第十三回東方SSこんぺ(アメリカ)

ロマンと金貨と七つの海

2014/03/09 23:30:08
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 十六世紀のヨーロッパにおいて、太陽と地球の交代劇を引き起こしたのがコペルニクスだとすれば、同じころに国家間の引力を暴走させたのは羅針盤といえる。遠洋航海は国同士の交流を革新し、複雑な陸路のプロセスをたどることなく、より直接的に海という不安定な道を通じて語り合い、殺し合い、奪い合うことを可能にしたのである。
 いわゆる、大航海時代の幕開けだ。

 地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチが『新世界』を発表してから五年。
 当時において、七つの海の覇権を巡る植民地帝国ゲームの椅子に座ることが許されていたのは、ポルトガル王国とイスパニア王国だけだった。船乗りたちの間ではすでに、アフリカ南端の喜望峰を回って北上するインド航路、そして西の彼方にある新大陸の情報が広まっており、一攫千金を目指して数多の航海者が日々生まれ、港から旅立っていた。
 奴隷や伝染病という、負の側面が顔を覗かせる前の、まだあどけないロマンに生きることが許された時期である。

 イスパニア南西、大西洋に面した岩島上にあるその港町は、カディスという。
 食料や酒、工芸品、織物、宝石、そして金と同等の価値を持つ香辛料。
 海から様々な贈り物が届くこの町は、イスパニアがもつ重要な『口』の一つだった。
 すなわち陸路を通じて様々な街へと交易品が運ぶための、商業的に欠かせない場所であり、自然とモノと人が集まる賑やかな街だった。


 ◆


 波止場に近いその酒場の戸は、開くと潮風が流れ込み、中の空気が上手い具合に取り替えられるようにできていた。
 ランプの数は不足しておらず、足元に落ちた銀貨を見つけられる程度の明るさを保っている。
 店内にはアルコール、そして香辛料がわりに用いられる、玉ねぎとニンニクの焦げるにおいが立ち込めていた。
 バイオリン弾きが奏でる軽快な音楽を足場にして、下品な冗談と罵声がテーブル間を飛び交っている。
 そこに酒瓶の割れる音が混じり、本格的な乱痴気騒ぎが始まるのは、日が沈みきってからになるだろう。

 潮風が店内を通り抜けた。
 戸を閉めて入ってきたのは、一目、金を持っていない客だった。
 白いあごひげをたくわえた老人である。服は皺だらけで、染みが残っており、目はくぼんでいた。
 老人は片足を引きずりながら、店の奥へと進んだ。
 テーブルはどこもいっぱいで、立ち飲みの客もいるほど盛況だ。腰を下ろす場所を求めてうろつく老人に、酒場女は見向きもしない。
 カウンターの端にぽつんと空いた席を、ようやく見つけ出し、老人は息を整えながら、酒を一杯注文した。
 マスターは胡散臭い目付きで、グラスを用意する。

「あんたも船乗りだな」

 隣にいた男が、老人に話しかけた。
 カールした黒髪を短く刈った、まだ中年と呼ぶには若い年齢の男だ。
 半袖の上着からは、ロープの痕が残っている日焼けした腕が見えている。

「船乗りだった、というべきか。とうの昔に航海できない体になって、今はこうして港町の酒場で、過去を懐かしむだけ。違うかい?」

 老人は男の方を見ず、肯定も否定もしなかった。耳が聞こえている様子すらない。
 やがてグラスに半分入った葡萄酒が運ばれてきた。
 水夫達は航海中、水替わりにビールを飲む。陸の上で味わうのは、もっぱらワインやウィスキー、あるいは舶来の珍しい酒であり、カディスはワインの名産地としても知られていた。

「俺も自分の船にいつまで乗れるか分からんのさ。だがまだ、新大陸への冒険はあきらめちゃいない」

 酔いが回った人間の性ともいえよう。
 男は無視されているのも気にせず、適当に話を続ける。

「俺のみたところ、あそこは本物のインディアに劣らぬ夢の国だ。かのクリストバル・コロン様の御大層な冒険も、今じゃ笑うやつはいない。けど哀しいかな、俺は近海の輸送が専門でね。毛織物さ。アントワープからここまで積んでくるんだ。オスロまでは一度行ったが、南の方は知っての通り、イスパニアの船じゃ寄港も許されないんでね。セウタの辺りまでしか下ったことはない」

 グラスに残ったワインを呷り、だらしなく体を傾けて、男は舌打ちした。

「ましてや西の海を渡るとくればな。水先案内人をケチらなかったはずの船が、何隻も行方が知れなくなってるのを聞くと、さすがに周りの連中のケツも重くなる」
「若いの」

 老人がはじめて言葉を発した。石の街道を無理矢理転がされた樽が、たまらず呻くような声だった。

「もう少し……上等のワインを飲みたいのだが、奢ってくれないか」
「ふん。どこの港を回っても、そういう手合いはいたよ。ポーカーでもするかい? もっとも俺が勝ったところで、大した小遣いにもならなそうだが」
「金はない。が、黄金に劣らぬ話なら聞かせてやる」
「……そいつは儲け話の類か?」

 男は声を低くして尋ねた。それから、油断なく周囲に視線を走らせる。
 酒場ではそういった金になる話は日常的に交わされる。そして船乗りの血は酒によって増し、女によって安らぎ、金によって燃え滾ると言われており、それは事実だ。
 機嫌よくそれぞれの相手と談笑しているように見えていた連中が、どいつもこいつも、飢えた狼に思えてきた。
 だが老人が続いて語った言葉で、そうした警戒心は霧散してしまった。

「クリストバル・コロンの真の冒険について、コロン自ら話そうというのだ」
「……………………」
「……………………」
「………………ぶはっ」

 沈黙ののち、男は耐えきれずに吹きだした。
 笑いの沸点が低くなっているところに、このジョークは強烈だった。

「はは、どうやら爺さん、もう相当酔いが回ってんな。よほど酒に弱いとみえる。よぉ。あんたが本物のコロンだっていうなら、ついこの間バリャドリードで他界したと聞く、あの冒険家はどこの誰だっていうんだい」
「乗組員の一人さ。嵐の中、他の連中と結託して私を海に叩きこんだ。背丈は同じくらいで、鼻の形も似ていた」
「ふぅん」

 コロンの探検に参加した船員の多くが、死刑囚だったことは耳にしている。
 並の船乗りが相手でも、船長というものは叛乱に注意を払わなくてはいけない。相手が海賊くずれであれば、航海の途中で裏切りにあったというのも、ありえない話ではなかった。
 だが、今話している相手がコロンだという話は、到底信じることはできなかった。男の疑問を察したのか、向こうの方から釈明してきた。

「誰が私が本物だと信じる? 新大陸から金塊を持ちかえった『コロン』は、私じゃない。それに、今の私を見てもイザベラ様が信用してくれるとは思えん。何しろだいぶ姿が変わってしまったから。妻ですら、私だとわかるかどうか」

 老人はワインを呷り、グラスを静かに、だがカウンターに押し付けるように置いて、しばらく動かなかった。
 続く自嘲の言葉には、積年の悲哀が沁みこんでいた。

「……今さら名誉などに興味はない。名乗り上げたところで、指をさされて笑われるだけさ。誰も私の話など信じやしない。家は息子のディエゴが守ってくれる。飲んだくれの老人がイスパニアの港でくたばったところで、噂にもならず、埋もれて消える」

 枯れたその語り口とは裏腹に、男の方はにわかに興味を抱いていた。
 銀貨を一枚、ナイフの傷が多く残るカウンターに滑らせる。

「続きが面白ければ、金貨をもう一枚足してやるぜ。どうせ飲み飽きてたところだ」

 老人は手元で止まった貨幣に目もくれなかった。
 やがて、ぼんやりと宙を見上げながら、彼は穏やかな口調で語り始めた。
 凪いだ海に浮かんだ船が、錨を音もなく外したような、そんな語り口で。



 ◆



 私の生い立ちについては、もうどこかで耳にしているのではないかな。
 生まれはジェノヴァだ。家は織物屋だったが、手伝いよりも港でキャラベル船を眺めるのが好きな子供だった。
 同じくらい、航海の本を読むのも好きだった。マルコ・ポーロの旅行記は、船旅の際にはいつも枕元に置いていた宝物だった。黄金の国ジパング。取りつくせないほどの金と光り輝く宮殿。毎晩のように思い浮かべ、いつか見つけてやるんだと意気込んでいたものだ。
 だが夢を叶える道程は、決して簡単なものではなかった。いっぱしの船乗りとして働く傍ら、西回りでインドに向かう計画を思いついたものはいいものの、誰一人として賛同してくれず、資金は一文たりとも提供してくれなかった。ポルトガルのジョアン二世もイギリスのヘンリー七世も……。冒険の航海に出るどころか、その下準備で家族ともども命を落とすのではないかと思ったものだ。息子にパンを食わせてやろうと、イスパニアの修道院に転がり込むまでは、まさにどん底だった。
 修道院長が地理学に明るかったことと、イザベラ女王様と懇意であったことは、当てもなく砂漠を歩いていたところに金塊につまずいたような、そんな幸運だった。もっとも、それから西回り探検が実現するまで、七年もかかってしまったがな。
 世間での私の噂はひどいものだ。死の間際まで、発見した大陸がインドであることを信じた愚かな探検家、といったところか。他にも現地で略奪の限りを尽くした人でなし、という噂も聞いたが、それは全くの誤解だ。
 何しろ私は、自分の船で新大陸にたどりついたことすらないのだから。

 忘れもしない1492年の十月十一日、パロス港を出発してから二ヶ月と八日。
 あんたも船乗りならわかるはずだ。陸の見えない航海で出くわす、時化ほど恐ろしいものはない。
 雷鳴が轟く中で、マストがみしみしと頼りない音を立て、傾いた足場の上を牙をむいた波の舌が舐めていき、陸では神の恵みと崇めたはずの雨が、船体を蝕む毒水のように感じられる。
 土に触れなくなってから一ヶ月、すでに羅針盤は狂っていて役に立たず、乗組員の不満を抑えつけるのも限界だった。
 そして私は、裏切られた。
 いや、彼らの期待を裏切り続けた私が、しっぺ返しを食ったというのが正確なところだろう。
 荒れ狂う大海原へと投げ出された私が最後に見たのは、自分とよく似た顔の船員が嘲笑う姿だった。

 あの時、死を覚悟した。
 溺れ死ぬか、鮫の餌食になるか……どちらにせよ、魚市場で捕まった野良猫よりも助かる可能性は低かったかもしれん。
 ところが次に目を覚ました時、私は大地の上に横たわっていた。
 空は晴れて澄み渡り、空気は湿っていて、山の濃い緑が目に沁みた。
 私は痛む体をおして、なんとか起き上がった。
 そこは集落のすぐ側にある、畑の一つだったのだ。
 今置かれている状況に混乱しながら、私は通りすがりの人間に尋ねた。
 言葉は通じなかったので、身振り手振りで必死に訴えることしかできなかった。
 ここはどこだ。インディアなのか、と。
 するとその人間……君と同じ黒髪だが、鼻は低く、背も低い若者は答えた。


 ◆


「ゲンソウキョウ、と」
「ゲンソー……キョー?」

 その言葉を口にしてから、男は眉をひそめた。

「聞いたことねぇな。第一どこの言葉だそりゃ」
「さてね。とにかく彼らの話す言葉は、ロマンス語でもゲルマン語でも……アルジェ付近をうろついている異教徒の言葉でもなかった。覚えるのにひどく苦労したよ」

 老人がはじめて笑ったように見えた。
 ランプの灯の加減で、皺の数が増えたように見えたのかもしれないが。それくらい微かな笑みだった。

「とにかく妙な土地だった。山と森に囲まれていて、住民は麦を作らず、稲を主食にしていた」
「ん? ちょっと待てよ爺さん、頭をもう少し働かせながら喋った方がいいぜ」

 聞いているうちに不審に思った男は、眉根を寄せた顔を近づける。

「それとも酔っぱらってる俺なら騙せると思ったかい」
「なんのことかね」
「海のないそのゲンソーキョーとやらに、あんたがどうやって辿りつけたんだってことだよ。岸沿いで拾われたっていうんならまだしも……」
「私の溺れた海は、『その国の空に繋がっていた』のさ」
「………………」

 男は今度こそ面食らった。
 真面目に言っているのだとすれば、いよいよ酔夢の極みだ。
 しかしながら、老人の呂律はしっかりしたままだった。

「そのことがわかったのは、私がその土地で暮らして五年ほど経ってからだった。どうもその辺りでは昔から、色々なものが神の恵みとして、空から降ってくることがあったらしい。だが人間が降ってきたのは、私が初めてだったそうだ。背骨が折れなかったのは、神様か、あるいは風の悪戯だろう、ということだった」
「ふん、空へと通じる海か……」

 男はワインを口に含み、その言葉を舌の上でもう一度転がしてみる。
 あまり儲かりそうな感じはしなかった。
 だがロマンの風味がある。船乗りを夢みる子供に語ってやるには、ちょうどいいお伽話だ。

「いいさ。続きを聞かせてくれ」
「喉が渇いた。とりあえず、銀貨とは別にワインをもう一杯」
「やれやれ」

 先に酔い潰れるつもりじゃねぇだろうな、と思いつつ、男はマスターに注文した。


 ◆


 ゲンソウキョウに住む者達は、私を手厚く介抱してくれた。
 その甲斐あって、三日ほどで十分に動ける体を取り戻すことができた。
 横になっている間にまず私が考えていたのは、ここがどこだかを知り、イスパニアに帰る道を探すことだ。
 だが言葉がろくに通じず、港はおろか海も見当たらない以上、それは困難だった。
 空へと向かえば、あるいは戻れるのかもしれなかったが、あいにく翼を持ち合わせてもいない。ダイダロス親子ほど気が長くはなかったし、その土地は過ごすのに気持ちの良い場所だったからな。
 私は村人に混じって、働くことにした。私のように背が高く、力のある働き手は貴重だったらしい。
 目にするもの全てが珍しかった。見たことのない家、見たことのない鳥、見たことのない草花、見たことのない人間……。
 星の並び方まで変わっていれば、気が狂っていたかもしれない。太陽がブルーではなかっただけましだった。
 見るものだけではない。空気のにおいも、スープの味も、楽器の音色も……。全て語り明かす頃には、この店の棚から酒がなくなってしまっているだろう。
 とにかく、私の常識が彼らにとっては珍しく、彼らの常識が私にとっては珍しいのが面白かった。
 あるいはここがジパングなのでは、という私の期待は早々に裏切られたがね。見渡す限りの黄金など、どこにも存在しなかったのだから。ただし、秋に見るイナホは、夕日を浴びて黄金よりも優しく輝いていた。今も瞼の裏に思い浮かべることができる。今ではどれもマルコ・ポーロの本のかわりに、私の枕の友となってくれているのさ。
 だがその地は、美しくよいところばかりでもなかった。
 村で暮らす人々は、ヨーカイという悪霊に立ち向かわなくてはいけなかった。
 ヨーカイを退治するのは、神官の役目であって、その中には赤と白の服を着た女性もいた。
 私はその内の一人と、親しくなって……


 ◆


「その女と恋に落ちたとかいう流れか?」

 男が口笛を吹き、おどけた調子で頬を緩める。
 だが老人は、重々しくかぶりを振った。

「いいや。私は妻のいる身だったし、彼女は私よりもずっと若かった。正直、彼女はただ外から来た私のことを珍しがっていただけだったと思う」
「なぁんだ。色気のねぇ話」
「……だがそれでも彼女は、私に言葉を教え、毎日のように楽しい話をしてくれた。私が不便なく会話できるようになってからは、私の航海の日々をとても面白がって聞いてくれた。ただ、ジパングやインディアの話なんかよりも、クラーケンやら大海蛇やらの話に食いつくのが不思議だったよ」
「そこがジパングじゃなくとも、新大陸のどこかか、インディアだったっていう可能性はないのかい?」
「わからん。だが市場にコショウはなかったし、象も歩いていなかった。ワサビというのは試したがね。ふふ……いやはや、あれはコショウなどよりもずっと鮮烈な香料だった」

 今度は老人が、確かに笑ったのだとわかった。
 垂れていた口の端を持ち上げ、酒瓶の並んだ壁に向かって、懐かしげな眼差しを向けている。
 演技だとすれば、相当堂に入った演技だ。
 彼の横顔を眺め、語りを聞いているうちに、いつしか男の方も、未知なる世界を旅している気分になっていた。

「私にとって驚きだったのは、その地に住む者達のほとんど全てが、山を越えて外に出ようと考えないことだった。私が仲良くなった、その神官の女性は、海を旅して生きてきた私の生涯を、とても羨ましげに聞いていた。彼女にもまた、外の世界を歩く自由がないのだと知った。少し、申し訳なく思ったよ」
「………………」
「私はそのうち、ここで一生を終えてもいいのではないか、と思った。だが、イスパニアも懐かしかったし、残してきた妻子のことも心配だった。そんな気持ちをある晩、彼女にこっそりと打ち明けたんだ。それから七日後。あの美しい月夜の晩に……辛いことが起こった」


 ◆


 月明かりの照らす中、私はジンジャという……神殿へと続く長い階段を一人歩いていた。
 その時の私はもう、この地に住み、彼女と共に生きることを決意していた。
 指輪は用意できなかったが、父の肩身であるアストロラーベがあった。金の歯車のついた、美しい品だ。
 たとえ、結婚を断られても、私は彼女にそれを渡すつもりだった。今まで世話になった礼としてね。

 だが、階段を上った先に待っていたのは、身の毛のよだつような恐ろしい光景だった。
 彼女がヨーカイと、一対一で決闘をしていたのだ。
 凄まじい死闘だった。私は茫然として見守ることしかできなかった。
 レイピアを……あるいは銃を持っていたとしても、加勢にはならなかっただろう。
 ただし私は、この目で見た。
 火薬のように弾け、七色の光を散らしながら、空を舞う二つの影。
 さながら、死の舞踏だった。二人の周囲で行われていたのは、奇怪な呪術の応酬だった。

 闘いが終わり、ヨーカイが消え去っても、私は彼女が勝利したというのが信じられなかった。
 その服はいつにも増して、赤く見えたから。

 立ち上がれない彼女を、村へと運ぼうとした私だったが、拒まれた。
 彼女は神殿の裏を指さしていた。そこには、見たこともない穴が開いていた。
 地面や壁に真っ暗な穴が開いているのではない。ちょうど空中に天使が絵を描いたような、光る穴があったのだ。
 それがゲンソウキョウの外、すなわちイスパニアの海へと通じるているのがわかった。
 潮の匂いがしたんだ。夢を見ている時も見ていない時も、いつも吸い込んでいて、体の一部となっていた空気だ。
 彼女はヨーカイと契約し、その勝利を代償にして、私を外へと逃がす算段を取り付けた、と話してくれた。
 帰れるという興奮よりも、後悔の方がずっと大きかった。私があんなことを喋ってしまったために、彼女は……。

 二つの道があった。彼女の元にとどまるのか、イスパニアへと帰るのか。
 君は今まで、自分の命と積荷を秤にかけたことはあるかね? 決断する最後の瞬間まで、あわよくば両方手に入れてしまおうと考えはしなかったか?
 私はその時、二つとも諦められなかった。しかし彼女は、私についてこようとはしなかった。
 その決意が固いことを知り、私は彼女にアストロラーベを託した。
 いつの日か必ず、この地に戻ってくることを約束して。去り際に見た、彼女の哀しげな微笑は今も忘れられない。

 私が己の愚かさに気付いたのは、イスパニアにたどりつき、自分が『死んで』いることを知ってからだった。
 一体あの世界に、ゲンソウキョウにどうやって戻れるというのか。
 船はもうない。そしてクリストバル・コロンはもう死んでいる。私はこの世界では亡霊に等しい存在だ。
 よしんば、航海の準備を整えたとしても、あの広い海のどこを目指せばいいというのか。
 星も見えない嵐の中で、私が海に突き落とされ、あの世界に落ちていったのは、幸運の中の幸運で、二度とは期待できない奇跡だ。戻る手段など、決してありはしない。

 そして……私はそのうち気付いた。
 あの世界のことを語りたい己と、決して語りたくない己がいるということを。
 黄金はなかったが、あの穏やかで優しく、そしてヨーカイに脅されながらもたくましく暮らす者達の姿は、生きた宝石のようだった。 
 私が共に過ごしてきた、荒々しい船乗りとはまるで違う。彼らを引き連れて、あの地に土足で踏み入ったりなどすれば、私は永遠に自分を許せなくなるだろう。
 だから、全て諦めることにした。
 
 もう一つ、大事な理由がある。
 私を故郷に返してくれた彼女は……自由に恋焦がれていた。
 きっと彼女は、私に己の夢を託したのだろうと思う。
 私がこの世界にいるということが、あの世界で暮らす彼女にとって、自由というロマンになっているのだとしたら。
 その気持ちを裏切ることが、どうしてできよう。


 ◆


 老人が小さく瞬きをした。
 視線が宙をぼんやりとさまよう一方で、口はわずかに開いたまま、言葉が出てこない。
 男は先を急かすこともできず、無言で聞き入っていた。

「……今となっては、全て幻だったのではないかと思う。その方が私にとっては、幸せかもしれん」

 結局、そこで老人は語りを終えるつもりだったようだ。

「あの日、あの場所で裏切られたのは偶然。あの世界にたどりつけたのも偶然。そして今日、お前さんに出会って話したのも偶然……いやこれは、気まぐれというべきかな」

 酒場の喧騒が、急に耳に戻ってきたところで、男は長い溜息をついた。
 夢から覚めたような心地だった。せいぜい鼻で笑ってやろうと思っていた、ほんの一時間前が、遠い昔のことのようだ。
 何となく、賭けに負けた気分で苦笑して、己の分のワインを飲み干し、

「あんたには悪いが、今の話を聞いて、俺もそこに行ってみたくなったよ。新大陸で一儲けする計画のついでにね」
「なら行けばいいさ。それとも乗組員が、海を渡るのに反対しているのか?」
「いや実は、仲間の大半は乗り気なんだが……女房がどうしても聞かなくてね。そろそろガキが生まれそうなんだ」

 男は照れくさくなり、髪のカールした頭をかく。
 老人が相好を崩し、肩をそっと叩いてくれた。

「おめでとう。そいつは、私の昔話よりもずっと明るい話だ」
「どうも。男だったら船乗りにしてやろうと思うんだが、そこまでは神様の気分次第ってとこだな。だがいくら頭を捻ってもいい名前が浮かばないんで、酒場で一杯やりながら考えてたところに、爺さんが現れたってわけさ」
「ふむ……」

 老人はしばらく思案気にあごひげをしごいていたが、やがて、ひょいと眉を持ち上げ、立てた一本指を振る。

「よし。男ならクリストバルにしたまえ。なんといっても、偉大な探検家の名前だ。ヴァスコなどよりもいいぞ」
「くく。ありきたりだが、それもいいかもしれないな。クリストバルか。じゃあ女だったら……」


「ミナミツ」


 その不思議な響きは、魔法を思わせた。
 紡がれた瞬間、戸を閉ざしたままの酒場の空気に、潮風が流れ込み、波の音を響かせて去っていったようだった。

「南にある港という意味らしい。私が彼の地で暮らしている時、その神官の彼女にそうあだ名をつけられたんだ。港で生まれた私の名前は、発音が難しかったようで。それに彼女にとって、港というのは南にあるものらしかったのでね」
「なるほどね。ミナミツか。生まれたのが女の子なら、船乗りなんて野蛮なことはさせられんが、まぁ考えておこう」

 男はそう言いながら、懐から取り出したものを、カチンと指で弾いた。
 それはテーブルの上で、ランプの灯を黄金色に変えながら回り、澄んだ音を立てて倒れる。

「約束の品だ。本物だぜ」
「ふむ……」

 老人は金貨をつまみあげ、扱い慣れた手つきで、ひらひらともてあそんだ。

「……お釣りが欲しいのではないかね」
「いいんだ。取っておいてくれよ。俺はそんな金貨一枚が少しも惜しくなくなる宝の山を求めにいく。女房が承知してくれればの話だが……」
「なら、おまけに一つ、おまじないを見せてやろう」

 カウンターから身を乗り出した老人は、何かをマスターに囁く。
 さして間を置かずに用意されたのは、つまみとしては珍しくない、殻つきのゆで卵だった。
 ひび割れた手が、その小さな酒の友を持ち上げる。

「お前さん。ここにある卵。これがテーブルの上に立つと思うか?」
「いくら酔ってても、そんなことできやしない、っていうのは俺にもわかるよ。ゲンソーキョーとやらで覚えた魔法でも見せてくれるのか?」
「試してみたまえ」

 男は言われるままに、卵を何とか立てようとしてみる。
 しかしながら当然、うまくいくはずもない。
 カウンターの面が欠けている部分にはめ込んでみようとしてみたが、結局むなしく転がるだけで終わってしまった。
 肩をすくめて降参する。
 得意げに寝転がっているように見えた卵を、太く枯れた指がつかんだ。

「こうするのさ」

 老人は無造作に、卵の尻をテーブルに軽く叩きつけた。
 殻が砕ける、小気味良い音がした。

「やってみるまでは、誰にでもできることだとは思わない。ようは勇気と知恵が肝心ということだ」

 見事、立った卵を前にして、唖然となる男の方を見ながら、老人は豪快に笑った。

「同じ方法で奥さんを説得してみるといい。冒険に勝るロマンはない。そして偉大なロマンは、黄金に等しい価値があるのだぞ」




 ◇




 満月の晩、博麗神社ではいつものように、宴が開かれていた。
 集まっているのは、やはりいつものごとく妖怪ばかりだ。
 ただしその夜は弾幕ごっこは行われず、代わりに少々珍しい趣向が執り行われていた。
 宴の場の中心に、古道具が色々と並べられていたのだ。

「アストロラーベ。天文を観測する器械で、使い方次第では時間や日付、自分達のいる場所の位置もわかるらしい」

 銀髪と眼鏡が特徴的な、ひょろりとした体格の青年が、手の内の茶色い円盤を鑑定して言った。
 この神社の巫女が、蔵の整理をしていた時に出てきたお宝候補の一つである。
 
「まだ使えるようだけど、ちょっと保存状態がイマイチかな」
「イマイチなのは私のせいじゃないわよ」

 巫女が口を尖らせる。
 蔵に物が入らなくなってきたため、彼女は懇意にしている道具屋の主人に、いらないものを引き取ってもらおうと
呼び寄せたのだが、そこで知り合いの魔法使いが突発的に宴会を開いてしまい、宴と鑑定会が合わさったような珍妙な光景が生まれることとなってしまったのだった。

「作られたのは十五世紀の半ばごろかな……船乗りの持ち物だったかもしれないね」

 横から妖怪ネズミが顔を出しながら言う。
 ダウザーを自称する彼女は、審美眼に自信を持っており、なおかつ道具屋の主人に秘かに対抗心を燃やしているらしく、今宵の鑑定会にも張り切って参加していた。

「船乗りか。確かにアストロラーベは、天文学や占星術、そして航海術には欠かせない道具として、人類の歴史において長きに渡って使われてきたんだ。もっとも、後世になるにつれて、様々な機能が付与されたことにより……」
 
 薀蓄を語り始めた香霖堂の主人の手から、その円盤がひょいとつまみあげられた。

「これ、私がもらっていい?」

 そう言って微笑んだのは、命蓮寺の舟幽霊である。

「大事にするから。ね、お願い」
「いいんじゃない? 素敵なお賽銭箱ならあっちよ」
「はいはーい」

 迷うことなく、舟幽霊は着ている水兵服のポケットから金貨を取り出す。
 彼女が歩き出す後ろから、妖怪ネズミが小走りについてきて、

「ムラサ。それは払い過ぎだよ。その器械の価値がわかる者は、この幻想郷じゃ少ないだろうし、あの巫女にだってわかるものか。第一。清貧を旨としなければならない巫女にとって、金貨など害悪でしかない」
「これは私の気持ちだから、気にしないで」

 舟幽霊は軽い口調で言って、神社の正面を目指した。




 境内は静かだった。
 彼女は賽銭箱の前に立ち、遠ざかった宴の音に耳を澄ませる。

「金貨なんて惜しくないわ……だって……」

 手の内から放られたそれは、月の光を浴びて一瞬の輝きを放ち、箱の中に吸い込まれていく。
 しばらく目を閉じ、美しい音色の余韻を味わってから、彼女は星を見上げ、囁いた。

 自分と……この世界のどこかにだけ届く声で。

「偉大なロマンには……黄金に等しい価値があるって、父さんに教わったんだもの」

 月夜の晩に吹く風は、ちょっぴりしょっぱかった。

 
 お読みいただき、ありがとうございました。
 アメリカと聞いて思いついたフレーズのうちから、新大陸とバミューダトライアングルをすくい上げ、キャプテンムラサを裏主人公にして書いてみました。辛い過去もあったことでしょうけど、彼女にはこれからも命蓮寺で、原作絵のような素敵な笑顔を絶やさずに過ごしてもらいたいなーと。
 
(全くもっていらない余談ですが、昔、歴史のテストでコロンブスではなく、クリストバル・コロンと書いたらちゃんと丸をもらえました。先生、ありがとうございます。そしてごめんなさい。ゲーム、大航海時代にはまっていた時期だったんです)
PNS
http://yabu9.blog67.fc2.com/
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コメント



0.簡易評価なし
1.10リペヤー削除
こういう「外国人から見た幻想郷」というお話は最高です!
そしてまさかのムラサ繋がりでびっくり。
最高点をば!
2.6アメリカ探索者削除
幻想郷が薄く感じましたが、良いストーリーだと思います。
3.10百円玉削除
もうタイトルだけで「良いな」って思ったのですが、読んでついガッツポーズ。大変おもしろかったです。 軽妙洒脱な文章で、読んでいて楽ですし、それでいて重厚感すら抱くどっしりと落ち着いた感じ。理想的です。 
語彙や比喩にも富んでいて、無理なく抑揚があって、それもまた素晴らしい。特に「凪いだ海に浮かんだ船が、錨を音もなく外したような、そんな語り口で」が大好物です!ご飯3杯はイケます! 
お話自体もすごく好みで、良かったです。 
あの酒場に吹いた潮風が、時を超えて幻想郷に香った瞬間、アストロラーベがピタリと示したかのような納得を感じました。まさにロマンですねぇ。
4.3削除
あれ、千年前に舟幽霊だったムラサが、15世紀の登場人物の娘?
いくら二次創作といえどもさすがに原作設定を都合のいいように改変してる印象が強いのが減点対象。
5.9烏口泣鳴削除
老人の話に男と一緒に引き込まれた。未知なる世界を旅している気分になっていた。
個人的には、船乗りと老人の話で止めてあった方が好み。
6.10がま口削除
いやぁ、雰囲気が素晴らしい! 一気に読み進めてしまいました。
冒頭の細かな描写が航海物の冒険活劇さながらで、どこで東方とリンクするのか楽しみでした。
そして幻想郷に流されたという主人公。正直ありがちだなぁ、と思いながらそれでも細かな設定と言い回しに酔いながら進んでまいりました。
そして突然村紗船長とのリンク! 金貨を賽銭するシーンでハートを打ち抜かれました。
文句なしの満点です。
7.7エーリング削除
コロンブスは歴史を見ると、(当時はそれが普通の感覚であったのかもしれませんが)ド畜生に見えますよね、まぁ船で外に出ていこうなんて連中は、中では生きていけないような荒くればかりになるのは自然でしょうけれども。幻想郷も外の世界も、らしい描写で雰囲気が出ていてよかったです。幻想郷はユートピアというより桃源郷に近いものなのでしょうね。
8.4みすゞ【5点満点】削除
大航海時代と東方の組み合わせが新鮮でした。時代背景やオリキャラなどの描写もロマンを感じます。ラストもすとんと落ちて納得。ただオリキャラの語るオリ昔話なので描写不足はあったと思います。遭難して幻想郷に飛んでしまったというのも無理矢理な感じがしました。
9.6がいすと削除
ああ、スペインの切り口からアメリカ=幻想郷を見るという視点にニュアンスでムラサなんですね。
この切り口、いいですね。豪放な父の元で育ったスペイン系日系キャプテンムラサすっごくいいと思います!萌えてしまうやろ~

で、ワインですよ。
まさかスペインの安ワイン文化がでてくるとは思ってなかった。
スペインは樽による熟成をかけにかけまくったり、シェリーの国だったりするので(カディスは確かシェリー産地)であり、シーン的にもシェリー酒かなぁあれ結構飲みづらい飲料なのにガッパガッパいくとは豪快であるなぁ。
などと思いを馳せるのでした。
10.5ito削除
国と時代を超えた壮大な物語、読ませて頂きました。
文章は上手いし、比喩も時代背景にあったものを選ばれていて楽に読めたのですが、
それ以前に話自体に違和感を覚える箇所がいくつかあって、残念ながらのめり込めない部分がありました。
①村紗が生まれた年代
 村紗は聖が封印される前に誕生していなければならず、計算が合わない。
②老人と巫女の関係
 彼は巫女と恋仲にはなっていなかったと若者に言うが、次の節ではプロポーズするつもりだったことを臭わせているし、巫女の方にしても彼との関係がそういったものでないならば、命をかけるほどの勝負をする価値があるとは思えない。
 老人が照れて若者に言わなかっただけ?
③偉大なロマン
 老人の言う「偉大なロマン」には説得力がないと思う。彼は「やってみるまでは、誰にでもできることだとは思わない」と言う。しかし、彼はいつ「冒険」したのだろうという疑問が、作品を読み終わっても晴れなかったです。
彼は夢を叶えるため船で旅に出る。これは確かに冒険ですが、すぐ仲間の裏切りによって終わってしまう。その後の彼の人生には「冒険」の要素は全くない。若者との会話の文脈から言えば、幻想郷の暮らしにそれが存在していた必要があるのでは、と思います。
若者は老人から大きな影響を受けたはずですが、しかし、老人の言う「冒険」が特にないのならば、彼が村紗に伝えた「偉大なロマン」って一体何だったんだろう、という疑問が残りました。

なんか変な読者で申し訳ないです。
11.8あらつき削除
語りが少し綺麗過ぎかなと思いました。文章味が強いという印象です。もっと誇大したり、粗雑だったりした語りなのではないか。
全体の物語は良いし、最後、ムラサを持ってこられた際のインパクトは素晴らしかった。
12.7みく削除
「コロンブスが幻想入り」という発想が面白かったです。
過去と現在をつなぐために村紗のような役回りが必要なのは確かだし、オチも巧くいってるのですが、どうにもそれまでの話から浮いている感が拭いきれませんでした。この点はこちらの頭が固いだけなのかもしれませんが。
13.7deso削除
面白かったです。
村紗とこういう繋げ方するとは思わなかった。
14.7ナルスフ削除
お前の話だったのかよ! ってなって素直に驚きました。
クリストバルと名付けられるかもしれなかった少女が、こうして巡り巡って幻想郷にたどり着いた、と思うとしんみりしますねえ・・・。
15.7文鎮削除
このような歴史の隙間に入り込むようなお話は大好物です。
コロンブスは黄金の国ジパングに来ていた…幻想郷を出た後、彼はどのようにしてヨーロッパへとたどり着いたのでしょうか。
そもそも、明治期に結界によって幻想郷が閉じられる前、人々はどのような暮らしをしていたのか、想像のしがいがありますね。
しかも、村紗の出生まで絡めてしまうとは…彼女の物語も大変気になります。
16.9あめの削除
これまたすごい発想力。本当の良くこういう話を思いつくものだと感心します。
コロンが語る内容が、本当にその場を体験してきたかのように鮮明に描かれているので、ストーリーに自然と引き込まれ、感情移入できます。そして、最後の意外なオチも良いですね。
17.10めるめるめるめ削除
「ミナミツ」の台詞で鳥肌が立ちました。
そうきたか凄いな、と。
最後の賽銭箱の前のシーンがとても綺麗で、それも好印象でした。
18.9矮鶏花削除
文句なしに良作だったと思います。
コロンブスの回想は無論ですが、それを引き立てる男の軽妙な語り口。さらりと読ませる文章にはロマン有り切なさ有り退屈無し。時が移ってのラストも心に残る物でした。
ただ、お題がかなり薄くは感じました。話としては非常に魅力的でしたが、そのために満点ではなくこの点数を。
19.9名前無し削除
取り急ぎ、点数のみで失礼します。
20.6K.M削除
これは予想外の組み合わせ。彼の名はクリストファー・コロンブスとしか知らなかったです。
21.無評価ななし削除
面白かった!
大航海時代の酒場にいるような気分で読みました