第十四回東方SSこんぺ(絆)

千夜一夜

2014/09/14 23:58:39
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 夏の終わりのことだった。開け放たれた硝子窓の向こうからは鈴虫の鳴き声が聞こえ、晩夏の冷たい夜風が音もなく露草を揺らしていた。空は満月だった。月の光が密やかに室内へ入り込み、差し向かいにある内側の扉に向かってまっすぐ伸びていた。それは狭く薄暗いこの部屋の唯一の光源で、月光を窓のかたちに切り取ったようにして白く輝いていた。
 寝台に腰かけていた鈴仙は伏せていた顔を上げた。上げたときに薄紫の長い髪が目の上に少しかかり、彼女は鬱陶しそうに頭を振ってそれを払った。扉の方をみた。何か、ギィ、という物音がこの向こうから聞こえた気がした。それはちょうど廊下の床板が軋んだような音で、誰かが屋敷の中を彷徨いているのだろうと思われた。鈴仙は視界の端でちらつく自分の横髪を片手で押さえながら、音の聞こえた扉の方をみつめ、空耳でなかったか確かめようとした。
 ギィ、と、また音がした。鈴仙は肩に掛けていた上着を強く握った。ギィギィ、ギィギィ、音はこの部屋へまっすぐ向かっているようだった。鈴仙は寝台に強く尻を押し付けた。その拍子に寝台の横にあった床頭台が揺れて、台の上にあった花瓶の水もわずかに揺れた。花瓶の花は菊だった。見舞いの品だと同僚はふざけて笑っていた。廊下から聞こえていた音は扉の前で止まった。
 とんとん、と外側から扉が叩かれた。鈴仙の身体は痙攣したように震えた。しかしそうして固まってしまっていると、また、とんとん、と扉が叩かれた。鈴仙は、はい、と返事をした。今開けます、といって扉に近づいた。月光が鈴仙の背中に遮られて、暗く濃い影が扉の上にじわりと広がった。鈴仙は息を止めて取っ手を持った。些細な息遣いでさえ、この向こうの人物には読み取られているような気がした。
 斯くして扉は開け放たれた。扉口に見えたのは、はたはたと揺れる桃色の袖だった。夜半のため寝間着の着物だったが、肩から掛けた薄紅の羽織で首の白いのがいっそう映え、水を落としたようなまっすぐな黒髪は艶やかに流れていた。瞳は黒真珠のようにくるりとして愛らしく、その瞳でじっと見つめられると、何故だか無性に恥ずかしくなった。
 こんばんわ、と蓬莱山輝夜はいった。鈴仙も同じような挨拶を返し、毎晩来ていただいて申し訳ありません、と続けた。輝夜は構わないというように首を振って、鈴仙に向かって手を伸ばしてきた。蝋細工より白く繊細な指先が、鈴仙の頭をゆっくりと撫でていった。
 さて――、といって輝夜が手を離した。にっこり笑って、小首を傾げた。

「今夜はどんな物語を聞かせてあげましょうか」

 鈴仙が床に伏せったのは、今から二週間ほど前のことだった。原因は永琳が作った劇薬で、鈴仙はふとした不注意からその薬を自ら飲んでしまったのだ。その後三日三晩高熱に晒され、起き上がることさえ儘ならず、こうして個室を与えられて、快復するまでずっと寝込んでしまっていた。幸い意識はあった。永琳が新しく作った薬によって体内の劇薬も中和され、四日を過ぎる頃にはもう熱は引いていた。ただ体の怠さはしつこく残り、経過を慎重に見る意味でも、もうしばらく休養するようにということになった。それから鈴仙は、今に至るまでこの個室で療養中なのだった。
 これに気を病んだのはむしろ永琳の方だった。原因となった劇薬は机の上に無造作に放ってあったもので、また、実験のために鈴仙に服用してもらおうと思っていた薬も、そのすぐ近くに置いてあった。鈴仙は永琳に言われるがまま薬を飲んだ。あっと思った時にはもう遅く、薬を間違えた鈴仙はその場に倒れてしまった。あのような危険は物を適当に管理するのではなかった、鈴仙にはきちんと説明してから薬を飲ませるべきだった、永琳は酷く悔み、床に伏せった鈴仙の代わりに、普段彼女にやらせていた雑事を自ら熟すようになった。もちろん鈴仙には毎日診察を行い、食事の摂れなかった時には粥を作って口に運んでやることもした。今も三食作って個室まで運んできており、鈴仙の方が恐縮してしまいそうなほど甲斐甲斐しい看護が続けられていた。
 しかし、いつまでもひとつの部屋に籠りきりでは流石に鈴仙も退屈だった。身体の怠さは抜けないが意識ははっきりしており、加えて自分の代わりに永琳が働いているというのだから申し訳ない気持ちもあり、なんだか落ち着かない気持ちで日々寝台の上に横になっていた。永琳は敬愛する大事な師であった。最近は薬作りの腕も認められてきつつあり、これからなのにという気持ちがあった。永琳はひとりで人里まで薬を置きに行っているという。あるいは急患があればその治療に当たっており、早く良くなって以前のように隣に立ちたいと思った。
 輝夜が夜半に訪れるようになったのはそんな時のことだった。はじめは夜中に近づいてくる足音に怯えて、鈴仙は扉を開けることも出来なかった。永遠亭に運ばれた患者の中には、治療が間に合わずそのまま亡くなってしまった人もいると聞いた。間抜けな話、扉の向こうに立っているのはそういった幽霊かもしれないと思った。あるいは誰もいなくて、扉を閉めたらまた足音だけが聞こえるのではないかと恐怖した。けれども実際には桃色の袖がはたはたと揺れており、鈴仙は安心すると共に何の用なのか訝しんだ。
 物語を聞かせてあげましょうか、と扉口の輝夜はいった。彼女はこうして夜半に訪ねては、鈴仙に物語をひとつ聞かせるのだ。一晩につきひとつずつ。夜を重ねるごとに違う物語を聞かせていった。それは輝夜自身の物語だった。何千年にも及ぶ彼女の思い出話であり、または彼女の歴史といってもよかった。その物語の中にはいつも永琳が出てきた。あるいはその物語は、輝夜と永琳の物語なのかもしれなかった。
 輝夜は鈴仙に物語を語る理由を告げなかった。ただ、ひとりでは寂しいでしょう、とだけ言って物語を語っていった。鈴仙は、いつもありがとうございます、と礼をして、毎回部屋の中へ案内した。初めに輝夜がそうしなさいと言ったから、自分は寝台の上に横になって、輝夜にはその横に置いてある椅子を勧めた。輝夜は上機嫌で椅子に座った。そうして胸元まで布団を被る鈴仙に手を伸ばして、彼女の長い髪を手櫛で梳いていった。そのとき輝夜の黒髪が肩からさらりと落ちてきて、鈴仙の頬をわずかに擽った。互いの顔が近かった。今夜は永琳が私の教育係になったときのことを話しましょう、輝夜は耳元でそう囁いた。美しい声だった。透明感のある清らかな声で、渓谷を流れる水のせせらぎや、または露草をさわさわと揺らす早朝の涼風を想わせた。
 数千年前の月の都、輝夜と永琳がまだ蓬莱人でなかった時のこと。あるとき、王室お抱えの薬師として宮殿を出入りしていた永琳は、月の最高統治者である月夜見に呼ばれて謁見の間に来ていた。彼から切り出されたのは輝夜の教育係についてであり、是非任されてくれないかと依頼された。輝夜はまだ幼く世間知らずで、言ってしまえば我儘だった。王家の人間として相応しい教養を身に着けさせるため、彼は都一の天才と名高い永琳を側に付けようと思ったのだ。
 教育係の任を引き受けた次の日の朝、永琳は輝夜のいる部屋の扉の前に立っていた。扉は硬い檜で作られ、ところどころに金や銀細工で意匠を凝らしてあった。永琳はまず二回扉を叩いた。そして中から声がある前に扉を開けて、此の度月夜見様より殿下の教育係を仰せつかりました八意永琳と申します、と明瞭な声で言った。輝夜は目を丸くした。まだ入ってもいいと言っていなかった。だが、そのことを責めようと口を開きかけたときには、永琳はもう目の前までやって来ていた。輝夜はそのとき、一人用の丸テーブルに着いて麩菓子を頬張っていた。これは綿月豊姫から貰ったものだった。彼女と輝夜は、菓子を前に同志だった。永琳は輝夜が食べていた麩菓子の皿を除けて、代わりに縦の長さが一メートル、厚さが五十センチ弱もある怪物本を丸テーブルの上に置いた。教科書です、といった。輝夜はこの間ひとことも喋っていなかった。あなた失礼ね、とついに言った。永琳は明らかに落胆したような顔で首を振った。そして、違います、私の名前は八意永琳です、といった。
 寝台で横になっていた鈴仙は、思わず吹き出しそうになって慌てて口を押さえた。それ、本当なんですか、と興味深げに尋ねた。ぜんぶ本当の話です、と輝夜は済まし顔でいった。八意永琳は確かに天才だったけれど、あまりに突き抜けすぎていた為に、凡人との距離の測り方がよくわかっていなかったのだと説明した。一を言って百を理解する非凡な才に、一を言って一しか理解できぬ凡才の考え方は、それこそ未知の領域だったのだろう。実際、彼女にはよくそのような面が見られたという。
 輝夜はこのような話を、毎晩鈴仙に聞かせてやった。語られる物語は様々だったが、多くは永琳が輝夜の教育係をしていたときの話だった。あるときは、月の都の歴史を教えるのに、まず天体としての月の成分を細かく教えたという話をした。またあるときは、数学を教えるのに十進数を教えなかったという話をした。そしてまたあるときは、薬学を教えるのにまずホモ・サピエンスの狩りの手法を教えようとしたという話もした。ちなみに薬学の授業のとき、輝夜はバーチャル・シミュレーションで兎一匹獲れなかった。以来、薬学化学は大嫌いになった。
 または月の都から地上に降りてきてからの話を語る場合もあった。蓬莱人となった輝夜と永琳の二人は、人の目を逃れて竹林の奥に屋敷を構えた。そうして引き籠るようにひっそりと暮らし、静かな毎日を過ごしていた。永琳は偶にひとりで薬草を摘みに行き、背負っていた竹籠いっぱいに薬草を持って帰ってくることがあった。それが酷くくさかったのだという話をした。または地上のイナバたちに勝手に菓子を与えて、余計なことをしないでくれと永琳がてゐから苦情を受けたという話もした。自分が永琳のいうことならちゃんと聞くというのを知っていたのだろうと輝夜は笑った。あるいは囲碁や将棋に興じて一月も二月も勝敗が着かなかったという話もした。
 物語を語り終えた輝夜は、いつも、今日のお話はここでお仕舞い、といって締めくくった。そうして座っていた椅子から立ち上がって、寝台で横になる鈴仙の頬を撫でていくのだ。鈴仙は自分の頬から離れていく輝夜の白い手を、名残惜しそうに見つめていた。おやすみなさい、と輝夜はいった。今夜もありがとうございました、と鈴仙は礼を口にした。扉口の向こうへ揺れる桃色の袖が消えていった。ぱたんと扉のしまる音がして、薄暗い室内にはまた鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
 輝夜がなぜこのように毎晩物語を聞かせに来てくれるのかは分からなかった。ただ、病床の無聊を慰めてくれているのだろうと何となく思っていた。長引く療養生活に退屈を感じていたのは事実であったし、毎晩訪ねてくれる輝夜にどこか安心していることも確かだった。とはいえ、ならばどうして輝夜が自分などを慰めに来てくれるのだろうという疑問も沸いた。暇を持て余した故であろうか。あるいは真に自分のことを案じてくれているのだろうか。鈴仙はそれとなく尋ねてみたが、真相を聞きだすことは出来なかった。ただ、ひとりでは寂しいでしょう、とだけ言った。おかしな話だった。夜、永遠亭では寝るときは、全員ひとりであるはずだった。
 真昼を少し過ぎた午後のことだった。鈴仙は硝子窓を開けて寝台の上に座り、百科事典のような分厚い本を開いていた。本は薬学の本で、この暇な時間を勉強に当てようと、自分の部屋から持ってきたものだった。晩夏の午後は陽射しがきつくとも纏う空気は爽やかで、読書に集中するにはうってつけの気候であった。時折部屋の中へ風が吹き込み、鈴仙の薄紫の髪をさらさらと揺らした。彼女はそれを片手で払い、また薬学書の小難しい記述に目を向けた。今よりもっと永琳の役に立ちたいと思っていた。現状はまだ力量不足だし、このような体たらくでもあるが、いつか信頼できる弟子として永琳の期待に応えたいと願っていた。
 そしてまたページをめくった。すると、さっと風が急に強くなって、同時に扉を開く音も聞こえてきた。扉口に立つ人物に目をやると、聴診器などの医療器具を持った永琳が立っており、定期の診察に来たのだとすぐに察せられた。ちなみに今の彼女は、許可を待つどころかノックさえしなかった。
 診察に来ました、永琳はそう言いながら、すでに部屋の中まで入っていた。そうして鈴仙の持っている薬学書をみて、熱心ですね、と苦笑いをした。次に開け放しの硝子窓の側に寄ると、窓とカーテンの両方を閉め切った。部屋の中に吹き込んでいた風は止まり、遠くの方から聞こえていた蜩の音がやんだ。では、上着を脱いでください、と彼女はいった。
 鈴仙の容態は大分落ち着いてきているようだった。永琳は聴診器を当てて心音に異常がないことや、熱や血圧を測ってこれも異常がないことを確認した。この分ならもう少しで部屋を出られそうですね、と微笑んだ。本当ですか、と鈴仙は浮かれて寝台から立ち上がった。だがすぐにまた寝台の上に戻されて、もう少しです、と続けられた。鈴仙は残念がって肩を落とした。
 診察が終わって医療器具を仕舞うと、永琳は部屋のテーブルに着いて診察書を取り出した。それにややこしい数字を書き込んで、前日のデータと見比べはじめた。鈴仙が誤って飲んだものは本当に危険なものだったらしく、天才八意永琳でさえも、病状の経過を見ながら慎重に治療する必要があった。無論、鈴仙もそれは理解しており、だからこそ従順に療養を続けているのだが、やはり退屈であるのが本当のところで、毎晩の輝夜の来訪がなければ、すでに音をあげていたかもしれなかった。
 と、そこまで考えて鈴仙はふと思った。永琳は輝夜が毎晩のように物語を聞かせに来ているのを知っているのだろうか。永琳にとっても蓬莱山輝夜は大事な主に違いなく、その主の行動なら気になるところかもしれない。鈴仙が尋ねると、永琳は少し驚いたようだったが、しかしやがて得心が行ったのかひとりでうんうんと頷きはじめた。

「きっと姫も退屈しているのでしょう。同じように退屈しているあなたを見て放っておけなかったのかもしれません」

 永琳は診察書を仕舞って椅子から立ち上がった。先ほど締め切った窓を開け放ち、いいお天気です、と独り言のように言った。また爽やかな風が室内に吹き込み、遠くの蜩の音も甦った。それを見ていた鈴仙は、脇に避けていた百科事典のような薬学書をまた取り出した。今日はこれを全部読みきってしまうつもりだった。永琳は苦笑していた。張り切っていますね、と言われたので、私も早くお師匠様のお役に立ちたいんです、と言い返した。

「頼りにしていますよ。あなたは私の一番弟子なのですから」

 そうして永琳が踵を返そうとすると、ちょうど、とんとん、何者かが扉をノックする音が聞こえてきた。どうぞ、と永琳が促したので、その人物はがちゃりと扉を開けた。扉口に立っていたのは菖蒲色の着物を着た輝夜だった。彼女は部屋の中にいる永琳を真っ直ぐ見つめ、だけれど首を傾げられて、その黒真珠のような愛らしい瞳を一瞬だけ揺らした。
 どうしましたか、と永琳が尋ねた。すると輝夜は、お腹が空いたわ、と拗ねたようにいった。永琳は部屋の中の時計を見て少し不思議に思いながらも、では今日の菓子を出しましょうか、とすぐに切り替えた。輝夜は頷いた。そうして永琳を連れて去ってしまい、部屋に居るのは呆気にとられていた鈴仙だけとなった。輝夜は去り際鈴仙に、また今夜、と言い残していた。鈴仙はしばらく首を捻って考え込んでいたが、やがてぱちりと目を開いて顔を上げた。部屋の時計をみた。時計の針は、三時には少し早い二時を指していた。
 そしてまた夜になった。鈴虫たちがりんりんと鳴き、夜風が音もなく露草を揺らしていた。輝夜は床板を鳴らしながら廊下を歩き、また鈴仙の居る部屋の前で立ち止まった。とんとん、と扉を叩いた。どうぞと言われて部屋の中に入った。むかし永琳には、例えノックをしたとしても中にいる者から許可がなければ部屋に入ってはいけないと、何度となく説明した。彼女はついぞ履行してくれなかったが、これもいい思い出だった。
 鈴仙は寝台の上に座って待っていた。輝夜は彼女を横にならせようと近づいた。今夜は永琳が「十一次元宇宙に虚数数の種を持つ桃を栽培する方法」を教えてくれた時のことを話そうと思っていた。だがそれ告げると、鈴仙はやんわりと断って、いつもの椅子に座るよう勧めてきた。

「今夜は私から物語を話しましょう」

 と、鈴仙はいった。輝夜は言われたように椅子に座った。黒真珠のような瞳が僅かに揺れた。鈴仙が語ったのは鈴仙自身の物語であり、また、永琳にも関わる物語だった。
 それは鈴仙が床に伏せる少し前のことだった。最近の彼女は永琳にも少しずつ認められるようになってきており、既存の薬の精製や新薬の実験にも助手として立ち合うことを許されていた。このときは薬草から薬を精製していたときで、永琳は摘んできた薬草を薬研で細かく磨り潰していた。彼女は次に入れる薬草を取ってくれるよう側に控えていた鈴仙に頼む。薬草はすぐ後ろの机の上にあり、鈴仙は言われたとおりの薬草を手に取った。しかし、薬草が置いてあった隣に妙なものがあるのに気付いて、お師匠様、と彼女は声をかけた。置いてあったのは大福だった。これも薬に使うんですか、と続けて尋ねた。永琳は振り返った。そうしてはにかむように笑いながら、それは姫様のものです、といった。
 またあるときはこんなこともあった。永琳は新しく作った薬の実験をしようと、鈴仙に机の上に置いてあった薬を服用するよう指示を出した。それは極めて安全な実験のはずで、永琳も一度自分で薬を服用して、危険がないのを確かめていた。薬効の個人差がどの程度のものなのか見るだけで、事故など起こるはずがないと思っていた。しかし、それでも事故は起こった。なんと鈴仙は、新薬ではなく隣に置いてあったのは劇薬の方を食べてしまったのだ。食べた鈴仙はその場で倒れてしまい、以降、今に至るまで床に臥せってしまった。永琳は後悔した。輝夜にとっては大好物でも、イナバにとっては劇薬になることもあるのだと、そんな初歩的なことを思い出していた。

「……姫様、もうお分かりでしょう? 私が飲んだ劇薬とはチョコレートのことだったんです。兎にとってチョコレートは劇薬と同じで、特に玉兎の場合は効果がより強く出てしまい、それで長い間伏せってしまったんです」

 しかしそれは、もともと輝夜のために用意されたもののはずだった。永琳は入室のマナーは覚えずとも輝夜の好物はしっかり覚えていて、彼女がいつ菓子を欲しがってもすぐに出せるよう、事前に準備をしていたのだ。だから今日の昼間に急に「お腹が空いた」と言われても、大して動じずに対応することができた。これでもし用意していなかったら、彼女は困ったことになっただろう。何故なら彼女は、わざわざ人里まで出向いてでも、輝夜のために菓子を手に入れようとしただろうから。

「だからそんなに焦らなくとも私ではとても敵いませんよ。姫様とお師匠様は共に千夜一夜を過ごした仲なんですから……」

 何百、何千の物語を聞かせなくとも、輝夜と永琳の繋がりはもう知っている。鈴仙がそのように告げてやると、輝夜は黒真珠のような瞳を丸くして、呆けたように口を開いてしまった。はっとして口元を袖で覆うと、すぐに首を竦めて俯いてしまう。そうしている輝夜の顔は、耳の辺りまで真っ赤になっているのだった。
モチーフは千夜一夜物語(アラビアンナイト)です。

ありがとうございました。
みすゞ
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コメント



0.簡易評価なし
1.7ナルスフ削除
かわいい主従の話でした。
2.10がま口削除
わぁ、綺麗なお話だなぁ。
画面いっぱいに連綿と綴られた文章なのに、一文一文が丁寧に選ばれていて、苦も無くすとんと最後まで読み切れました。
輝夜姫のしっとりとした描写も魅力的ですが、意外な、でも微笑ましいオチが好印象でした。
こういうお話が書きたいなぁ、と羨ましくなる作品でした。
3.5烏口泣鳴削除
全体に流れる静かな雰囲気と、オチで顔を赤くする輝夜が良かったです。
ただ輝夜の昔話に驚きが無くて、少し退屈でした。
4.4u!冫ldwnd削除
文章、表現に関してはうならされる物が有りましたが、作中の語り話が説明に留まっているのもあり、過多な文章と見えたかもしれません。
5.4めるめるめるめ削除
 こういうのはとても難しそうですが、冒頭を読んで雰囲気のある話かなぁと少し期待しました
が、読み進めるうちに状況描写の羅列としか思えなくなってしまって。雰囲気で見せる話を書
こうとしたけど作者さんが息切れしてしまったように感じられました。
 ならば話で楽しめるかというと、登場人物との距離感が遠い書き方のため、どうにも感情移入ができません。あらすじを読んでいるような気分。
 雰囲気で見せるのが上手くいっていないわけで、そうすると話に明確な転が無いことが仇になってしまったなといった感じです。
6.7うるめ削除
雰囲気が大変好みです。照れ輝夜の可愛さは銀河級。
7.6あめの削除
これはもしかして鈴仙に付きっきりで看病していた永琳を見て、輝夜が鈴仙に嫉妬しているのかしら。何ともまあ可愛らしい姫様じゃないですか。
落ち着いた雰囲気が内容とぴったりマッチしていたと思います。
8.6名前がない程度の能力削除
他人の絆にうっかり触れてしまっては胃もたれを起こすどころではすまない?
9.4文鎮削除
犬と同じように兎もチョコレートが駄目なんですねぇ。
輝夜なら千夜一夜どころか一万夜一夜でもいけそうですね。
10.4K.M削除
犬は知っていたけれど、うさぎもチョコダメだったのか。