた。
 たくさんの鍵が並んでいる。と鈴仙が視認した直後に、てゐはその一つを引きちぎるように手に取った。
 そのまま壁を蹴り、鈴仙の姿に目もくれず、部屋を飛び出す。

「ま、ま、待ちなさい!」
 
 慌てて鈴仙も追う。
 だが、てゐは一瞬たりとも振り向かずに、永遠亭の廊下を疾走する。
 速い。床だけではなく、壁、時には天井まで蹴って加速し、方向転換している。
 鈴仙は見失わないようについていくのが精一杯だ。

 やがて二人は『わ―7』にたどり着いた。
 先頭を突っ走っていたてゐが、はじめに覗きこむ。
 鈴仙はその背後に立ち、

「はぁ……はぁ……どう……!? ……てゐ!」
「………………」
「死体があるでしょ!!」
「…………覗いてみれば?」

 白けたように言って、てゐが床に下りる。
 鈴仙は扉の穴に顔を引っ付けた……が……。

「嘘……」

 部屋の中には何も見当たらなかった。
 兎の頭部も半身も、綺麗さっぱり無くなっている。
 幻覚? そんなはずはない。一度見て、吐き気をこらえてから、もう一度確かめたのだ。

 放心しかけた鈴仙は中を覗いたまま、取っ手に指をかける。
 すると、戸は抵抗なく、滑るように横に開いた。

「鍵が開いてる……!?」

 興奮が戻る。
 すぐに鈴仙は中に踏み入って、部屋の中をくまなく見回していた。

 ここは物置らしい。
 入口を除く壁の前に木箱が二段、ないし三段の高さに積み上げられ、部屋のスペースを広く占拠している。
 いずれも錠がかけられているようで、試しに一つを触ってみても、蓋が開く様子はなかった。
 鈴仙は空いた中央の空間にしゃがみこんで、床を食い入るように見つめてみる。が、何の痕跡も残されていなかった。
 そして、もう一度部屋をぐるりと俯瞰してみるものの、どこにも死体を隠しておけるような隙間は確認できない。

「鈴仙ー? 気が済んだら早く出てきてよー。鍵閉めないといけないんだからさー」
「もう少し待って。それから、てゐ」

 鈴仙は立ち上がり、同行してくれた兎の方を向く。

「師匠は実験室にいるって言ってたわよね。この後、案内して」





 (3)その部屋には誰がいた?





 実験室は診察室と違い、眩しいくらい白くて無機質で、月の施設と瓜二つだった。
 黒い長机の上には液体の入ったフラスコや空のビーカー、他にも用途の不明なガラス器具が載っている。

 鈴仙は勧められた丸椅子に腰かけることなく、立ったまま報告を終えた。
 白衣をまとっていた、永琳の背に向かって。

「それで?」

 師は実験の手を休めずに続ける。

「それで、貴方は私に何を期待しているの?」

 鈴仙の視界が暗くなった。鼻の頭を殴られるよりも効いた。
 切れかけた電灯のようにカチカチと実験室の光景が明滅する。
 崩れ落ちそうになるのを耐え、落ち着いてから、恐る恐る問いかける。

「やっぱり、幻覚だったんでしょうか……」
「そうね」

 白衣の薬師はやはり否定せず、淡々とした声で、

「部屋を覗くと、首を切られた死体があった。開けようとしても、鍵がかかっていた。てゐに話をして鍵を入手し、部屋に戻ってくると、死体が消えていた。閉じていたはずの鍵も開いていた」

 永琳はフラスコを揺らして見つめながら、

「全て幻覚だとするなら、説明は容易い。あるいは、貴方が私に嘘をついているかもしれない」
「私は師匠に嘘なんてつきません……!」

 悲しみのあまり、鈴仙はつい抗弁していた。
 永琳は銀の瞳をこちらに向ける。
 感情を排したその表情は、苛立っていたとしても憐れんでいたとしても、見るものにはわからない。
 そして彼女の口は、いつも必要最低限のことしか言葉を紡がない。

「貴方の能力はまだ不安定。本来であれば、普通の者には見えない物が見えている。『仲間の死』を引きずって、幻覚を見たのではないかしら?」

 鈴仙は急に、一度座るのを固辞した椅子が恋しくなった。
 永琳は決して、心無いからこういう助言をするのではないということは、解っている。
 注射と同じだ。針が食い込む瞬間は痛むけれど、時間が過ぎるにつれて効果を理解する。
 これも彼女なりの治療なのだ。乗り越えられない間は乗り越えられなくていい。ただし、乗り越えることから目を背けてはいけない。そう言っているのだろう、きっと。

 鈴仙は唇を噛んで耐え、頭を下げた。

「邪魔をしてすみませんでした。私は仕事に戻ります。今伝えたことは忘れてください」
「待ちなさいウドンゲ」

 去りかけた鈴仙は、名前を呼ばれて引きとめられる。

「そこまで気になるなら、どうして自分の手で明らかにしてみようとしないの」
「で、でも師匠は今……」
「貴方の話を聞いた限りでは、それがもっとも可能性の高い説と言わざるを得ない、と答えただけよ。ろくに頭を使わず、人の考えを鵜呑みにしているようでは、志が低いのではなくて?」
 
 今度は後頭部を叩かれたような気がした。
 鈴仙が貧血を起こしてふらついていると、永琳は呆れたように続ける。

「そんな心持ちじゃ、仕事に身が入らないでしょう。しばらく手伝いからは外すわ。納得のいくまで真実を追ってみなさい。これもれっきとした課題だと思えばいいわ」

 そう言われた瞬間、萎んでいた鈴仙の心が、再び気力を取り戻した。
 元気よく頭を下げてから、厚く礼を述べる。

「わかりました。お師匠様のお心遣い、感謝します」


「じゃあ私が手伝ってもいいかしら」


 鈴仙はびっくりしていた。
 突然、入口の方から聞こえたその声に、ではない。

 日頃から変化に乏しい八意永琳の表情が、急変といっていいほど動いたことにだ。
 そんな顔を初めて目の当たりにした鈴仙にとっては――大変失礼な話だが――兎の生首に匹敵する眺めだった。





 ※※※※※





 果たして自分が見たのは幻だったのか。それともやはり、本当に死体があったのか。
 だとすると、なぜそこで死んでいたのか。そしてなぜ忽然と消えてしまったのだろうか。
 かくして、真実を確かめるため、瞳の奥の幻影を追って、鈴仙・優曇華院は独り立ち上がったのである。

 ……はずだったのだが、『独り』というのは訂正する必要がありそうだ。

「参りましょうイナバ。怪奇と幻想の入り混じる、常闇の世界へと」
「はぃ」

 鈴仙は、承服と疑問が入り混じる、微妙な返事で応えた。
 目の前に立つ、何やら張り切ったご様子の、美貌のお姫様に向かって。

 突然、永琳の実験室に現れた声の主は、蓬莱山輝夜だった。
 鈴仙にとって、二人の主人が向き合って会話するところを見るのは初めてであり、その後の展開も新鮮そのものだった。
 部屋の外に出された後、すぐに輝夜は何事もなかったかのように診察室から出てきたのだが、その時、見送る永琳の方は何だかもう諦めて折れてしまった後のような様子だったのだ。
 永遠亭の力関係の奥深さを、意外なところで覗けた気がする。

 二人は今、屋敷の南にある庭にいた。
 今日は天気がいいし、ここなら誰にも話を聞かれないだろうし、決意の場にはちょうどいいとのことだった。
 たとえその考えが間違っていたとしても、鈴仙には逆らう権利がない。

「ところで、姫様。いつから外で聞いていたんですか」
「貴方があの部屋に入ってからだから、ほとんど全部、だと思うわ」
「っていうことは……私の見たものを信じてくれたんですか!? 本当に死体があったって……!」
「いいえ」

 輝夜は微笑みを湛えたまま、あっさりと言った。

「だってそっちの方が面白そうじゃない」

 ガクッ、と鈴仙はつんのめる。なんたる動機であろう。

「何か面白そうなことがないかと屋敷の中を歩いていたら、貴方が永琳の遊び場に駆け込む光景が目に入ったの。それからずっと聞き耳を立てていたのよ。そうしたら、やっぱり面白そうだったから、力を貸してあげることにしたというわけ。首の切れた死体が現れ、消えてしまうという、おぞましげな謎。退屈しのぎにちょうどいいわ」
「あはは……」

 鈴仙は精一杯の愛想笑いを浮かべる。
 しかし協力してくれるのはありがたいものの、果たして本当に彼女を頼りにしていいのだろうか。
 「粗相のないように」と言いつけてきた永琳の目は、マジであった。
 もしかすると、雑事のかわりにお守りを押し付けられたんじゃないかと、疑ってしまう。

「じゃあ手始めに何をしましょうか」

 鈴仙の気を知ってか知らずか、輝夜は暢気に尋ねてくる。

「現場検証? 聞き込み調査? 降霊術?」
「えーと、最後のは置いておきまして、現場検証によりも先に、やっておきたいことがあるんです。でもそれにはまず、あいつを見つけないと……」

 鈴仙は姫から距離を取りながら、庭を眺め渡した。
 こうして隙を作ってやれば、ちょっかいを出してくると思うのだが。

 ということを考えていた、まさにその矢先である。
 突然、足元にいくつもの影が生じた。

「っ!?」

 しかし気配は頭上。
 振り仰ぐと、白雲を齧り取るようにして、三つの黒い大玉が降ってくるところだった。
 鈴仙は指を天に構え、それぞれを一撃で破壊する。
 ドドドーン、と爆発音が空に轟いた。
 
 間髪入れず地面の上を、くるくると回転する蛇のようなものが、火花を放ちながら迫ってくる。
 「はぁっ!」と、鈴仙は跳躍してかわし、空中でひねりを入れて逆さまになりながら、確固撃破。

 無傷で着地すると、「すごーい」と輝夜がパチパチ拍手してくれた。
 だが鈴仙は彼女に微笑みで応えるよりも、今の攻撃を仕掛けてきた輩を探す方を優先する。
 ほどなく、竹林近くの茂みの中から、兎の耳がはみ出ているのを発見した。

「てゐ! 出てきなさい。ちょっと話があるから」

 鈴仙は厳しく呼びつける。
 茂みがガサゴソと動き、耳の主が姿を現した。
 てゐは言いつけに逆らわず、ピョンピョンと楽しそうに跳ねてきて、

「おっす、鈴仙。なんか用?」
「なんか用じゃないわよ。何なの今の攻撃は」
「花火の予行演習と火山を想定した避難訓練」

 なぜそれを同時にやろうとした。

「鈴仙はしっかりしているようで、とろいところがあるしー。いつか本当に危険なものが降ってきた時のための備えだと思ってほしいウサ」
「明らかに上からだけじゃなくて、足元を襲ってきた攻撃があったんだけど」
「火山弾が降ってくる最中に、カマイタチが足元を通り抜けないとは限らないわ」

 よくもそこまで屁理屈をこねられるものだ、と鈴仙は呆れ果てた。
 ともあれ、今回の用件は他にあるので、さっさと本題に入ることにする。

「てゐ。あんたは一応ここの兎達のリーダーなのよね」
「さぁ」
「とぼけないで、今だけ正直に答えて。ここ数日の間に、行方がわからなくなった兎はいない?」

 鈴仙はとりあえず、自分が見たものが真実であるという前提で捜査をすることにした。
 その手始めに行おうとしているのが、被害者の特定である。
 もし永遠亭内に行方不明者が出ているとすれば、それが件の死体と同一の存在である可能性がある。
 その素姓と分かっているだけの行動を追っていけば、事件解決のとっかかりになるのでは、と考えたのだ。

 ところが、

「知らん」

 期待を大きく裏切る答えが返ってきた。
 鈴仙は頭に血を上らせ、

「こんな時まで意地悪な真似しなくたっていいでしょう! 少しは言うことを聞いてみたらどうなのよ!」
「だって、わかんないもんはわかんないもん。嘘はついてないよ」

 てゐは涼しい顔で言ってのける。
 さらに、背中を撫で上げるような気持ち悪い声で、

「世間知らずの鈴仙ちゃ~ん。怖がりの鈴仙ちゃ~ん。外に出るのが嫌いな鈴仙ちゃ~ん」
「……何が言いたいのよ」
「まだわかってなかったのね~。この永遠亭の仕組みってやつを」

 てゐは指とお尻をフリフリと振りながら、ステップを踏んで左右に動く。

「いい? 私達兎のほとんどはゲンミツに言うと、永遠亭に住んでるってわけじゃないのよ。むしろ間借りさせてもらってる、っていう方が正しいわ」
「どういう意味?」
「つまり、生まれてから一度も永遠亭を出たことがないわけじゃないし、一年中過ごしているわけじゃないってこと。むしろ竹林で過ごしている時間の方が長い兎だってざらにいるの。いつも屋敷には二百匹くらいの兎が常駐してるけど、その顔ぶれは四季によって違うし、全体でいくらこの永遠亭を利用している兎がいるかなんて、数えてるやつはいないのよ」
「そ、そんな……!」

 初めて知った事実に、鈴仙は動揺を隠せなかった。

 確かに鈴仙は、竹林からここに運ばれてから外に出たことはない。
 なので兎達の多くが、自由に永遠亭と外を出入りしていたという発想も、頭に浮かばなかった。
 月の兎、すなわち玉兎であれば、必ずその名前と所属がきちんと登録されて、管理されているというのに。
 我知らず同じ常識で計ってはいたものの、やはり二つの種族には大きな違いがあったのだ。
 
「だ・か・ら、誰がいなくなったなんて全くわからないわ。お祭りでも開けば、いつもかなりの兎がうちに集まってくるけどね。一度ここに案内された兎は、不思議ともう一度たどり着けるようにできているのよ。でも私にしてみれば、他の兎が増えようが減ろうが、どこで野垂れ死にしようが、知ったこっちゃないウサ。この世は諸行無常なれば、等しく一期一会なり」

 やはりこの兎、可愛いのは外見だけである。
 お尻を振りながら、俗世を捨てた禅僧のようなことを語るのだから、どうにも困惑させられる。

 鈴仙は腕を組み、引いた顎をつまんで考え込んだ。
 いきなりつまずくとは幸先が悪いが、これ以上突っこんでも、てゐはしらを切りとおすだろう。
 とにかく被害者の線からあたるのが難しいという現実を、受け入れざるを得なさそうだ。

「じゃあ、違うことを頼むわ」

 手早く方針を切り替えた鈴仙は、新たに用件を切り出す。

「永遠亭の見取り図があるでしょ。いい機会だから、それを渡してちょうだい」

 今日まで鈴仙は、部分的な図面や口頭での指示を元にしか、屋敷内を歩き回ることができていなかった。
 もっと早くから、全体の細かい地図の写しを渡されていれば、道に迷ったりするような失態もなかったはずである。
 特に今回のような事件の捜査の際には、必要不可欠なアイテムなはずだ。
 しかし、

「それも無理」

 またもや、てゐは涼しい顔で、鈴仙の期待を突っ撥ねた。
 引いた血が再び頭に上る。それはもう、しおれた耳が屹立する勢いで。

「どうしてよ!?」
「永遠亭の地図は防犯上、限られた存在だけが所有することを許されているの。複製を作ることも禁じているわ」
「でも私は捜査のために……!」
「あったかどうかもわからない、死体のために?」

 鈴仙は言葉に詰まった。
 口元に弓月を浮かべながら、てゐは赤い二つの目を細める。

「そんな疑わしい情報のために、規則を曲げることはできないわ。妄想にとりつかれたふりをして、永遠亭の秘密を探ろうとしているかもしれないし。もし完全な地図が外に流出して、月の民の手に渡ったりしたら、この永遠亭の未来も危うい。きっと師匠だってそう言うわよ」

 その発言は、これまでのどんな悪戯よりも鈴仙の精神に応えた。
 このまま涙で前が見えなくなるんじゃないかと、そんなことを思ってしまうくらい、効いた。
 怒りではなく、悲しみの感情が、てゐの頬を打つために足を進ませようとする。
 
 その直前だった。


「だーいじょーうぶ」


 気が抜けるような声が割って入る。
 と、同時に鈴仙を包み込んだのは、椿風呂に飛び込んだような艶めかしい温もりだった。

「地図なんて必要ないわ。私がこのイナバを案内してあげるから」
「ひめっ、さっ……!?」

 つま先から耳の先端まで、鈴仙の神経をパルスが絶叫しながら翔け巡る。
 なけなしの理性が、輝夜に背後から突然抱きつかれたのだと、状況を解釈した。
 心の準備は無理だ。第一、どんな準備をしていたとしても対処不能な行動だ。
 未知の温かさと柔らかさと芳しさに、鈴仙の筋肉は凝固剤を入れ過ぎたゼリーと化した。

 その一方で、てゐは鰻の付け合せに出てきた梅干しを見るような目つきとなる。

「姫様が鈴仙に協力って、どういうことなの」
「私達は事件解決のために、タッグを組んだの。作戦名は『覗き穴から見た死体の謎を追え!』」
「……………………」
「あんたも仲間に入れてほしい?」

 小首を傾げながら、輝夜は鈴仙に顔を寄せる。
 てゐは二人の仲睦まじい様を、胡散臭げに見比べていたが、やがて頭の後ろで手を組み、

「いーらない。これでも私は忙しいの。あんたらと腕組んでピンクの象を探しに行くほど暇じゃないわ」

 それっきり、話は終わりと言わんばかりに跳ねて、てゐは永遠亭の方へと去っていってしまった。
 忙しいって言ったって、どうせ悪戯の準備だろうに。鈴仙の一割の意識が、そう思う。
 残りの意識は、いまだ輝夜に引っ付かれているために凍結していた。
 その輝夜だが、 

「すんすん……」
「………………」
「イナバ。貴方って、石鹸のいい匂いがするわねぇ。お風呂好き?」
「……え? ……あ……一応お風呂は朝と晩に二回……って近い! 姫様近いですって!」

 ようやく頭が復活した鈴仙は、輝夜の体を引きはがす。
 重みを感じない、だるまの上半身を押したような手応えが返ってきた。

 鈴仙はバクバクと鳴る胸を押さえ、呼吸を落ち着かせる。
 それにしても、てゐだけではなく、おっとりしたように見える輝夜にまで背後を取られてしまうとは。
 感覚がなまっているというのと、能力が復活していないというのと、この姫の行動が読めないというのとが合わさったのだろう、きっと。まだ耳がピリピリしている。

 輝夜はそんな鈴仙の初心な反応をよそに、フフフと口を袖で隠して笑って、

「いい退屈しのぎを見つけちゃったわ。ねぇイナバ」
「鈴仙です」
「さっきのあいつ、おかしくなかったかしら」
「あいつ? てゐのことですか」
「妙にあっさり引き下がったと思わない?」

 はて、と鈴仙は首を傾げる。
 おかしかっただろうか。毎度のごとく突然やってきて悪戯して、さっさと消えてしまうのがてゐである。
 捕まえて説教ないしお仕置きをしてやろうと企んでも、巧みにかわして逃げ出してしまう。
 確かに今回は、ちょっといつもより毒が薄い別れ方だったかな、とは思ったが。

「あれはね。私と貴方の仲の良さを妬いてたのよ」
「はぁ?」

 鈴仙の眉間にて、激しい地殻変動が起こった。

「貴方はここに来たばかりだから知らないだろうけど、以前のあいつは私にベタ惚れで、私も散々可愛がってきたの。だから今もきっと面白くないって思ってるに違いないわ」

 妙に自信ありげに言う輝夜だったが、やはり鈴仙には理解不能であった。
 あのてゐが、妬く? およそ人に懐くようなところが無さげで、絶望的に性格の悪いあの兎が?
 意味がわからないし、言葉通り受け止めたとしても、信用するには程遠い。

 鈴仙は敢えて深く突っ込まないことにした。
 肝心の捜査はまだ半歩も進んでいないのだから。

「今度こそ現場検証に行きましょう。どうかついてきてください」

 そう歩きはじめようとした鈴仙だったが、後ろから襟をつままれて止まる。

「違う道にしましょ」

 つまんで止めた輝夜は、そう言った。

「あと一歩前に進んだら、その綺麗なスカートに泥がついちゃうから」
「へ?」

 鈴仙は戸惑いながら、まさか……、と言われた一歩先の地面に足を乗せてみる。
 ぼこん、と音を立てて土が凹み、深さ一メートルほどの大穴が出現した。

「てゐは花火を浴びせた時から、ずっと貴方をそこに誘い込もうとしてたわよ」
「そんな」

 完全に想定の外だった。
 あの兎はいつも、手の届く間合いで会話をしようとしてこないので、全く気付けなかった。
 もしかすると、さっきもわざと鈴仙を怒らせて、一歩進ませようとしていたのか。けしからぬ話だ。

「じゃあ、さっき姫様が後ろから抱きとめてくれたのは、私を助けるために……」
「避けた後でも油断しちゃダメ。あいつの悪戯には、常に一を足す思考で反応しないとだめよ」

 なんでもなさげに言うお姫様に、やっぱりすごい人なのかも……と、鈴仙は感心してしまった。
 いつも、てゐの悪戯にやり込められてしまっているだけに、なおさらである。
 
「じゃあ、今度こそ、その場所に向かいましょうイナバ」

 輝夜は花見の場所を変えるかのような口ぶりで、歩き出しながら言った。

「犯人は現場に戻ってくるっていうじゃない? あれって本当かしらね」



 
 ※※※※※



 
 残念ながら、現場に着いた二人の前には、犯人らしき姿は現れなかったし、死体も再出現していなかった。
 実際、自分が犯人だったとしたら、鈴仙は現場に戻ろうとは思わない。
 誰かに見つかるのが怖いから、戻りたくないと思うのが普通ではないだろうか? 
 それとも……人知れず誰かを殺した経験があれば、その気持ちがわかるのだろうか。

 『わー7』の天井の高さは十尺ほど、そして床面積は元々十畳ほどである、と見て取れた。
 見て取れたというのは部屋の中に錠つきの木箱が、高いものとなると三段ほど重ねて置かれていたからだ。
 それらは部屋の入り口から見て左右と奥に積まれており、中央に二人がすれ違えるくらいの道ができている。

 出入り口は、鍵のかかっていた引き戸の他にはない。
 そう同意してくれたのは、第一発見の際に現場にいたてゐと、その後に報告した相手である永琳だ。
 前者の言うことは信用できなかったものの、後者については信用できる。
 ただ鈴仙も念のため、天井を触ってみたり、床のあちこちを強く踏んでみたりしたが、抜け穴の気配はなかった。
 もちろん、木箱の影になって見えなくなっていた壁も、全部ここに来る前に調査済みである。
 てゐはその間、呆れた様子で見ていたが。

 再び部屋に戻ってきた鈴仙は、部屋の真ん中に立ち、まず目で点検する。
 最後に入って調べた時と比べて、特に変化らしいものは見当たらない。

「ここに入るのっていつ以来かしら。ものを保管するにはいいけど、焼酎はいつまで経っても古酒になってくれないのよね」

 隣に立つ輝夜が、のほほんとしたことを言う。
 鈴仙は状況の整理も兼ねて、彼女に説明してあげることにした。

「私は大体9時半頃に、この部屋の前を通りかかりました。お師匠様に命じられて、五つ部屋を挟んで隣にある保管庫に、薬の整理に来たからです。そして、何気なく覗いたこの『わ―7』にて、首の切れた兎の体を発見したんです。部屋の覗き穴から見て、兎はちょうどこの辺りにいました」

 鈴仙は三方を占める木箱群によってできた空間の、中心部を指す。
 大体、二メートル四方ほどあるだろうか。

「生首はうつ伏せだったので、顔はわかりませんでした。覚えているのは、兎の髪の毛が茶色だったこと。この永遠亭に住んでる半数の兎が茶色で、残りが黒ですけど……。とにかく、その時は鍵がかかっていて中に入れなくて、てゐを連れて戻ってきたら扉が開いていて、死体も消えていたんです」
「ふむふむ、なるほどね」

 輝夜は床を見下ろしたまま、相槌を打つ。
 次に鈴仙は扉の方へと歩み、説明を続ける。

「見てのとおり、この扉には内鍵がありません。話を聞いたところ、外から開ける鍵はこれだけだったようです。実はスペアのキーもあるらしくて、そちらは別の場所に保管している、と言っていました」
  
 その保管場所からは、誰でも永琳やてゐの許可があれば持ちだせるらしい。
 捜査用に預かっている、診察室にあった鍵を、鈴仙は掌に乗せて見せた。

「つまり鍵をかければ、この倉庫は簡単に密室にできるということです。厳密には覗き穴があるため、完全な密室というわけじゃないですけど」

 だが覗き穴は掌を差し込むことができる程度の広さでしかないため、ここを出入り口にすることは考えにくい。 
 そして扉自体は『永遠』の力が働いているためか、鈴仙がいくら撃っても傷一つつかなかった。

「ねぇイナバ」
「なんです?」

 もう鈴仙は半ば、自分の名で呼んでもらうことを諦めていた。

「ちょっと扉の向こうに行って、閉めてみて」

 輝夜は意味深な笑顔で、妙なことを言った。
 捜査に集中できないのは不満だったが、鈴仙は大人しく従う。
 言われた通りに部屋の外に出て、扉を横に引いて閉める。
 すると、

「どーぉ? こんな感じだった?」

 鈴仙は飛び上がりそうになった。
 覗き穴の向こうに見えている輝夜が、倉庫の床に寝転がっていたのだから。

「ひ、姫様! やめてください! それは私がやります!」
「嫌よ。この役は絶対譲らないわ」
「何を楽しそうに言ってるんですか!」

 鈴仙はすぐに部屋の中に戻って、輝夜の体を引き起こそうとする。
 姫を床に寝そべらせた、なんていうことを師匠に知られたら一大事である。
 素直に立ち上がった輝夜の後ろに回り、着物の生地を傷めぬよう、優しくほろってやる。

「ほら、汚れてるじゃないですか。せっかくいい着物なのに、もったいないですよ」
「どうだった? 私の死体、似てた?」
「似てません。だって私が見た死体は、転がった茶色い髪の兎の首と下半身……」
 
 思い出して、鈴仙は蛙を呑みこんだみたいに、胃がムカムカしてきた。

 扉にくり抜かれた、片目がはまる程度の大きさの覗き穴。
 その奥には、床に伏した血の気の無い生首。右には、上半身がどんな有様になっているか判らぬ下半身。 

「じゃあ、死体はもっとバラバラだった可能性があるわね。頭と下半身は無事として、手とか胸が綺麗にカットされていたりして……あら、大丈夫?」
「………………」

 大丈夫です、と鈴仙は片手でジェスチャーする。もう片方の手で口を押さえて、片膝をつきながら。
 ようやく気分が落ち着いてから、鈴仙は話を再開する。 

「まず私が見た死体の状況からして、自殺とは考えにくいです。兎が自分の力で首を吊ることはできても、切断することはまず不可能。そして殺人だとしても、よく切れる刀か、何か特別な道具でもない限り、そう簡単に骨を断つのは難しい。きっと時間も……うぷ……かかるでしょうし……、あるいはよほど強力な妖怪とかだったら、素手でも切断できるかもしれませんけど……」
「なるほどね」

 輝夜は死体を解体する話を、けろりとした表情で聞いていた。

「えーと、じゃあこういうことかしら。現時点で謎になってるのは……死体はどこに消えたのかと、凶器はなんだったのか」
「まだあります。私が他に知りたいのは、どうしてこの部屋に死体があったのか、そして最後にこの部屋の中が確認されたのはいつか、っていうことです。つまり殺害が行われた時間ですね。でも死体が一週間とか放置されていて誰も気づかなかったていうのはちょっと考えにくいですし、私が覗くまで隠すのを待っていたっていうのは尚更考えにくいですから、きっとそれほど前の犯行ではないと考えてますけど……」
「貴方が死体を見つけて、てゐを連れてここに戻ってくるまで、どれくらい時間がかかったのかしら」
「あっ! それも大事な情報でしたね。たぶん10分はかかってないと思います」

 だが正確な時間を計ったわけではないので、後でシミュレーションしてみる必要があるだろう。
 鈴仙はあらかじめ用意しておいたメモ帳に書きつけながら、

「姫様、何か気付いたことはありますか」
「ええ。謎はもう解けたわ」

 速過ぎる。ボタンを押してから答えを考えるのは無しですよ、とツッコミをいれたくなった。
 輝夜は木箱の一つに、パンと音を立てて手を置き、自慢げにこちらを見て、

「きっと犯人はバラバラにした死体を、素早くこの箱の中に分けて隠したのよ!」
「うぇ……」

 お姫様らしからぬ、とんでもなくグロテスクな発想に、鈴仙はまた胃の調子がおかしくなった。
 
「そして貴方達がここに戻ってくる前に、風のように去っていった……これね」
「でもそれだと、どうやって扉を施錠していたのかと、どうやって殺したかと、どうしてそのタイミングで戻ってきたのかの説明が足りてませんよ。それに、そんなわかりやすい場所に隠す意味がわかりません」
「それは中身を見てから考えるわ」
「全部鍵がかかってます。私がとっくに調べました」

 ここの部屋にある木箱には、これまた頑丈そうな錠がついており、木箱自体もちょっとやそっとじゃ壊れそうにない代物だった。
 たぶんその鍵も、永琳かてゐが持っているのだろうけど。

「どれどれ……あ、開いた」
「ええっ!?」

 姫があっさりと錠を解いているのを見て、鈴仙は吃驚した。

「姫様、どうやって開けたんですか!」
「普通に永琳から鍵を借りておいただけよ。後で必要になると思ったから」
「な、なるほど。さすが姫様」

 感心するものの、むしろそれは私が考慮すべき事柄だったはずなのに、と鈴仙は自分の頭をはたきたくなった。
 輝夜はまるでプロの泥棒のような手際のよさで、次々と鍵を開けては、中を確かめていく。
 どうやら箱の錠は全部同じタイプのものらしい。

「どれどれ、こっちはガラクタ、こっちもガラクタ……ああ、これはこの前の例月祭の道具ね。こっちは永琳の昔の持ち物……でもやっぱりガラクタね」

 輝夜は木箱から帽子、古い弓、聴診器、まごの手などを、そこらに放り出していく。
 やがて、彼女は壁の反対側に積まれた木箱にも手を出し始める。

「あれ? これは誰のものかしら」
「あっ、それは」

 姫の手際を見物していた鈴仙は、思わず声を上げた。

「ちょ、ちょっと見せてください!」

 鈴仙はしゃがみこんで、木箱の中身を確認した。
 間違いない。そこにしまわれていたのは、月からここに来た時の、鈴仙の私物の数々だった。
 主に月の使者に配給される装備である。永琳は「これらは預かっておく」と言っていたが。

「師匠、こんなところにしまってたんだ……」

 鈴仙は一つ一つ確認する。
 懐かしのバックパックには、水を長期間保存できる水筒や、長距離スコープ、信号弾などがまだ入っている。
 医療キットや非常食などは、空になっていた。きっと永遠亭内で再利用されたのだろう。師匠らしい。
 そして、地上に降りる時に使った月の羽衣まで、丁寧に畳んでしまわれていた。

「死体は無いわねー。また閉じるんじゃつまらないから、何か取り出してみる? 目録があるわけじゃなさそうだし、今なら盗んでもバレないわよ」
「冗談が過ぎますよ、姫様」

 軽くたしなめてから、鈴仙は今自分が開いていた木箱の蓋を占める。
 もう月にいた頃のことは、忘れると決めたのだ。

 とにかく、輝夜の推理は(無事に?)外れてくれたようである。 
 さもなければ、彼女が蓋を開く度に、悲鳴を上げることになっていただろう。
 かといって、鈴仙もろくな推理があったわけではないのだが。
 何しろ謎が多すぎる。一番の謎といえば、やはり死体の在り処である。

「この部屋にないとなると、どこにどうやって消えたのかしら……」

 そう呟いて、鈴仙は顔を持ち上げる。

 眼前に、一匹の兎が立っていた。

「…………へ?」

 鈴仙は変な声が出た。
 しゃがんだ自分と同じくらいの背丈の、黒い三つ編みの髪をした兎。
 向こうも鈴仙と視線が合い、白い耳を持ち上げ、赤い目を丸くして硬直している。

 次の瞬間……鈴仙の視界に珍妙な光景が出現した。

 逃げ出そうとする兎にタックルをかます優美な紅梅の衣装。

「確保ー! 犯人確保っ!」

 そう叫ぶ輝夜は、じたばたと暴れる兎を、しっかりと捉えて離さなかった。
 一方の鈴仙は、まだ状況に頭が追いつくのが数秒遅れた。
 犯人が本当に戻ってきた? そんなバカな。いくらなんでも都合がよすぎる。

 輝夜は兎を羽交い絞めにした状態で、すっくと立ち上がり、

「やっぱり現場に戻ってきたわね。さぁ、キリキリ吐きなさいイナバ。どうやって死体をバラバラにして、それを一瞬で隠したのか」
「姫様、ここは私に任せてください」

 捕まえた兎の前に屈みこみ、目線を同じ高さにして、鈴仙は尋問を始める。

「貴方、名前は? ここに何をしにきたの?」
「花子です……様子を見に……」
 
 花子とはまた、安直な名前である。
 偽名の可能性も考えられなくない。

「同じイナバなのに、名前を覚えていないなんて意外ね」
「姫様だって、全部イナバじゃないですか」

 思わず言い返してしまってからすぐ「生意気を言ってすみませんでした」と謝る。
 鈴仙自身もやきもきしているのだ。自分の能力が戻れば、きっと兎達を見分けることができるはずだから。
 今の状態では波長の長い短いを区別することはできても、厳密な鑑定はできないのがもどかしい。

 ――そうだわ。今の状態でもできることといえば……。

 思い当たった鈴仙は、「私の眼を見てちょうだい」と、怯える兎の瞳を間近で覗きこむ。
 相手の眼球に映る同じ色の眼の上で、くるくると螺旋が回り始めた。
 そのうち、兎の小さな瞳孔が、次第に拡大していくのを見てから……

「私は誰? 言ってみて」

 鈴仙は穏やかな口調で問う。

「月から来た……兎……確か……鈴仙……」
「違うわ。私は八意永琳。貴方にとって、一番偉い人よ」
「はい……そうでした……」

 ――上手くいった……!

 鈴仙は視線を媒介にして、様々な波長を操ることができる。
 生物に用いれば、昂ぶらせることもリラックスさせることも。
 それを応用すれば、このように催眠状態にすることも可能なのだ。
 さらに使い方次第で、隠密行動、情報の奪取、敵の操作系統の混乱なども遂行できる。
 月の使者としての実力を高く評価されたのも、この能力があってこそだった。

 鈴仙は師匠のやり方を思い出しながら、さらに深い調子で語りかける。

「貴方の名前は?」
「花子……です……」
「あ、そうなの」
 
 さっき名乗ったのは、本名だったらしい。
 ただこれで、この兎が初対面の相手に嘘を吐くような、やましい性格ではないことが分かった。

「どうして貴方はここに来たの?」
「……今朝に忘れ物をしたんじゃないかって思ったからです……」
「今朝……つまり貴方は今日の朝、ここの整理をしていたの?」
「はい……」
「面白いわね。イナバ、貴方は蓬莱山輝夜の事をどう思ってる?」

 横から輝夜が顔をだして、鈴仙のかわりに花子にそう尋ねた。
 彼女は朦朧とした様子のまま、

「とっても綺麗な……」
「その通り」
「……『不労不死』の姫様」
「字が違うわよ!」
「わかるんですか!?」

 と思わずツッコミを入れてから、鈴仙は慌てて、「お願いですから、私に質問をさせてください」と頼んだ。
 本音では、「もう喋らないでください、私がいいって言うまで」と申し上げたいところだったが自重する。

「姫様、この兎は朝に倉庫の整理をしていたらしいです。おそらく私が覗くよりも前のことですから、聞きたいことは山ほどあります」

 鈴仙はそう伝えながらも、興奮を隠せなかった。
 この花子は犯行前の現場を見ていたり、犯人を目撃していたり、鈴仙と同じく死体を見ていたりするかもしれない。あるいは犯人そのものだという可能性だってある。いずれにせよ、重要参考人とみていい。
 鈴仙は用意していたメモ帳を取り出した。

「思い出して花子」
「はい……」
「貴方はこの部屋にいつ来たの?」
「……朝食の後……です」
「朝食っていうのは、大広間でみんなで食べる食事のことよね」
「……はい……」
「正確な時間は覚えてる?」
「……いいえ……わかりません……」
「この部屋を出た時間は?」
「……わかりません……」
「一人で片づけしていたの?」
「……はい……」
「花子」
 
 鈴仙は喉を鳴らした。
 重要な質問だ。慎重に問わなければならない。

「貴方はこの部屋で死体を見た?」
「……いいえ……」
「今この部屋の中が見えてる?」
「……はい……」
「何かおかしなところがある? ものが増えていたり減っていたりとか」
「……散らかっています……」
「………………」

 確かに、輝夜が木箱をたくさん開けてしまったために、部屋は入った時よりもだいぶ散らかっていた。
 これは片付けにもなかなか時間を食うだろう。
 
「部屋を出る前や出たすぐ後に、貴方の他に誰か見た?」
「……いいえ……」
「本当に?」
「……はい……」
「大きな袋を引きずる姿とかも、見ていない?」
「……はい……」

 鈴仙はメモ用紙に、得られた情報を書きとめていく。
 犯人か、あるいは死体を見ていれば、大きな手がかりになったのだが、そう話はうまくいかなかった。

 しかし一つ重要な情報が手に入った。
 大広間に兎達が集まって食べる朝食は、7時に始まり、7時半にはほぼ完了している。
 そして鈴仙がこの部屋を覗いたのは、おおよそ9時半である。
 この兎が死体も犯人も目撃していないとなると、いつまで片づけをしていたかは分かれば、死体が出現した正確な時間がわかるのだが……。

「花子。貴方はこの部屋に入るとき、鍵を持っていた?」
「……はい……」
「その鍵は保管室にあったものよね。てゐから許可をもらっていたの?」
「……そう……です……」
「ここを出るとき、鍵をちゃんとかけた?」
「……かけたはずです……」
「部屋を出たのは何時頃かわかる?」
「……いいえ……」
「そう」

 鈴仙は書きながら、得られた情報を整理する。
 花子が鍵をかけたとして、その後に死体が出現したということは、犯人Xは鍵を所持していたということになる。
 もしかけてなかったとしたら、誰でも自由にこの部屋に出入りできたということになるだろう。
 もっとも、鈴仙がはじめに戸を開けようとしたときは、鍵がかかっていた。

 情報が手に入っても、残念ながら推理としては一向に前に進んでいる気がしない。
 輝夜が腕組みして、体を斜めに傾け、

「死体の在り処はわからない。犯人を誰も見ていない。結局、謎がそのまま残ってしまった感じね」
「そうですね」

 鈴仙はメモ帳を見直しながら、同じ感想を抱いていた。
 いや、謎がそのまま残ったというより、さらに膨らんだような気がする。
 鈴仙がこの部屋を覗いたのが9:30。そして花子がこの部屋に来たのが7:30以降。 
 その2時間の間に、花子が部屋を出て、この部屋に死体が出現したということだ。
 一方で殺害現場がここだという確証はない。とにかく死体があったという前提で推理すると、そうなる。
 
 ところが次に鈴仙が死体を発見してから、てゐと共に戻ってくるまでには、ほんの10分程度しかかかってないはずなのだ。
 その間に誰か――おそらく犯人Xが鍵を開け、死体を部屋から持ち出し、隠したとなると相当忙しい話である。

「いずれにせよ、もっと情報を集めないと。私しか死体を見ていないっていうのが、どうももやもやしますが……」
「今さらだけど、永琳の薬とかで幻覚でも見たんじゃないかしら」
「……幽霊兎」

 びくっと鈴仙は身をすくませた。 
 そう呟いたのが、いまだ催眠状態にかかっている兎だったからである。

「……最近……この館で流行ってる噂……幽霊兎が竹林に出るって……」

 ぽつぽつと花子が語る内容に、輝夜の目が輝きだした。
 好奇心の花が、頭に咲いているように見える。

「なぁるほど。ここにいたのは死体じゃなくて幽霊だったかもしれないのね。これはどっちも捨てがたいわ」
「バカバカしい。くだらない噂ですよ」

 鈴仙は姫を軽くたしなめてから、花子の前に立ち、再び目を覗きこむ。

「今から貴方は、私に質問されたことを忘れてしまう。けれども私の目を見て、合図を聞くとそのことを思い出す。1……2……3……さぁ、目を覚まして」

 パチンと鈴仙が指を鳴らすと、花子は二、三度瞬きして、催眠状態から戻った。
 彼女は「え……う……」と呻いていたが、

「お疲れ様。具合はどう?」
「あれ……えっ……私……!」
「ここに忘れ物をしたかもしれないんでしょ。なんなら私達も探すのを手伝ってあげるわ」
「い、いや、なんでもなかったわ! さよならっ!」

 花子は慌てふためき、あっという間に部屋から飛び出して行った。
 あの調子では、催眠を使わずに普通に尋問をしても、きちんと答えてくれていたか怪しい。
 久々に自分の能力が役に立ったことに、鈴仙は満足していた。
 輝夜も感心したように、「便利な能力ねー」と言ってくれたので、なおさら鼻が高い。

「でも今の私は、まだ本調子じゃありませんから、一日に何度も使えません。人の心を勝手に覗くのも、あまりいい気持ちがしませんからね」

 しかし、これから重要な手がかりをつかむために、この力は役立つかもしれない。
 もし、自分自身に催眠をかけてトラウマを消せるのであれば、こんなに素晴らしいことはないのだが。
 鈴仙は散らかった部屋を、もう一度くまなく見渡してから、

「とりあえず、この部屋はきちんと片づけてから封鎖しましょう。師匠から許可はもらってますから、『入るべからず』って警告文を引き戸に貼っておけば……あ」
「どうしたの?」
「そっか。あれが使えるかもしれない」

 鈴仙は、月から持ってきた私物が入った木箱をもう一度開けた。
 中から取り出したのは、掌に載るサイズの正四面体である。
 ブロンズのような金属質の物体で、縁に青い筋が入っている。

 もの珍しそうに見てくる輝夜に、説明してあげる。

「『まきびし』みたいなものです。これ一つで十分な効果が出るので、月で部隊に所属していた頃は、結構重宝したんですよ。部屋を出る時にしかけておきます。もし犯人がこれから先現場に戻ってきて、張り紙を無視して入ろうとしたら、捕えられるかもしれません」

 月の製品を手の内で一度放り投げ、キャッチしてから、鈴仙は一言付け加えた。

「幽霊に効くかどうかはわからないですけど」
 
 そんな軽い皮肉をこめて。





 (4)おにぎりは誰が握った?





 時刻は一時過ぎ。永遠亭の庭に面した廊下にて。

「やれやれ……暗礁に乗り上げちゃった感じね……」

 縁側で靴を履きながら、鈴仙は思わず、独り言で愚痴をこぼしていた。
 つい今まで、捜査の基本である聞き込み調査を行っていたところである。

 だが闇雲に永遠亭内を歩き回っていたわけではない。そんなことをしたらすぐ迷子になる。
 ちょうどお昼ご飯の時間だったため、大部屋に兎が集まるのを利用したのだ。
 さすがに食事中に死体云々について尋ねるのも気兼ねしたので、食事が済んで次々に大部屋から出てくる兎達を捕まえて、片っ端から質問を浴びせたのであった。
 
 しかしながら、有益な情報はほとんど得られずじまいだった。
 死体を運んでいた者や、怪しいそぶりをしていた者がいないか、についてはゼロ。
 知り合いで、行方不明になってるものはいないか、についても不明。
 一応質問した相手の名前と簡単な特徴と今朝の行動を控えたものの、メモ帳を十ページに渡って黒く汚しただけ、だった。

 結局、大部屋に誰もいなくなってから、鈴仙も昼食を取ることになったのだが、それがまた問題であった。
 というのは、共に捜査をしている輝夜が、またもや鈴仙と食事をしたいと言ってきたからであり、しかも鈴仙にご飯を作ってほしい、と頼んできたのである。
 
 自慢ではないが、鈴仙は料理の経験に乏しい。
 月でもそういう特訓を受けたことはなく、せいぜい卵が焼ける程度だった。
 それでもと輝夜がせがむために、仕方なくおむすびをこしらえて竹の皮で包み、ちゃっちゃっと卵焼きを作って爪楊枝を刺し、ついでに配膳室にあった漬物も添えてお弁当箱に入れ、風呂敷に包んだ。
 そして輝夜が指定した場所だが、

 ――庭に茣蓙を引く、って言ってたけど、どこかしら。
 
 ランダムな大きさの庭石の上を、大股で移動しながら、鈴仙はきょろきょろと辺りを見回す。
 この地味な色調の屋敷では珍しいほど華やかな色の服なのだから、すぐに見つかると思ったのだけれど。

「姫様ー。どちらですかー」
「こっちよー」

 慌てて鈴仙は、顔を斜め『上』に向けた。
 なんと、永遠亭の屋根の上で手を振っている姫の姿があった。

「ちょ、ちょっと姫様ー! 危ないですから降りてください!」
「え? どこが危ないの?」

 と、不死の姫君は可笑しそうに問い返す。

「いや、確かに危なくはないかもしれませんけど! その……はしたないですよ!」
「今日は天気がよくて風も涼しいから、貴方も上がってらっしゃーい」

 後で師匠に叱られる私の身にもなってください。
 鈴仙はそう不平を申したかったが、姫の命令に従わないわけにもいかない。
 本日何度目かの板挟み気分を味わいつつ、鈴仙は屋根に上った。
 輝夜はちゃっかり茣蓙を敷いて待っていた。

「一匹のイナバにとっては小さな一歩だけど、月のイナバにとっては大きな一歩ね」
「そんな大げさな話には思えませんけど……」 

 鈴仙は姫のお隣に「失礼します」と断ってから腰を下ろした。
 茣蓙の上に風呂敷を広げて、食事の支度をする。
 ……前に、輝夜はさっさと竹の皮に包まれたおにぎりに「あむ」とかぶりついていた。 
 鈴仙は行儀の悪さを軽くたしなめつつ、自分の分のおにぎりを手に取り、口にする。

 いつ見ても、地上の空は青い。月の空を眺めて過ごした網膜には、青すぎるくらいだ。
 雲はもくもくと不格好で、太りすぎに思える。でも最近は、そんなに悪くない気もした。

 調子が戻れば、弾かれることなくやってくる赤の波長に目を奪われるかもしれない。
 上空で散り散りに乱れた青の波長は、空気の食べかすにしか見えないかもしれない。
 白い雲の列も、騒がしい光の遊技場にしか見えないのかもしれない。

 ――目が良くなったら、この空はこんなに綺麗に見えないのかしら……。

 暫しぼーっと顔を持ち上げていると、雲の下をゴマ粒のようなものが横切ったように見えた。

「あれは天狗ね。空飛ぶ妖怪よ」
「よ、妖怪ですか。私達のこと、見えてないんでしょうか」
「永遠亭は、上から誰かが見てもわからないように強い術がかけられてる。招かれざる者が入ろうとしても無駄だし、何かを落としても届かない。でもこっちからは丸見えなの。都合がいいでしょ?」
「へぇ……」

 輝夜の解説に感心していると、

「天狗のスカートの中を見上げながら食べるおにぎりって、不思議な味ね」
「やめてください。っていうか遠すぎて見えませんし、見えてもご飯の味は変わりませんから」

 鈴仙は遠慮なくツッコミを入れてから、ため息を吐いた。
 師匠と話している間は常に緊張感があるのに、なんでこの姫と話していると脱力してしまうんだろう。
 どうにも屈託がないというか、能天気というか……。

「うーん、しょっぱくて味が濃くて美味しー」

 と、鈴仙の作ったおにぎりを嬉しそうに頬張っているが、かつての月の姫ともあろうものが、ペットが手で握ったものを食べるだろうか、普通。釜の飯を取り出して握る前、いつもの倍の時間手を洗ったというのに、鈴仙はある種の背徳感がぬぐえなかった。

 こういう人が浮世離れしてるっていうのかな、などと考えながら鈴仙も食べていると、

「捜査に進展はあった?」

 と輝夜が尋ねてきた。

「聞き込みはたくさんしたんですけど、大した情報は手に入りませんでした」
「ご苦労様。一度に全員に催眠をかけたりできたら楽だったでしょうね」
「できますよ」

 鈴仙は造作もなさげに答えてから、肩をすくめ、

「能力が完全に戻れば、ですけどね。姫様の方はどうでしたか?」

 鈴仙が大広間で調査している時間に、輝夜は別行動で情報を集めてきてくれると言っていた。
 姫という立場から、自分よりも兎達に警戒されていないだろうから、より詳しい情報を手に入れてきてくれるかもしれない、と鈴仙は期待していたのだが。
 
「だーれも兎が殺されたなんて話はしてないわ。もっぱら、幽霊兎のことばっかりね」
「そうですか……一応聞いておきます」

 鈴仙はメモ帳を取り出したが、すぐに渋い顔で閉じることになった。
 
(竹林に埋葬されているという兎達の霊が、この屋敷に入り込んでいるのだ、きっと)
(夜中の十二時にトイレの鏡を覗きこむと、そいつが見えるらしい。そして恋人募集中らしい)
(透明の兎が、つまみ食いをしているのを見た。食べた物が透けて見えた)
(吸血兎がイチゴシロップを舐めていた。ニンニクに鼻をつまんでいた)
(永琳は秘かに兎達のゾンビ化計画を行っていて、実験に失敗した兎がうろついているようだ)

 くだらない。一々全部メモしていたら無駄なページが増殖することになる。
 でも……そんな噂程度しかないのだから、やはりこの屋敷の空気はまだ平和なのだろう。

「いざ数えてみると、てゐが言った通り、本当にうちには兎がたくさんいるってことがわかりました」

 そんな中、自分だけが陰惨な事件を追っているというのが、鈴仙の疎外感を少なからず強めていた。
 誰も死体を目撃していないし、怪しい物を見たという話もしていない。

 そして鈴仙も、自分の脳裏に焼きついた光景が現実のものだったのか、だんだん疑い深くなってきていた。
 だからと言って、あれが幽霊兎の仕業だったり、幽霊そのものだったりするとは思わないものの、いっそのこと、自分が幻覚を見たという風に納得した方がいいのではないか、という考えを抱かざるを得ない。

 ――でも、もしそれが犯人のねらいだったとしたら。

 とても危険なことのような気がする。 
 さらに、もし自分がみた死体が本物だとすると、一つの確信が生まれる。

「姫様。この永遠亭に、招かれざる者は入れないって、今仰いましたよね」
「ええ」
「そうすると、その兎を殺したのは、この永遠亭に住む誰かってことになります」
「そうね」

 輝夜は平然とうなずく。
 きっと彼女はすでにその可能性について、考えていたのだろう。

「怖くありませんか」
「全然」

 最後のおにぎりに口をつけて、もぐもぐと食べる輝夜は、遠くを見ていた。
 迷いの竹林よりも、青い空よりも、ずっと遠くを。

「死ぬのが怖いって感覚なんて、とっくに忘れちゃったもの。生きるのが怖い時代の方がずっと長かったわ」
「………………」

 鈴仙は、蓬莱山輝夜の半生について、月にいた頃に耳にしていたことがあった。
 月の民にとって禁忌である、蓬莱の薬を飲んだ彼女は、不老不死となった。
 その結果、受けた判決は『死刑』。彼女は幾度も執行人の手によって、『処刑された』という。
 ただし何度でも復活する不死の彼女にとって、それらは決定的な刑罰とはならなかったため、結局地上への流刑となったそうだ。

 死にたくても死ねない。それはどんな気持ちなのだろう。

「あらイナバ。泣いてくれるの?」
「な、泣いてませんよ」
「じゃあ今のは雨かしら」

 そう輝夜が言った直後、ポツ、としおれた耳に水滴がかかった。
 「うえっ」と鈴仙は思わず声を出し、急いで食器やごみをまとめて、風呂敷に包んでいく。
 
「姫様。早く中に戻りましょう」
「私はいいわ。天気雨だからすぐに止むでしょうし、虹が見えるかもしれないし」

 どこまでも長閑なことを言う。もうすでに、遠くからゴロゴロと雷鳴が聞こえてきているというのに。
 一方、普通に老いるし死ぬ兎である鈴仙は、身をすくめながら片付けを終え、

「先に失礼します。なるべく早く傘をお持ちしますから」
「いらないわ」
「風邪を引いても知りませんからね」
「この屋敷でそんな心配してくれるの、貴方くらいよ」

 さも愉快そうに輝夜は笑い声を立てる。

 鈴仙が屋根から飛び降りると、ちょうど雨が本降りとなってきた。
 地上ではただの雨水にも穢れが含まれている。月出身の者にとっては浴びるだけで辛い。
 風呂敷で頭と耳を庇いながら、鈴仙は庭石の上を駆ける。

「イナバ―!」

 呼ばれた鈴仙は、振り返って屋根を見上げた。
 屋根に立つ不死の姫君は、両手で口の回りを囲って、

「私が風邪を引かないのは蓬莱人だからで、バカだからじゃないわよー!」

 と叫んで、楽しそうに手を振ってきた。
 穢れの中を気にせず、まるで年端もいかない子供のように。
 鈴仙は呆れるのを通り越して、思わず相好を崩す。

「わかってますよー! あとで着物を洗濯物に出しておいてくださいねー!」

 そう返事してから、今度こそ永遠亭の中に駆けこんだ。




 ※※※※※




 姫との会話は、決して無駄ではなかった。
 殺風景な廊下を歩きながら、鈴仙は頭に浮かんだ疑念について、考え続ける。

 死体があった。つまり兎が殺害されていたとする。
 外部から未知の存在に侵入される可能性が無い以上、永遠亭内に住んでいる者の犯行ということになる。
 そして兎達の噂は幽霊兎のことばかりで、誰かがいなくなったという話は出てこない。
 なぜなら兎は迷いの竹林とこの屋敷を自由に出入りしており、全体の数を知っているものがいないからだ。

 渡り廊下に出た鈴仙は、傍と立ち止まった。
 世にも恐ろしい想像が生まれる。
 すなわち、自分がこの永遠亭に来る以前、過去にも同様の事件が起こっていながら、証拠を隠滅されてきた可能性もあるのではないか?

「どこから当たってみるべきかしら……」

 鈴仙はメモ帳を取り出し、午後の捜査の内容を書きとめていく。

 まずは、当時の自分の行動を追って、診察室から『わ―7』に着くまでの時間を計ってみる。
 そしてもう一度『わ―7』の現場検証。仕掛けたトラップに誰かが引っかかっていたり、何かが触れた形跡がないかについても確認しておく。
 どちらも一人では手間取りそうであるし、ここは厚意に甘えて、再び姫の手を借りることにしよう。
 ついでに『わ―2』にあった資料室に行って、何か事件解決の手がかりがないか探ってみよう。
 永遠亭の過去の事件が記録されているのだとすれば、兎の消失についても何かわかるかもしれない。
 それから大事なのは鍵の保管室だ。管理者の兎に催眠をかけて、怪しい奴が出入りしていなかったか確かめて……。

 雨音に混じって、聞き覚えのある声がした。
 鈴仙は無意識にメモ帳から視線を上げる。

 廊下の遥か先、診察室の前で、こちらに背を向けて永琳と話している兎の姿があった。
 二人ともこっちに気付いている様子はない。

 ペンが指から滑り落ちた。
 
 全身を巡る血液が、瞬時に熱くなる。
 
「てゐ!」

 鋭く声を飛ばすと、廊下を跳ねて移動していた兎は「お?」とこちらを向く。

「どったの、鈴仙」
「その持ってる袋は何? 師匠から渡されたんでしょう。中身は薬か何かじゃないの?」
「そうだよ。薬草庫に持っていって、だってさ」
「渡しなさい!」

 鈴仙は叫びながら手を伸ばしたが、ひらりと避けられる。

「それは私がやるべき仕事よ!」
「だって鈴仙は死体探しで、忙しいって聞いたし。私が代わりに手伝うしかないじゃん」

 熱くなった血が、一気に冷却された。
 その一瞬の隙をついて、目の前の兎は廊下ではなく、庭の方へと跳ねる。

「じゃ、そういうことでー」
「待っ……!」

 鈴仙が制止した直後、伸ばした手の先で、泥水が撥ねた。
 てゐが裸足でぬかるんだ地面に着地し、水を飛ばして駆けだしたのだ。
 追おうとしていた鈴仙は、思わず顔をしかめて、たたらを踏む。
 あっという間にてゐの姿は雨の中に消えてしまった。

「お師匠様!」

 鈴仙はもう一人の方に詰め寄る。
 数間離れた診察室の前で立ったまま、こちらを眺めていた永琳に。

「どうして、てゐにあの仕事を命じたんですか。私に言ってくだされば……!」
「命じたはずよ。しばらく手伝いからは外すから、納得のいくまで真実を追ってみなさい、と。今の貴方には、消えた死体を追う方が大事なのでしょう」
「そんな!? 誤解です! 私はそんなつもりで言ったんじゃありません!」
「どちらにせよ、まだ貴方に全ての仕事は任せられないわ。てゐの方が適任なこともある」

 悪夢としか思えなかった。
 鈴仙は金縛りにあったまま、何一つ言葉を発することができなくなった。

「それとも、謎に答えは出せたのかしら」
「…………」
「なら時間を無駄にせず、続けなさい」

 返事を聞くよりも前に、扉が閉まる。 
 去り際の永琳の横顔は、台詞と同じく、冷たいままだった。

 鈴仙は俯き、握った拳を震わせたまま、じっと立ち尽くす。
 いっそ雨に打たれる方が、まだマシな気分だった。





 
 (5)玉兎はどうして降りてきた? 
 





 子の刻。
 部屋の広さは八畳。汚れておらず、きちんと片づけられていて、十分な空間の広がりを感じさせる。
 お布団は温かくてフカフカ。枕もやっぱりフカフカ。
 お香の幽かで優しい匂いが漂い、障子を開ければ月明かりが入ってくる。
 虫の音や鼠の駆け回る音のような雑音は一切ない。
 一匹の兎の寝床としては、これ以上到底望めぬ贅沢な備えだというのに、

 ――眠れない……。

 鈴仙は諦めて、瞼を開けた。

 布団に入ってから、二時間も経っている。元々寝つきが良い方ではないし、今までもこうしたことはあった。
 その理由といえば大抵、てゐが悪戯を仕掛けにやってこないかという懸念。
 もっと以前なら、翌日の戦闘訓練のことや、戦争が近づいているかもしれないという不安。
 でも今頭の中を飛び交っている悩みは、自分が見た現実かどうかわからない死体のこと。
 さらに師匠から仕事を取り上げられてしまったこと。

 そして、

「イナバ」
「はい……!」

 急に硬い声で話しかけられ、鈴仙は慌てて返事をする。
 緊張しつつ寝返りをうつと、少し離れた位置で布団にくるまる、見目麗しい少女の顔と視線が合った。
 
「……どっちが早く眠れるか競争ね」
「誰が判定するんですかそれを」

 0.5秒でツッコミが口をついて出る。
 この能天気な問答も、今日一日の付き合いで体得してしまった。

 というわけで、鈴仙から安眠を取り上げてしまった最後の原因が、このお姫様、蓬莱山輝夜である。
 主人にふさわしい豪華な寝具ではなく、この部屋にあった予備の布団を敷いて、枕を並べているのだ。
 もちろん、鈴仙の方からこんなことを頼むはずがない。
 今回もまた、輝夜が話を持ちかけてきたのだった。

 ――貴方一人で寝ている時に、キラー兎やゴースト兎に襲われちゃ大変でしょ。

 確かにある意味で理屈は通っているものの、鈴仙としては様々な意味で後ろめたい。 
 そう。様々な意味で……。

 ――師匠の目、怖かったなぁ……。

 鈴仙は布団の中で思い出した。
 今回、鈴仙の寝室に輝夜が泊まるということを言い出した時、永琳は承諾してくれたものの、やはり「くれぐれも、失礼の内容に」と念を押されてしまった。
 会話はそれっきりとなり、結局、今夜布団にくるまるまで、一度も優しい言葉をかけてはくれなかった。
 それがずっと心残りで、寂しい。

 そのことでモチベーションが低下していたのも、午後の捜査にこれといった進展がなかった原因の一つである。
 資料室にて情報を探っているときも、『わ―7』のトラップが残っているか確認しているときも、診察室からそこまで走った時間を計算しているときも、ずっとやりきれない思いが続いていた。頼みの綱の、鍵の保管室の件も空振りで、花子がてゐに許可を得て持ちだした記録しか残ってはいなかった。
 本心では、もう捜査を切り上げて永琳の手伝いに戻りたい。
 やっぱり私が見たのは幻覚でした、という風に認めて謝れば、きっと元通りになるんじゃないか、と甘い考えが頭をもたげる。でもそれが、本当に永琳が評価してくれる回答なのだろうか。

「姫様……」

 つい、鈴仙の方から話しかけてしまった。

「なぁに?」
「やっぱり師匠は、私が月の使者のスパイだと疑っているんでしょうか」
「へぇ、そうだったの。本当に?」
「え」
「本当にイナバは、月の使者のスパイなの?」
「いいえ……そう否定して、信じてくれますか」
「どうかしら。本当かもしれないし、嘘かもしれないけど、どちらでも面白いわ」
「………………」

 鈴仙は鼻をすすった。
 いつも……布団に入る度に、抑えている悲しみが込み上げてくる。

 ショックだった。
 自分の代わりにてゐが永琳の仕事を手伝っているのを見た時、二人の間に確かな信頼関係があると、遠目にも解ってしまったことに。
 鈴仙にはそれが無い。そして、これからも、そんな絆を持てるかどうかわからない。
 なぜなら、自分は輝夜を月から追放し、永琳を罪人として追っていた、月の使者の出身なのだから。

 布団を涙で濡らしていると、隣から慰めの声が聞こえてきた。

「もし、貴方が月からの刺客なら、今私はとても危険な状態ってことになるわ。でも永琳は、ここに寝ることを許した。それが答えじゃ不満かしら」
「不満は……ないです……でも、いつも不安なんです……ずっと、地上に下りてからずっと……」

 そもそも、自分は罪深い兎だった。
 月の使者としての職務から逃げてしまった。戦う責任を放棄してしまった。仲間に背を向けてしまった。
 だから……

「私には帰る場所がないんです。だから師匠の出す課題に応えないと。そして、あの御方の下で学びたいんです」

 心の奥底にしまっておいた願望を、よりによって永遠亭の主人に吐露している自分が不思議だった。
 情けないけど、輝夜であればもしかすると、こんなちっぽけな悩みを何でもないように言ってくれるかもしれない、と期待したのかもしれない。
 そしてやはり輝夜は、大ごとでもなさそうに、

「なら、殺人犯か幽霊兎。早く見つけないとね」

 少しずれた言葉で、元気づけてくれた。
 くすり、と鈴仙は笑いを漏らす。

「姫様は知らなかったんですね」
「ふふ、そうね。長く生きてる割に、私は知らないことが多すぎるって言われるわ。まさかイナバにまで言われるとは思ってなかったけど」
「幽霊兎の噂って、私が発端だったんですよ」

 その事実は思いのほか、輝夜の意表を突いたらしい。
 知り合ってからほとんど揺らぐことのなかった彼女の波長が、急な変化を示すのを、目に見えなくとも感じ取った。
 鈴仙は天井を見上げながら語る。

「私は月から逃げてきた身です。戦争が始まる前に、月の羽衣を使って、地上に下りてきました」
「そうらしいわね。大胆なことをしたものだわ」
「大胆じゃなくて、錯乱していたんです、きっと」

 そして今も錯乱し続けているのかもしれない、とも少し思っている。
 昔は違った。
 月の使者として訓練していた頃は、任務に忠実で、自分のやっていることに何の疑問も抱かなかった。

 それなのに、『あの演習』から、戦争が怖くなった。

「『あの演習』って?」
「月の地で行われた軍事演習です。実戦を想定した、大規模な訓練でした」

 鈴仙が、まだレイセンだったころの話だ。
 
 『銀の蛇』。別名、第一回月面玉兎部隊特別軍事演習。
 それに特別という名がついていたのは、地上からの侵攻を想定した、本格的な演習だったからである。
 月の民の科学力は、地上のそれを遥かに上回っている。
 本来、まともに戦力がぶつかれば、月側はほとんど被害を出さずに地上軍を撃退することが可能だ。
  
 しかし、唯一月の者達が危惧していた要素があった。
 それは地上から持ち込まれる『穢れ』である。
 地上の兵器は多くの穢れを有しており、その威力は低くても、月の地をひどく汚染させてしまう。
 たとえ侵略者を無傷で退けたとしても、その後の月社会に与える影響力が甚大であっては意味がない。
 なので勝利以上のものが求められた。可及的速やかに侵攻を食い止める手段を、月の民は必要としていたのである。

 『銀の蛇』は、対策の第一歩として、初めに立案された作戦だった。 
 敵本拠地に特殊部隊を送り込み、敵軍が月の都を汚染可能な領域に侵入する前に叩くという、成功すれば最もローコストかつノーハザードで、戦争に勝利することができる。

 もっとも、この任務を遂行する部隊には、相当な危険が予測された。
 そこで月の民は、玉兎部隊でテストすることにしたのである。
 その中に、若くして部隊長を務める、レイセンがいた。
 
「当時の私は張り切っていました。だって、主人の役に立つことが喜びだって、みんな信じて疑ってませんでしたから。
それに私を育ててくれた方々は、私の実力を誇りに思い、期待してくださっていました。絶対に応えたい、って思ったんです」

 3チーム、27名に分かれて行動し、玉兎達は月面上の前線から仮想の敵本拠地へと向かった。
 目標地点にて待ち受ける部隊には、それまでに仕入れられた地上の兵器が惜しみなく与えられた。

 だが、最大で七日間続けられるはずだったその演習は、三日で終わってしまった。
 成功に終わったのではない。
 前線に向かった玉兎の部隊が、ひとつ残らず壊滅してしまったからだ。

 月の民も知らなかったのである。
 どれだけ戦闘用として鍛えられたとしても、玉兎は本来臆病な生物であり、穢れに著しく敏感なのだと。

 未知の穢れに触れた兎達はパニックに陥った。
 マスクを持たない歩兵に、毒ガス兵器が投入されたようなものだった。 
 怯え、狂い、混乱した兎達は、ある者はそのまま息絶え、ある者は仲間を殺し、ある者は自分自身に引き金を引いた。
 
 その地獄の中に、レイセンはいた。

「私は……狂って死んでいく仲間達に、何もしてやることができませんでした」

 レイセンは優秀だった。優秀だからこそ、生き延びてしまった。
 死にゆく仲間達の、強烈な訴えを心に刻みつけて。

「演習は終了し、仲間達が犠牲となった戦闘は、貴重なデータとして処理されました。私はその時……本音を言うと、生き残れてよかった、っていうことしか考えられませんでした。でも演習が終わった後も、誰も『ある事実』に気付かなかったのが気持ち悪くなったんです。私にしか『見え』なかった。仲間が、どんな風に死んでいったのか」

 昨日まで一緒に笑っていた仲間の波長が、ぶつ切りになって、消えてしまう。
 千切られた虫のようになってしまった彼女達の波は、蠢きながら、訴えかけてくるのだ。
 タスケテ、と。
 一里先の話でも、それが見えてしまう。仲間じゃなくても、知っているものも知らないものも……。

「それからの私は訓練を続けることができず、謹慎処分を受けました。でも私は何があっても、二度と戦地に立ちたくありませんでした。本物の戦争が始まっちゃったら、あれをたくさん『見』ないといけないんだ、って思うと、震えが止まらなくて……」
 
 鈴仙は寝返りを打ちながら、考えに沈む。
 
 結局臆病なのだろう、私は。
 そして間抜けなことに、ずっと自分が臆病なことを知らず、戦争というものがどういうものなのかを知らなかった。
 知らないものに命をかけ、上の指示に従って命を奪い、己の命を散らしていく。
 なんて自分達は、愚かなほど純粋で哀しい存在なんだろう、と思った。
 地上に下りてきてから、ますますその思いは強まった。

「私が学んだ、人を殺す力なんて、人を治す力に比べたら、自慢にもなんにもならないと思ってます」
「永琳だって、過去に誰も殺さなかったわけじゃないわよ」
「でも師匠は理由もなく誰かを殺すほど、愚かな人じゃありません。私はそう……信じてます」

 それは己にとって都合のいい、幻想かもしれない。
 でもそれくらいのことは許してほしい。外にはもう、幻想なんて残ってないのだから。

「ねぇねぇ」

 輝夜が布団にくるまった状態で、子供のように促してくる。
 
「それで、幽霊兎はどこに出てくるの?」
「……私が『彼女』を見たのは、地上に下りてからです。『彼』かもしれませんけど」

 鈴仙は頭に浮かぶイメージを切り替えた。
 月から地上へ。雨と竹が混在する、あの光景に。

「地上に下りて、空腹と疲労で、私がぼろぼろになっていた時に、竹林で玉兎を見たんです」

 衰弱し、穢れた大地に横たわった鈴仙は、霞んだ視界の中で、その姿を捉えた。
 それはとても長く、植物のように澄んだ波長を持った、生き物だった。
 地上の兎とは全く違う波長を持ち、雨の中で涙を流す一匹の兎。
 この世でもっとも自分がみじめに思えたあの瞬間に、同じくらい悲しそうで、綺麗だった兎。

「永遠亭で介抱されている間、私は師匠に尋ねました。ここに私以外の玉兎はいないか、もしくは、波長の長い幽霊みたいな兎はいないかって。布団から起き上がれるようになってからは、いつも彼女が自分の前に再び現れないか、捜していました」
「それでイナバ達の間に噂が広まった、ってわけね」
「はい。でもわたしは……」

 鈴仙は輝夜の目を見て訴えた。

「でも私は……ここにいる他の兎みたいに、その幽霊兎を怖がっていたんじゃなくて、会って話をしてみたかったんです。どうして、あんなところで一人で泣いてたのか、って」

 永遠亭に運ばれてから、絶望にとらわれていた鈴仙を救ったのは、八意永琳だ。
 彼女は鈴仙に名前を与え、新たな生きる道筋を示してくれた。
 
 でも、初めて地上のもので惹かれたのは、もっと前に見た、その一匹の兎だった。

「私にとって、穢れだらけの地上で、初めて見た綺麗な兎でした……」
「幽霊ね」
「え?」
「いるはずのない月のイナバが、迷いの竹林にいた。だとするとそれはきっと幽霊でしょう」

 ね? と輝夜は同意を促してくる。
 鈴仙は微笑してうなずいた。 

「そうですね。やっぱり幻だったのかもしれませんね。幽霊兎も、倉庫の死体も……」

 己の口で認めてから、不思議と安堵が身を包み、ようやく瞼が重くなってきた。
 鈴仙は仰向けに戻って、決心をした。

 明日、師匠に話そう。
 全部、自分の勘違いだったって。今まで通りに仕事を手伝わせてくださいって。
 もう誰もかれも、私も含めて、信じてないんだから。


 鈴仙がまどろみに落ちるその寸前。

 廊下から聞こえてきた、まぎれもない悲鳴が、全神経を目覚めさせた。

 飛び起きながら、隣を確認する。

「姫様っ!」
「ええ」

 輝夜もすでに起き上がっていた。
 二人は部屋を飛び出し、悲鳴の聞こえてきた方へと急いだ。




 ※※※※※




 悲鳴の源は、寝室からそう遠くない場所だった。
 廊下を並んで走っていた鈴仙と輝夜は、角をいくつか曲がり、すぐに突き当たりとなった場所に兎達が集まっているのを見つけた。
 白い背中で壁を作りながら、誰も彼もが奥を覗きこもうとしている。

「何があったの!」
 
 鈴仙が声を張ると、壁の手前の数名が振り返った。
 ただし残りの兎は、まだ向こう側を向いたままだ。
 鈴仙達は兎の体をかき分けて、最前列へと進む。
 ほどなく、床に屈みこんだ永琳の姿が目に入った。 

 彼女は膝の前に横たわっている、何かに触れていた。
 あれは、

「そんな……」

 鈴仙は目を見開いた。
 頭がぐらりと揺れる。濃霧が、永琳とその足元にある骸を切り取っていく。
 

「とうに死んでるわ。……一目瞭然だけど」


 永琳は無感情な声で言った。
 そこに置かれていたのは、手足を失った『黒い三つ編みの兎』の亡骸だった。 






 (6)兎の手足はどこにいった?






 両腕を杖にして、鈴仙は額を支えたまま、黙考していた。
 散った竹の葉が舞い降りるように、自我が昨日という一日の記憶をはじめからたどった。
 しかし、最後のわずか一時間、待ち受けていた澱んだ水たまりに、鈴仙の心は蝕まれていった。
 
 頭の中で、万華鏡のように羅列した光景が切り替わる。 
 かつての仲間が死んだ記憶、第一の死体、そして第二の死体。
 次々と、止まることなく、頭の中を苛む。

 ――みんな……泣いてた……。

 惨劇の舞台には、すするように、むせぶように、大泣きしている兎達がいた。
 きっと彼女達にとって、大切な仲間だったのだろう。
 レイセンが鈴仙になってから七日間。嘘の涙を流すのには足りず、雑念が生じる。

 ――私が見たものを信じてくれなかったのに。

 そう考えるのは簡単だ。
 だが鈴仙の胸の奥を締め付けているのは、

 ――私が……間に合わなかった?
 
 その痛切なまでの自責の念だった。

 昨日からの私は、全力を尽くしていたか?
 一日で諦めて、幻覚だという結論に逃げようとしていたのに?
 もっと早く犯人を見つけていたら……。
 もっと自分の見たものを信じて、真剣に行動していれば。

 扉がノックの音を立てた。
 額に食いこませていた爪を外し、鈴仙は虚ろな声で聞く。

「……誰ですか?」
「私よ。ウドンゲ」

 慌てて目元をぬぐった。
 戸を開けて入ってきたのは、永琳だった。

「詳しいカルテはまた後で作るけど、とりあえず判明したことを伝えにきたわ」
「ありがとうございます」

 鈴仙は彼女から渡された紙束に、目を通した。

 一番上に書かれている名前を見たとき、鈴仙の鳩尾に鉛が押し込まれる。
 やはり死んだ兎は、貴重な情報提供者だった、あの花子だった。

「凶器は見つかっていないけど、おそらく鋭い刃物。直接の死因は、切られたことによるショック死と診断したわ」
「……両手と……両足も無いように見えました」
「ええ。どちらも同じもので切られている。ただし、玄人の仕業とも言い難い。切り口の破損具合からして、そこまで獲物を切るのに慣れた手合いだとは思えないわね」
「………………」

 ただ殺すだけなら簡単なのに、両手両足を切り落とした。
 あまりにも猟奇的で、何だか儀式めいている。
 月ではまずありえない、穢れの極地に値する行為といっていい。

「永遠亭の術が、あの死体にどれだけ影響を与えていたかを調べないといけないから、死亡推定時刻の算出は、明日まで待って頂戴」
「私も……遺体を見に行きます」
「それは許可できない」
「どうしてですか」

 師の顔を見る目が、自然鋭くなった。

「私が頼りにならないからですか」
「………………」
「それとも、私が月の使者だったからですか?」
 
 鈴仙は明らかに、越えてはいけない一線をまたいでいる自分に気付いた。
 この程度で永琳が動揺するはずがない。そうわかっているのに、激情がおさまらず、つい疑問をぶつけていた。

「医者の立場として、と答えておくわ」

 やはり、月の頭脳と謳われた天才は、眉ひとつ動かさずに告げてくる。

「貴方はまだ、私の弟子ではない。けれども私の患者ではある。これ以上ショックを受けることで、目の回復が遅れるかもしれない」
「なら……!」

 鈴仙は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
 たった今、プライドに火を焚きつけた張本人と、真正面から対峙する。

「私が患者でなく、貴方の弟子としてふさわしいことを証明してみせます。この事件を解決することで!」

 そう言い放ち、鈴仙は師の横を通り過ぎて、部屋の戸を開けて出た。

 ――幽霊兎なんていない。

 そう自分に言い聞かせる。

 ――れっきとした犯罪だったんだ。犯人は必ず上げてみせる。




 ※※※※※




 現場に戻ると、あれだけいた兎は一匹残らず消えていた。
 死体のあった空間は枠で囲まれて封鎖されており、床には黒いテープが貼られて多角形を作っている。
 その側に、兎ではない者が、しゃがみこんで下を見ている。
 限りなく地味な壁と床であっても、華やかな紅梅の衣装と黒髪は、十分に画板の役目を果たしていた。

 鈴仙の姿に気がついた彼女は、こちらを見て会釈する。

「来たのね。もう少し後で呼びに行こうと思っていたのに」
「姫様に先を越させるわけにはいきませんからね」

 微笑で応えて、鈴仙は輝夜の側に立ち、四方に目を配る。

 現場はちょうど丁の字廊下の突き当たりとなっていた。
 ここに死体が転がっていれば、三方向どこからでも死体を確認できる。
 第一発見者は、夜間の仕事を終えたばかりの、兎の集団だった。
 現場が永琳の仕事部屋に使っている診察室の近くだったため、兎達の悲鳴を聞いた彼女は、すかさず現場の確保を行ったらしい。
 以上は全て、永琳に渡された報告書に、簡単な検死結果と共に記されていた。

 床に貼られたテープが、両手両足を切られた兎の姿を思い起こさせた。
 しかし鈴仙は今回に限っては、吐き気よりもまず、疑問が浮かんだ。
 
 何で犯人はこんなところにいきなり死体を置いていったのか。
 第一の死体は、鈴仙の目に触れてから、すぐに消失してしまったというのに。
 もし発覚を恐れるのであれば、もっと別のところに安置するはずだ。
 これではむしろ死体を見つけてもらいたがっていたとしか思えない。

「幽霊兎はどうしてこんなところに、死体を置いたのかしら」

 床を見下ろしたまま、独り言のように述べた輝夜を、鈴仙は睨む。

「幽霊は兎を殺しません」
「この幻想郷では、そうとも言えないみたいよ」
「そうですか。だとしたらその幽霊は、相当悪趣味ですね」

 それが第二の謎である。 
 花子の両手両足を切り落として殺した意味は、一体何だったのか。 
 これも第一の事件とは異なっている。
 いや……

 ――そこは共通しているのかしら?

 鈴仙はもう一度、始めに見た死体を思い浮かべてみた。
 あの兎は首を切られていたが、考えてみれば、それもそこまで容易いことではない。
 なぜなら『切断されていた』からだ。頸動脈を切ったり、胸を一突きするのとは訳が違う。
 殺すだけならもっと他にいいやり方があったはず。暴れられたら手元が狂うし、仕損じる可能性もある。
 けれども鈴仙が見た死体は、本当に綺麗に首が切られていた。
 犯人はわざわざ殺してから、首を切ったのだろうか。考えれば考えるほど、頭がおかしくなってきそうだ。

 ――そっか。私が間違っていたのは、そこだったのかもしれない。

「姫様はどう思います?」
「そうね。やっぱりどうして手足を切ったのかが気になるわ。犯人が下手くそだったのかしら」
「首を切ろうとして手元が狂ったってことですか? ありえません。下手にもほどがあります。わざとやったに決まってるでしょう」
「ふぅん」

 顎に手を当てて、輝夜は虚空を見上げながら、

「たとえばこういうのはどうかしら。花子は事件を解く重大な鍵を握っていて、それが手か足に仕込まれていたから、犯人は持ち去った」
「ははぁ、なるほど……」

 鈴仙は思わず感心してしまった。少なくとも、論理的な動機に思えなくもない。
 問題は何が仕込まれていたか、さっぱりわからないということだが。

「でもそれが正しいとすると、四つの手足のうち、犯人が知られたくなかったのはたった一つだったって可能性もありますね」
「今度はイナバの手足探しの旅になりそうね。そういえば、イナバの足って、お守りになるって昔聞いたことがあったけど……」
「私の足を見ながら言わないでくださいよ……」

 鈴仙は苦笑して、メモ帳を閉じた。

「目が覚めちゃいましたね。私はもうちょっと捜査をしようと思いますけど、姫様はどうします?」
「大丈夫……あふ……付き合うわ……」
 
 台詞の途中に、輝夜は口元を襟で隠しながら言った。

「どうぞ部屋に戻って休んでいてください。お目覚めになってから、また手伝っていただければ、ありがたいです」
「……そうね。そうしようかしら。でも幽霊兎を見つけたら、私が寝ていても起こしてね」
「了解です」

 ついつい鈴仙も気安い口調で応えながら、現場を後にした。

 その口からはすぐに、笑みが失われていた。




 ※※※※※




「失礼します」

 AM6:00。
 鈴仙は診察室を訪れていた。
 第二の事件からすでに六時間が経過している。
 机で仕事をしていたらしい永琳は、鈴仙が部屋に入ってきても、手元に集中したままだった。
 いつも通りの態度だ。けれども、それがいつまで続くかはわからない。

 永琳は万年筆を動かしながら、尋ねてくる。

「謎に答えが出たから、ここに来たのかしら」
「いいえ」

 鈴仙は足を肩幅に開き、用意してきた言葉を伝える。

「世間話に来ました」
「ふむ……」

 永琳が作業の手を止め、こちらを向く。

「じゃあその世間話を、聞かせてもらうわ」

 座ったまま、膝の上で手を組み、答えを待つ教師然とした姿勢で彼女は問う。
 対峙する鈴仙は、肩の力を抜き、意識を研ぎ澄ませた。
 これから何が起こっても、対処できるように。
  
 そして、軽く息を吸い込み、


「蓬莱山輝夜。私は彼女が、今回の事件の犯人だと断定しました」


 さらに鈴仙は、二の矢を放つ。


「お師匠様は、それを知っていて、私に捜査させたんですね」






 (7)永遠の闇は誰を殺した?






 永琳の顔色もポーズも、表面上、微塵も揺らぐことはなかった。
 対する鈴仙は、緊張を隠せない。跳ぶ準備を、避ける準備を、怠ってはいけないと思っているからだ。
 それほど今の発言は重要かつ致命的な一言のはずだった。

 見習い弟子の態度を見届けた後、永琳は口を開く。

「なるほど。貴方が輝夜を犯人と断定するに至った、その根拠を聞かせてもらいたいわね」
「認める……ということですか?」
「そうは言ってないわ」

 永琳ははじめて、微笑を浮かべた。
 蛇の穴の入口に手をかけた心境で、鈴仙は順序立てて立証を試みる。

「第一の事件、いいえ、事件とはいえないかもしれません。何しろ死体を目撃したのは、私だけだったんですから。首を切られて、放置されていたあの茶髪の兎の死体。状況からして、自殺ではありえなかった。つまり誰かがあの部屋で殺したか、あるいは死体を運んだということになる。けれど……これにはいくつか実行するのに困難な要素があります」

 困難な要素、正確にはその程度の言葉では片付けられぬほどの障害と思われた。
 それ故に、鈴仙の推理は行き詰まり、捜査は難航した。

「私が『わ―7』を覗いたのが、およそ9:30。そしてそれ以前に作業をしていた花子が部屋を整理していたのが7:30。その二時間の内に死体が部屋に現れ、そして私が鍵を探しに行って戻ってきた10分というわずかな間に消えてしまった。部屋には天井裏に通じる道も、隠し通路もなく、唯一の出入り口には鍵がかかっていました。しかもその倉庫の鍵は永遠亭に二つしかなく、一つはてゐと管理官の兎の許可がなければ保管室から持ち出せず、もう一つは師匠の診察室に保管されていたと聞いています。これが誰かの仕業だとすれば、奇々怪々としか言いようがありません。てゐは発見当時に私といたし、師匠は診察室の棚に鍵を置いたままで、持っていなかった。なら他の誰であっても、あれを開けられそうにない。だから私は死体の幻覚を見たんじゃないか、って思いはじめていました。第二の事件が起こるまでは」

 そう。第二の事件が起こらなければ、鈴仙はいまだに永遠亭の闇に気付かぬままだっただろう。
 翌日からは、日常の波に再び乗ろうとすることで、頭が一杯だったはずだ。

「花子が殺された事件も、私にとっては不可思議でした。彼女の遺体が発見されたのは子の刻を回った辺りで、それまであそこを通った兎達は、何も無かったと証言しています。またしても突然、死体が現れたのです。でも二つの事件は『ある能力』を所有しているのであれば、実現は可能です。ご存知ですよね」

 永琳は静止画のごとく無反応だった。
 だがおそらく、その瞳の奥底では常人に計ることのできぬほどの速さで、計算を続けているのだろう。

「私は月の羽衣を使ってこの地に下りてくる以前から、月の歴史における二人の罪人についての情報を有していました。一人は月の都の創設者の一人であり、稀代の天才薬師としてその名を永遠のものとした八意永琳」

 鈴仙は脳に刻みつけた情報を、目の前に座る当人に正確に伝える。
 
「そしてもう一人、禁忌とされる蓬莱の薬を服用してしまった姫君、蓬莱山輝夜。その薬を作る時に用いられたのが『永遠』を操る力。未来永劫全ての変化を拒絶し、穢れから解放するという伝説の能力。月に住むものであれば、人であろうと兎であろうと、誰もが敬わずにはいられぬ力。けれども今回の事件に限っては、注目すべきはもう一つの力だったんです。それが『須臾を操ることができる』というもの。その詳細について、私はこの永遠亭で知ることができました」

 言いながら、鈴仙は資料室で手に入れたものを取り出して見せてみる。
 それは永遠亭の歴史に関わる紙ではなく、ただの月の古い字引だった。
 だがそこには、須臾とは一体どういう意味なのかが、きちんと書かれていた。

「千兆分の一秒。認識が不可能なほど僅かな時間……ええ、そうです。『認識が不可能』という記述に、私は目を奪われました。もしや姫様は普段から、のんびりと過ごしているようで、あらゆるものを超越した唯一の時間を所有しているのではないか、と」
「それは」

 永琳がはじめて口を挟む。

「まさに、ただの憶測ね。正しいかどうかをきちんと証明したわけではない」
「その通りです。姫様に実演してもらうことも、きっとできないでしょうし。でも私は月から持ち込んだ資料をよく読み、彼女を正面から拘束することは決してできないという記述も発見したんです。信じられませんでした。だって姫様は兎よりもおっとりと行動をなさりますし、布団を運ぶのでもよろけてしまうほどでしたから。でも一瞬かつ無限の時間が手に入るならば、不意打ちでもしない限り、確かにその人を捕まえることは不可能でしょう」
「………………」
「この力さえあれば、アリバイだって無いも同然。僅かな時間で三日分の工作を行うことだって可能です。倉庫に鍵をかけておいた兎の死体を、一瞬で鍵を持ち出してどこかに消し去るということも。私の隣で寝ているふりをして、一瞬で死体を廊下に運ぶことも」
「なるほど、確かにその通りね」

 聞き手は深くうなずいた。

「けれどもウドンゲ。そうなると輝夜は、自身がもつ能力によって、永遠にアリバイを与えられることはないといえる。それは裏を返せば、この世に存在する、ありとあらゆる容疑の犠牲となってしまうことを意味してしまう。道義的な観点から見て、確かな動機と決定的な証拠がなければ、彼女を犯人とすることはできないわ」
「ええ。わかっています。動機と証拠、これからその二つについて説明します。果たして、お師匠様を満足させることができるかどうかは、分かりませんが」

 鈴仙は一度深呼吸を挟んでから、おもむろに禁断の箱を開ける。

「動機は……永遠故の狂気」

 その瞬間、永琳の口から笑みが消えた。

「輝夜様は仰っていました。『死ぬのが怖い感覚は、とうに忘れてしまった。生きる方が怖い時代の方がずっと長かった』と。私ははじめ、そのお言葉に哀しみました。ただしそれから、怖れを抱きました。永遠という時間の中で、果たして人は正気を保っていられるのだろうか、と。もしやこの御方は、帰結に憧れているのではないだろうか、と。永遠に倦んだ姫様は、死に憧れるようになってしまった。そしてそれを確かめるのに最も適した供物とすれば、それは」

 地上の兎だった。
 兎は普段から迷いの竹林と永遠亭の二つの住み処を使い分けていて、全体の数を知っている者は、てゐも含めて誰もいない。
 だから過去に兎がいなくなっても、誰も気付かなかった。

「そして、私がいよいよ姫様が犯人だと断定したきっかけは、第二の事件です。殺された花子は死体を見たか、という証言に対し否定した。私は催眠でそれを確かめました。けれども彼女は知らず知らずのうちに、第一の事件に関わっていた可能性がある。その花子が殺されてしまった。あんなに惨たらしいやり方で」

 数百匹いる兎の中から、花子だけが偶然選ばれ、殺されたという可能性を、鈴仙は除外していた。
 やはり花子は手足とは関係なしに、何か重大な事件に関わる要素を持ち合わせていたために、口を封じられたと考える方が、説得力がある。

「どうしてあんな目につくところに死体が置かれていたのか、私は気になっていました。なぜなら第一の死体は隠蔽されたのに、第二の死体は衆人の前に明らかにされたからです。犯人は狂気にとらわれている。それは間違いない。でもあれが、『私宛』のメッセージだとすれば、その意味するところは警告としか考えられません」
「………………」
「おかしいですよね。姫様は私の隣で現場を調べながら『犯人が手足を持ち去ろうとしていた』なんていういかにもありそうな推理をしてくれたんです。面白いな、って思いました。でも普通に考えれば意味がない。手足を持ち去るだけなら、死体をあそこに置いておく必要がないんです。犯人は明らかに、死体を見つけてもらうために、あのわかりやすい廊下に放置した。手足を切ったのは、犯人にそうした猟奇的な嗜好があったから」
「ウドンゲ。貴方の推理では、過去に輝夜は幾度もそうした犯行を行ってきたとしている。それがなぜ、今回兎達にわざわざ警戒させるような真似をしたのかしら」
「それは……私が姫様に喋ってしまったからです。この目が治れば、『兎達全員に催眠をかけることだって可能だ』と」
  
 昨晩から、鈴仙は証拠ではなく、動機を追う捜査に切り替えた。
 故に、狂気にとらわれた姫の思考も、シミュレートできていた。
 それまで人知れず兎達を殺害していた彼女は、催眠の可能性について知ったことで、趣向を変えたのだ。
 目撃者の記憶のリセットが可能であれば、ゲームの枠組みは大きく広げることができる。
 より派手な殺しのショーを行うことだってできるだろう。輝夜はその欲求に飛びついたのだ。

「わからなかったのは、どうして第一の事件があの場所で行われ、私だけに目撃させたかということですが……姫様のことだから、私をからかおうとしていたのかもしれません。姫様が私に始めに近づいたのは、推理する私の側にいて、監視していたからでしょう。あの人はずっと、殺人者よりも幽霊兎の方に興味を示していた。そして協力する振りをして、私が事件が全て幽霊兎の仕業だと思うように、自然な調子で誘導していった。けれども途中から、私を協力者に引き込む方針に変えた……」

 頭に保存していた文面を喋るうちに、知らず、顔が下を向いていたことに気付いた。
 鈴仙は面を上げ、推理をしめくくる。

「お気づきでしょうが、以上の推理は全て仮説であり、輝夜様を断罪するのに十分なものとはいえません。これ以上捜査しても、証拠はきっと出てこないでしょう。また、私には輝夜様に逆らう力を持ち合わせていません。なのであくまでこれは世間話ということです」
「お疲れ様。期待を上回る、興味深い世間話だったわ。もやもやが晴れて、すっきりしたでしょう」

 永琳はわざとらしく、優しげにねぎらう。

「……最低の気分です」

 鈴仙は気持ちを吐き出す。
 もう、とっくに涙をこらえきれてなかった。

「姫様の能力について、私は昨日の午後の時点で知っていました! それから私はずっと『姫様が犯人じゃない』って証拠を探すために捜査してきたんです! 今まで徹夜で、ずっと真犯人の手がかりを探ろうとしてきました! でも考えれば考えるほど、姫様以外には無理な犯行だったんですよ……!」

 鈴仙はずっと耐えた。
 彼女を疑っているそぶりをみせぬよう、演技をし続けた。
 嘘で塗り固めた時間は、切なくてやりきれなくなりそうなほど、幸福なお伽話だった。

「同じ部屋に寝ているときも、今すぐにでも殺されるんじゃないかって考えて、全然眠れませんでした。でも姫様はずっと私に優しくしてくれました。一緒に捜査を始めた時から、最後まで。楽しかったんです。この方にお仕えするなら、何の不満もない。そう心の底から思えた」

 だから独りでずっと考え続けた。
 姫以外の容疑者について。夜間に怪しい行動をして回っているものがいないかも、気配を消しながら、ずっと捜して回った。
 けれども兎達はいずれも寝てばかり。てゐですら、怪しい言動は全くといってなかった。
 輝夜は鈴仙の寝室で、健やかな眠りを見せていた。ただし、それも嘘だったのかもしれない。
 鈴仙の知らない時間の中で、彼女が何をしているかがわからない。

「今までの姫様の振る舞いが全部、狂気を隠すためにまとった嘘だったとしたら……私には耐えられそうにありません。初めに私の命を救ってくれて、その後癒してくれた師匠の優しさだって、嘘かもしれない……」

 薄々、自覚はしていた。
 私は月から逃げた先のこの場所に、理想郷という幻想を見ようとしていたのだ、と。
 けれどもそれは所詮、幻想に過ぎない。どこへ逃げようと、闇はついて回る。

「私はただの兎です。月から逃げてきた私に、姫様を糾弾する資格があるとは思えません。これ以上、誰かの死を見たくありません。でも、死にたくもない。そして私は……姫様が嫌いじゃないんです。だから耐えることに決めました」

 誰かの掌で踊るのは慣れている。
 踊れなくなれば、捨てられることも分かっている。
 それは、月の民のペットである、玉兎の宿命だったから。

 永琳は失望したように、嘆息した。

「そうね。貴方には他に行き場がないから、そうせざるを得ないのでしょう」
「いいえ」

 鈴仙は師の言葉を、熱を帯びた口調で否定する。
 そんな情けない気持ちばかりではない。もっと強い信念が、この永遠亭に根を下ろしたのだ。

「私には新しい目標ができました。姫様の狂気を治して見せます。たとえどれだけ時間がかかっても」
「………………」
「私は本気です」 

 無茶と言われようと無謀と言われようと、鈴仙は引く気はなかった。
 姫の態度が嘘だったというなら、その嘘を本当のものにしてしまえばいい。
 たとえ本物の『永遠』が相手であろうと、一歩も引くつもりはない。
 
 鈴仙は毅然とした態度で、頭を下げる。
 
「だからお師匠様。そのために私を鍛えてください。遠慮はいりません」

 鈴仙は師匠の返答を黙って待つ。
 良い返事を聞くまでは、絶対この頭を上げないぞ、と既に心に決めていた。

 ……はずだったのだが、

「…………………………ん?」
 
 二十秒ほど経過してから、何の音だろう、と鈴仙は顔を上げていた。
 いつまで経っても聞こえない師匠の声の代わりに、庭の方から騒々しい音が聞こえてくる。
 兎達が集まって、何かしているのだろうか。

 ――まさか……また第三の事件が。 

 戦慄する鈴仙をよそに、永琳が立ち上がって言った。

「結論を出す前に、貴方に見てもらいたいものがあるわ。来なさいウドンゲ」






 (8)その餅は誰が食べた? 






 まだ日が昇らないというのに、やけに邸内が騒がしい。
 永琳と共に廊下に出た鈴仙は、すぐにその発生源がどこか気がついた。

 これでは騒がしくなるわけだ。夥しい数の兎が、庭の地べたに座り込んでお喋りしているのだから。
 大広間での食事以外で、これだけの兎達が集まって賑やかにしている光景を見ることは珍しい。
 もっとも、なぜ兎達がこんな早朝にここで集会をしてるのか、その理由が鈴仙にはわからない。
 
 いいや、ただの集会とも思えない。というのは兎達は皆、同じ方向を向いて座っていたからだ。
 鈴仙の目も自然と、それらが注目している方へと移る。
 垂れ耳をつけた後頭部達の向こう側に、何かに布がかけられて立てかけられていた。
 鈴仙の頭にはじめに浮かんだのは、集合写真を撮るためのカメラだった。
 もしくは奇術ショーの開宴前だろうか。どちらにしてもやはり、こんな早朝から始める理由がわからない。

「一人一本だからねー。よーく味わうのよー」

 と、聞き覚えのある兎の声がした。
 視れば、てゐが小さな木箱を首から下げて、中のものを兎達に端から配っていた。 
 その様子を眺めている鈴仙の前に、「はい」と永琳から、同じものを差し出される。
 割り箸に刺されたそれは、みずあめらしかった。
 もらったはいいものの、どうしていいかわからないので、鈴仙はみずあめを持ったまま座らず立っていた。

「さぁさぁ、お待ちかね、お待ちかね」

 あらかたみずあめを配り終えたらしく、ステップを踏んだてゐが、兎達の前に現れた。
 そして、いつから準備していたのか、どこからともなく現われた照明の光が、彼女を照らし出した。

「朝から集まってくれてご苦労、諸君。これから読み聞かせてやるのは、眠気も吹っ飛ぶ痛快サスペンス……もどき」

 口上の後に、彼女は布を取り払う。
 と同時に、兎達の間で大きな拍手が湧き起こった。

 そこに現れたのは、竹でできた三脚とその上に載る、

『迷探偵へにょりんの冒険』

 と、でっかく書かれた紙芝居の絵だった。

 ――へにょりん? 迷探偵?
  
 すかさず鈴仙の頭に疑問符が浮かぶ。
 兎ヶ原の向こう側にいるてゐは、拍手が鳴り終わるのを待ってから、冒頭の絵をめくった。
 その裏に表れたのは、鈴仙にどことなく懐かしさを覚えさせる、都の風景画だった。

「月の都……穢れを知らぬ民にとっての安息の地……そこである一匹の兎が飼われてました。仮にその名前を、へにょりんとしておきましょう」

 てゐは普段の甲高い声を精一杯低くし、朗々と語り始める。

「へにょりんがすくすくと成長した頃のこと、都では来たるべき戦に備えて日々訓練が行われており、兎達も戦地に駆り出されようとしてました。一方で月での暮らしに限界を感じていたへにょりんは、いつしか地上に降り立つことを考えていました。そして彼女は決心をして、ついに都から逃げ出したのです。それは我々が例月祭を行っていた晩のことでした。地上に来たへにょりんは迷いの竹林をさ迷い歩き、やがて疲れと空腹に倒れそうになりながら、何とか永遠亭にたどりついたのでした……」

 それでようやく鈴仙は、へにょりんという登場人物が自分の事らしいと分かった。
 確かに八日前、例月祭という月と地上の距離が最も近くなる満月の日に行う祭りがあったのだと、永琳から聞いている。
 鈴仙が月の羽衣を使って地上に下りた晩も、一番成功率の高くなる時間、すなわち月が地球に最も近づく夜だったので、当然日付は重なるはずである。
 ただ、一言抗議したくなるくらい、その絵の中の人物はデフォルメされていた。
 薄紫色の髪をした三頭身の少女の耳は、へにょへにょと曲がるばかりではなく、螺旋を描いていたのである。
 鈴仙はあんな変な耳はしていない。ましてや、あんなみっともない泣き顔で永遠亭にやってきたはずはない。たぶん。

「永遠亭で介抱されたへにょりんは、見る見るうちに元気になり、二本足で立てるようになってからは、主人の手伝いをするなどをして御機嫌を取るようになりました。一見平和な永遠亭で、彼女はつつがなく暮らしていました……ところがっ!!」

 急にてゐの声が大きくなり、観衆の間にも、びびっと緊張が走る。

「いきなり永遠亭に、とんでもない怪奇現象が起こったのだっ! まず、へにょりんは倉庫にて兎の死体を発見したのである! ザ・殺兎事件! しかも首ちょんぱっ!」

 ページが勢いよくめくられ、首がちょん切れて横たわる兎の絵と、驚くしおれた耳の兎の絵が登場した。
 突然現れたショッキングなシーンに、観客から小さな悲鳴が連鎖的に上がる。
 けれども鈴仙の見た兎の亡骸は、絵に描かれているものほど醜い死にざまではない。
 訂正してみようか、と挙手しかけた鈴仙は、隣の永琳にそっと抑えられた。「もう少し見ていなさい」と。

「腰を抜かしたへにょりんは、中に入って確かめようとするものの、扉はいくら横に引いても開かず。へにょりんは鍵を開けるため、師匠の元へと急いで戻った。そこで紆余曲折あって鍵を手に入れて戻ってきたのだが……なんと、扉の鍵はかかっておらず、首ちょんぱされていた死体も忽然と姿を消していたのだった。一体、死体はどこへ? また、その兎を殺したのは一体何者? ちなみにこの噂は一日で永遠亭全体に広まった。というのも、このへにょりんは以前から何度か幽霊兎の事を口にしていたからである。そんなおっかないものが永遠亭内をうろついているとあってはたまらない」

 師匠にあらかじめ止められていなければ、鈴仙はてゐが呼吸を挟む度に「異議あり」と述べていたであろう。
 まず、幽霊兎と今回兎が殺された事件は完全に無関係である、と。
 前者は鈴仙が迷いの竹林で見た幻覚であり、後者は現実に起こった犯罪の痕跡だ。

「ここで登場するのは、キュートな美少女兎である」

 てゐの語りはなおも続く。 
 小さな手で紙がめくられ、そこには鈴仙が見たことのないほど美しい兎が描かれていた。

「彼女は永遠亭の兎達のリーダーであり、それぞれがどこで何をしているかを、きちんと監督していた。へにょりんが見たという兎の死体について、一番初めに知ったのも彼女である。もし本当にそんなひどいことが起こったなら、見逃せるわけがない。ただちに究明すべく、内密に調べたのであった。ところが一向に判らない。永遠亭内をくまなく探しても、死体は見つからないのである」

 それはそうだろう、と鈴仙は思う。
 輝夜の犯罪はその能力上、アリバイは完璧に確保できるし、証拠の隠滅もたやすいのだから。
 地上の兎にあの謎が解けるはずがない。そう。解けるはずが……。
 
「そしてこの美少女兎……まぁ私のことだけどね、こほん。私はある仮説にたどりついた。とんでもなく馬鹿馬鹿しい仮説だったが、もうそれしか考えられないのではないかと思った。すなわち、この迷探偵へにょりん。もしかして……」

 てゐは声のトーンを小さくしながら、面々を見渡す。
 観客一同も、彼女が一体何を言い出すのかと、真剣な様子で耳を傾ける。
 後方で見守っていた鈴仙も、やはりその空気に呑まれ、息をひそめて聞こうとしていた。

 たっぷり時間をかけた小さな語り部は、他人のポケットにそっと毛虫を忍ばせるような雰囲気で、囁いた。




「『餅』を兎と見間違えたのではないか、と」




 ……………………………………………………は?




 呆ける鈴仙は、てゐが言っていることが理解できなかった。
 それは兎達も同じらしく、誰も一言も発さずに、話の続きを待っていた。

 困惑の空気を払うかのように、てゐは一転軽い調子で、紙芝居の絵をこつこつと拳でノックし、

「ここで諸君らに思い出してもらいたいことがある。八日前に行われた、例月祭のことを。今年はお米が大豊作。というわけで兎達は皆、祭りの晩に張り切って餅をついた。その結果、餅も団子も一夜で食べきれない程大量にできてしまった。その日から我々の食卓は、餅三昧に団子三昧。おかわりを禁じられた経験はあっても、おかわりしないのを禁じられた経験は初である。毎日いくら食べても無くならないし、調理法を工夫しても飽きてしまう。そんな中、ある英雄的行動を取った兎がいたのを覚えているだろうか、作りすぎた餅を固めてカツラをかぶせ、『兎の生首』人形をこしらえて、少しでも食べる量を減らそうとした者のことを」

 ざわ……ざわざわ……。
 ようやく兎達の間に、さざめきが起こる。

 鈴仙はまだ頭が追いついていない。

「もしやと思って、私は記憶を手繰り寄せてみた。これでも長く生きているため、月の都についてはいくらか知識がある。月というのはどこまでも『穢れを嫌う』社会。誰かが怪我をして血を零すだけで、そこらが穢れてしまうため、わざわざ血がたくさん流れないような大がかりな仕掛けが都全体に施されているという。これも月の民の科学力の賜物といえよう。そして月の兎――玉兎と呼ばれているのだが、それらは月で死ぬ際にほとんど血を流さず、その穢れの薄い死骸の肌は、餅にそっくりなのだという」

 ざわめきが大きくなっていく。
 隣に座る者と議論を始めている兎の姿もちらほらと見える。
 てゐはその様子を満足げに眺めながら、

「ええ、わかる。わかるわ。いくらなんでも『餅と兎の死体を取り違える』ようなことが有り得るのか、と諸君らは思うかもしれない。でもそれは、地上の兎と月の兎の違いについて知らないからに他ならない。例えば我々、地上の兎は嗅覚と聴覚が鋭敏であり、視覚はそれほどでもない。これは我々が妖怪兎になる以前、ただの獣だった頃から受け継いでいる特徴である。対して、玉兎というのは視覚が物凄く優れており、個体によってはその波長まで見分けるということができるそうな。まぁそれはそれとして」

 てゐは自分の顔の真ん中に、人差し指を当て、

「我々は餅と兎の外見がいくら似ていても、『鼻』で嗅ぎ分けることができる。何か物騒なことが屋敷の中であったら、優れた『耳』で察知することができる。仲間の死などという事件が起これば、ただちに多くの兎が嗅ぎつけ、現場に駆けつけるだろう。しかし、このへにょりんは玉兎であったため、地上の兎よりも、ちょぉっと……いや、実際普通に鼻がよくなかった。なので扉越しには、餅の匂いに気付かなかった。なので彼女は『それ』を見た時、首の切れた死体と勘違いして、大慌てで鍵を取りに戻ったのだが……」

 紙芝居の真ん中で、語り部はくるりとターンする。

「なんとなんと、彼女が目撃したのは正確には『餅の生首と、気を失っていた兎の下半身』だったのだ! はい、そこ! 下半身起立!」

 一匹の兎がてゐに指名され、観衆の中から立ち上がった。
 茶色の髪をしたその兎は、おもむろに頭に手をやって、ずるりと髪を『脱いだ』。

 どよめきが起こる。
 彼女のカツラが取れた後に現れたのは、三つ編みの黒髪……。

 ――えええええええ!?

 鈴仙は吃驚した。
 なぜなら立っているその兎は、確かにあの『花子』そっくり……いやまさに花子そのものに見えたからだ。

「では、今回起こった事件の全貌について語るとしよう。この花子は7:30に終わった朝食の後、倉庫の整理に行っている。なぜかというと、餅で作った兎の頭というしょうもない代物であっても、やはりそこは元来貴重な食物。煮て食べて供養できないかどうか、調理場に持っていって調べるためだ。倉庫の扉と木箱の鍵を渡したのは、もちろん我が輩である。ちなみに、命令したのも私だった。さてそこに立っている花子は、困ったことに好奇心が旺盛だった。どうせなら目当ての餅を木箱から取り出すだけではなく、他の木箱も開けて中を見てみようとしたのだ。そして、その中から玉兎であるへにょりんの持ち物を見つけ出したのである。その中に、こんなものが混じっていたそうな」

 てゐは服のポケットから、何かを取り出して兎達に見せた。

 瞬間、鈴仙は脳髄に雷を落とされたような感覚を味わった。
 ようやく、あの倉庫に兎の首ちょんぱ死体が出現した原因を悟ったのだ。

 絵の前に立つ兎は、『掌に載るサイズの正四面体』を掲げて見せる。

「これ、月の使者が使っている『まきびし』のようなものらしい。ここにある出っ張りがスイッチになっていて、ひねると近くにいる者を感電させ、一時的に気絶させてしまう仕掛けだという。それを知らなかった花子はスイッチをいじってしまって……その場でぶっ倒れてしまったのだった。そして倒れると共に、側に安置していた餅の生首を床に落としてしまった。それをあの小さな小さな嗅ぎ……いや、覗き穴から覗くと……じゃん!」

 てゐは紙をめくった。

「こうなるのだっ!!」

 おー!
 
 兎達の間に感心の声が上がる。
 鈴仙は、その場にへたり込んでしまった。
 
 うつ伏せになった生首と、その側に横たわる下半身。 

 紙に書かれたその絵の構図は、まさに鈴仙が目撃した第一の『死体』をそっくり再現していたからだ。
 てゐは座りかけた三つ編みの兎を指さし、

「花子! あんたはまだ立ってな! 要反省! さて、ここでそこの悪戯兎の罪についてもう一つ明かしておこう。すなわち、扉が施錠されていたトリックである。内緒で他の木箱の中身を確かめて、それに夢中になっているところに、誰かがいきなり部屋に入ってきたら大変である。そこで花子は猿知恵ならぬ兎知恵を働かせ、存在しないはずの内鍵を作りだしたのだ。その鍵とはこれである」

 じゃーん、とてゐが取り出したのは、鈴仙にとっても見覚えのある弓だった。
 確か、輝夜が永琳の昔の私物ということで、木箱の中から取り出していたものだ。

「これは師匠、つまり八意永琳が持っている弓の一つである。当然、強弓であり、扉のつっかえ棒としては十分である。鬼でもなければ、曲げることはできないだろう。これを引き戸にしっかりとはめていたために、彼女が気絶した後でも扉は閉まったままであり、へにょりんは鍵がかかっているのだと勘違いしてしまったのだ。ちなみにその時、このへにょりんはかなり扉を乱暴に扱ったらしく、その物音で花子は目を覚ましたらしい。へにょりんはすぐにその場から去ってしまったため、部屋の中の下半身が動き出すところを目撃することができなかった。一方の花子は、こっちはこっちで自分が居眠りしていたのだと勘違いし、慌てて師匠の弓を木箱に戻して、他に開けていた箱の蓋も閉め、当初の目的であった餅製の生首を持って部屋を飛び出した。これらの作業を完遂するのには、五分もかからないだろう。そして、別の道を通って戻ってきたへにょりんは、彼女と出くわさずに倉庫へと戻り、死体が消えたと勘違いしたのだった」

 立ったままの三つ編みの兎は、皆の視線を浴びて、恥ずかしそうに身を縮めていた。
 てゐは彼女をニヤニヤとした目で見据え、

「ちなみに花子は自分の悪事がバレやしないかと、もう一度倉庫に戻っている。俗にいう、犯人は現場に戻ってくるというやつである。そして、へにょりんはその際、この兎に会って催眠術を使用して尋問したらしい。その内容については私も、想像する他ない。おそらく重要人物とみて、知りたい情報を尋ねたことだろう。だが花子に『死体を見たか?』だとか質問したとしても、Noと言うに決まっている。なぜなら、彼女は餅については心当たりがあっても、死体などは全く頭になかったからだ。なのでへにょりんはそこにミステリーを見出したのである」

 幸いなことに、兎達は紙芝居に夢中で、最後方にいる鈴仙の方を振り返ったりするものはいなかった。
 もし振り返ったら、ぺたんとお尻を地面につけた、顔面蒼白の玉兎を目撃することができただろう。

 鈴仙は催眠で尋問した時の内容を思い出していた。
 あの時、花子が『わ―7』に来た時刻は大体明らかになったものの、そこから整理を終えて出た時刻については、覚えていない、と証言され、さほど重要視してもいなかった。なぜなら、鈴仙は花子と出会っていないため、自分が『わ―7』を覗く以前に、花子は部屋を出たのだろうと、勝手に推測していたからだ。
 しかし、たった今明かされた通り、鈴仙が見た死体が気絶した花子だったとすると、根本的に事件の全体像を考え直さなくてはならない!

「以上の仮説に私がたどりついたのは、鈴仙があの倉庫の扉にある穴を『覗き穴』と言っていたからである。だが知っての通り、あれは『嗅ぎ穴』である。中に入らなくても外から臭いを嗅いで、中の様子を確かめるために使うものだ。火事があったり薬品が漏れていたりしたら大変だからね。この館であれを『覗き穴』と勘違いをするのは、地上の兎以外の存在。すなわち、このへにょりんか、あるいは世間知らずの姫様あたりになるが……。というわけで私は、遣いに出した花子を見つけて部屋の鍵を返してもらい、厳しく尋問した結果、へにょりんが見た首の切れた死体が、小さな穴から覗いた餅の生首と花子の体の一部である、と推理できた。餅と兎を間違える。もし、それが真実だとすれば、これほど笑えることはない。だがしかし、そんなことが本当にありうるのだろうか? いくら玉兎と地上の兎が違っていたとしても、本当に? なので私は……」

 ニタァ、とてゐは愉悦にまみれた、顔中をとろかせんばかりの笑みを見せる。

「実際に似たシチュエーションを用意して、確かめてみることにしたわ。餅を使って、同じような兎の人形をこしらえ、死体っぽく造ってみた。ただし手足の分が足りなかったために、しかたなく切られた風に細工をしてみた。ついでに断面にザクロの汁を塗って、それっぽくしてみた。それが昨晩、丁の字廊下で発見された猟奇的な死体事件の真相である! その結果、見事鈴仙は黒い三つ編みのカツラをかぶせられたお餅を、花子の死体とみなしたのであったー!」

 えええええええ!?
 聴衆が驚きの声をあげる。それほど鼻がいい兎達にとって、信じ難い実験結果だったのだろう。

「ここで決め手となったのは、師匠、すなわち八意永琳の存在だ。彼女に現場の確保と検死を任せ、遺体に一切触れさせないようにしたことにより、へにょりんは自らの手で死体を確かめることができなかった。彼女は全面的に、永琳の報告を信用したのであった」

 ――師匠ーっ!?

 と鈴仙は声を出すこともできない状態で振り返る。
 月の天才は何食わぬ顔で、水飴をこねていた。

「師の名誉のために言っておくが、彼女は嘘をついていない。『とうに死んでいる』、当たり前である。だって餅だし。もちろん米つぶになる前は生きていたのだろう。彼女は律儀にカルテまで書いてくれた。名前は『花子』だったそうだが、餅に花子と名付けてはいけない筋合いはない。死因は切られたことによるもの。もちろんこれは日本刀や斧でやられたわけではなく、兎の使う鎌で収穫されたことをさす。可愛そうなへにょりんは、それに全く気付かず、大真面目に酷さに顔をしかめていたそうな。私としてはさっさとネタ晴らしをしたかったのだが、お餅殺しの犯人を追い続ける彼女があまりにも面白かったので、影ながら見守ることにした」

 どっ、と兎達の間で笑いが起こる。

「名探偵は事件を単純化することで解決し、迷探偵は事件を煩雑にすることで迷宮入りさせる。なんともありがた迷惑な話ウサ。今回の紙芝居の教訓は、こんなところであろう。ちなみに他の小道具についても解説しておくと、第二の事件の際に現場に集まってくれた協力者の兎達には、泣き真似をしてもらうためにワサビ漬けをたっぷり服用してもらった。中には口に含みすぎてのたうちまわっていたものもいたが、まぁとにかく協力ご苦労様。他の皆さん、夕飯の献立からワサビ漬けがなくなったのはそれが原因です。ちなみにへにょりんは事件の後も真相を探るべく、姿を隠して永遠亭内をうろついていたけれど、綺麗好きで潔癖症の彼女はいつも石鹸の香りがするから、隠れていてもバレバレでした」

 やんややんやと、歓声や口笛を受けながら、てゐはいよいよと紙芝居を締めくくる。

「というわけで諸君、幽霊兎などに脅える必要はないし、あいつのことを怖がる必要も全くないウサ。あれはただの月から逃げ出してきた、おっちょこちょいのカッコ悪いへにょり耳の兎でしかないんだからね。っていうかあれほど悪戯に引っかかりやすいやつもいないから、みんな試してみるといいよ。例えば私がこの前、廊下をツルッツルに磨いて転ばした時は、何を勘違いしたんだか『私もこれくらいしっかり掃除しないと』と妙に張り切って……」

 乾いた破裂音が、他の音を消し去った。

 てゐは口を開けて固まったまま、演説を止める。彼女の髪の一部がなびき、千切れて飛んでいくところだった。
 鈴仙は人差し指を構えたまま、その兎の眉間に照準を合わせる。

 今度は外さぬように、しっかりと。 

「というわけで今朝の紙芝居は終わり! 次回に乞うご期待ー!!」

 てゐは一目散に、竹林へと逃げ出していく。
 
 その後を、復讐の狩人と化した鈴仙は、全力で追いかけた。

 永琳は引き留めることなく、ただ肩をすくめただけだった。





 ※※※※※




 あああああああああああああ!!

 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい!!
 いっそ首を切られて死にたい!
 けどその前に、

「あの兎、ブッ殺ス!!」

 鈴仙は竹林を飛翔する。
 毒づきまくりながら、暗緑の藪から枝へと跳ねる白い影を猛追する。

 意志が弱い、と言われたことがあった。冷めたところがある、と言われたこともあった。
 その意味が今はわかる。かつてない強い意志が、全細胞に燃料をつぎ込んで燃やし続けている。
 なけなしの自制心を、暴れる感情が全て粉砕していく。

 脳裏で鈴仙は、自らの推理を思い返した。

 落とし穴を作ったのは、鈴仙自身だ。
 初めに目撃したものを、死体と勘違いしてしまったのが全ての発端だった。
 そして第二の事件も、同一犯によるものだと勘違いしてしまい、そのために容疑者を一人とみなしてしまったのもまずかった。兎達と師匠の演技力にすっかり騙され、現場に集まった者達全員が共謀していたという発想も浮かばなかった。

 兎は誰も殺されておらず、全て己の妄想だったと判明した瞬間の気持ち。
 穴を掘って入りたいどころの騒ぎではない。宇宙を漂う粗大ゴミに紛れて身を隠したかった。

 しかし! それにしても餅の生首とは!

 せっかく一生懸命考えて、大真面目にシリアスな推理を展開したっていうのに、なんなんだそれ!
 確かに毎日お膳に餅を使った料理が上るのに、餅をついているものが誰もいないのは不思議だったけど、永遠亭で自分が意識を取り戻す前に、兎達が余り過ぎた餅で生首を作っていたなんて知る由もない。
 確かに兎に比べて鼻はよくないかもしれないけど、そもそも自分の視力と能力が戻っていさえすれば、絶対に波長の違いで見分けることができたのだ。
 たまたま……たまたま阿呆な推理をしてしまっただけだ。

 花子が悪い。
 勝手に人の荷物を漁って、勝手に気絶してしまったのが悪い。

 師匠が悪い。
 いつもと変わらない真顔で、餅の検死なんてしやがったのが悪い。

 姫様は……いや、姫様も悪い。
 思わせぶりな能力と言動で、私をたぶらかしたのが悪い。

 しかし誰よりも罪深いのは……!!


「てゐーっ!!」


 喉を嗄らして怒鳴る。
 鈴仙はいつの間にか、竹林の開けた場所に出ていた。
 追い続けていた白い影は消えている。いつもより激しく血走った目で、鈴仙は周囲を探り、

「どこにいるの!? 出てきなさい!」
「ここよー」

 顔を上げる。
 背の高い青竹のてっぺん付近にしがみついている、兎の姿が目に入った。

 すかさず早撃ち。
 雑な射撃だったため、照準が狂って、隣の竹が吹き飛んだ。

 ぴょーん、とてゐは別の竹に移動し、愉快そうに尋ねてくる。

「なんで怒ってるのー? 推理が外れたことの逆恨み?」
「そうよ!!」

 恥じることなく開き直り、鈴仙は肯定して指を構え、再び撃つ。

「わかっていたなら、もっと早く教えてくれればいいじゃない! 何だってあんな真似したのよ! 師匠や兎達の前で大恥かいた! 私の立場が無いわ!」
「そんなの最初から無いも同然じゃん」
「うるさいうるさいうるさいー!!」

 羞恥心をエネルギーに変えて、四方八方に撃ちまくる。
 だが、てゐの姿は捕えられず、竹がいくつか折れただけだった。

 やがて息を切らした鈴仙は、右手を下に向け、周囲を睨み渡す。
 緑の中に白い影がないかを探した。
 探しながら、呼吸を整える。激昂しながら全力で飛び続けたためか、心臓がズキズキと痛んだ。

 ――落ち着け……落ち着いて……仕留めてやる。

 かつての自分の感覚を、鈴仙は徐々に取り戻していた。
 月の使者のエースと見なされていた頃の自分。あくまで冷静に任務を完遂することだけを頭に入れていた玉兎。

 てゐは今も林のどこかに隠れながら、こっちを見ている。その気配がある。
 どこから仕掛けてくるか、そのタイミングさえ読めば、絶対に当てられる。

 視界の端で、茂みが動いた。
 鈴仙は即座に反転し、撃つ。
 だが飛び出してきた影は、兎ではなく、こぶし大の袋だった。
 空中に広がった灰褐色の煙が、顔の近くまできて、
 
「へ……へーくっしょん!!」

 鈴仙は思わずくしゃみをする。
 コショウだ。古典的でくだらない罠だ。
 こんなものに引っかかってしまうなんて……。

 突然、背筋に冷たいものが走った。
 あの狡猾極まりない兎が、追われるまま闇雲に逃げるだろうか。
 
 ――まさか……!

 鈴仙は忙しなく視線を左右に走らせた。
 どこを見ても、目に入るのは竹ばかり。その竹に八方から見つめられているような気がする。
 追い詰めているつもりが、気がつかぬうちに狩る側から狩られる側へと変わってしまったのでは。

「くぅ……!」

 迂闊に動けなくなった鈴仙は、歯噛みした。
 奥歯が砕けそうになるくらい悔しかった。
 絶対どこかにいるはずだ。意地でも見つけ出して、目に物を見せてやる。
 玉兎をバカにするとどういうことになるか、骨の髄まで知らしめてやる。

 ぽつり、と雨が首筋に当たった。
 鈴仙の苛々に拍車がかかる。
 雨は大っ嫌いだ。地上の雨は、穢れに慣れない玉兎から、急速に力を奪う。
 大降りになれば、もう飛ぶこともできない。状況は不利になる一方。

 けれども今、鈴仙の頭は冴えきったままだった。
 宿敵を仕留めたい気持ちの方が勝っている。
 雨が強くなる前に、早く、この林の中から、あいつを見つけなくてはいけない。
 見つけなきゃ、見つけてやる。
 絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に……。

 念じ続けるうちに、その瞬間は唐突に訪れた。

 濁った緑で占められていた空間に、突然いくつもの『波』が生じたのだ。
 それはかつて、鈴仙にとって、最も見慣れた光景だった。

 ――力が……戻った!?

 鈴仙は瞬きして、目をこする。
 周囲を取り巻く波長は色濃く見えたまま、薄くなることはなかった。

 すぐに鈴仙の目は、竹林の中に潜む波長の短い生物を捕えた。
 奴だ。間違いない。障害物があっても、はっきりと波長が見えている。
 これなら……
 
 ――私は、戦える!

 鈴仙はわざと、あてずっぽうに撃ちながら、気付いていないように振る舞った。 

「どこ撃ってんのー?」

 愉しそうな声が雨の中を縫って届く。
 その一方で、極短の波長が、竹林を高速で移動しているのを視認できた。
 鈴仙を中心にして、円を描くように。

 しかも合間に、ぽんぽん手裏剣のようなものが飛んでくる。
 冷静に自分を叱咤する。これは挑発だ。当たってもせいぜいかすり傷だし、かわせない速度の攻撃ではない。
 こっちをからかっているのだ。そして効果は確かにある。
 月での最新の戦闘に慣れた自分にとって、この攻防はあまりにも原始的すぎる。
 惑わされるな。

 鈴仙は回避を続けながら、タイミングを計った。
 射撃というのは本来、構えて撃つという準備時間に左右されてしまう。
 なのでその時間を限りなく短くし、同時に正確性を磨くという修練を重ねなければならない。
 指から直接、思念の弾丸を撃てる鈴仙であっても、やはり制約を受ける。
 相手が素早い上に、これだけ遮蔽物が存在すれば、命中率は著しく下がる。

「こっちこっちー」
「出てきなさい! 卑怯者!」

 鈴仙は翻弄されているふりをしながら、その一瞬を待つ。
 ベストなタイミングで、動き回るてゐを捕える隙を。

「そんなんじゃ全然だめねー」
「師匠もこれじゃガッカリするだろうねー」
「あんだけ大口叩いたのに、大外れだったんだからー」
「もうお屋敷にいられないかもねー」
 
 好き放題いってくれる。
 だが構わない。
 最も得意な射撃ポイントを、てゐの波長が通過する、その直前。

「言われなくても……!!」

 鈴仙は撃った。
 タイミング的にかわせないはずだったが、どんな勘を有しているのか、てゐは「甘い!」と一瞬早く跳んでいた。
 けれどもその直後、鈴仙の両目が赤く輝き、

「出ていってやるわよ! あんたを丸焦げにしてからね!」

 溢れ出た眼光が、鮮烈な紅の光線となって竹林を横切った。

 空中でリズムよく動いていたてゐの影が、突然軌道を変える。
 と同時に、その波長が大きく乱れた。
 そのまま、小さな影は竹林の中に落下していく。

 ――当たった!

 鈴仙はすかさず、竹の間を疾駆する。
 
 今の技こそ、鈴仙が今日まで封じられていた真の力であり、奥の手だった。
 普通の射撃であれば存在するタイムラグが、この攻撃にはない。
 直接、視界に捉えたものを焼き滅ぼすことができるからだ。
 照準のための時間はいらず、弾速は音を優に超える。最速にして必殺の技だ。

 地面に倒れたまま動かない、てゐの姿が目に入った。
 強敵を仕留めた喜びに、かつてない高揚感が鈴仙の心にあふれる。

 故に、警戒心が働かなかった。
 何かが足に触れた、と思った瞬間、鈴仙の体は大きく空中に投げ出された。

「なぁっ!?」

 気付けば鈴仙は、荒縄で作られた網の中で、逆さまとなっていた。

 上下反転した視界の中で、ぴょこん、と兎が立ち上がる。

「ちっちっち。詰めがあま~い」
「くぅううう!!」

 挑発的に指を振られ、鈴仙は屈辱の呻き声を発した。
 悔しい。悔しすぎて頭がおかしくなる。
 地上の兎に、玉兎のエースだった自分がここまで虚仮にされるなんて、プライドがズタズタだ。

「あんたさえいなけりゃ……あんたさえいなけりゃ……!」

 身動きが取れないまま、感情だけが逸り、恨み節が口をついて出る。

「なんのこと?」
「あんたさえいなけりゃ、私は永遠亭にいられたのに!」

 ぷーっ、と兎は吹きだした。

「あはは、それなら大丈夫。だって今頃鈴仙は、永遠亭の人気者に代わってるから。戻ったら大歓迎だよきっと」
「何よそれ! あれだけ恥をさらして、戻れるはずがないでしょ!」
「………………」
「私をはめて、笑いものにして、追い出そうとしたんでしょ! この大嘘つき!!」
「嘘つきは鈴仙の方でしょ」

 きっぱりと言い返され、鈴仙は二の句が継げなくなった。
 てゐは変わらぬ笑顔を見せたままだ。ただしその細めた目は、誰にも開いていなかった、鈴仙の心の奥を見通していた。

「とっくに私は気付いてるわ。あんたが本当は寂しがり屋で、居場所を見つけようと必死で、だから気丈に振る舞ってただけだって。けど全部逆効果。兎は気を遣って話しかけられなくて、みんな怖がってた」
「………………」
「気付いてなかった? 架空の犯罪に躍起になってるあんたは、兎の群れに迷い込んだ狼みたいに思われてたんだよ? 地上の兎は、あんたが思うよりもずっと臆病で、警戒心が強くて、仲間思いなんだから」

 雨にまみれた地上の兎は、両手を頭の後ろに組み、背を向けて、

「でも、もうそんなことにはならない。みんなあんたを愉快な仲間だってわかったから、受け入れてくれる。師匠も弟子にしてくれるはず。だから気兼ねなく、永遠亭に帰れるわよ。まぁ偶然そうなっただけなんだけどね」

 てゐが手を動かすように見えた瞬間、鈴仙はいきなり地面へと落下した。
 背中を打ち、一瞬呼吸が詰まる。

 我に返って起き上がると、網は綺麗に広がっていて、もう鈴仙を拘束していなかった。
 手裏剣が、網を断ったのだろう。
 鈴仙はてゐの姿を探したが、すでにいなくなっていた。
 すぐにでも追うことはできる。だが……。

「………………」

 鈴仙はしばらくその場から、動けなかった。

 雨が額から滴り落ちるほど、強くなってくる。
 しかし、雨水が髪に絡みつくのも、服が湿って重くなるのも、まるで意識の外にあった。

 先程言われたことが、頭の中を反響し続けている。

「帰れる……私が……」

 鈴仙はその言葉を反芻する。
 今まで、自分の心の中に『帰れない場所』しか存在しなかったことに、気付かされた。
 それは月の都という、裏切って逃げてきてしまったあの世界だ。

 他方で永遠亭は、鈴仙にとって、『帰る場所』ではなかった。
 あくまで、住ませてもらっている場所であった。
 そこに根を下ろす勇気が、果たして自分にあっただろうか?
 願望があっただけだ。そして願望の裏に、月に対する罪悪感が残ったままだったからこそ、心が宙ぶらりんだった。
 じゃあこれからは、どうすればいいのだろう。 

 とそこで、竹林の奥から、何かの『波長』が届く。

「………………?」
 
 鈴仙は歩いてそちらへ向かい……間もなく唖然とすることとなった。
 茂みの中に倒れている、兎の姿を発見したのだ。
 
 間違いなくてゐ。しかも意識を失っている。
 その原因を鈴仙は悟り、全身の力が抜けるのを覚えた。

 ――命中してたんだ……。

 てゐはやはり嘘つきだった。
 立っているだけでもやっとなのに、強がって笑みを造っていたのだろう。
 今なら煮るなり焼くなり好きにできる。復讐の機会にはもってこいだ。

 けれども鈴仙は、動けずにいる彼女を前にして、何もすることができなかった。
 思い出す。はじめて地上に下りたときのことを。
 竹林の中を一人でさまよい、雨に打たれて、食べ物も尽いて、疲れて倒れてしまって……。

「………………」

 違和感に気付いた。

 視界の中で倒れた兎が、雨に打たれるうちに変化している。 
 短かった波長が、徐々に長く。くしゃくしゃだった髪の毛が、水を吸ってまっすぐに。 
 その姿は、どこかで見たようなことがあって……。


「え…………」

 
 鈴仙の脳裏に、ある光景がよみがえった。

 
 そして思い出す。

 あの時『倒れていたのは自分の方だった』、と。




 ※※※※※




 ――なんだろう、あれ……

 冷たい泥に口を塞がれながら、レイセンはぼんやりと考えていた。

 地面に横たわっている。その現実が理解できても、実感できない。
 もうとっくに、どこからどこまでが自分の体かわからない。
 穢れが体をよじ登ってきた辺りから、目の前が霞んでいる。
 哀しみに満たされて、何も感じられなくなっている。

 でも、

 ――なんだろう、あれ……

 鈴仙の開いたままの眼が、焦点を合わせようとする。
 斜めに傾いた世界の中心に、竹とは異なる波長があった。
 
 長い、長い、植物のようだけど、それよりもずっと長い、本当に存在しているかどうかもわからない。
 そんな影が雨の中、薄靄の中に立って、上を見ている。

 ――あれって、幽霊かしら……

 鈴仙は『その兎』の姿を目に映しながら、心の中で呟く。
 影は上を向いたまま、じっと動かずにいる。 


 ――ああ……そうか……。


 鈴仙は理解できた。

 あの兎は、泣いているんだ、と。

 哀しいことがあったのだろう。独りでいるのが寂しいのかもしれない。

 その気持ちが解る。
 穢れた雨の中、彼女の波長を通した叫びが、心に伝わってくるから。

 鈴仙は波長を飛ばしてみた。
 体が全く動かない状態では、それくらいのことしかできなかった。

 ただ、知ってほしかったのだ。
 私も、哀しくて、寂しくて、ずっとここで泣いていたんだよ、って。
 もう何もこの目で見たくなくて、死んじゃってもいいって思ってたんだよ、って。
 私も幽霊になったら、貴方の友達になれるのかな、って。
 

 瞼を閉じる。

 雨の音が変わる。

 顔の側で泥が跳ねて、

 無意識のうちに、鈴仙の瞼が薄く開く。



 小さな小さな、素足が目に入った。


 

 ※※※※※




「まさか……」

 鈴仙は茫然としていた。
 地面に倒れ伏し、雨に打たれたまま動かずにいる、一匹の妖怪兎を前にして。

 自分だけが見えて、信じてもらえなかったものは全部、嘘だった。
 恥を忍んで、それを受け入れるしかなかった。
 だって、死体なんてなかった。犯罪なんて行われていなかった。
 この目で見たものは、全部自分が誤解していただけで、虚構の世界の話だった。

 でも、あの記憶だけは……嘘じゃなかった?
 幻じゃなかった。幽霊兎は本当にいた。
 
 そして今まで、同じ屋敷で、一緒に暮らしていたのだ。

「てゐ…………」

 鈴仙は記憶を取り戻していた。
 今まで、衰弱した当時の自分が、どうやって永遠亭にたどりついたのか、どうしても思い出せなかった。
 極限状態にあったから記憶が無くなったのだろう。そう自分を納得させていた。
 でも違ったのだ。自分は『幽霊兎』に、命を救われていたのだ。

「なんで、なんですぐに教えてくれなかったのよ……」

 鈴仙は膝をついて訴える。

「だって……あんただって思うはずがないじゃない! なんで言ってくれなかったのよ!」

 手を伸ばし、濡れた体を揺さぶる。
 ぬるりとしたものが、掌についた。

 血だ。

 雨よりも冷たい戦慄が、全身を通り抜ける。
 ここでは月の庇護はない。放っておいても、傷は治ってくれない。
 どうすれば? 血を止めるんだ。

 鈴仙は急いで、身に着けていたネクタイを外した。
 体を揺り動かさぬようにしながら、出血箇所を探す。 
 あった。肩から血が流れ続けている。ネクタイを巻きつけて、強く縛る。

 まだ傷口があった。こめかみが切れている。
 こちらはそこまで出血していない。でも、痛々しくて、生々しい。

「てゐ……目を開けて……死なないで……」

 呼びかける。
 まだ話したいことがたくさんある。
 連れて帰らないと。永遠亭に。
 
 鈴仙は上着を脱いで、てゐの体を背に乗せた。
 軽い。こんな小さな体で、私を運んでくれたんだ。
 逆の立場で、私にできないはずがない。
 でも……。

 立ち上がった鈴仙は、その光景に愕然となった。
 雨と竹だけが、どこまでも終わることなく続く、残酷な光景が広がっている。
 ここは『迷いの竹林』。立ち入るものを迷わせ、狂わせ、やがては竹の苗床としてしまう。
 一度道を外れてしまえば、帰りつくことはできない。

「誰かー!」

 鈴仙は声を張り上げ、助けを呼んだ。
 必死で耳を澄ませる。しかし何も聞こえない。雨足ばかりが強くなる。

「誰かー! 来てちょうだいー!」

 もう一度、鈴仙は叫んだ。
 その声は竹林の奥に吸い込まれ、何ももたらしてはくれなかった。
 
 打ちひしがれた鈴仙の頬の側に、だらりと手が垂れる。
 首を振って、弱気を振り払った。

 誰かの死なんて、もう見たくない。
 誰かを殺す修行なんて、もうしたくない。
 誰かを救うことを学びたい。
 だから私は、地上に下りたんだ。
 
 諦めるものか。
 こんなものではない。私の力はこんなものじゃない。
 本気だ。私は本気なんだ。
 もう二度と仲間を死なせない。

 そのためにできることが、今ある。
 もう一度、心の底から、


  

 誰か来て!!!




 鈴仙は吠えた。
 全身に残る、ありったけの力を使って、思念を『波』に乗せて飛ばした。

 周囲の竹が、放射状に吹き飛んだ。
 爆風を受けたかのように、雨粒が空間から退散した。
 
 玉兎の叫びはまだ続く。
 林を抜けるくらい強く。山を越えるくらい強く。月まで届くくらい強く。

 そして、

「誰か……来てよぉ……」

 鈴仙は嗚咽を漏らしながら、その場に膝をついた。
 もう力が残っていない。後自分ができることは祈るだけだ。

 祈りながら……歩くだけだ。

 強く目を閉じ、もう一度自分を叱咤する。
 休めば歩けるはずだ。もう一度、力を使えるかもしれない。
 意識がある限り、希望を捨てるものか。意識がなくなったって、必ずこの子を連れて、永遠亭に帰るんだ。

 鈴仙は再び、瞼を開けた。

 紅梅色の服の裾が、地面の上に広がっていた。

「………………?」

 頭をゆっくりとを持ち上げる。
 水を吸って垂れた髪の間から見えているのは、

「泣いている声がしたから、誰かと思えば……」

 喉が震えて、うまく声が出てこなかった。

 そこに、古風な傘をさした、黒髪の姫君が立っていたから。

「姫様……」

 鈴仙はかすれた声で、必死に伝えようとする。

「てゐが……てゐが……」

 輝夜がうなずいて、その場に膝をつける。赤と紅が泥にまみれることを厭わずに。
 そのまま何も言わず、てゐを背負っていた鈴仙の下に、彼女は背中を差し入れてきた。

「ひ、姫様?」
「さぁ、帰りましょう二人とも」 
 
 こんな時にも、あくまで優雅に彼女は言った。
 月の兎と、地上の兎を、その背に乗せて。
 

「そんなに時間はかからないわ」

 
 莫大な力が、迷いの竹林で解放される。

 須臾をあやつる、という意味を、鈴仙はその身で思い知った。
 









 (9)永遠の罰はいつ消えた?





 永遠亭内に数多くある使われていない六畳間。

 布団に寝かせられた兎は、頭に包帯を巻いて、目を閉じている。
 目を覚ます気配はいまだなかった。しかし呼吸は落ち着いている。
 そしてここは、診察室に最も近い部屋であり、いつでも容体の変化に対応ができる場所だった。

「熱があるけど、問題ないわ。傷口も深くない。直に目を覚ますでしょう」

 師の声は、何があっても決して揺らぐことはない。だからいつも、鈴仙を安心させてくれる。
 今回も張り詰めていた神経が、解きほぐされていくのを覚えた。

 輝夜に発見され、その背におぶさってから、鈴仙は意識が遠のくのを覚えた。
 そして我に返ると、もうそこは永遠亭の中で、目の前には腕組みした師が立っていた。
 姫の処置は的確だった。意識を失ったてゐの体を、『永遠』の繭で包み込み、保護していたのだ。
 永琳はすぐに、患者をこの部屋に運ばせ、適切な診断の元に治療を始めた。
 輝夜は服を着替えに行ったが、鈴仙はてゐの元を離れず、ずっと師の手際を見ていた。
 一挙手一投足、見過ごすことなく、全てを。
 
 そして今、処置が完了したところで、

「申し訳ありませんでした!」

 鈴仙はその場で土下座し、心の底から謝った。
 もし畳に穴が開いていれば、その分もっと頭を下げていただろう。

 気分はどん底だった。十分に冷やされた頭に、様々な事実がのしかかってくる。
 師匠に頓珍漢な推理を堂々と披露してしまったこと。
 主人たる蓬莱山輝夜を殺害犯呼ばわりしてしまったこと。
 そして、てゐに大怪我を負わせてしまったこと。

 どう贔屓目に見ても、重罪は免れない。これが月なら極刑でもおかしくはない。
 師にどんな言葉をかけられるか、恐ろしくてたまらない。
 鈴仙にとってそれを待つ時間は、まさしく永遠と喩えることができた。

「目はもう大丈夫なの?」
「ほえ?」

 まるで予想もしてないことを尋ねられたので、変な声が出た。
 畳から顔を持ち上げた鈴仙は、意味を理解してから、怖々としながら答える。

「治った……みたい、です」

 すると永琳は目を閉じたまま、「やはりね」といったそぶりで、わずかにうなずいた。

「外傷は私の薬で治癒を速めることができたけど、精神面には少し時間がかかった、ということかしら」
「……………………つまり?」
「貴方の能力が封じられていた原因には、心理的な要素が多かった。月での記憶が強迫観念となって、貴方の能力を半ば封じていた可能性が強かった。そのストレスが一気に解消するには、あのやり方が一番だったかもしれないわ。催眠療法よりも、だいぶ荒っぽい処置だったけど」
「まさか、今回の一連のことは師匠が考えたんですか」
「元はと言えば、貴方が餅を勘違いしたのが発端。その後の悪戯の発案者はこっちの兎。ちょうどいい機会だから、貴方にこの屋敷を違う視点から理解してもらえば、とは考えていたけどね」

 永琳は薄く瞼を開いて言う。表情はいまだ薄かったものの、目が明らかに笑っていた。
 それからまた無言の時間がしばらく続き、耐えきれなくなった鈴仙が、おそるおそる尋ねる。

「……叱らないんですか?」
「叱ってほしそうな顔で、そういうことを言うんじゃありません」
「…………」
「でも今の私は、褒めてあげたい気分かしら」
「そんな。からかわないで、本当のことを仰ってください」
「からかってるわけじゃないわ」

 続いて鈴仙の方を向いた永琳の眼差しには、一切冗談じみた雰囲気は残っていなかった。

「もしウドンゲ、貴方がずっと前にこの永遠亭に来ていて、あの推理を私の前で披露したならば、それは決して笑い話にならなかったでしょうから」

 その言葉が頭に浸透するまで、数拍の間を必要とした。
 理解が弾けた瞬間、鈴仙は息を呑むのをこらえきれなかった。

「そんな……まさか……!」
「大丈夫。輝夜は兎を殺さなかった。でも私が食い止めなければ、どれだけ命が失われたか、わからない。かつてのあの子は、それだけ狂っていたから」

 まさかの真実に、驚きが隠せない。
 鈴仙は固唾を呑んで、続きに耳をそばだてる。

「私と輝夜が月から地上に下りた経緯については、大体知ってるわね?」
「はい」
「その理由も、月の使者であれば知っているはず」
「蓬莱の薬を製造した咎……」

 永琳は小さくうなずく。

「では、それ以前のことについては、どうかしら」
「…………?」
「私が輝夜の教育係で、彼女が蓬莱人となる前のことについては、どれだけ主人から教えられた? 何も知らされていないのでは?」
「は、はい」
「そもそも、輝夜が蓬莱の薬を作ろうとしたのには、ある理由があった。あの子は月の民に愛されて育ったのではないの。むしろその逆。理由は貴方が糾弾したのと同じく、輝夜の須臾の力 。月の民はあの子を敬う一方で、常に疑いの眼差しを向けていた。蓬莱山輝夜は、生まれながらの容疑者だったのよ。……けどね……」

 月の民が畏怖する一方で、輝夜は彼らの疑いの眼差しが、月にとって良くないことだとわかっていた。
 自分を追い払いたいということを知っており、むしろその望みを叶えてやろうとしていたのである。
 当時の輝夜は純粋だった。純粋すぎたからこそ、その身に『永遠』の力が宿ったのかもしれない。

 彼女はむしろ自分の『永遠』は、月ではなく、地上のためにあるのでは、と考えた。
 穢れが絶えることなき大地を、自分が歩むことで、永久の楽園を創ることができるのではないか、と。
 故に彼女は、月の民が追放以外の刑罰が考えられぬ重罪、蓬莱の薬の服用という罪を犯すことに決めた。
 望みは叶い、輝夜は念願だった地上に降り立つことができた。
 薬を作った張本人である永琳は、輝夜の遠大な計画に心を打たれ、成功を祈っていた。

「でもね、この大地はあまりに大きすぎたの。輝夜の『永遠』は、自分の周りにいるほんのわずかなものにしか、与えることができなかった。今でもせいぜい、この永遠亭くらいにしか働かせることができない。それだけでも神に匹敵する能力とはいえるかもしれないけど、あの子にとっては到底望みに届かない結果で、挫折だった」

 鈴仙にとって、それは全く耳に新しい歴史だった。
 月では誰もそんなことを教えてくれなかった。もしかすると、輝夜と永琳を除いて、誰も知らないのではないだろうか。

「私と輝夜が再会した頃、あの子はすっかり変わり果ててしまっていた。病気だったのよ」
「病気……姫様が? でも蓬莱の薬は確か、あらゆる病を治癒すると私は聞いていました」
「体の病であれば、蓬莱の薬によって治癒される。ところが心の病は……」

 永琳は自分の帽子と、胸の辺りを順番に指さし、微笑む。

「どこにあるか見つけるのも難しいわ。体と切り離せないのに体から独立した一面も持っている。体が心の病を生むことも逆もまた起こり得る。そして前者は見えやすく、後者は見えにくい。絶望のあげく、静かに倦んでしまった輝夜はかつての純粋さを失って、永遠の牢獄の中でじっとしているだけになり……退屈を退屈とすら感じないほどの涸れっぷりになってしまったの」
「そっか……」

 鈴仙はその先に何が起こったか想像できた。
 なぜなら自分もまた心の病にとらわれ、救われたばかりだからだ。

「師匠が姫の病気を治療したんですね」
「いいえ」

 予想に反し、永琳は苦笑してかぶりを振る。

「私は時間に優る薬はないと診断し、輝夜の好きにさせていた。けれども永遠に慣れ親しんだ輝夜にとって、時間は心の万能薬になり得なかった。この屋敷の歴史を動かしたのは、私でも輝夜でもない……一匹の兎」




  ※※※※※




「永琳っ!!」

 指からフラスコが落ちた。
 過去の幻聴を耳にしたのではないかと、永琳は一瞬思った。
 
 しかし、部屋に飛び込んできたその少女の姿は、現実のものだった。
 破片が床の上で飛び散る音も、まるで聞こえていない様子で、彼女は抱えていたものを見せる。

「てゐが、息をしてない!」
「落ち着いて輝夜」

 永琳は高鳴る鼓動を抑え、彼女をなだめようとする。

「一体何があったの」
「いつもみたいに、私にちょっかいだしてきて、あまりにしつこかったから……! つい本気になって……!」
「貴方が? 本気で?」

 叱られた子供のように、輝夜は顔を歪めて、うなずく。
 しかし永琳が驚いたのは、彼女が本気で兎に力を振るったということではなく『本気となった』という事実そのものだった。
 輝夜の腕の中で、確かに兎が昏睡状態に陥っていた。

「早く診てあげて! このままじゃ、てゐが死んじゃう!」

 ぐったりとした悪戯兎の体を、永琳はすぐに受け取った。
 切羽詰まった様子で訴えてくる姫の目を見据えて、約束する。

「私に任せなさい、輝夜」
 
 永琳はまだ、動悸がおさまっていなかった。
 枯れているように見えた樹は、まだ根まで枯れていなかったという、真実を知ったのだ。

 永遠亭の歴史が、初めて動いた瞬間だった。




 ※※※※※
 



「それって、まるで……」
「そう。さっきの貴方は、当時の輝夜を見てるようだった」

 永琳は懐かしそうに、笑みをこぼす。
 
 鈴仙は信じられなかった。
 今の話が嘘だと思ったのではない。
 聞き様によっては、師匠でも治せなかった姫の病を、てゐが治した。
 そんな風に聞こえてしまったから。

「でも……」

 腑に落ちないことがある。

「なんで、てゐは私や姫様に、そんなに構おうと……」
「鈴仙」
「えっ」 

 誰に呼ばれたのか、わからなかった。
 この屋敷で、自分の名をそう呼ぶのは、てゐと永琳しかいないはずだったから。

 ところが振り返ってみると、半開きになった襖の陰から手招きしているのは、永遠亭の姫だった。

「おいでなさい。少し散歩しましょ」

 思わず師匠の顔を見る。
 彼女は微笑み、うなずくだけで許してくれた。




 ※※※※※




 鈴仙は両肩を縮めながら、とぼとぼと廊下を歩いていた。 
 目の前を、背中に垂れた輝夜の黒髪が、さらさらとなびいている。

 感謝か、それとも謝罪か。先に伝えればいいのはどっちだろう。鈴仙はそんなことばかり考えていた。
 いっそ、彼女の前に回り込んで、また土下座してみようかとも思った。
 何しろ――姫は知っているかどうかはわからないが、鈴仙は思いっきり彼女を狂気の犯罪者扱いしてしまったのである。
 これまた、いくら謝っても謝りたりない。

 いや、もしかすると輝夜はその復讐のために、これから自分を拷問部屋へと連れていくのでは……。

「ねぇ鈴仙」
 
 そしてこのように、どうして今はイナバではなく、鈴仙と呼んでくれるのかもわからないままだった。

「幽霊兎は見つかった?」
「一応、見つかりました……」
「よかったわね」
「はい……あの……姫様はずっと、真実を知ってらっしゃったのですか?」
「んーん」

 輝夜はのんびりと否定する。

「永琳から聞くまで、たぶん貴方が、イナバ達を殺した犯人なんだと思ってたわ」
「だぁっ!?」

 鈴仙は見事に仰向けにすっ転んだ。
 
「大丈夫? 滑るから気をつけなさい」
「はい……すみません、色々と」
 
 輝夜の手を借りながら、どっと力が抜けてしまう。
 だが彼女の言ったことは、あながち間違いとはいえない。
 元はと言えば、鈴仙が勘違いしなければ事件など存在しなかったのだから。

 そこで、ようやく御礼が言えた。

「迷いの竹林で、助けていただいて、本当にありがとうございます」

 手を取った状態で、頭を下げる。
 輝夜は珍しく、不満げな口ぶりで答える。

「気にする事はないわ。でも本当はね。鈴仙だけを連れて帰るつもりだったんだけど、仕方ないからてゐも連れて帰ってきてやったのよ」
「はぁ……」
 
 鈴仙は首をかしげた。
 どう考えても、自分よりもてゐの方が、重症だったと思うのだが。
 輝夜はなおも不満そうに――そういう仕草もやはり可愛らしいかったけれど――つん、と顔をそらし、

「雨が降った時は一緒に行きましょう、って言ってるのに、いつも一人で行くんだから。あの薄情兎は」
「………………」
「だから今度は、鈴仙と一緒に行こうと思ったの。で、どこにあったの?」
「な、なんのことかわからないんですけど」
「イナバ達のお墓よ。竹林に隠してあるらしいわ」

 その瞬間、鈴仙の中で、あの記憶が再び甦った。

「てゐはこんな天気の日に、いつも一人で誰にも知られないよう、墓参りに行くの」
「そっか……そうだったんだ……」

 鈴仙はようやく、疑問が晴れた。
 あの時見た幽霊兎、すなわち、てゐは、墓参りのためにあそこに来ていたのだ。
 そこで鈴仙を偶然見つけて、永遠亭に運んできてくれたのだろう。
 だからあんなに、哀しそうに泣いていたのだ。

「姫様……てゐのことについて、教えていただけませんか」

 鈴仙は永琳にぶつけられずじまいだった疑問を、輝夜に向けていた。

「今回のことで、全然わからなくなりました。あの子は優しい兎なんですか? それとも嘘つきなんですか? 波長は長いんですか? 短いんですか? 悪戯には何か意味があるんですか? それとも、ただの悪ふざけなんですか?」
「全部、起きたあいつに尋ねてみればいいじゃない」
「きっと、全部かわされてしまう気がするんです。これまでと同じように」

 今までずっと、邪魔な存在としか見なしていなかったあの兎。
 しかしながら、既に彼女は、鈴仙にとって最も興味深い存在に切り替わっていた。

 表だと思ったら裏があり、裏だと思ったら別の表が現れる。 
 あの兎はいつも、こちらの手に捕まらない位置にいて、逃げ出してしまう。
 悪戯でしか、自分に触れてこようとしない。
 表と裏、どちらが本当なのだろう。

「全部正解。そして、あいつはただの嘘つきよ」

 輝夜の答えは、単純にして明快だった。

「そ、そうなんですか」
「ええ。間違いないわ。周りの連中には小さな嘘を吐いて、自分にはいつもとっても大きな嘘を吐いているの」

 鈴仙は頭がこんがらがりそうになった。
 まるでとんちだ。一体どんな嘘なのか想像もつかない。
 けれども姫からその続きを聞き、謎の紐が緩んだ。

「答えはね。『自分が世界一幸運な兎だ』っていう『大嘘』を、自分に吐き続けているのよ」
「ど、どういう意味なんでしょうそれ」
「てゐの悪戯は、巡り巡ってされた者を幸せにする。でもあいつはそれを認めようとしない。自分の周りにいる不幸そうなやつらに、幸運を吸い取られているだけだって、いつも言ってる」
「と……とんでもない意地っ張りですね」
「ええ。だから、あいつが自分の危険を省みずに悪戯しているのを見ると、私は本当にムカつくの。死んじゃったらどうするつもりなのよ、全く」

 輝夜はまた眉をひそめて文句を言う。
 だがあっさりと表情が切り替わり、主従というより悪友に接するような顔つきで、

「悪戯には器用なくせして、悪戯以外で自分を表現できないんだから、不器用なやつよね」
「………………」
 
 鈴仙はうなずきながらも、なんだか笑いがこみあげてきてしまった。
 この姫が、その悪戯兎のことをどう思っているのか、その口ぶりから容易に計れてしまったから。

「でも結局、私もてゐの意地に負けてしまったわ。悪戯を仕掛け続けられて、永遠に浸るのを止めちゃった」
「はい。師匠から聞きました。きっと、とんでもない悪戯ばかりだったんでしょうね」
「そうね……でも、まさか本当に私の『永遠』に罅を入れられるなんて、思ってなかったわ」

 少し悔しそうに、そして嬉しそうに、輝夜は告白する。

「たった『二百年』、からかわれ続けただけなのにね」
 
 二百年。
 鈴仙はその時、心を縛っていた鎖の最後の一つが、断ち切られた音を聞いた。 

 月にいた頃に得た知識と印象が、今の一言を最後に、いつの間にかすっかり塗り替えられていた。
 永琳も、輝夜も、地上の兎達も――実際に出会ってみて、想像をはるかに超えたスケールの大きさを内包している。
 それが凄くて、羨ましくて、感心してしまって。

「私、ずっと永遠亭を見くびってたんですね……」

 ようやく、そんな一言が出る。
 輝夜が袖を持ち上げ、頭を撫でてくれた。

 鈴仙はようやく、月から背負ってきた重荷を下ろし、本物の安堵に包まれる自分を感じていた。






 (10)その遊びを誰が見ていた?






「そろそろ、てゐも元気になってるんじゃないかしら。永琳の薬は効き目が早いから」

 鈴仙と輝夜は、永遠亭の廊下を並んで歩いていた。
 永遠亭内を散歩してから、てゐが看病を受けている部屋へと戻る途中である。
 輝夜は鈴仙が月からここにやって来る前の永遠亭について、色々と面白おかしく語ってくれた。 
 どれもこれも楽しいエピソードばかりで、自分が来るまで、ここがどれだけ賑やかで愉快で平和な屋敷だったのかを、鈴仙は想像することができた。
 だからなおさら……

「姫様……やっぱり私不安です」

 鈴仙は歩きながら、素直に心情を吐露する。
 輝夜も永琳もてゐも、表面上はわからない、とても強い信頼と歴史で結ばれていることを理解した。
 他の兎達だって、きっとそれだけ多くの絆を結んで、この永遠亭の空気を守り続けてきたのだろう。
 その輪に自分も加わることができれば、と思うのだけど、それができるだろうか。
 それ以前に、あの臆病な兎達に受け入れてもらって、馴染めるだろうか。
 つきつめて考えるなら、本当に自分が永遠亭にいていいのだろうか。 

「大丈夫よ」

 相変わらず、輝夜の楽天的な言葉は、鈴仙の沈んだ気持ちを弾ませてくれる。
 しかし、

「貴方が日常を引っ掻き回してくれるおかげで、毎日が楽しくなりそうだから、いなくなっちゃ困るわ」
「姫様……それって、紛い物としての素質が、私の存在価値って言ってませんかね」
「何をおバカなこと言い出すのやら。そういう後ろ向きな考えはさっさと捨てなさい。もう家族なんだから」
「家族!?」

 思わず叫んでいた。
 衝撃的な言葉に、耳がピーンと縦に伸びているのを感じた。

「あら不満?」
「不満なんてとんでもないです! けど……でも……!」

 鈴仙は足を止めて、口ごもる。
 家族。それは仲間よりも自分に似合わない言葉だった。
 月にいる間だって、そんなものが持てるとは思わなかったし、地上に来てからはなおのことである。
 輝夜は月面を歩く様な足取りで進みながら、

「そのうち慣れればいいわ。時間はたっぷりあるし。イナバ達だって貴方に慣れるのに、もうそんなに時間はかからないでしょうし。幽霊兎のおかげでね」

 かつて、己の絶望を克服した永遠の姫は、振り向いて、片目をつむる。

「だから、簡単にここから足抜けできるなんて思わない方がいいわよ」
「はは……」

 嬉しいような怖いような、変な気持ちになってしまう。
 そんなことを話すうちに、てゐの寝る部屋に着いた。
 ただし鈴仙は襖の前に立ってから、くんくん、と鼻を動かす。

「なんか……変な臭いしません?」
「本当ね。何かしらこれ」

 輝夜は襖を開ける。
 抹香臭い空気が、ぷぅん、と二人の顔を包んだ。

 それから、とんでもなく縁起でもない光景が、鈴仙の眼に飛び込んできた。
 布団に入ってるてゐは、三角巾を頭につけており、枕元にはお線香が立てられていたのだ。

「手は尽くしたんだけど……」

 永琳はハンカチを目に当てている。
 鈴仙は思いっきり肩を落として、溜息をこぼした。

「言っていいですか。今日一日で、お師匠様のイメージがだいぶ変わりました。悪い方向に」
「あらそう。困ったわね」

 全く困ってない口調で言う永琳を無視して、鈴仙は目をつむった兎を見下ろす。
 波長を自在に見分けることができる玉兎の能力の前では、こいつが生きてることなどお見通しである。

「本当に幽霊の格好してどうすんのよ、あんたはっ」
 
 鈴仙は叱りつけながら、てゐの布団を取っ払った。
 そして、

「ぎゃああああああああああ!?」

 大絶叫して、腰を抜かしてしまった。
 なんとそこには、てゐの生首があったのだ!
 しかも……

「けっけっけっけ」
 
 てゐの首は不気味な笑い声を立てながら、『布団ごと』持ち上がった。
 わざわざ敷布団に穴を開けて、そこから首を出して待機していたのだ。
 とんでもない悪戯根性である。

 巨大な襟巻を首につけた状態で、彼女はやれやれとかぶりを振り、

「この程度の仕掛けを見抜けないんじゃ、まだまだ修行が足りないわね」
「バカ!」

 復活した鈴仙は涙目で、てゐを捕まえようとする。
 しかしてゐは素早くしゃがみこんで、目にもとまらぬ速さで障子へと向かい、そのまま雨の中に飛び出して行く。

 永遠亭の敷地の三割を占める広い庭園。
 そこに、屋敷の中にいる地上の兎達が勢ぞろいしていた。
 全員が、自分達のリーダーである、因幡てゐの完治を待っていたのだ。

 歓声を浴びて跳躍する一匹の兎は、泥でぬかるんだ地面の上で、華麗に反転し、

「やーいやーい、けっぺきれーせん、ここまでおーいでー」

 お尻をぺんぺん鳴らして言う。

 穢れを嫌う玉兎だから、絶対に追って来られないだろう。
 そう信じ切って舐めている態度だ。

 だが甘い。
 鈴仙はニヤリとして、靴も履かないまま、助走をつけて、

「え?」

 呆気にとられるてゐの姿が、鈴仙の瞳に映った。
 そして、てゐの瞳には、縁側から大きく跳躍して、ダイブする玉兎の姿が。

「うっそぉ……」

 稀代の悪戯兎が呟く声を聞きながら、鈴仙は思いっきり彼女に体当たりして、泥の上に叩き伏せていた。




 ※※※※※




「まったく……」

 二匹が泥んこになって戯れ、それを他の兎達がはしゃいで見ている様子を眺めながら、永琳は呆れて嘆息する。

「傷口が開いたらどうするつもりなのかしら。いくら私の薬がよく効いたとはいえ……」
「すごいわ永琳」

 輝夜は庭の光景に、目を輝かせていた。

「あの子笑ってる。前は雨が降る度に、隠れて泣きに行ってたのに」
「そうね、珍しいわ」

 二人が話しているのは、玉兎ではなく、もう一匹の兎の方だった。

 彼女が雨の日にだけ墓参りする理由を、永琳も輝夜も気付いている。
 人前で涙を見せるのが大嫌いだからだ。
 けれどもそう追及しても、幸せ絶頂な私が泣くはずがないウサ、と嘘を吐かれるだけだろう。

 衰弱していた鈴仙を永遠亭に連れてきた理由についても。
 悪戯を通して導いてやっていたことについても。
 兎達の警戒心を解いて輪の中に入れてやろうとしたことについても。

 全て嘘を吐いて、認めないに違いない。そういう性格だとわかっている。 
 そういう性格だからこそ、永遠亭の姫は彼女に飽きなかったのだ。

「きっと輝夜と同じく、てゐもウドンゲのことが可愛くてたまらなかったのでしょうね」
「人のこと言えないでしょうに。あの子に優曇華なんて名前つけたのは、永琳でしょう。すぐ意味がわかったわ」
「さて、なんのことかしら」

 ここにも、すっとぼける月の天才がいた。
 永琳は苦笑して立ち上がりながら、

「お風呂を沸かしてくるわ」
「いってらっしゃい」

 輝夜は彼女を見送ってから、すっくと立ち上がった。
 開け放たれた襖から廊下に出て、まだ庭で取っ組み合いをしている二匹の兎を見つめる。
 土の上で穢れにまみれて、大はしゃぎするそれは、地上に生きる者だけに許される遊びだった。


 貴方達には見えてる?

 
 輝夜は雨空を見上げて、そう問いかける。

 あの世界に住む者達に、これが見えているだろうか。
 きっと見えていても、真の意味では見えていないに違いない。
 そして永遠に理解できないだろう。とても残念なことだけれども。

 蓬莱山輝夜もまた、地上に降り立ってから、初めて知ったのだから。


「穢れも嘘もない世界は、美しいけどつまらないわ」


 そう囁いて、兎達に混ざるため、永遠亭の主は大きく縁側から跳んだ。




(おしまい) 
 まずは、ギリギリで間に合ったことについて、悪戯の神に感謝を捧げます。

 そして読んでくださった貴方に、さらに盛大な感謝を。
PNS
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コメント



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1.10mayuladyz削除
実は読んでいる最中
(優曇華と姫が倉庫部屋を調査するあたり)
である程度結末が予想できてしまった。
それでも飽きさせずに
最後まで読まさせた
作者の力量に感服だ

それから
これはサスペンス?
(実はミステリーとサスペンスの違いは良く分かんない)
にユーモアを取り入れ
雰囲気にメリハリをつけたのはポイントが高い

個人的には、てゐの紙芝居の後に
姫が誰にも見えない所で
意味深な笑みを残してエンドでなくてほっとした

それと優曇華の回想シーンを語りでなく
描写した方が良いのでは?
と思ったが、読み終えたらこれでいいと思った。

テーマの消化といい完璧な万点だと思う
楽しい時間をありがとう

ところで10点以上入れる場合には
課金が必要なのかい?
2.9ばかのひ削除
面白かった! 
嘘というお題から絶対にミステリは出てくると思ってけれども
それを踏み台にして一番嘘つきなてゐをとても愛しさすら覚える存在に仕立て上げてている!
そして一番可愛かったのはねりねりしている永琳だよね
すっごい面白かった!
3.9あらつき削除
満足した。
4.8かさ削除
おもしろかったです。
5.10名無削除
そうそう餅だよ。最初っから分かってたわー。
6.8無名削除
「嘘吐き」てゐの掘り下げ方が新鮮でした。
7.9みすゞ削除
【良い点】
天真爛漫な姫さまが良かったです。これだけで満点差し上げたい気分。しかしその姫さまが犯人で、かと思ったら真相は別にあって、という構成も良いです。揺さぶり方が非常に巧みだと思いました。また、ちょくちょく入る鈴仙の過去話もいいスパイスになっていたように思います。
【悪い点】
悪くはないんですがお餅だったというオチにずっこけました。シリアスになり過ぎないという点ではプラスにも見れるんですけど、……うーん。
8.10がま口削除
ブラボー! 素晴らしかったです。
本格的なサスペンスを堪能できると思い込んで読み始めましたが、事件の真相は肩透かしを食うほどあっけなかった。
しかしそこから鈴仙とてゐ、さらには永遠亭のメンバーとの関係が築かれるまでを設定に齟齬なく、鳥肌が立つほどドラマティックに、そしてどっしりとした読了感をあたえる作者様の手腕に感動しました。
とにかく最高です。この作品を読めてよかったです。
9.9ナルスフ削除
鈴仙の話と見せかけて、てゐが真のヒロインだとは・・・騙されたわ。
やはり嘘と言えば彼女ですよね!
テーマ的に前半をひっくり返す作品は来ると思ってましたが、中盤でひっくり返して終盤で深める手法が丁寧でよいなあと。
推理の食い違いと真相の完成度も高かったです。これは良い死んでなくてよかった。
永琳の序盤の恐ろしさと終盤のお茶目さのギャップがまた。
これもまた真に永遠亭の一員になれたという鈴仙の視点なのかな?
それにしてもこの悪戯兎、半殺しにされすぎである。よくやりますよ、ホント。
10.9道端削除
 面白いなあこれ。
 文章に無駄がなく読みやすいため、150kb越えの作品だけど、時間を忘れてするする読める。
 
 キャラクターごとにぶれがなく、かつ魅力的なのもまたいい。
 てゐもカッコよくて不器用可愛いし、鈴仙がぎすぎすしてるのも、地上に降りてきた直後ってこんなんだったろうなあ、と感じさせて共感できる。輝夜は理知的だがお茶目で、これまた私のキャラクター像に合致してるし。ストーリーも、てゐの嘘に絡めて、鈴仙の成長や輝夜とてゐの過去など、流れるようにきちんと描いて綺麗に終えていて、すげえと思った。

 謎解きの決着の仕方が少し気になる。
 死体は実は餅でした、というのはトリックとしては面白いとは思うけれど、最初の出だしのインパクトからずっと引っ張ってきたわりにあっけない感じ。それに、謎解きに使われた情報に後出しのものが多く、ミステリとして読んでいた身としてはちょっと納得いかなかったり。
11.8烏口泣鳴削除
やはり永遠亭は良いですね。姫様良いなぁ、姫様。
12.5生煮え削除
人物描写が丁寧で鈴仙もてゐも輝夜もとても魅力的に描かれていて、それぞれの背景もしっかり掘り下げられていて好印象でした。ただミステリパートがそれらの美点を台無しにしてしまっているように思います。恐らく現実的な説得力に力点が置かれているように思えましたが確かにそれはミステリに重要な点なのですが、それよりも優先されるべき真相を明かした時のカタルシスが皆無というかむしろ陳腐に感じられて、これならミステリパートが無い方がずっと良い物語になったと思います。というかそれ以外がとても魅力的な作品だっただけに凄く勿体ない。
恍けた雰囲気の輝夜が正に姫様といった感じで、過去の悲劇的な部分まで含め、特に好ましかったです。
13.10名前が無い程度の能力削除
とりあえず最高
ストーリーも良かったけど、キャラの言動がいちいち可愛くて読んでて悶える
でも誤字はゆっくり直していってね!
14.5きみたか削除
これはまた手の込んだ嘘、その発想はなかなか面白い。永遠亭関係者だけで盛り上げたのも好印象。
うどんげいじりが少々見飽きた感があるのでこの点数ですが、他を舞台にした作品に期待。
15.10名前が無い程度の能力削除
私は本当にどうしようもありません
てゐのネタばらしがあった後もしばらくは『絶対に背筋が凍るようなどんでん返しがある!』と待ち構えていました
心の隅々まで地上の穢れに汚染されていますね、まったく
必死に居場所を作ろうと、必死に気に入られようともがく鈴仙がもう、何と言いますか健気で共感できて実にグレイトでした
マイペースでぽよよ~んとした輝夜。ある時は氷のようで、ある時は平然とギャグをかます永琳
“嘘”つき兎のてゐ。その他のイナバたちも含めてみんなみんな魅力いっぱいで素敵でした
前半のサスペンスは緊張感があってのめり込んでしまいましたし、
後半になってその緊張感が溶けていく様は、邪悪な期待をしている自分が惨めになるくらい暖かかったです
兎の死体が転がる冒頭からは想像できないほどのハッピーエンドで本当に良かった!
そして、こんなにも素晴らしい物語をありがとうございます
16.5エーリング削除
話としては好きです。けれどトリックに納得がいきませんでした
17.7智弘削除
今回の話の中でだいぶ好き。
18.10時間が足りない!削除
文句なし。10点。
ミステリの内容も、その謎の真相のくだらなさも、ものすごく自分好みでした。

19.8K.M削除
ミステリー、大好きです。