第十四回東方SSこんぺ(絆)

傷名

2014/09/14 18:51:59
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 ずきりという刺激が私を襲った。
 心臓の奥、首の根元、脳の芯、何か大事な部分がガリッと削られたような気がした。

 肌の上を滑るようにして伝い落ちる赤色。
 その軌跡を見て、傷が付けられたのだと言う事実に気付く。

 ――ああ。

 これが痛いという感覚で、これが痛いという感情だ。
 それが生きているという感覚で、それが生きているという感情だ。

 つまりこれは現実なのだ。
 どうしようもない程に現実なのだ。
 私はそんな現実を、夢に見ていた。

 手を伸ばすようでいて、それでいて目を瞑るようでもある。

 不可思議だ。
 変な感じだ。

 既に私にとって『彼処』は『向こう側』で『幻想』なのだ。
 既に私にとって『此処』は『こちら側』で『現実』なのだ。

 きっと、今までのが全てイレギュラーだったのだ。
 私の身体は不思議な程にこの世界に馴染んでいた。
 私は元々、この世界に順応するように出来ていた。
 だから私は向こう側で息苦しさを感じていたのだ。

 だけど私は居場所を見つけてしまった。
 蓮子という居場所を見つけてしまった。

 だから唐突に、残酷に訪れた、ただの別れが、悲劇となった。
 それは予定調和でしかなかったのに。
 それは救いであった筈なのに。
 それは人生最大の痛みを私に与えたのだった。




 ――夢から醒めた。




 息苦しさを感じ、私の意識は不本意な形で覚醒した。
 眼前が曇っていて、身体が重たく、酷く怠い。
 数秒して、私はこの場が何処なのか、思い至る。

 ――湯の中で眠ってしまうなんて、油断していたわ。
 ……そして、夢の中ですら私は彼女と再会出来ないのか。

 視界に広がるのは湯気であり、肌に纏わり付くのは湿気だ。頭上を仰げば空が広がり、星が私を見下ろしている。ああ、こりゃあ、眠ってしまってもおかしくはないな。日頃の疲れが一気に溶け出して、こちらから睡魔に首を差し出してしまいたくなるくらいだ。眠り足りないと身体の芯の部分が唸っていた。このまま長湯していては、再び夢に墜ちてしまうだろう。だが、それもまた一興なのではと本気で思ってしまう辺り、始末に負えない。

 こんな状態の時に長湯は禁物だ。そう判断した私は名残惜しいと感じながら、必死に湯から立ち上がる。濡れそぼった肌を風が舐め、程よく涼しいと感じられる塩梅である。
 さあ、湯からあがり、着替えて、今日はさっさと眠ってしまおう。

 そんな私の思考と決意を遮るように、
「それは……スカリフィケーションですか?」
 なんて言葉が背後からかけられた。

 振り返るが、湯気の幕が邪魔で何者が其処にいるのかが分からない。

 ――もしかしたら、そもそも、分かるべきではないのかもしれない。
 なんて、直感が脳裏で囁いた。

 世の中とは往々にしてそういうものだ。分かるべき事は嫌でも分かってしまうし、分かるべきではない事はどれだけ望んでも分からない。それに抗うべきではない。

 抗うべきではないのだ。

「スカリフィケーション?」
 だから私は話題の提供者への興味を出さぬよう、話題の方へと意識を集中させた。

「自らの肌に傷痕を付ける事で身体装飾を施す……という歪んだ自己表現の事ですわ」
「……そんな意図はありませんでしたね。この傷には」

 私の返答に女(と思われるが、年齢も、性別も良く分からない。声だけだからと言うよりも、そう言う存在なのだと言われた方が納得出来る。此方側においても、そのような存在は稀だ。稀の筈だ。)は、「そうでしょうね」と同意した。

「私にもその傷が何をモチーフに描かれたものなのか分かりませんでしたもの。強いて言うならば、『純』かしら」
「純……ですか」
「ええ。その傷からは怨念のようなモノを感じます。禍々しく、神々しい。名だたる呪師がその身に刻み込んだと言われてもなんら不思議ではないような、そんな、感情。ただ、屈折している訳ではない。歪んでいる訳でもない。その傷はただただひたすら真っ直ぐなのね。純粋であり純潔、単純であり、真純なんでしょうね」

 女は滔々と語り続ける。
 私は悪酔いにも似た心地の中、その言葉に耳を傾けていた。

「でも、やはり秩序立っているようには見えないわね。事故か何かに巻き込まれたのかしら? そこで不本意な形で付けられた傷?」
「いいえ。これは私が望んで付けて貰ったんです」
「へえ……?」

 軽々しく他者に話すような話題だろうか。

 ……軽々しくすら話せない話題なのかもしれないわ。

 重苦しいと言う装飾は必要ない。
 ただ事実を事実として伝える口と、それを受け止める耳があれば良い。

「これは絆なんです」

 気付くと私の口は動いていた。
 誰かに聞いて貰いたい、そんな少女性を発揮させてしまったのかもしれない。

「私と、私の愛した人の絆なんです――」

 湯気の向こう、人影は先を促す様な無言で私を包み込んだ。


















  ――傷名――

 夏休みの第二週。そのある日のこと。

 目覚めた私は、いの一番に枕元の目覚まし時計を停止した。
 鳴り響いてはいなかったが、既に起きていると言うのに目覚まし時計に鳴かれてしまうと、大変気分が悪い。

 立ち上がり、んーっと伸びをして、カーテンを開き、陽の光を目一杯浴びる。そこまでやって、少しだけ目が覚めた。台所で食パンをトースターにかしゃんっとセットして、洗面所でぱしゃぱしゃと洗顔をする。軽く歯を磨いて、ココアを淹れたところでトーストが出来上がる。ジャムをべったりと塗って、カリッと噛み砕き、もしゃもしゃと咀嚼する。

 ――あれ?

 ここまでの作業を日頃のルーティンの延長線上――つまり無意識下で行っていた私だったけれど、一気に意識が覚醒してしまった。と言うのも、見逃せない違和感が私を襲ったからだ。

「このジャム、味がしないわね」

 すんすんと匂いを嗅いでみるが、匂いもしない。
 鼻が詰まっている訳でもないから、問題はトーストの方にあるのだろう。

 昨日ジャムを使った後に蓋が開いてしまっていたとかで、風味がとんでしまったのだろうか。何にしても、味のしないパンほど食べ辛いものはない。私は作っておいたココアで流し込んでしまう事にした――のだが、そこで更なる異変が訪れる。

「んっ……んっ、こくり……っ。……このココアも味がしないわね」

 と言う訳だった。偶然の重なりと判断したいところだったが、流石の私もそこまで楽天主義に徹する事は出来ない。寧ろ私の気質は悲観主義寄りであるし。

 それでも、結論を下すにはもう少し情報が欲しいところだ。

 と言う訳で、私は冷蔵庫にあった食べ物や、食器棚に並んでいた調味料を適当に手に取り、舌の上に乗せてみるという試みを繰り返してみる事にした。

「……えっ」

 結果を言ってしまうと、その内の殆どの味を私が知覚出来なかった。
 殆どというのは、味覚というよりも刺激に分類されるような、所謂激辛な物は辛うじて味として認識する事ができたのである。

「困ったわね」

 これは困った。目が見えないとか、耳が聞こえないとかに比べれば些か地味な案件ではあるが、私にとっては死活問題である。何せ、スウィーツを食べても甘いと、幸せと感じる事が出来ないなんて、そんなの、少女の人生の八割を損している。

「あ……っ、今何時だろう」

 自分の想像に触発されて、私は大事な事を思い出した。時計を見ると、十時半だった。冷蔵庫の中身をひっくり返していたら、結構な時間が経ってしまっていたらしい。

 今日は蓮子とデート――もとい、お出かけをする日だった。だから、休日にも関わらず目覚まし時計なんてセットして、早起きしたというのに、何と言う体たらくであろう。

 ……まあ、それでころではないと言えば、そうなんだろうけど、さ。
 私は脳内で自身の舌と、蓮子を天秤にかけ、暫く葛藤する。

 そして私は蓮子の方を優先させる事にした。してしまった。
 我ながら、優先順位が若干狂っているとは思うけれど、こればかりはどうしようもない。

「……あーあ、蓮子に何を言われるかしら」

 既に遅刻が確定してしまった私は、携帯端末で蓮子に連絡を入れて、居直ってゆっくりと出発の準備を行ったのだった。


        〇


 味の分からない甘味に一〇〇〇円近いお金を使うなんて……凄く憂鬱になる。

 そして味が分からないというのは、食の楽しみを奪うだけでなく、食事に気持ち悪さを与えるものなのだと私は知った。味のしない食物は、そこに人工的な物を感じ取ってしまい、体が反射的に拒否してしまうのかもしれない。私は嗚咽混じりにケーキを食べて、そしてそんな努力までしたにも関わらず、蓮子に違和感を抱かれてしまったのだった。

「……メリー、何か私に隠し事してるでしょう?」と言う訳だった。

 別に隠す必要はないのだが、同じくらい、話すべき理由もなかったから黙っていた。余計な心配はかけさせたくなかったし、取り敢えず蓮子に相談するより先に病院に行ってしまって、それから何があったか蓮子に話そうと考えていたから。

「……隠し事って、どう言う事?」

 だけれど私は、気付くとしらばくれてしまっていた。本能がこの話題を蓮子と共有する事に拒否感を抱いてしまったのかもしれない。

「んー、いっつものメリーなら、もう人のケーキまで食べちゃうんじゃないかって勢いで、ケーキを食べるのよね」
「そ、そんな事ないわよ。失礼しちゃうわね」
 私の現状と一切関係なく、この女、普通に失礼である。

「でも今日のメリーは……食べるのが苦痛、みたいな感じで。これって、有り得ない事だと思わない?」
「……何も有り得ないとまで言わなくても良いんじゃないかな……私にだって甘い物を受け付けない日くらいあるわよ」
「そこで私は推理したわけよ!」
「蓮子は取り敢えず人の話を聞きなさいよ」

 そんな私の至言も蓮子にはスルーされてしまう。

「メリー、もしかして……虫歯なんじゃない?」

 アニメーションなんかで、ずるっと、滑ってしまうような演出があるが、きっと私がアニメの中の住民であれば似たような事になっていただろう。ズッコケというヤツだ。だが、この蓮子の的外れな推理は、今の私にとって有り難いものだ。これに乗っかるしかない。

「そ、そうね……黙ってたけど、今朝起きた時からちょっと歯が痛くて……」
「もしかしてそれで待ち合わせに遅れたの?」
「そ、そうなのよ」

 ちくりと、私の胸の内側を良心が刺す。

 何と言うか、心優しい蓮子を私が拐かしているような、そんな気分だ。別に大した事ない嘘である筈なのに。やっぱり私には人を騙すという行為自体が向いていないという事なのだろう。だからこそ、私は日常を過ごすのがへたくそなのかもしれない。

「そんなに辛いのに、甘い物食べるなんてどうかしてるわ!」

 そして私の嘘が蓮子の琴線に触れてしまい、更なる罪悪感に駆られてしまう。

「……ごめんなさい」

 そんな心中の所為で、私は謝罪をせずにはいられなかった。

「いいわ。謝るくらいなら、早く歯医者に行って、見て貰ってきなさい」
「……そうね」

 元々、蓮子と別れた後は医者に診て貰うつもりだった。良い機会だろう。

 そんな訳で、ちょっぴりぷりぷりした蓮子と別れて、私は病院へと向かったのだった。
 彼女が本気で私の事を心配してくれているという事実が、嬉しいと感じてしまうのは、私の心が卑しいからなのだろうか。病院に向かいながら私は、そんな事を考えていた。


        〇


 医者が言うには、ストレスからくる味覚と嗅覚の消失だろう、という事だった。だが私にはこれと言ってストレスの原因となる物が見つからない。医者は慢性的に蓄積していったのだろうと言っていた。例えば、人間付き合いであるとか、生活環境であるとかだ。

 その辺りについては心当たりがないこともない。私は人間関係というものに多大な労力を使う人間だ。一語一句、発する言葉に気を遣い、相手の顔色を伺って、自分の感情すらをも観察している。それは産まれながらに私に備わっていた気質だ。

 そんな物、すぐに改善できるようなものではない。

 医者にすすめられたリラクゼーションを行ってはみたが、そんなに早く効果が出る筈もなかった。



 蓮子に怒られ、病院へ行き、しかし何の解決にも至らなかった、その次の週。

 朝、起きて時計を確認すると一〇時だった。

 ――え……?

 一瞬、全身から血の気が引いた。この数年間続けていた習慣が壊れた事への反射的な恐怖であった。考えてみれば大した事のない、三時間ばかし眠り過ぎてしまっただけだ。

 ただ、生憎と今日も蓮子との約束がある。そして、既に遅刻は確定してしまっている。私は蓮子にお詫びのメールを送ると、味のしないゼリーで朝食を済ませて、急いで待ち合わせ場所に向かって走り出した。待ち合わせ場所は私の家から歩いて五分程度の場所にある駅の前だ。走れば二分程度で着くだろう。

 私は久々に全速力で走り、その所為か、外部からの情報が悉く遮断されてしまっていた。
 例えば、回りの景色であるとか、例えば、回りの喧噪であるとか。

 きっと私は極度の集中状態に入っていたのだろう。始め、私はそう判断したのだった。

 駅前の大時計の下、蓮子は退屈さに欠伸を噛み殺していた。片足で秒を刻み、腕時計と携帯端末の画面を交互に見つめている。その様が、駅前のスクランブル交差点に捕まった私には良く見えた。そう、まだ見えていた。

 何時間もの間赤信号に捕まっていたような気がする。
 やっとの思いで青へと切り替わった信号。
 私は人垣が出来上がる前に駆け出し、一気に車道を横断した。

「蓮子、遅れて……っ、ごめん!」

 走って、動きを止めると、一気に心臓が高鳴り、汗が噴き出し、呼吸が乱れ始めた。

 膝に両手を付いて、ぜーはーぜーはーと無理矢理呼吸を整える。体育の授業でダッシュの後は少し歩いた方が良いと教えられたのを覚えてはいるが、そんな事が出来る体力は残されていなかった。たっぷり三分ほどの時間をかけて、呼吸を整えたが、何故かその間、蓮子から声をかけられる事はなかった。

 ――そう言えば、挨拶もしてくれなかったわね。

 遅れたのは私だし、非があるのは確かに私だ。
 だけど、何も、無視まですることはないじゃないか。
 私の中に怒りが沸々と湧いてきた。

 だけど、ここで怒ってしまっては流石に大人気がない。
 私は顔を上げて、
「ちょっと、蓮子。流石に無視する事は――」
 と言おうとしたら、涙目の蓮子に睨まれ、途中で口を噤んでしまう。

「ええっ、ちょっと、何で泣いてるのよ……。もしかして、私が待たせたの、そんなにショックだったの? えっと、違うのよ? 今日は本当に、偶々寝坊しちゃったってだけで、別に蓮子と出かけるのが嫌になったとか、そう言う訳じゃなくて……」
 だが、私のその謝罪の言葉も、遮らざるを得なくなってしまった。と言うのも、おかしかったのは蓮子ではなく、私であったと言う事を、蓮子の様子から察してしまったのだ。

 だって蓮子は、真剣な顔で私の方を向きながら、迫真の演技を織り交ぜながら口パクをしていて、そして私は、そこでやっと、蓮子が無視をしていたのではなく、私の耳の方が音声をシャットアウトしてしまっていたのだと理解した。


        〇


「……落ち着いたかしら」

 私の言葉に蓮子はコクリと頷いた。
 場違いだけれど、普段の屹然とした様とのギャップに、つい愛おしさを感じてしまう。

 本当は慌てふためきたいのは私の方であったのだが、蓮子のそんな様子のお陰で辛うじて冷静さを保っている事ができた。『音声の消失』という現象に気付くのに多大な時間を要した私が言うのも難だが、無音の世界とは酷く味気ないものである。
 さながらスピーカーの壊れたゲームのようなもので、本来そこにあるべき音声やBGMの不在は、必要以上にその無味乾燥さを突き付けてきた。

 蓮子はペーパーナプキンの上にペンを走らせ、言葉を綴っていく。

『これなら会話、出来るわよね』

 今度は私が頷いた。それに呼応して、蓮子も満足気に微笑んだ。

『耳が聞こえないのよね』
「うん、そうみたいね」

 蓮子は一拍の間をおいて、ペンを走らせる。

『それって、この間のメリーの変な様子と関係あるの?』
「変って……、虫歯の事?」
『本当は虫歯じゃなかったんでしょ?』

 ああ、お見通しだったって訳か。私は諦め交じりに頷いて、肯定の意を示す。

「でも、それが今回の件と関係あるのかは……ちょっと分からないかな」

 一週間前に味覚と嗅覚を失って、今日は聴覚を失った。
 関係があるような気もするが、関係ないじゃんって言われれば『確かに』と頷いてしまうような、そんな漠然とした繋がり。

『何か他に変なところとかない? 大丈夫?』
「うん。大丈夫だよ。だって、蓮子に会って暫くするまで気付かなかったくらいだから」
『それは流石にメリーが鈍感過ぎるんだと思うよ』

 そう書きながら、蓮子は複雑そうな笑みを浮かべた。

『これはあくまで私の予想なんだけど、』
 そこで蓮子はペンを一度止め、私の事を凝視した。

「どうしたの? あんまり、焦らさないで欲しいわ」

 私の催促を受けて、蓮子は渋々といった調子で文字を綴る。

『それ、メリーが視てる夢と何か関係があるんじゃないかな』そう言われて始めて、私は自身の『眼』とこの異変を結びつけると言う視野を持つ事が出来た。

『貴女は何度か、夢、あの幻想の園から、モノを持ってきた事がわったわね』
「……そうね」

 流石に、あのような鮮烈な記憶を易々と忘れる事は出来ない。

『今回はその逆なんじゃないかなって、思ったの』
「逆……って言うと?」
『メリーは、夢に五感を忘れてきてしまったんじゃないかなって』
「な、なるほど……ね」

 その、蓮子の言葉は妙に、スッと、私の胸の中へと溶け込んでいったようだった。


        〇


 蓮子と二人でゼリーをちゅーちゅーしながら、することもなく、二人並んでベッドに座っていた。耳が聞こえないと何かと不便だからという理由で、今晩、蓮子は私の家に泊まってくれる事になっていた。

 そんな理由で蓮子が泊まってくれるなら、これから毎晩蓮子は私の部屋に泊まっていく事になってしまう。蓮子はその点についてどう考えているのだろう?

 訊ねたい。訊ねて『当たり前じゃない。これからは私が付きっきりでメリーの世話をするからね』とか、何か、そう言う事を言われたいと思う。

「あ――っ」

 その時、私は、とても大事な事に気付いてしまった。

 蓮子と毎晩一緒に居られるのは嬉しいし、楽しい事だろうけど、この現象が一過性のモノではなく、永続するものであったら、私はもう、蓮子の声を聞く事という事なのだ。

 それは、何て、悲しい事なのだろう。

 胸が締め付けられるような心地がした。

 今はまだ、蓮子の声を思い出す事は難しくない。

 溌剌とした、正に少女を代表するような元気な声色。

 そんな声で『メリー』と呼ばれる事は、もう、ないのだ。

 そう思うと、途端に涙が零れた。

 慌てた様子の蓮子が、私に何かを語りかけたのが、涙で霞む口の動きから分かった。それから直ぐに、やってしまったと言う顔をして、メモ用紙にペンを滑らせる。

『どうしたの、メリー』

 焦っている所為か、その文字が酷く淡泊に感じてしまう。確かにそれは蓮子の書いた文字であり、蓮子の発した言葉であるのだが、声に比べると、どうしても無味乾燥であり、温度が存在しないように感じてしまうのだ。

「あ、あのね……、もう、これから、ずっと……蓮子の声が聞けないんだって、思ったら、悲しくて……なんか、悲しくて……」

 何て恥ずかしい事を言ってしまっているのだろう。言いながら、自分を客観視しようとする自分が赤面するが、それでも本心というヤツがぼろぼろと零れてしまう。それほどまでに、私の心は弱ってしまっていたらしい。そりゃあそうか。だって、味覚と嗅覚がなくなってただでさえ弱っていたところに、この仕打ちなのだ。泣くなって言う方が、どうかしてる。

 そんな私を見て、蓮子は焦って、だけど一瞬、晴れやかな顔を浮かべた。何かを閃いた人間特有の、あの爽やかな顔だった。蓮子は大慌てで文字を書き進める。書き殴られたそれは、解読するのに少し時間が必要だった(拭っても拭っても溢れてくる涙も解読の邪魔をした)。

『私と話してても暫く自分の耳の状況に気付けなかったって事は、もしかしてメリーは、自分が発した音は聞こえているんじゃない?』

「あっ」そうだ。確かに私は、自分が発した音は聞き取る事が出来る。でも――「それじゃあ、意味ないじゃない……。私が聞きたいのは自分の声じゃなくて、蓮子の声なんだから……」

 自分で言っていて、悲しくなってくる。まるで拗ねた子供のようだと自己嫌悪に駆られてしまう。

『だからね、私が言いたいのはさ、そういう事じゃなくて、えっと、とにかく、メリーはジッとしてて』

 言って、蓮子は、何故か私の背後へと回り込む。

 私の首が無意識的に動いて、蓮子の動きを捕捉しようとするが、蓮子に両手で首を固定されて、ぐぎぎ……となってしまう。ジッとしててって、そこまで厳重なものなのか。

 なんて思っていたら、私の肩胛骨と背骨の間辺りに、柔らかいものが触れた。

 そして、ぶるぶると、私の皮膚が震える。
 蓮子に何をされているのか察した私は、涙が引っ込み、今度は血液が顔に集まってきてしまう。

「ちょ、ちょっと蓮子!? 何やってんのよ!」

 何をやっているのかは分かる。聞きたいのは、何故そんな事をしているのかと言う事。
 つまり、何故蓮子は私の背中にキスをして、舌先で私の皮膚を弄んでいるのかという事。

 それがこそばゆくて、変な笑いが込み上げてきてしまう。

「ね、えぇ……ちょっと、たんま、あはっ、ムリムリムリ!」

 そこでやっと、蓮子は狼藉を止めた。
 そして再び私の前に戻ってくると、文字を書き始める。


『ちょっと待って。恥ずかしいから、目隠しするね』
「え? 目隠しって、どう言う――」

 私の言葉を遮って、蓮子はタオルで私の視界を遮ってしまう。

 暗闇に包まれた視界。

 音と光を失ってしまった私は、途端に大きすぎる不安に包まれる。

 同時に、もしかしたら私は明日にも、本当に視界を失ってしまうかもしれないのだ、という可能性に思い至る。それは怖い。余りにも恐ろしすぎる。私から、蓮子の声だけではなく、姿まで奪おうと言うのか? それは残酷過ぎるのではないか? 私は発狂しそうになってしまうほどの、恐怖に襲われてしまう。

 だが、その恐怖は、不本意な形で遮られてしまう。
 と言うのも、蓮子が私のシャツの裾を掴むと、一気に胸の辺りまで捲し上げたのだ。
 悲鳴をあげる事すらできなかった。

 ――え!? 何!? 目隠しってまさか、そう言う? そう言うプレイの為だったの!?

 でも、分からない。これから何をされてしまうのか、そう言う知識に乏しい私は分からない。そりゃあ、アソコに触れられるとか、そういう発想は出来るけれど、具体的な行為は想像もできないのだ。しかも私達は女の子同士だし……でも、蓮子なら良いとか、思っちゃう部分もあるけれど。


 錯綜と暴走を続ける思考。
 先ほどと同じように、今度はお腹に柔らかいものが触れた。

「ぁ~ ァ~」

 そして、微かに、本当に微かであるが、私の内側から、蓮子の声が響いた……様な気がした。唾液がお腹に触れて温かくて、冷たくて、むず痒くて、気持ち悪くて、気持ち良い。

 蓮子は私のそんな気も知らないで、
「も~し~も~し~」
 なんてマヌケな事をやっている。

 ――って、私、蓮子の声、ちゃんと聞こえてる?

 私は恐る恐る、蓮子に
「も……しもし?」
 と返事をする。

「あ、ちゃんと聞こえてるの!? メリー!」

 海の中で会話をしているような(そんな事をした事は当然ないけれど)、くぐもったような声ではあったが、それは確かに蓮子の声で、その声は、確かに私の名前を呼んでいた。

「きっ、聞こえてるよ……蓮子」

 たった数時間声が聞こえていなかっただけなのに、もう、その声を懐かしいと感じてしまう。そして、その声を聞いただけで、涙を流してしまいそうになる。

「良かった……」

 だけど幾つか問題があって、それは、蓮子が喋る度に私がむず痒さに笑い出しそうになってしまうという点と、事実上蓮子に腹部をなめ回されている訳だから、何だかちょっと妙な事を考えてしまいそうになってしまうという点と、私達自身の今の姿を想像すると、やっぱり笑い出してしまいそうになるという点だった。

「ふふ……っ」で、結局私は吹き出してしまった。

 私が笑った理由を蓮子が理解しているのかは分からないが、何故か蓮子も吹き出して、二人で暫く笑い続けていた。その絵面は、何とも強烈なものだっただろう。


        〇


 沢山会話をして、私のお腹がふやけてしまった辺りで、この会話方式は中断した。

 ……どうしても、真面目な話には向いていない会話法であったし。

「ねえ、蓮子……私ね、多分、眼も見えなくなるんだと思うんだ」
『そうかもね』

 蓮子は否定しなかった。それがきっと、今の彼女なりの優しさなのだろうと思う。

「だからね……今のうちに、蓮子の姿を、眼に焼き付けておきたい」
『いいよ。いいけど、どうやって?』
「見せて……有りの儘の蓮子を、見せて欲しいの」

 変な事を口走っているいう意識はある。
 きっと、こんな状況だから、大胆になってしまっているのだろう。それに、こんな状況なら、蓮子も私のお願いを断る事は出来ないだろうという想いもあった。

 私の想いを察したらしい蓮子が、顔を真っ赤にして、手をばたばたと振る。

『ちょっと、それは流石に……』
「ダメ……?」

 蓮子は口を開きかけて、もどかしそうにペンで文字を書き始める。
 申し訳ないと思うと同時に、その一連の仕草が何とも可愛らしい。

「蓮子の体を、良く見せてくれさえすれば良いから」

 蓮子は書き終えたメモ用紙をくしゃくしゃに丸めて、私の方へと投げてくる。
 私の額にクリーンヒットしたそれは、ぽてんと床に落下した。私はそれを拾い上げ、中身を見ようとメモ用紙を開き直す。

『バカ』

 と、歪んだ文字が並んでいた。何とも意地らしく、胸の奥にじん、と沁みる言葉だった。

 メモ用紙から顔を上げると、蓮子の姿が室内から消失していた。
 スッと、心に氷柱を突き立てられた様な心地。

 ――えっ。

 一瞬で心が絶望に塗り潰されて、くらりと意識が暗転しそうになる。
 音が聞こえないから、蓮子がこの部屋から出た事に気付けなかったのだ。

 でも、どうして?

 流石に調子に乗りすぎてしまった? 蓮子を怒らせてしまったのだろうか?
 でも、いきなり、黙っていなくなる事なんてないじゃないか。

「蓮子!」

 思わず叫んでしまったが、どれほどの音量で部屋に響いたのかは分からない。
 と、その時玄関へと続く道の途中、浴室へと続く扉から腕が生えた。

「ひぃっ」

 その腕はぐにゃりと曲がって、素早くうねり、私に何かを投擲してきた。

 ……メモ用紙だ。

『脱いでる』

 と書かれたメモ用紙だった。

「なんだ、そっか……そりゃ、そうだよね」

 蓮子が私を置いてどこかに行く筈なんてない。
 どうやら本当に心が弱っているらしい。
 少なくとも冗談と真面目な話の区別すら付かない程度には。

 今なら何にだって泣いてしまいそうだ。

 例えば、そう、蓮子の白雪の様な地膚にだって、感動して、泣いてしまうと思う。

 だって、ほら、廊下に現われた蓮子は、羞恥に顔を染めて、明るみに出て来ようとしない。暗い廊下に立ち尽くし、俯いて、いつもの帽子で自身の恥部を隠していた。

「ねえ、蓮子。もっと明るいところで、良く見せて欲しいわ」

 私の言葉に反応して、蓮子の口が動く。
 何を発したのかは分からないが、不思議と悪い気はしなかった。

 蓮子の脚が恐る恐ると言った調子で一歩分動く。その動きに合わせて、さらりとショートの髪の毛が揺れる。緊張の所為か、蓮子の瞬きの回数が増え、その艶めかしい舌が何度も自身の唇を拭う。

 音が聞こえなくなってしまった所為だろうか。

 いつも以上に鮮明に、鮮烈に、それでいて鮮麗に、蓮子の姿を捉える事が出来た。

 たっぷりと時間をかけて、蓮子は部屋の明るみの中へと戻ってきた。

 本人はそんなつもりなど微塵もなかったのだろうが、私からしてみれば、焦らされているようなものだ。待てを食らっている犬の気分が少しだけ理解できた。

 今度は私が一歩、蓮子との距離を詰める。
 より細かな点まで観察出来るようになる。
 離れていた時の全体像とはまた少し違う。

 肌に浮いた汗が照明に照らされ、裸体を嫌らしく輝かせている。

 手を伸ばしかけて、止めた。
 その指先が彼女の肌に触れるか触れないかというところで、静止する。
 爪の先が白銀の産毛をなぞる。

 蓮子の身体がぴくりと震え、だらしなく口が開く。
 蓮子の可愛らしい鳴き声が、頭の内側で響いたような気がした。

 私は完全に引き際が分からなくなってしまっていた。

 どれだけ時間をかければ、私は満足するのだろう。
 そもそも私が満足する瞬間など訪れるのだろうか。

 蓮子と言う事柄に対してだけは、私が満足する瞬間は訪れない。
 それは呑めば呑むほど乾きの増す海水のようなものだ。
 それは触れれば触れるだけ依存度の増すドラッグのようなものだ。

 だから私はその艶姿を目に焼き付け続けた。
 延々と、永遠と、蓮子の裸体を眺め続けた。


         ☆


 目が覚めた私は、聴覚が健在である事に安堵した。
 だが、それは偽物の安堵である事を直ぐに察した。

 何故なら視界に広がっていたのは私の部屋ではなく、見覚えのない、森だったのだから。

 ――私はまた、迷い込んでしまったのだろうか。それもこのタイミングで。

 いつものように戻って来られるのだろうか。
 それが不安でならなかった。

 私は暫くその場で佇んでいたのだが、流石に退屈さに殺されそうになった為にふらふらとした足取りで歩き回ってみる事にしたのだった。

 その森には道らしき道は存在せず、私は彷徨うようにして歩みを進めていく。

 森の切れ間から陽光が零れ始めた時、私は年甲斐もなくはしゃいでしまっていた。

 私はその切れ間へと向かって走り、木の根に躓いて盛大に転んでしまった。

「いたた……っ」

 反射的にそう呟いた私であったが、傷口を擦れど、立ち上がれど、痛みが襲ってくることはなかった。

 ――これって、もしかして……?

 私は試しに自身の頬を抓るという古典的な方法を試してみる。結果は予想通り、私の頬が痛みを訴えてくる事はなかった。

 どうやら私は痛覚のみを現実に忘れてきてしまったらしかった。

 いや、忘れて来たと言うのは正確な表現ではないのかもしれない。
 正確には『痛覚だけがまだ夢から覚めないでいるのかもしれない』か。

 自分のその発想に私はゾッとした。

 つまり、現実と幻想が裏返ろうとしているのだ。
 その概念が、私を中心に、ぐるりと、反転する。

 私はそんな自分を誤魔化すように、森の切れ間を目指して走り出した。

 眩しいと、そう感じた。
 そう感じられる事が、喩えここが現実ではないにしても、嬉しいと感じた。

 そして嬉しいと感じてしまう事に、嬉しくないと感じてしまう。
 私の感情は何とも複雑怪奇だった。

 周囲を見回すと、小屋のような建物があった。
 表側へと回り、観察してみると、上部に看板がある事に気付く。

【香霖堂】と書かれたその看板は、その小屋がお店らしいと言う事を指し示していた。

 試しに中を覗いてみると、やはりそこはお店と言うよりも物置小屋のような気がしてきた。雑然と、統一感のない物体が所狭しと並べられているのだ。

 値札のようなものは存在せず、何が何だか分からない。

 だけれど、興味を惹かれてしまうという事だけは確かだった。
 何と言うか、こう言う、古くさくて、訳の分からないモノというのは、嫌いじゃない。
 蓮子からはオタク臭いと言われるが、自分でも良く分からないが興奮するものは仕方がない。

 気付くと私はその小屋の中に入っていて、そのガラクタの数々を眺めていた。

「冷やかしかな?」

 突然、奥の方から男性の声が響き、私はぴくりと肩を震わせてしまう。
 振り返り、確認すると、カウンターと思しき区画の奥に銀髪の青年が座っていた。

 どうやら彼は暫く本を読んでいて、その所為で互いに相手の存在に気付くのに時間がかかってしまったらしい。

「……ん?」

 そしてその男の人は、私の顔を見て、何やら顔を顰めたようだった。だが、その顔は直ぐに元の取り留めと語りどころの薄い無表情に戻った。

「いや、違うか。スマン、知人と勘違いしたみたいだ」

 男の発言に私は釈然としないものを感じたが、私は納得してみせる事にした。初対面の人間に過度な干渉をする気にはなれなかったし、私はこの男に胡散臭さを感じてしまっていたから。

「しかし……、ああ、もしかして君は『別の世界』から来た人間なんじゃないか?」

 男の言葉に私は目を見開いた。

「私の事を知っているんですか?」
「知っているという程は知らないさ。ただ、風の噂でそう言う存在が居るという事は知っていた。それに、君は巷で噂になっているよ。本当に限られた『巷』ではあるけどね」

 自分の居ない所で自分の話題が出されるというのは気持ちの良い物ではない。
 喩えそれが良い物であったとしても、だ。

「それにしても、見れば見るほど似ているな」
「あの……私の分からない部分で勝手に納得されるのは、気分が悪いんだけど」
「ああ、これは失礼した。柄にもなく他者に興奮していたらしい」
「興奮って――ッ」

 私はこの男の不躾な物言いに思わず赤面する。

「ああ、勘違いしないでくれよ。別に欲情した訳ではないんだ。それに、僕ほど性欲というモノから遠い存在もそう居ないから、その点については安心してくれて良い」

 男はつらつらとそう語り、私は言葉に出来ない苛立ちを覚えた。

「そうだな、先ずは自己紹介といこうか。僕は森近霖之助と言う。君は?」
「……マエリベリー・ハーンです」
「ふぅーん、マエリベリーに、ハーンね。名前から結びつける事はいくらでも可能だから僕は好きじゃないが、それでも何か暗示的なものを感じてしまうね」
「だ、だから、そう言う、自己完結みたいな事を止めて欲しいと私は言っているんです」
「ああ、そうだった。すまない、どうにも僕は『自己完結』と言うものが好きらしくてね。こんな店を開いているのも、つまりはそう言う事なんだろうね。ああ、今のも自己完結か。でも、君は何を望んでいるんだい? 僕から何を聞きだそうと?」

「……貴方はさっきから『誰と』『私を』結びつけて語っているんですか」

 私の質問に森近は薄い、それでいて趣味の悪い笑みを浮かべた。

「そこからかい?」

 何がそんなに愉快なのだろう。笑顔からではなく、雰囲気から、彼が愉快で仕方がないという事が伝わってきて、対する私は不愉快で仕方がない。

「……そこからです。何せ私は『こちら側』の事を断片的にしか知らないんですから」
「なら、八雲紫という名前――もしくは単語に聞き覚えは?」
「ありません」
「本当に?」
「どうして嘘を吐く必要があるんですか」
「そりゃあそうだ。だけど、君と対面していると、つい勘繰ってしまいたくなるんだよ」

「その、八雲紫という方と、私が似ているんですか?」
「似ているのかと訊かれれば似ていると答えるしかないし、似ていないのかと訊かれれば似ていないと答えるしかない。重なってはいるが、同一ではない。裏と表? 正と負? それとももしかしたら生と死かもしれない。なんとも言葉にし辛い関係だよ、君達は」

 私は彼の物言いに疑問を持たずにはいられなかった。
 だが、詳しく訊ねたところで、その答えが私に納得の出来るものだとは思えなかった。

 つまり、八雲紫という解答を知らなければ、私には何一つこの男の言葉を理解する事は適わないという事だ。

「ところで君は『別の世界』からやって来たらしいが、そちらの世界の事を訊いてもいいだろうか」
「……私の疑問には大して答えてもくれないのに? 利己的なんですね」

 私は少しふて腐れながら、そう言った。

「まあ良いじゃないか。どうせ詳しく説明したところで、僕が君に伝えられる事は限られている。それなら、今はもう少し有意義な話をしようじゃないか。お礼ならするさ。さっき君が興味深そうに見ていた物をあげても構わない」
「……良いんですか?」

 それは、ちょっとだけ美味しいと思ってしまった。私も大概利己的だ。
 そんな私を、森近は嗤わなかった。きっと彼は端から私になど興味はなく、『自分の中の疑問と知識』しか見てはいなかったのだろう。

「ああ、君の情報にはそれだけの価値があると僕は踏んでいるからね」

 仕方なく、私は森近へ私達の過ごす現実の話をしてみる事にした。
 彼は興味深そうに、それでいて適切なタイミングで質問を寄越してきた為、思いの外話は弾んでしまい、気付くと大分時間が経ってしまっていた。

「ああ、そうか。ありがとう。久しぶりに有意義な時間を過ごせたような気がするよ」

 森近はそう言って、疲れを吐き出すように息を吐き出した。

「じゃあ、約束通り、好きな物をあげよう…………一応、持っていくのは、どれが欲しいのか僕に告げてからにしてくれよ」

 全部が全部という訳ではないのか。そんな彼をケチだと嗤うつもりにはなれない。
 私が提示できた情報に見合うモノであれば良いという事なのだろう。

「……じゃあ、これを貰っても良いですか?」

 私が指差したモノを見て、森近は目を見開き、驚きを露わにした。

「そんなモノで良いのかい?」
「はい。これで良いです。それじゃあ、有り難うございました」
「そうか。君がそう言うなら、君にとってそれは価値のあるものなんだろうね。またこちら側にやってくる事があったら、是非、寄っていってくれ。歓迎するよ」

 そんな言葉を背中に受けながら、私は、店の外に出た。
 夕焼けが目を焼いて、そして、私は夢から覚めた。


        〇


 起きた私を襲った違和感は、暗闇であった。
 眼を開いている筈なのに、目の前に広がるの純然たる黒色だった。夢から覚める直前に見ていた光景が余りにも鮮やかであった所為で、そのギャップに大きく戸惑ってしまう。

 ――ああ、とうとうこの世界から光すら奪われてしまったのか。

 妙に冷静な頭が、そう、自己分析をした。

「ねえ、蓮子、起きてる?」

 私は森近からの貰い物をポケットに仕舞い込みながら、そう訊ねた。

「…………………………」

 返事はない。いや、聞こえていないだけか。
 そう言えば、視覚すらなくなってしまったら、更に蓮子と意志の疎通をするのが難しくなるなあ。それに、蓮子の姿を見る事もできなくなってしまう。

 昨日、あれだけ眼に焼き付けた筈だったのに。

 美しい景色を見られないという事実よりも、それだけがただ、口惜しいと思う。


 ぴたりと、手に、何かが触れた。


 それが蓮子の手だと理解するのに数秒の時間を要した。

 私はその手を強く強く握りしめる。

 ああ、確かに蓮子の手だ。

 無限に広がる虚無の中で、私の右手だけが浮かび上がったような気がした。

 とうとう私は、蓮子に触れていないと、自身の存在すら感じ取れなくなってしまったのだ。

 だからこそ、恐怖心が煽られる。
 もっと私を認めて欲しいと、不安になってしまう。
 ここに存在しているのだと教えて欲しい。
 ただ一人、蓮子にそれを刻み込んで欲しかった。
 そしてその願いは容易く叶えられる。
 きっと誰よりも私と時間を共にした蓮子だから、分かってしまったのだろう。
 私が何を望んでいるのか。
 私が何に怯えているのか。
 身体が温かい。
 その熱が、私の居場所だった。




 多分、今の私はとんでもなく面倒臭い娘だろう。

 だって、蓮子の存在が感じ取れなくなると、途端に涙が溢れだしてしまうのだから。

 それは無意識の内の行われる身体の反応であって、私個人の意識でどうにか出来るものではなかった。蓮子はそんな私に根気強く付き合ってくれた。怯える私の身体を守るようにして抱き続けてくれた。私にはそれが、どうしようもないほど嬉しかった。

 どれくらいの時間が経ったのかは分からない。

 ただ、心の内側に、砂時計の砂のようなさらさらとした混じり気のない不安だけが降り積もっていって、心が押しつぶされそうになっていた。

 気付くと私は蓮子の腕の中でウトウトと船を漕いでいた。

 私は眠るのが怖くなってしまっていた。

 だって、寝て、起きたら、また、何かを失ってしまっているかもしれない。

 今度失ってしまうのは、この温もりかもしれないのだ。

 蓮子の存在すら感じ取れなくなってしまうかもしれない。

 そこに蓮子がいると信じる事は出来る。

 事実、きっと蓮子は付きっきりで私の傍にいてくれるだろう。

 だが、人間の心はそんなに強いものじゃない。

 何より私は弱い人間だ。

 私はヘレンケラーにはなれないし、何より言葉ではヘレンケラーは救えない。そんな彼女からこの温もりすら奪ってしまったら、きっと、彼女の心は死んでしまうだろう。

 私の不安を敏感に感じ取ったのだろうか。

 私を抱く蓮子の腕の力が少しだけ強くなったような気がした。
 私はそれでは足りないと伝えるように、より強く抱き返した。
 痛いとすら感じてしまう程の抱擁が今の私には丁度良かった。


        〇


 そして予定調和のように、私は触覚をも失ってしまった。

 始め、私は自分が死んでしまったのだと思った。

 感覚がないと言うよりも、自身の身体が消失してしまったかのような、そんな心地だ。

 幽霊だって、今の私ほど存在が希薄ではないだろう。

 身体を動かそうとしてみるが、動いているのかすら分からない。

 足の裏の感覚もなければ、重力を感じる事すら出来ないから、立っているのか座っているのか転んでいるのかさえも分からない。

 果たして私は生きているのだろうか。

 死んで、意識だけの存在になってしまったのではないだろうか?

 そう言われた方が現実味があるし、何より、救われる。

 こんな状態で『お前はまだ生きているのだ』と突き付けられるのは、余りにも悲しく、苦しい。

 ふと、視界に靄が生まれた。

 ――これは、夢?

 その靄は私を包み込み、そして、視界一面が真っ白に染まった。

 奥、世界の奥深く、煌めく金糸を纏った一人の女性が現われた。

 ――アレは私?

 いいや、違う。良く見れば全く違う存在だ。なのに、何故か私はアレを自身だと思ってしまった。どうして?

「それは貴女が幻想の落し子だからですわ」

 その女(女だと思ったのは、その格好の所為だった)が、森近の言っていた『八雲紫』なのだという事を、私は直ぐに理解した。

「もしくは、この幻想が貴方の落し子なのかもしれませんが――その意味づけなど、詮無き事ですわ。私、自己満足というのは好きではありませんの」

 八雲の言葉を、やはり私は理解する事ができなかった。
 だが、不思議と、スッと、心に、染み渡るような、不思議な、響きが、あった。

「細かい事はどうでも良い。そんなモノは不必要なのですから」
「このお話にとって、それらはあくまで蛇足でしかありません」
「つまり、貴女が納得出来るか否かという点にのみ意味がある」
「そしてそんな貴女を幻想が取り込んだ時、全ては終わります」
「だけれど、何が終るのかも貴女にはやはり関係がないのです」
「私はあくまで、貴女を誘い、意味深気な事を言うのがお仕事」
「何故ならこの私は、貴女の想像力そのものなのですから――」
「少し語りすぎてしまったみたいですね。一先ずはお別れです」
「夢から覚めて、最後の、そして最期の現実をお楽しみなさい」
「その現実が、貴女の現実が幻想となる瞬間を想いながら、ね」

 言葉が何度も頭の中で反響した。それは反響を繰り返す事で次第に大きくなっていき、ハウリングを起こして私の意識を破壊した。

 そして私は、壊れてしまった身体を、蓮子に、壊し直して貰いたいと願った。

        〇

「ねえ、蓮子。
 私ね、きっと、もう、消えちゃう。
 居なくなっちゃう。
 貴女にとっての、幻想になっちゃう。
 凄く、悲しいよ。
 ねえ、今、私は泣けているかな?
 それすらもう、分からないんだ。
 実は話せているのかって事も分からない。
 蓮子が握ってくれているかもしれない手の感触も、
 蓮子が語ってくれているかもしれない声や言葉も、
 何もかも、何もかも、何もかも分からないんだ。
 そうやって、次第に、
 自分が何を考えて、何を想っているのかも、
 分からなくなるんだと思う。
 だからね、蓮子。
 そうなる前に、
 そうなっちゃう前に、
 私に貴女を刻み込んで欲しいの。
 多分ね、今の私でも、凄い痛みなら感じ取れると思うの。
 だからその手で、その手で私に実感させて欲しい。
 生きているんだっていう実感を。
 蓮子が傍にいるんだっていう実感を
 そして蓮子が私を愛してくれているんだっていう、実感を。
 蓮子が私を愛してくれているなら、私に目一杯の傷と愛を。
 残酷なお願いだって事は分かってる。
 愛しているなら――と言っておいて、
 その身体に刃を突き立ててと言っているんだもんね。
 最愛の人間をその手で傷つけろと、言っているんだもんね。
 だけど鈍磨な私の身体は、麻痺した私の精神は、
 それ位の劇薬でないと、既に愛情すら感じ取れないから。
 だから蓮子。
 貴女の刃で、私の身体を犯して――」

 浅い痛みが私の意識を辛うじて現実へと繋ぎ止める。

 それはまるで鋭い男根のように私の奥へと刺し込まれ、獣の性交の様な淫らな水音を立てながら我が肉をズタズタに引き裂いていく。過剰に分泌された赤い蜜と黄色い潮。それらが深く深く混ざり合い、私の肉体と精神の内側に何かを孕ませていく。だが注がれる物は何もなく、ひたすら空虚で悪辣な性交のメタファーを演じ続ける。

 この行為の果てに、私の身体は何を孕むのだろう。
 この行為の果てに、私の精神は何を孕むのだろう。

 蓮子の苦鳴が聞こえたような気がした。

 私の耳は壊れている筈なのに、蓮子の泣声が聞こえたような気がしたのだ。

 ぐすり、ぐすりと泣きながら、蓮子は必死に私の身体に刃を突き立て、皮膚に彼女の意志を刻み込み続ける。それだけの行為をされても、私の身体は指先で撫でられるような感覚しか得る事が出来ない。

 だから望んでしまう。

「もっと強く。もっと激しく。蓮子を感じさせて」

 そう願ってしまうのだ。

 蓮子は優しい娘だから、有りもしない激痛を、私というフィルターを通して感じてしまうだろう。
 いいや、そもそも愛する人間の身体に刃を突き立てるという行為に痛みを覚えない人間なんていない筈だ。そんな人間がいれば、そいつはきっと精神的不感症か何かだ。

 だが、何と言う皮肉だろう。

 だからこそ私は、蓮子の愛情を感じ取る事が出来るのだ。
 どんな深い性行為よりも、尊い愛の囁きよりも、だ。

 蓮子の叫びに呼応するように、私の視覚が、一瞬、光を捉えた。

 蓮子は涙を散らせ、返り血で真っ赤に染まり、慟哭を繰り返す。

 私はそんな蓮子を、誰よりも、何よりも、美しいと、そう感じた。

 苦痛に歪む蓮子の表情に、私は純血の華を散らす処女の姿を幻視したのだ。
 少なくともそれは、襲う側がされる表情ではない。
 そこに快楽の色は存在せず、ただひたすらに精神を激痛が襲っているようだった。

 この行為の果てに、蓮子の身体は何を孕むのだろう。
 この行為の果てに、蓮子の精神は何を孕むのだろう。

 私がこの行為で、正気を保つ事が出来るように、
 蓮子はきっと、この行為で狂気を孕むのだろう。

 マエリベリー・ハーンという熱病を患い、
 きっと彼女は私の夢を視る。
 彼女の恋い焦がれた幻想が、私へと移り変わる。

 それは自傷行為にも似た存在の証明だ。
 そうする事でしか届かぬ唯一の錯覚だ。
 私達が辿り着いた悲劇の意図で誤答だ。
 
 ――さようなら、蓮子
 その言葉に蓮子は、最愛の一突きをもって答えたのだった――


        ☆


 夢から覚めた私を出迎えたのは、清々しいまでに研ぎ澄まされた五感であった。

 光と温もりと騒音と、それと消毒液の香り。

 身体を起こすと何の抵抗もなく起き上がる事ができた。
 それはもう、今までの出来事の全てが夢であると錯覚してしまう程に。

「起きたのね」

 だが、起床した私を出迎えたのは蓮子ではなく、青色と赤色が左右で別れているという素っ頓狂な格好をした妙齢の医者であった。何故その人が医者だと分かったのかと言えば、被っている帽子に赤十字が掲げられていたからだ。

 私はそっと、室内を見回す。

 医者がいるのだから、ここは当然病室だろうと思っていたのだが、私が頭に思い描いたような白を基調とした部屋ではなく、和洋折衷とも言うべき独特な内装をした部屋だった。

「えっと……ここは?」
「永遠亭」

 私の質問にその女性はあくまで淡々とそう答えた。
 それがこの建物の名前なのだろう。

「貴女は――」

 そして、私の顔から、身体へと視線を移し、溜息を吐いた。
 人の身体を見て溜息を吐くなんて、何と言う無礼であろう。
 色々と間違いながら、私はそんな事を思ってしまう。

「貴女が何をしていたのかは知らないし、知りたくもないわ。だけどね、もう少し自分の身体は大切にしなさい。せめて、限りあるものくらい、慈しみなさい」

 女性は私を通して何か別のモノを視ているかのように、そう呟いた。

 そしてその態度から、私はここが既に現実ではないのだという事を悟った。

 こちら側の住民は、何故か私を視て、そう言った態度をとるのだ。
 私が『誰か』に似ているからと言う理由だけで、勝手に同類のように扱うのだ。

「そうですね……これからは気をつけます」

 だって、私の身体に傷を付けていいのは、蓮子だけだから。

「それと、最善は尽くしたけれど、傷痕は残るから。そのつもりでいなさい」

 その言葉に反応して、私の指先は、私の身体に触れた。
 そこには確かに、縦横無尽に刻まれた様々な傷痕があった。
 私はその痕を指先でなぞりながら、蓮子へと思いを馳せる。
 彼女が刻んでくれた愛を頼りに、私は彼女を想った。

「それは……寧ろ好都合です」
「そうなの? だったら、消してあげた方が貴女の為だったかもしれないわね」
「……消せるんですか?」
「当たり前じゃない。私を誰だと心得ているの?」
「……知りませんけど」
「私も貴方の事は知らないから、これでお互い様ね」
「何を張り合っているんですか、何を」

 言いながら、私は立ち上がった。痛む箇所はない。歩く事も出来る。
 そして、徐々に働くようになってきた頭が、現状を正確に捉え出す。

 即ち、ここが病院で、彼女は医者で、私は患者で――という、当たり前の構図である。

「……治療を受けておいて難なんですが、私、この世界の通貨とか、持っていないんです」
「知ってるわ」
「……どうしましょう」
「どうもする必要なんてないわ。無銭だと知っていて、治療したんですもの」
「な、なら……お言葉に甘えさせていただきます」

 その後、再び意識が途絶えた私は、更に十時間ほど眠ってしまったらしい。
 起きた時、既にあの医者の姿はなく、代わりに兎の耳が頭から生えた少女が私の元へとやって来て、「目、覚めたんだ」と、言った。

「うん……もう、大丈夫みたい」
 相手の容姿が十代にも満たない少女のものであった所為か、思わず敬語がとれてしまう。

 ウサ耳の少女が「里まで送っていく」と言うので、私はその言葉に甘えておく事にした。

 永遠亭と呼ばれた建物から出ると、そこにはいつだったかの夢で見た光景――延々と広がんとする竹林があった。私は内心でなるほど、と納得する。

「でも……私、これからどうすれば良いのかな」誰に宛てる訳でもない、独り言。自分の中だけで消えていく筈だったそれを、ウサ耳が耳聡く拾っていた。

「さあ。一先ず、里に行けば物好きな半人がいるから、そいつの所に行けばいい。きっと力になってくれるよ」

 素っ気ないながらも、この少女は随分と親切にしてくれている……気がする。
 その旨を少女に告げると、
「触らぬ何とかにゃ何とかなし、って言うじゃないか。私だって、敵にする相手くらい見定めるし、味方にする相手だって見定めるよ」
 なんて、またもやよく分からない事を口にする。

「えっと……つまり、貴女は私の味方って事?」
「いや、他人で居続けようってコトさ。適度な距離感保つにゃ、適当な親切ってね」

 ……どうやら邪険に扱われていただけらしい。
 まあ、ここで少女に見捨てられてても困るので、反論はしないでおいたけれど。

 久々の歩行に、脚が悲鳴をあげ、棒を通り越して電動マッサージ器のように震えだした頃、やっとの事で私達は里の、上白沢さんの所に辿り着いた。

 そこで、私とウサ耳少女は別れ、私は上白沢さんに里で暮らせるよう工面して貰えた。

 簡単にはいかなかったが、それでも、順調に――いや、順調過ぎるほどに、私はこの幻想郷という空間に馴染み始めていた。この暮らしについて、多く語れる事はないが、それでも、充実した日々を送る事ができている。

 ただ一つの問題点と言えば――


        ☆


 語り終える。
 起伏も何も存在しない、淡々とした事実だけを、私は語り終えた。

 湯けむりは何故か、晴れる事がなく、時を重ねる毎にその濃度を高めているようだった。
 

「貴女はその傷に、その名を付けたのね」
 人影は語り終えた私に、そう告げた。

 ――絆

 私が生きる為の絆。
 そして彼女が、私を見つける為の絆。

 そして影は私を試すように、
「だけれど、遺されたその娘はどうなのかしら」
 と、そう呟いた。

「大丈夫ですよ……蓮子なら、きちんと私を見つけてくれるだろうから」

 だって、その為に私は――

「貴女の目を使って――ですか?」
 影の言葉に反応して、私はそっと、自身の右目に触れる。
「ええ……そうね」

 ――彼女に私の眼を、遺してきたのだから。

「それで、本当に巧くいくとでも?」
「さあ、どうなんでしょうね」

 確信は、ない。
 蓮子の心が挫けないとも限らないし、何より、現実と幻想の交わりを、その瞬間を彼女が見つけられるとも限らない。
 ただ、それでも良いと思ったのだ。

「良いんです。ただ、蓮子が私を求めてくれているという事を、私は分かるから――」

 その、確信だけはある。
 それに、何より――

「最悪、私が向こう側に戻れば良いんですから。私にはそれが出きるのでしょう? 今はまだ不可能でも、可能性はあるのでしょう?」

 私の質問に、どうやら影は笑いを零したようだった。
 それは、私の発言が余りにも馬鹿らし過ぎたからだろうか。
 それとも……それとも?

「もしかしたら、貴女ならば、本当に辿り着けてしまうのかもしれませんね。その言葉が聞けて、私は満足しました……ええ、満足しましたとも」

 そう行って、それきり、影は黙りこんでしまう。
 何を考えているのか、窺い知る事は出来ない。
 だから、私は最後にもう一度だけ、影に疑問をぶつけてみる事にした。

「貴女には見えているのではないですか?」
「……何を、かしら」
「――結末です」

 また、影は笑った。

「そんな筈、ないじゃないですか。そうであれば、わざわざ私は貴女に何かを訊ねたりなどする筈がない。私はただの一妖怪に過ぎないのですから」

「私と貴方は……また出会いますか」
「必要とあれば、きっと、そうなるでしょうね」
「……そうですか」
「私との別れを惜しんでくれるのかしら?」
「いいえ、ただ、その時私たちは、どのようにして出会うのだろうな、と」
「さあ……それも私の伺い知るところではありません。ですが……きっと貴女とその親友との再開と、私と貴女の再開は、重なるのでしょうね」

 影の言葉は私の中へと溶け込む。
 そう言うものなのだろうと、理解よりも先に、納得が訪れる。

「さようなら、また、遭う日まで――」
「さようなら、また、逢う日まで――」

 別れの言葉が重なって、空気へと拡散するように、影の姿が消えた。
 それに合わせ、先ほどまでの靄が嘘のように、湯けむりが消え去る。

 私はもう一度だけ、体に刻まれたあの傷を指先で撫でた。
 湯が、少しだけ傷口に沁みたような気がする。
 傷はとっくに塞がっている筈なのに、だ。

 ひとりぼっちには慣れてしまった筈なのに。
 こちら側にきて、蓮子の居ない世界に慣れた筈だったのに。

 思い出してしまった。
 逢いたくなってしまった。

 忘れる事なんてやはり出来ず、時折、こうして、物悲しさに打ち拉がれる。

 自分でも気付かぬ内に、ガリッ、と爪が皮膚を切り裂いた。
 あの傷口をなぞるように、ガリッ、ガリッ、と皮膚が削れいく。

 そして私は思い出すのだ。

 蓮子の想いを、あの、切っ先を。

「蓮子――」

 私は願う。
 未来、蓮子がもう一度、この肌に刃を突き立ててくれるその瞬間を――
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コメント



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1.9名前が無い程度の能力削除
ところどころに出てくる品の無い言い回しや単語が
はたしてこの物語に必要不可欠なものだったか若干の疑問が残ります
がしかし、同時に必然性やリアリティを投げはなっているにも拘らず荒唐無稽さを感じさせない文章で引き込まれました
面白かったです
2.3みすゞ削除
どんどん感覚がなくなっていくところや、蓮子がメリーを突き刺すシーンにぞっとしました。ただ誤字がちょっと気になるかも。
3.4ナルスフ削除
さて、鬱屈秘封系。メリー視点なのでメリー→蓮子の強い想いはわかりやすいけど、蓮子→メリーの強い想いを感じ取れる箇所がなかったので、本当に刺し始めたシーンでちょっと驚いた。
というか、最後までどうにかしようとするんじゃなくて、求めに応じて刺す選択するんだ。思い切りいいなぁ。
まぁそこらへんは蓮子の想いが強かったんだということを示すシーンと解釈できますけど、メリーが最後にまた刺してもらおうとしてるのは何なの。もう五感は問題ないんじゃないの。ドMに目覚めたの?
それとも刃というのは単に愛情のメタファーなんだろうか。
理解し切れなかったというか、価値観が合わなかったというか、割とそんな感じの感想です。
4.8がま口削除
この二人の間では、傷ですら友情の証となりますか。
だんだん失っていく感覚といい、狂気すら感じるメリーの懇願といい、色々な意味でゾクッとする作品でした。
でも、グロテスクさや不条理さはなく、むしろ納得してしまう心情が印象的でした。
5.3u!冫ldwnd削除
メリーが五感を失う事の意味合いと言うことの意味合いはわかると思えました。
ただ、出来事の重さやダウナーな一人称にも関わらず、全体的に軽いと言う印象が拭えませんでした。全てが五感の喪失同様の予定調和に感じましたし、起伏に欠けるという印象も受けました。
6.4烏口泣鳴削除
シチュエーションの割に尖った部分が無かったのが残念。
ただ霖之助との会話は面白かったです。
7.7このはずし削除
読み終えてタイトルに納得
五感が幻想入りという発想から、こういうストーリーに結び付けるのはすごいと思います
8.6みかたす削除
とりあえず点数だけ取り急ぎ。
9.6めるめるめるめ削除
 もやもやとしたままどうにも納得のいかない終わり方。中盤の性交のメタファーはメリーの
心情を表すのには適切だと思えなかった(作品の雰囲気に対して浮いて見える)
 的外れかもしれませんが、メリー視点ということで女性的な感性で描かれている(ように見え
る)のに、性交のメタファーだけ男性的な感性に思えました。
 そう思えてしまうとその前の蓮子の裸も男性的感性に思えてしまい違和感が。
 前半の引き込み方はよかったです。
 若干説明不足な点も見られて、そこは残念。(なんでお腹を通すと声が聞こえるのか。なん
となくはわかるものの……)
10.6うるめ削除
テーマの消化の仕方が素晴らしい。
11.8きのせい削除
蓮子側の視点も見たい!
そう思うくらい、二人のやりとりが重く、切ない(あとエロい)ものでした。傷名というテーマ消化も新鮮味があってお気に入りです。
12.6あめの削除
行き過ぎた絆というのは何とも狂気じみているものです。
しかし秘封倶楽部の二人なら確かにありそうかもと思う辺り、私もかなり毒されているのかもしれません。
最初の入り方が抽象的だったので、「どうかな?」と心配したのですが、読み始めたら見事にそんな心配は吹っ飛びました。とても面白かったです。特にメリーと蓮子のやり取りが良かった。
最後に、私も蓮子ちゃんの裸をじっくり見たいです!
13.7名前がない程度の能力削除
目に見えないなら、形がはっきりしないなら、好きなように形を作って名前をつけても構わない、のかもしれませんね、絆。
14.6文鎮削除
ジョニーは戦場へ行ったを思い出しました。
自分の感覚がなくなっていくというのは本当に恐ろしいと思います。
私は歯医者で麻酔をかけてもらったことしかありませんが、それでも妙というか嫌な経験でした。
酸っぱさ多めの甘酸っぱいお話でした。
15.6K.M削除
失われゆく五感の恐怖…………そして病みともいえる信頼が重い。